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2021年5月17日月曜日

ついてゆけない…鬼やばな活用?! 企画展「鬼は滅びない」担当ひとこと裏話 其の漆

  「鬼胡桃」、「鬼教官」。大きいものや怖いもの表すときに言葉の頭に「鬼」をつけることがあります。一方で「鬼〇〇」という用法はそれだけでなく、若者言葉としてもつかわれ続けているようです。

 

 言葉の年鑑『現代用語の基礎知識2020』の若者用語の解説をのぞいてみると、「意味、使用法の進化系」のカテゴリに「鬼」が「とても。やばいくらい。」という強調表現として採集されています。過去の『現代用語の基礎知識』をめくってみると、2006年くらいからこのような説明で「鬼」が記載されています。

 もう少しさかのぼってみると、1989年には「鬼ざん」という言葉が載っていました。解説には「鬼のような残業。デートなどの約束がある時にいや応なしに押しつけられる残業。」とあります。鬼のような……拘束時間や内容が長い・重いというところでしょうか。ここでは「残業」自体がネガティブワード、というのもありますが、「鬼」自体もどちらかというとネガティブなイメージをもってつかわれていそうですね。

 翌年の90年には、「鬼」単独で採録されています。解説には、「ものすごく、鬼ごみ、鬼ぶす」とあり、こちらの用例もマイナスイメージの単語の強調になっています。

 

 用例に変化が出てくるのは94年からです。「鬼うま、鬼かわ、鬼ごみ、鬼こわ、鬼すご、鬼だる、鬼へん(へんてこ)」と用例のバリエーションが一気に増え、ポジティブな単語にもつかわれています。

 

 ちょっとくすっとしてしまったのが98年。「鬼」が採録されているカテゴリは「超強調」。「いくら強調してもし足りないほど言葉が不足している」とことばが添えられていました。

 

 さて、『現代用語の基礎知識』2010年~2020年には「鬼○○は最上級を意味する。」と書かれていますが、ここまで『現代用語の基礎知識』に頼りすぎてしまったので、ここで少し視点をひろげて「鬼」用例を拾ってみたいと思います。若者言葉としての「鬼○○」は2010年代に入ってさらに広がりを見せているようです。

 

「鬼コ」

 これは2015「ギャル流行語大賞」(GRP by TWIN PLANET)で6位にランクインした言葉です。聞きなれない方は「コ」が何を意味するのか考える楽しさがありますね。どんな意味でしょう。

 

 正解は、鬼コール。ひたすら電話をかけ続けること、でした。

 (隣の先輩いわく「鬼電」ならわかるけど!「鬼電」なら!!!)

 

 続きましてギャル雑誌eggの「egg流行語大賞2018」(株式会社MRA)にはこんな「鬼」用語がふたつランクインしています。

6位「鬼盛れ」

2位「鬼パリピ」

 

 「鬼盛れ」は「すごく盛れる事」とあります。ちなみに「盛る」は物理的に高さ、大きさを出していく・(話を)おおげさにいうという意味もありますが、最近はSNSにあげる写真映えなども関係してきらびやかする・見栄えをよくするという意味でも使われているように思います。「鬼盛れ」したらテンション爆アゲよいちょまるですね。

 

 さて、学芸課鬼殺係のメンバーでふと、「鬼」って言葉としても滅びずに現役だよね、なんて話から意識し始めた「鬼」若者言葉ですが、今回初耳で悔しかったのが最後にご紹介の「鬼パリピ」です。

 こちらは「鬼」よりもさらに上級表現。「鬼パリピかわいい!」(とんでもなくはちゃめちゃにかわいい!)などという使い方をします。ここでの「パリピ」、パーティーピーポーの略語も強調表現の一種なのだそうで、「鬼」+「パリピ」ということで、それは大変な強意を感じます。うーん、若者言葉の勢いの凄まじさには、もはやぴえんこえてぱおん。

 

 ということで、「鬼」は若者言葉の強調表現として、少しずつ用法を変えながら少なくともここ30年ほどつかわれ続けてきたようです。その用例を見ているとポジティブな意味にも多くつかわれています。

 まさに、「いくら強調してもし足りないほど言葉が不足している」若者にとって「鬼」とは、良いも悪いもなく、ただただ物足りなさを補うときの心強いアイテムなのかもしれません。

 「鬼」しか勝たん!

 

企画展「鬼は滅びない」連載ブログ担当ひとこと裏話、これにて閉幕……!

(学芸課鬼殺係・さとう)

 


■企画展「鬼は滅びない」は2021613日(日)まで開催中。

※緊急事態宣言の発出を受け、531日(月)まで閉室中です。 

2021年5月10日月曜日

鬼瓦は鬼じゃない?!  企画展「鬼は滅びない」担当ひとこと裏話 其の陸

 

鬼瓦は鬼じゃないって?!そんなわけないやん。だって「鬼」瓦なのに。

 

でも、よ~く屋根を見上げてみて。



あれ?鬼の顔じゃなくて「水」って書いてある。こっちのは花だし、あっちのは家紋?動物や七福神が付いているものまであるばい!!

