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2020年11月18日水曜日

【ふくおかの名宝】鑑賞ガイド⑭ 黒田長政の武功を伝える甲冑と兜

 江戸時代,福岡城と城下町福岡を建設し,現在の福岡市の礎を築いた福岡藩初代藩主・黒田長政(くろだながまさ)。彼が使用した甲冑と兜、彼を描いた肖像画は国指定の重要文化財となっています。下の4件です。ご覧ください。

①銀箔押一の谷形兜(ぎんぱくおしいちのたになりかぶと)
黒糸威五枚胴具足(くろいとおどしごまいどうぐそく)

②黒漆塗桃形大水牛脇立兜(こくしつぬりももなりおおすいぎゅうわきだてかぶと)


③黒漆塗桃形大水牛脇立兜(こくしつぬりももなりおおすいぎゅうわきだてかぶと)


④黒田長政像(くろだながまさぞう)

いずれも当館の所蔵で,展覧会で展示する機会が多いため,「見たことがある!」という方もいらっしゃるのではないかと思います。上の甲冑と兜、肖像画はいずれも単独で重要文化財に指定されていると思われるかも知れません。しかし,実は①が重要文化財に指定された際の書類に「附(つけたり)」として②~④が一緒に記されているのです。これは,「附指定(つけたりしてい)」といって指定される本体(ここでは①のこと)の資料的な価値を保証したり根拠を示すものとして一体として指定され,本体と同じように重要文化財として保護の対象となるものです。今回の展覧会では,この「一体」を表現すべく,上記の4件の資料を隣り合わせで展示しています。

今回の記事では,このうち①の銀箔押一の谷形兜について,取り上げてみたいと思います。この兜は,黒田家の重宝を記した「黒田家重宝故実(くろだけじゅうほうこじつ)」によれば,元々は福島正則(ふくしままさのり)が使用していたのですが,朝鮮出兵の後に友情の証(喧嘩した長政と仲直りするため)として写(同じ形をしたスペア)を作って,長政の大水牛脇立兜の写と交換したものと伝えられています。

この兜で目を惹くのは,その特徴的な造形でしょう。この形は,源平合戦の古戦場で,源義経(みなもとのよしつね)が馬に乗って駆け下りた「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」の故事で知られる一の谷(現・神戸市須磨区)の急峻な崖を表現したものと言われています。普段,展示や展覧会の図録などでは,兜を正面からご覧いただくことが多いので,「急峻な崖」感をあまり感じていただけていないかと思い,今回は横から撮影した写真をご覧いただきましょう。

銀箔押一の谷形兜を横から見ると


 …って,もはや「これって崖?」という程の険しさですね。ボルダリングの選手なら登っていけるかも知れませんが,さすがに馬は駆け下りられないと思います。むしろ崖というよりも葛飾北斎(かつしかほくさい)の富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」に描かれた大波(あの有名なザッパーンってやつですね)のように見えるのは私だけでしょうか。


とは言え,この兜は,慶長(けいちょう)5年(16009月の関ヶ原合戦で長政が着用したと伝えられ,その出陣の際の姿だという④の肖像画にも描かれており,長政の武功と黒田家の歴史を象徴するものとして,まさに重要文化財に相応しい資料だと言えるのです。

最後に,この兜の後ろ姿も趣深いので,画像を載せておきたいと思います。

銀箔押一の谷形兜を後ろから見ると


(学芸課 髙山)

重要文化財の福岡藩初代藩主黒田長政所用の甲冑と肖像画は、開館30周年記念展「ふくおかの名宝」で公開中です。一の谷形兜を身に着けた長政が描かれている「関ケ原戦陣図屏風」も展示しています。屏風のなかから、長政の雄姿を探してみてください。

 また、2代藩主忠之、6代藩主継高、11代藩主長溥、12代藩主長知の一の谷形兜と甲冑も展示していますので、歴代藩主の一の谷形兜を見比べることができます。






2020年11月16日月曜日

【ふくおかの名宝】観賞ガイド⑬ 拵が重要文化財! 重要文化財・金霰鮫青漆打刀拵

 重要文化財への指定は刀身ではなく、この拵(こしらえ)によるものです。福岡藩祖・黒田孝高(よしたか)(官兵衛(かんびょうえ)・如水(じょすい))の差料安宅切(あたぎぎり)の拵(こしらえ)です。