 


「鬼瓦」という名称は鬼モチーフの瓦が多く作られていた頃の名残なんだ。棟の端からの漏りを防ぐ役割のものは、鬼の顔じゃなくてもすべて「鬼瓦」と呼ばれているよ。

そもそも日本で使われ始めた頃は、神獣や蓮の花がモチーフとして使われていて、僕たちがイメージする「鬼瓦」となったのは室町時代のことなんだって。


 

鬼瓦って、鬼のパワーで家を守ってくれているものだと思うとったとに・・・。

 


確かにそういった意味合いもあるみたい。ただ、魔除けの意味合いが強かった時代とは違って、現代は装飾性がより強く意識された様々な鬼瓦が造られるようになってきたようだね。といっても最近は、瓦を葺いている家も少ないけど。

 

 

次週「ついてゆけない…鬼やばな活用?!517日公開です。つづく!

(学芸課鬼殺係・考古担当)

 

■企画展「鬼は滅びない」は2021613日(日)まで開催中。

2021年5月3日月曜日

鬼を食らう?!  企画展「鬼は滅びない」担当ひとこと裏話 其の伍

 中国では、古くから「鬼」によって引き起こされる「鬼病」が研究されてきました。紀元前後に記されたさまざまな医書には、その症状や治療法が記されています。今回は、「鬼病」にまつわる裏話をご紹介します。

 

まず、ひとくちに「鬼病」と言っても、さまざまな種類があります。

原因が思い当たらないのに突然体が痛んだり出血したりする場合や、夢や現実で鬼に出会い不調をきたす場合、鬼に憑りつかれておかしくなる場合、そして伝染性の病などが、「鬼」のせいだと考えられていたようです。

「鬼病」というと何か特殊な、遠い世界の話のようですが、たとえば原因が思い当たらないのに体が痛んだり出血したりするケースは、誰しも経験があるのではないでしょうか。
 特に何をしたわけでもないのに鼻血が出やすい人、いますよね。個人的には、いつのまにかスネに打ち身(青タン)が出来ていることがよくあります。あれは、鬼の仕業だったんですねえ。

夢に鬼が出てくることもありえますし、伝染病も日常的なリスクです。「鬼病」とは、案外身近な病だったのかもしれません。


古い医書によれば「鬼病」の治療には、薬や鍼(はり)・灸(きゅう)などの医学的治療と、現代では理解しづらい呪符や呪文などの呪術的治療が、併用されていました。

呪術的治療の例を、ほんの一部ご紹介しましょう。

今では解読困難なものも多くありますが、「鬼病」に用いられる呪文には、鬼を威嚇し退去を命じる内容のものがよくみられます。鬼が逃げ出せば「鬼病」は治ると考えられていたのでしょう。

中には「鬼を食らう」と宣言する呪文もあるようです。

鬼に食べられるのは御免ですが、かといって鬼を食べるのもなかなか…呪文とはいえ、胃腸のあたりがもぞもぞします。相当の覚悟がないと出来ないことだよな、と当時の医療者と現代のあれこれを思い出します。

「鬼を食らう」という発想は、美術資料や説話集ではあまり見かけません。医学分野には、少し特殊な「鬼」観がみられるようです。(参考:企画展示解説「鬼は滅びない -Demons Die Hard-」


 呪術的治療をもう一例挙げましょう。

 医書に残る最古の「鬼病」として知られるのは「■(き)※「鬼」の右上に「支」と書くのですが変換できず…」という病です。その予防治療には「東側に張り出したの枝」が使われました。

 一見不思議な素材指定ですが、ピンときた方もいらっしゃるでしょう。

 東といえば「朝日」を浴びる方角ですし「桃」も本展でご紹介したとおり、どちらも鬼を退ける力を秘めたものだからです。参考:博物館ブログ「鬼は朝日が苦手?! 企画展「鬼は滅びない」担当ひとこと裏話 其の参」) 

 神話や説話集に出てきた鬼除けアイテムが、実際に暮らしのなかで使われていたなんて、鬼の存在がよりリアルに感じられてわくわくしませんか。

 なおこの「■(き)」とは、鬼が母親の腹の中にいる胎児に嫉妬心を起こさせ、先に生まれた兄弟児に下痢や発熱悪寒を引き起こす、という現代人二度見必至の病ですが、後代になるとこの症状は、母親の懐妊や悪阻に伴って乳離れさせられたことによる乳児栄養失調症であるとされ、「弟見悪阻(おとみづわり)」などと呼ばれるようになります。

 医学の進歩によって「鬼病」はひとつひとつ解体され、別の病になっていったのかもしれません。スネの打撲傷も、今や鬼ではなくて不注意のせい…世知辛い!

 

 

次週「鬼瓦は鬼じゃない?!」は510日公開す。つづく!


(学芸課鬼殺係・ささき)

■企画展「鬼は滅びない」は613日(日)まで。

参考文献:長谷川雅雄、辻本裕成、クネヒト・ペトロ著「「鬼」のもたらす病(上)」(『南山大学研究紀要』2018

2021年4月20日火曜日

鬼は朝日が苦手?! 企画展「鬼は滅びない」担当ひとこと裏話 其の参

 こちらは百鬼夜行図巻の最後に描かれる赤い玉。



 そして、それに背を向けて逃げる鬼。



「百鬼夜行図巻」より

 

 皆さんはこの赤い玉は何だと思われますか? 

 太陽!と思われた方。私もそう思っていました

 今回はそんな太陽と鬼の話です。

 さっそく話は脱線しますが、時代が下りつくられた様々な百鬼夜行の絵には、同じような構図で火の玉に「朝日」と詞を添えて描かれるものもあります。一方で、近年の研究では、説話での退散理由の傾向や、絵巻の成立過程などの検討が重ねられ、尊勝陀羅尼、不動明王の火炎、火車など仏教に関わるものと解釈される説もみられるようになりました。

 

 闇夜に活動し夜明けとともに姿を消す鬼。その活動の様子は、世の中を明るく照らす太陽を嫌うようです。平安時代に成立した説話集などからは、鬼のその活動スタイルを探ることができます。

 例えば、「(アク)(ホド)(ナリ)ヌレバ」鬼たちが皆「(カエ)(サリ)ヌ」(『今昔物語集』巻13の1)。日の出の直前、明け方の空が明るくなる時分に、いずれかの場所へ戻ったようですね。

 もう一例ご紹介しましょう。「(あかつき)(とり)など()きぬれば、(おに)ども(かえ)りぬ」(『宇治拾遺物語』1の3)。夜から朝に変わろうとするあたりに、こちらも鬼たちが住処に帰っています。(この頃の「暁」はまだ暗い時間帯のことをさしていたようです。)

 

 ちょっと物足りなく思われたでしょうか。

 今回の展示のテーマである「滅ぼす」という点で非常に有効そうな「太陽」ではありますが、陽光を浴びて鬼の身体がジュワッと焼き尽くされるような描写は、説話などからはなかなか探すことができません。

 先にあげたように、鬼が夜明けに消えるというのは、朝日を浴びる前に鬼が自らの足で退散をしているのです。

 

 実は嫌いというだけで、そこまで決定的なダメージを与える要素ではないのでしょうか。

 太陽を避けることに関して、ちょっと緩そうな鬼たちはいました。

 

 『今昔物語集』には、自身の身を助けるために交渉しあう人と鬼の話があります(巻2019)。鬼は最後に「暁」、つまり明け方に人のもとに現れて、交渉が上手くいったことを報告し、「掻消(カキキエ)(ヨウ)(サリ)」ます。すぐに消えたとはいえ、ほかの話では鬼がいなくなる時間帯に登場するとは、鬼の立場からするとはらはらしてしまいます。

 

 もう一つ、鬼と太陽の関係を気にしながら文献をめくっている中で、ちょっと興味深い話がありました。今度は日の入り近くの話です。

 

 8世紀、奈良時代に成立した『日本書紀』には、朝倉宮(いまの福岡県朝倉市あたり)で行われた斉明天皇の喪儀を「(よひ)」に、山から鬼が大笠を着てみていた、という記述があります(斉明天皇78月条)。人々がその姿を怪しんだということですから、日が沈んでいてもその姿を目視できた、まだ明るい時間帯の出来事のようにも考えられます。

 

 鬼と対峙した人にしてみても、基本的にはその局面を乗り切り一安心といったところのようで、去っていく鬼に「逃げるな!」と叫ぶほどのモチベーションはなさそうです。(言いそうなのは……頼光でしょうか。※前回ブログ参照

 鬼は太陽を避けるけれど、薄明の時間は大丈夫だったりするのかもなと、想像してみるのでした。

 

 次回は、 「鬼の嫌いな香り、好きな香り⁈」です。どきどきのレポートがあるみたい?つづく!

(学芸課鬼殺係・さとう)

■企画展「鬼は滅びない」は2021年613日(日)まで開催中。

2021年4月12日月曜日

刀だけじゃ滅ぼせない?!  企画展「鬼は滅びない」担当ひとこと裏話 其の弐

 あるとき都で、美しい女房の失踪事件が相次いだ。人々は怒り悲しみ、武家の棟梁(とうりょう)・源頼光に「悪鬼を滅」せと勅命(ちょくめい)が下った。頼光は家臣とともに山奥へ分け入り、鬼のボス・酒呑童子(しゅてんどうじ)を毒酒で弱らせ、見事、首を斬り落とした。首だけとなった童子は頼光の兜(かぶと)に噛みついて力尽き、「童子滅て後ハ」鬼の住処も、他の鬼たちの神通力も消え失せた―――(※「 」の中は絵巻詞書からの引用)

これが酒呑童子退治の大筋です。

 

「鬼は滅ぼすものではなくて祓うもの」という言説を時々耳にしますが、大江山絵巻では「鬼を滅ぼせ」と命令が下りますし、討伐隊も「鬼を滅ぼしてやろう」と豪語しますし、酒呑童子は滅びたと記されます。

 