刀 名物「安宅切」の拵
刀 名物「安宅切」の拵 金霰鮫青漆打刀拵

鞘(さや)は返角(かえりづの)の先から鐺(こじり)まで霰地(きんあられじ)を圧(へ)し出した金の延べ板で巻き込み、腰元は青漆(せいしつ)塗りとする大胆なデザインとなっています。柄(つか)は朱塗りの鮫着せに薫韋巻(ふすべがわまき)を施し、目貫(めぬき)は赤銅金色絵桐紋三双(しゃくどうきんいろえ きりもんさんそう)、頭(かしら)は金無垢(きんむく)、縁(ふち)は赤銅で、ともに波濤(はとう)文様を肉彫りで表現しています。栗形(くりがた)の鵐目(しとどめ)は金無垢、鞘尻(さやじり)の鐺(こじり)は銀製の鍬形(ぎんくわがた)とします。鍔(つば)は鉄地で、やや角張った丸形に周縁をやや厚く肉取りした角耳で、表裏とも全面に日足鑢(ひあしやすり)をかけています。

金・銀・朱・緑のコントラストが鮮やかです。豪華絢爛な意匠は、華やかな桃山時代の気風をよく表しています。

はばき台尻の針書き
鎺(はばき)台尻の針書き

 安宅切には金無垢二重鎺(にじゅうはばき)が付属します。この台尻(だいじり)の差表(さしおもて)側には「小判(こばん) 明寿(みょうじゅ)」の針書きがあり、桃山時代に活躍した金工師で、新刀鍛冶の祖と評される埋忠明寿(うめただみょうじゅ)の作になる鎺だと分かります。したがってこの拵も明寿の監修によって制作されたことが窺えます。明寿には重要文化財・刀 銘 山城国西陣住人埋忠明寿(花押)/慶長三年八月日他江不可渡之(たへこれをわたすべからず)(京都国立博物館蔵)があり、慶長3年(15988月以前に出家して明寿と名乗っていますので、その頃から孝高(如水)が没する慶長9年(1604)以前に制作されたことになります。国宝・圧切長谷部(へしきりはせべ)(福岡市博物館蔵)の拵はこの安宅切の拵を模して作られたものです。ともに金霰地は精密な造りで、大粒の周りに小粒が6粒、規則正しく緻密に配列されていますが、圧切の拵に比べ安宅切は、つぶれた金霰地が散見し、柄巻の汚れとともに使用された痕跡が明瞭です。 

「安宅切」の拵えの金霰地のアップ
「安宅切」の金霰地のアップ

刀身は差表(さしおもて)に作者銘「備州長船祐定(びしゅうおさふねすけさだ)」、差裏に制作年「大永(だいえい)二二年八月日」が切られ、大永4年(15248月、末備前(すえびぜん)の長船祐定(おさふねすけさだ)の作になることが分かります。

金霰鮫青漆打刀拵の刀身 刀「安宅切」
刀 名物「安宅切」

安宅切の名称の由来は、黒田孝高が四国攻めに際して用いた事績にもとづくものです。『黒田家譜』『黒田家重宝故実』によると、淡路(あわじ)に渡海した孝高は、三好氏の一族、安宅河内守(あたぎかわちのかみ)の由良城(ゆらじょう)(兵庫県洲本市)を攻め落とし、この刀で孝高が安宅河内守を討ち取ったことによる命名と伝えています。

 茎(なかご)の差表には作者銘のほかに金象嵌銘「あたき切 脇毛落(わきげおとし)」があります。これは名物としの名称と後世試し切りをした際の截断銘(さいだんめい)を刻んだものです。試し切りでは骨の多少により部位によって難易があり、脇毛は両手を上げた姿勢で両脇を結んだ線を指します。通常行う試し切りの部位より切るのが難しい箇所で、安宅切の切れ味の鋭さを表わしています。

(学芸課 堀本)

重要文化財 金霰鮫青漆打刀拵は、福岡市博物館開館30周年記念展「ふくおかの名宝」で、ともに重要文化財に指定されている刀「安宅切」とあわせて展示中です。また、この拵を模して作られた、国宝 刀「圧切長谷部」の拵も展示していますので、あわせてご覧ください。