 その滅ぼし方は、一見「刀で首を斬る」ことであるかのように読めますが、よく読むと、毒がなければ童子は弱らず、その首は斬れなかったことがわかります。

また最後にひと噛みされた時、相討ちとならずに無傷で済んだのは特別な兜をかぶっていたおかげなのですが、実はこの兜、人の心を読む酒呑童子の神通力を無効化できる不思議アイテムでもあり、これがなければ、そもそも肝心の毒を盛ることも、鬼のアジトに潜入することもできなかったのです。

 

 童子討伐の鍵となった毒酒と兜は、山奥で出会った「大切な人を鬼にとられた」方々からもらったものでした。彼らは鬼の住処に関する情報も色々と教えてくれ、道に迷ったときも助けてくれました。

 

つまり鬼のボスを滅ぼせたのは、毒と協力者あってこそ! 刀だけでは滅ぼせなかったと言ってよいかもしれません。

 

ちなみに、横で上司が「それだけ鬼が強いってことやろ?」などと言っております。

いやいやここは「似たような話をどこかで読んだ気が…(すっとぼけ)」って反応してほしいところですよ!とりあえず、机に漫画23冊置いときましょう。ドンッ

 

次週「鬼は朝日が苦手?!」は419日公開です。つづく!


(学芸課鬼殺係・ささき)

■企画展「鬼は滅びない」は2021年613日(日)まで開催中。

2021年4月5日月曜日

鬼はくさい!? 企画展「鬼は滅びない」担当ひとこと裏話 其の壱

企画展「鬼は滅びない」がはじまりました!展示室におさまりきらなかった鬼にまつわる裏話、その名も「担当ひとこと裏話」をブログにて連載します。今回は、鬼のにおいに関するお話です。

 

 

『狭衣物語(さごろもものがたり)』に、「鬼は臭うこそあんなれ」という女房のセリフが登場します。鬼ってくさいらしい、といった意味です。

実際、『本朝法華験記(ほんちょうほっけげんき)』にも、鬼の住処と知らずに宿を求めた修行者が、夜中に牛の鼻の息を吹き掛けるような「甚だ臭い」においを嗅ぐ場面があり、翌朝それが鬼のにおいだったと判明します。

また『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』でも、夢の中で羅刹鬼(らせつき)となり猪を生きたまま食った人が、目覚めてからも現実に「腥キ(なまぐさき)」唾や血が口中に湧き出て「極テ腥シ(きわめてなまぐさし)」と記されます。

 

 平安時代の「臭」「生臭」「腥」の使用例を調べた研究者によると、これらの語は、他の生き物を生きたままむさぼり食らう性質をほのめかす表現なのだそうです。

 つまり、鬼がくさいのは、人間を生きたまま食べた証…?

おぞましい!!

 

なーんて怖がってはみたものの、実は、平安文学において「くさい」と表現される存在には、鬼や毒蛇のほか、人間も挙げられています。

確かに白魚、白海老、牡蠣等々、他の生き物を生きたままむさぼり食らった覚えが…はい、あります。

 

『本朝法華験記』によれば、たとえ肉食を断った僧や断食を長年続ける苦行僧であっても、仙境に至り食物を口にしなくなった聖人(しょうにん)からすると、臭すぎてたまらないのだそうです。

おそらく生野菜サラダであっても、植物を生きたままむさぼり食らうことになるのでしょう。生きるって難しいなぁ。

 

鬼のくささは、野蛮で卑俗な性質のあらわれではあるけれども、実は人間自身の匂いと何ら変わりがない―――なんだか「鬼」を知れば知るほど、「人間」について考えさせられます。

 

そんなこんなで、しみじみと展示作業をしていたら、上司が裏話パネルのタイトルをみて一言。

「鬼白菜ってなに?」(※実話です)

 

がーん……鬼 ‘わ’ くさい、ですってば!!!

皆さんにはちゃんと伝わっていたでしょうか? 万が一、'白菜' の話を期待して読みはじめた方がいらっしゃったらごめんなさい。日本語ってむずかしい…

 

ひとことでは終わりませんでしたが、次の「担当ひとこと裏話」もひとことでは終わりません!

次週「刀だけじゃ滅ぼせない?!」、412日公開です。つづく!

 


(学芸課鬼殺係・ささき)

■企画展「鬼は滅びない」は2021年613日(日)まで開催中。

■参考文献:森正人著『古代心性表現の研究』(岩波書店2019) 

2020年8月19日水曜日

ダルマさん覚悟しな

達磨といえば禅を伝えた尊い祖師、だからその像に不埒なことをするとバチがあたる・・というのが普通の感覚かもしれません。それは前回のブログでもふれたように、たとえ「雪だるま」であったとしても、です。

ところが人間というものはなかなか一筋縄ではいかないようで、江戸時代になると達磨を面白おかしく描いた作品が登場します。河鍋暁斎(かわなべきょうさい:1831~89)が、様々な有名絵師の画風によって描いた絵手本集「暁斎画談」にもそんな達磨さんの姿がいくつか見られます。

涼しげな美女の横に、あろうことかニタ~と嫌らしい笑みを浮かべた毛むくじゃらの達磨さんが立っています。まさに「美女と野獣」ですね。江戸中期の浮世絵師・奥村政信のタッチで描いた絵では、達磨さんと遊女がお互いの衣を取り替えて、しかも達磨さんが三味線を弾いて遊女をもてなしたりしています。

この達磨と遊女という何とも場違いな組み合わせの背景には、10年の年季奉公を終えないと自由の身になれなかった遊女が「面壁九年(めんぺきくねん)」の達磨さんより偉いのだという、洒落(しゃれ)に似た考え方があったと言われています。また、不特定のオジサマたちを相手にせねばならなかった遊女にとって、せめて客を達磨さんに見立てるという「笑えない笑い」の産物であったのかもしれません。

とはいえ、そこでは聖と俗、醜と美という本来最も遠いはずの概念が交錯(こうさく)していて、何だかもっと深い意味が込められているような気もします。

実は、こうした対立概念の交錯や反転は古くから文芸の世界で取り上げられていて、淀川で春をひさいでいた遊女・江口の君(えぐちのきみ)が実は普賢菩薩の化身であったという謡曲「江口」の話や、一休禅師とのからみで有名な地獄太夫(じごくたゆう)の話がよく知られています。

地獄太夫は地獄の様子を描いた衣を着ていたという泉州・堺の遊女でした。一休さんが地獄太夫に会いに行き「聞きしより見て恐ろしき地獄かな(聞きしに勝る、恐ろしいほど美しい地獄太夫だな)」と最大級の賛辞を贈ったところ、太夫は「し(死)にくる人の落ちざるはなし(私を買いに来る男で私の魅力にオチない奴はいない、だから一休さんアンタも地獄行きだ、覚悟しな)」と返したとか。〔以上、超意訳〕

江口の君にしても地獄太夫にしても、一流の坊さんを向こうに回す相当に肝の据わったインテリ遊女だったわけです。しかも、両者の間で交わされる「性」や「遊芸(ゆうげい)」の世界の中では、聖なるものが尊く俗なるものが下劣、というような二項対立式の価値観は、まったく意味をなさないことがわかります。

もちろん、それは客がたとえ本物の達磨さんであったとしても同じこと・・・遊芸恐るべし。

仏像学芸員

2020年8月12日水曜日

ダルマさんの涼しいお話

毎日暑いので、今回は少し涼しそうなネタをひとつ・・

インドから来て中国・北魏で禅を広めた達磨さんはやがて亡くなり、熊耳山(ゆうじさん)に葬られました。一説には達磨さんの活躍を妬(ねた)んだ別のインド人僧に毒殺されたとも言われます・・

それから3年後のこと、北魏の外交官であった宋雲という人物が西域から帰国する途中、パミール高原でなぜか片方の履(隻履)を持って歩く達磨さんと出会いました。

宋雲「達磨さんじゃないですか、どこへ行かれるのですか?」

達磨「インドに帰るのだ。そうそう、あんたの主(皇帝)は既に亡くなっているよ・・」

宋雲は不思議に思いながらも帰国してみると、はたして皇帝はこの世を去り、また人々が達磨さんのお墓を開けてみると遺体がなく、もう片方の履だけが残されていたのでした。

これがいわゆる「隻履達磨(せきりだるま)」の逸話です。


今回の展示で紹介した歌川広景の「江戸名所道戯尽廿二 御蔵前の雪(えどめいしょどうけづくしにじゅうに おんくらまえのゆき)」〈写真〉も、この逸話を踏まえた内容となっています。

 


真冬の江戸蔵前(現・東京都台東区)は一面の雪景色となり、一人の男が雪だるまの前で下駄の鼻緒を直しています(江戸時代の雪だるまって結構リアルな顔をしていたんですねー)。

この男が雪だるまを作った本人かどうかは定かではありません。ただ、雪だるまの顔の前には夕食の具材とみられる魚(タラ?)とネギが乗せられていて、鼻緒を直している隙に野良犬がそれを狙っているようです。

一見すると、「ああせっかく今夜はタラ鍋で一杯やろうと思ったのに油断も隙もありゃしねぇ・・」と単なる残念なお話のように見えますが、さにあらず。

禅寺ではよく門前に「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と刻んだ標石が立てられているように、ネギなどの臭いのきつい野菜(葷)や酒は建前上禁じられていました。

達磨さんの顔の前に置かれたのはお供えではなく正真正銘の生臭モノ。だから鼻緒が切れて隻履になったあげく楽しみにしていた食材を犬に盗られる、つまり達磨さんの罰(バチ)が当たったというオチなのでしょう。

そういえば男が着ている衣のデザインも仙厓さんの禅画みたいだし、広景さんなかなか芸が細かいですね。 

仏像学芸員


2020年8月11日火曜日

【企画展示室4】発掘された戦争の痕跡 8月12日(水)~9月13日(日)