2020年11月13日金曜日

【ふくおかの名宝】鑑賞ガイド 特別編 コクホー「漢委奴國王」金印ちゃん

 ※このお話は史実を基にしたフィクションです。

 

国宝 金印を斜め上からみた写真

 私の名前は金印ちゃん。今からだいたい2000年前〈※西暦57年〉、中国(当時は後漢(ゴカン)と呼んでたわ)の都だった洛陽(ラクヨー)で生まれたの。身長2.2cmととっても小柄なんだけど、今でも2000年前から変わらない美しさだとよく褒めてもらえるわ。光武(コウブ)(テー)っていうとってもえらい人が私のお父さんだったんだけど、私が生まれてすぐ死んじゃった〈※註1

※註1 後漢の皇帝、光武帝の崩御は倭の使節への金印贈与と同年の西暦57年のことであった。

 お父さんが亡くなる前、東の島から来たっていう人たちがお父さんに会いに来たの。突然、「娘さんを僕に下さい。」って言うんだけど、お父さんも「娘をよろしく頼む。」って最初からその気だったみたい。何人かいた兄弟〈※註2と別れるのが辛くて涙がでてしまったけれど、新しい土地での生活は新鮮でワクワクしたわ。

※註2 1981年に江蘇省で発見された広陵王璽こうりょうおうじ(金印)が「漢委奴國王」金印と同一工房で製作されたものという説がある。

 

金印(複製)を使って封印をしている様子

そんなこんなで海を渡って、しばらくは
()(コク)っていうところ中国に送る大事なお手紙に封をするお仕事((フー)(デー)っていうの。私にしかできないのよ!)をしてたんだけど、それからが我慢の日々だったわ。ひょんなことから志賀(シカノシマ)っていう島に閉じ込められたの。とっても寂しかった。っていうか退屈すぎて寝ちゃったわ。

目が覚めたのはそれから1700年後〈※天明41784)年〉よ。そうね、江戸時代っていうのかしら。(ジン)兵衛(ベー)っていうお百姓さんが、田んぼの中にいた私を見つけたの。それから私があまりにもキュートだったから、お城に召し上げられちゃった。それからしばらくはお殿様のお家(黒田家っていうの。官兵衛(カンベー)さまが有名でしょう?私は会ったことないんだけど。)で暮らしたわ。江戸時代が終わってから東京に引っ越したんだけど、今から90年くらい前〈※昭和61931)年〉には国宝(コクホー)に選ばれたのよ(ミス・ジャパンみたいなものね。)。

またしばらくして今から50年前〈※昭和531978)年〉には、「福岡に帰って仕事をしてほしい」って熱烈なオファーがあったものだから、福岡に帰ったの。新幹線〈※註3がとっても早くてびっくりしちゃった。最初は福岡市美術館ってところで働いてたんだけど、30年前〈※平成21990)年〉に福岡市博物館ができるっていうから異動したの(今も学芸課にいるY倉くんなんて、当時若くてかわいかったのよ)。それからずーっと博物館の看板娘として頑張ってるのよ。週に一回の休館日以外はお仕事してるの。みんなすごく顔を近づけて私をみるもんだから、けっこう恥ずかしいのよね・・・。

※註3 山陽新幹線の博多への乗り入れは1975年のこと。 
実際に金印の輸送に新幹線を使ったかどうかは定かではない。

(学芸課 あさおか)

 

※金印ちゃんについてもっと詳しく知りたい方は↓まで。

福岡市博物館公式ホームページ 金印

福岡市博物館公式ブログ 【ふくおかの名宝】観賞ガイド④ 国宝 金印「漢委奴国王」

2020年11月12日木曜日

【ふくおかの名宝】観賞ガイド⑫ 黒田孝高が戦国時代に終止符を打った証し 北条家から贈られた伝家の宝刀 国宝 太刀  名物「日光一文字」

 

天正18年(1590)、豊臣秀吉の天下統一の総仕上げとなった小田原攻(おだわらぜ)め。黒田孝高(よしたか)(官兵衛(かんびょうえ)・如水)はわずか3百の手勢で参陣し、秀吉の計略を助けました。秀吉の大軍に囲まれ、抗戦か降伏か、なかなか結論が出ない会議を長く続けたことで、後世「小田原評定(ひょうじょう)」なる語句を生んだ戦いに決着をつけたのが孝高でした。孝高は最終局面で小田原城(神奈川県小田原市)に乗り込み、北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)父子に降伏開城を説得しました。秀吉への仲介のお礼として北条氏直から孝高に贈られたものが日光一文字の太刀です。貝原益軒(かいばらえきけん)著『黒田家譜』によると、北条白貝(しろがい)(福岡市美術館蔵)、『吾妻鏡(あづまかがみ)』(国立公文書館蔵)とともに贈られたとします。