 今年は戦後75年。市内で行われた2500か所を超えるこれまでの発掘調査では、明治時代以降の「戦争」に関する遺構や遺物も出土しています。福岡城跡には明治19年(1886)に陸軍歩兵第24連隊が置かれ、それ以降多くの軍関係施設が設置されました。福岡城跡・鴻臚館跡の発掘調査では、それらの建物跡の他、軍刀・銃剣・弾丸などの武器類、建材や建具、認識票など各種の軍隊関係遺物が多く出土しています。

博多などの街中の遺跡からは、各家庭の庭や床下などに掘られた防空壕の跡が見つかり、福岡大空襲の痕跡と考えられる遺物が出土することがあります。また、大戦末期に不足する金属の代替品としてガラスや陶磁器で作られた製品も見つかっています。

実際に遺跡から出土した、これらの戦争に関連する遺構や遺物から、あらためて戦争と平和を考える機会になれば幸いです。

【Feature Exhibition 4】Excavated Traces of War Wed.12th August, 2020 – Sun. 13th September, 2020

This year marks the 75th anniversary of the end of World War II. Artifacts and relics of war from the Meiji period or later were found in research excavations conducted in more than 2500 sites in Fukuoka City.  

In 1886, the 24th infantry regiment was positioned in the Fukuoka castle ruins. Numerous other military facilities were also placed there in successive periods.  Numerous military-related items were excavated from the ruins of Fukuoka Castle and the Korokan guesthouse. They include the remains of infantry facilities, building tools and materials, dog tags, and armaments like swords, guns, and bullets.  

The remains of the bomb-proof shelters were found at archaeological sites in urbanized areas like Hakata. From such shelters, some relics which show the impact of the Fukuoka air raids were found. Some items made of glass or porcelain used as substitute for metals that were missing at the end of World War 2 were found.   

We sincerely hope that this exhibition will provide an opportunity for you to think about war and peace while viewing these relics and articles of war. 

exhibition leaflet


【기획전시실 4】발굴된 전쟁의 흔적 2020년 8월 12일(화)~ 9월 13일(일)

 

땅 속에서 다시 부활한 전쟁 당시의 유물들

올해는 제 2차 세계대전이 끝난 후로부터 75년이 되는 해입니다. 후쿠오카 시내에서 행해진 2500여 곳이 넘는 지금까지의 발굴조사에서는 근대 이후의 “전쟁”에 관한 유구와 유물이 출토되고 있습니다. 후쿠오카 성터에는 1886년에 육군보병 제 24연대가 설치된 후로 많은 군 관계 시설이 자리하였습니다. 후쿠오카 성터, 고로칸 터의 발굴조사에서는 건물터 외에 군용 칼, 총검, 탄환 등의 무기류, 건축 자재와 도구, 인식표 등 각종 군대 관련 유물이 다수 출토되고 있습니다.


하카타 등의 유적에서는 각 가정의 뜰과 바닥 밑에서 방공호의 흔적이 발견되어 후쿠오카 대공습의 흔적이라 여겨지는 유물이 출토되는 일이 있습니다. 또한 전쟁 말기에 부족한 금속의 대체품으로 유리와 도자기로 만들어진 제품도 발견되었습니다.


실제로 유적에서 출토된, 전쟁에 관련한 유구와 유물로부터 다시금 전쟁과 평화에 대해 생각하는 기회가 되었으면 합니다.

2020年7月29日水曜日

実存主義的ダルマ

博物館では7月21日(火)から企画展示「ダルマさん大集合」を開催しています。

館蔵の達磨図など達磨に関係する作品を紹介する展示ですが、なかなかクセのある作品が並んでいて地味に楽しんでいただけるのではないかと思います。

久留米藩の御用絵師・三谷等哲(みたにとうてつ)が描いた達磨図〔写真〕もそんなクセ者作品。ご覧のとおり、なんだか胡散(うさん)臭いものでも見るような顔の達磨さんです。


賛文は達筆すぎて完全には読めませんが(スミマセン)、どうやら「ダルマさんおつかれさま、頭が寒そうですね、赤い衣をかぶせて差し上げましょうか」というような意味(超意訳)のようです。

作者の三谷は雪舟の画風を継承した雲谷派(うんこくは)の絵師で、同派の祖・雲谷等顔(とうがん)もこんな顔の達磨図を残しています。だから当然といえば当然なのですが、ではなぜ彼らが達磨をこんな風に描いたのかが疑問として残ります。

ジロリとこちらを覗き込むような視線を向けていて、なんだかアヤしげなものを見るような顔だなあ、視線の先には何があるのだろうか?

そんなことを考えながらふと思い出したのは、今では仲良しの同業者と初めて会ったときの彼の眼差しでした。「こいつは仏像学芸員(プロ)として信用できるのか?」と言わんばかりのあの視線―

そのときようやく気が付きました。

自分が達磨を見るのではなく、達磨が自分を見ているのだと。

(達 磨)「あんた誰やねん?」

(学芸員)「えーとボクはですね、モゴモゴ・・」

(達 磨)「ボクって何やねん?」

(学芸員)「え?」

(達 磨)「そんなええかげんな自分なんかドブにでも捨ててしまえー!」

(学芸員)「そんな崖っぷちから手を放すようなことムリですー」

(達 磨)「喝―!」

こんな会話が収蔵庫の中で交わされたかどうかは定かではありません。

でも少し作品に近づけたので〇。

仏像学芸員末吉



2020年7月26日日曜日

鍾馗も逃げ出す達磨かな

博物館では7月21日(火)から特設展示「やまいとくらし~今みておきたいものたち~」を常設展示室内で開催しています。

詳しくはフレッシュな学芸員たちによる連載ブログを見ていただきたいのですが、どうやら今回の展示のイメージキャラクターが「鍾馗(しょうき)」だとされているようです。

鍾馗は中国・唐時代の人物で、熱病に苦しむ玄宗(げんそう)皇帝の夢に現れて悪い鬼を喰ったと伝えられています。こうした説話が日本にも伝えられ、江戸時代には疫病退散のシンボルとなりました。

実は、最近流行りの新型コロナ対策展示という意識はまったくなかったのですが、たまたま博物館では企画展示「ダルマさん大集合」を開催し、その中で鍾馗が登場する刷り物を展示しています。



「疱瘡絵(ほうそうえ)」と題されたこの作品、江戸の人々を悩ました疱瘡(天然痘)を退ける効能があるとされる図柄を赤い絵の具で刷った、いわゆる「赤絵(あかえ)」というやつです。

図柄を見てみると、鍾馗と達磨、源為朝(みなもとのためとも:平安時代末期に活躍した豪傑)、富士山が描かれているのがわかります。なぜ、この図柄なのか?その答えは賛文の中に隠されていました。

「ほうそうの、みをふじほどに山をあげ、しょうきも寄らずだるま為とも」
読んだだけでは何のことかわかりませんが、超意訳すると「疱瘡の身を封じ(富士)る間に、山(やまい)を上げて、しょうき(鍾馗)を寄せつけない達磨と為朝」というふうに解釈できます。

絵柄をよく見ると、一番手前にいる〝元祖ウイルスバスター〟こと鍾馗が達磨と為朝の剣幕を恐れて、すごすごと退散しているようにも見えます。

このへんがいかにも江戸っぽいのですが、おそらく鍾馗を「瘴気(疫病)」にかけて、達磨と為朝がこれまでのスタンダードだった鍾馗よりも強いのだという、一種の洒落(しゃれ)なのでしょう。

疫病を退けるはずの鍾馗が疫病扱いされているのは何だか可哀そうですが、裏を返せばそれだけ江戸の人々は疫病の流行に手を焼き、苛立ちを覚えていたということかもしれません。

鍾馗も逃げ出す達磨かな・・

ということで特設展示のあとはぜひ、「ダルマさん大集合」もご覧ください。

仏像学芸員末吉


2020年7月21日火曜日

【企画展示室2】ダルマさん大集合 7月21日(火)~9月13日(日)




誰じゃ「こわカワ」なんていう奴は!

 達(だる)磨(ま)(ボーディダルマ/菩提(ぼだい)達磨(だるま))は6世紀頃のインド出身の仏教僧で、中国に来て禅(ぜん)の教えを伝えたとされる人物です。達磨を祖とする中国禅はやがて日本にもたらされ、臨(りん)済(ざい)宗(しゅう)や曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)などの禅宗寺院では、開祖として達磨の像がまつられました。また江戸時代以降は、縁起物の起き上がり小(こ)法(ぼ)師(し)が全国各地で作られたほか、玩具や子どもの遊びにも取り入れられるなど、庶民にも広く親しまれました。
 ところで、このように達磨が私たち日本人の文化や生活に広く浸透した理由は、もちろん尊い教えを広めた偉大な人物だからということもありますが、そのイメージには他の人物にはないインパクトや魅力があったからとも言えます。伝説によると、木で鼻をくくったような問答をして中国の皇帝を怒らせたとか、9年も壁に向かって座(ざ)禅(ぜん)をして手足を失ったとか、なかなか強烈な個性の持ち主だったようです。
確かに、描かれた達磨像を見ると、髭を生やしてぎょろりと目をむいた、いかにも厳しそうなオジサンという印象を受けます。しかしよく見てみると、どこかユーモラスで愛嬌もあり、「ダルマさん」と親しみを込めて呼びたくなるものもあります。
こわいけどカワいい―本展示ではこうした「こわカワ」とでも言うべき達磨像の特徴に注目し、その魅力を探りたいと思います。

【Feature Exhibition 2】Mass Gathering of "Mr.Daruma" Jul. 21, 2020 (Tue) ~ Sep. 13, 2020 (Sun)


Don’t call me “Kowakawa”(Scary but Cute)! 

Daruma (bodhidharma) was an Indian Buddhist monk in the 6th century who brought Zen Buddhist teachings to China. Chinese Zen Buddhism, which was founded by Daruma, was later introduced to Japan. Temples of Japan’s Zen Buddhism sects such as the Rinzai and Soutou Sects deified and enshrined the Daruma figure as their founder. After the Edo period, the image of Daruma was introduced in the design of the auspicious self-righting doll called “Koboshi” and several other children’s toys and games. In time, the image of Daruma became widely accepted by ordinary people all around Japan.

The image of Daruma had been predominantly instilled in our everyday life and culture not only because he was a great man who spread the valuable teachings of the Buddha, but also because his facial features were unique and impactful. His anecdotes also tell us that he was an extraordinary person indeed. For example, he infuriated the Chinese Emperor by conversing with him in a blunt manner and, in another story, he lost both his arms and legs for sitting in meditation while facing the wall for 9 long years.

As a matter of fact, his portrait was depicted as a very strict bearded old man with eyes wide open. However when you look closer, his facial expression appears to be somehow humorous and adorable. That is why he is often addressed as “Daruma san” in the friendliest manner. Scary, but cute!
This exhibition focuses on the uniqueness of Daruma, who is often described as “kowa-kawa" (scary but cute!), and to find out why people are attracted to him.

exhibition leaflet


【기획전시실 2】다루마상ダルマさん 대집합 2020년 7월 21일(화)~ 9월 13일(일)



누가 무서우면서도 귀엽다고 그래!

달마(보제달마/다루마)는 6세기 경 인도 출신의 불교승으로, 중국에 와서 선의 가르침을 전했다고 하는 인물입니다. 달마를 시조로 하는 중국의 선은 곧 일본으로 전해져 임제종과 조동종 등의 선종 사원에서는 그 개조로 달마상을 모셨습니다. 또 에도시대 이후는 길조를 상징하는 오뚜기가 전국 각지에서 제작됨과 동시에 어린이들의 장난감으로써 쓰이는 등 서민들에게도 널리 친숙하게 다가갔습니다.

그런데 이와 같이 달마가 일본인의 문화와 생활에 널리 침투하게 된 이유는, 물론 높은 가르침을 전한 위대한 인물이라는 점도 있으나 그 이미지에는 다른 인물들에게는 없는 인상과 매력이 있었기에라고도 할 수 있습니다. 전설에 의하면 냉담한 태도로 문답을 하여 중국의 황제를 화나게 하였다거나 9년 씩이나 벽을 보며 좌선을 하여 손발을 잃었다는 등 꽤 강렬한 개성의 소유자였던 모양입니다.

확실히 그림으로 그려진 달마상을 보면 수염을 기르고 눈을 희번득거리는 모습이 엄한 아저씨와 같은 인상입니다. 그러나 자세히 보면 어딘가 유머러스하며 애교도 있는, “달마씨(다루마상)”라 친근감있게 부르고 싶은 느낌도 있습니다.

무섭지만 귀여운, 이 전시에서는 이러한 달마상의 특징에 주목하여 그 매력을 파헤치고자 합니다.


2020年7月13日月曜日

【企画展示室1】戦国時代の博多展9 “筑前表錯乱” ~一五五〇年代の動乱 7月14日(火)~9月13日(日)


信長、桶狭間で勝利。その頃、博多は?

永禄三年(一五六〇)、織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、隣国を平定し京都に進出していく大きなきっかけとなりました。この頃、九州においても戦国時代の大きな転換期を迎えます。
応仁・文明の乱(一四六七~一四七七)以降の約百年間を戦国時代と呼びますが、九州では室町幕府の威令が及びにくく、南北朝の動乱から断続的に戦乱が続きました。幕府が九州を治めるために設置した九州探題は十五世紀初頭に少弐氏との対立で力を失い、探題渋川氏を支援する形で周防山口を本拠とする大内氏が九州に進出し、筑前・豊前両国を治め、肥前国にも影響を及ぼしました。これより北部九州の政情は、大内・渋川氏と、大友・少弐氏との二つの勢力が対立する状況で推移します。
長らく続いた両勢力が相争う状況は、一五五〇年代のおよそ十年間を経て新たな体制へと変化を遂げます。最大の要因は、一方の雄であった大内氏が滅ぶことです。天文二十年(一五五〇)、大内義隆が重臣陶晴賢の謀反により自害、後継者として大友義鎮(宗麟)の実弟義長が迎えられますが、天文二十四年(一五五五)の厳島の戦いで晴賢が敗死、二年後の弘治三年(一五五七)、義長も毛利元就に攻められ、大内氏は名実ともに滅びました。この過程で大友氏は次第に勢力を伸ばします。大内氏滅亡後、筑前・豊前・肥前三ヶ国において戦乱が激化し、少弐・渋川両氏は歴史の表舞台から姿を消し、永禄二年(一五五九)には大友氏に敵対する肥前の筑紫惟門により博多は襲撃され、焼き打ちに見舞われます。大友氏は同年末までに敵対する勢力を圧倒し、以前から治めていた豊後・筑後・肥後に加え北部九州六ヶ国を支配下に収めます。戦後、大友氏による博多復興が行われ、御笠川の流路を変更し南側に房州堀を築き、博多は周囲を水で囲まれた防御性を高めた都市に変貌しました。本展では、館蔵の古文書を紐解きながら、戦国時代の転換期となった時代のうねりを紹介します。

解説リーフレット