太刀「日光一文字」の全体写真、切っ先のアップ、茎(なかご)のアップ
太刀「日光一文字」 左:茎、中:切先、右:全体

北条氏の降伏直後、秀吉が黒田長政に宛てた710日付けの朱印状では、「今度の首尾、勘解由(孝高)淵底候」と、孝高の才覚により合戦に決着がついたことを知らせています。小田原攻めが全国統一の最後の戦いとなりましたので、孝高が百年ほど続いた戦国時代に終止符を打ったといっても過言ではありません。日光一文字はそのことを象徴する記念碑的遺物といえます。

日光一文字は、もともと日光権現社(栃木県・日光二荒山神社)に奉納されていましたが、後北条家初代の早雲が譲り受け、北条家の伝家の宝刀となったものです。無銘ですが、絢爛たる重花丁子(じゅうかちょうじ)の刃文が冴えわたる備前福岡一文字派の最高傑作です。身幅の広いわりに重ねは薄い出来ですが、当初からの姿を保っています。佩表(はきおもて)には腰元から斜めに映りがすっと伸び、乱れ映りが広がっています。

黒田長政が没して約1ヶ月ほどが経過した元和9年(1623)閏8月8日、2代藩主となった黒田忠之(ただゆき)は埋忠明寿(うめただみょうじゅ)に日光一文字の打刀拵(うちがたなこしらえ)を発注しています。この拵注文によると、鎺(はばき)は印子金(いんすきん)の金無垢二重で上貝には桐紋の透かし、小刻み切羽(せっぱ)・鵐目(しとどめ)は印子金、縁(ふち)は赤銅の二面縁、鞘は藍鮫皮、目貫(めぬき)・笄(こうがい)・小柄(こづか)・鐔(つば)は黒田家より支給、栗形・返り角(かえりづの)・柄頭は角製、鐺(こじり)は真鍮の腐らかし手と、細かい仕様で注文しています。ことに文末で「右は、へし切の刀拵に少もちがい申さざる様に仕らるべく候」と、圧切長谷部(へしきりはせべ)の拵(現状の金霰鮫青漆打刀拵は江戸時代後期に安宅切の拵を模したもので、ここに記されたものと別物です)と同じ仕様で作成しようとしたことが分かります。この圧切と日光一文字の拵は残念ながら現在ともに失われていますが、往時の様子をうかがい知ることができます。江戸時代後期の黒田家の刀剣帳『御蔵御櫃現御品入組帳(おくらおひつげんおしないりくみちょう)』(福岡市博物館蔵)では、日光一文字のサヤを「御鞘黒漆、御下緒紫」「御替鞘右同」としていますので、この頃にはすでに藍鮫鞘は失われているようです。また、黒漆の2本の鞘も失われています。


蓋をあけた状態で展示している 葡萄文蒔絵刀箱
葡萄文蒔絵刀箱

『黒田家重宝故実(くろだけじゅうほうこじつ)』によると、葡萄文蒔絵刀箱(ぶどうもんまきえかたなばこ)に日光一文字の太刀を入れて氏直から贈られたとします。金蒔絵(きんまきえ)で箱の表面に葡萄の蔓(つる)が巻き付くように廻る大胆な構図です。印籠蓋(いんろうぶた)がかぶさる身の立ち上がりにも蒔絵が施されています。 見えない部分にも職人技が行き渡り、見事な作品です。

(学芸課 堀本)

国宝 太刀 名物「日光一文字」は、福岡市博物館開館30周年記念展「ふくおかの名宝」で展示中です。ともに国宝に指定されている葡萄文蒔絵刀箱も展示しています。また、「日光一文字」とともに北条家から贈られた ほら貝「北条白貝」と琵琶「青山」(ともに福岡市美術館蔵)もあわせて展示中です。

2020年11月10日火曜日

【ふくおかの名宝】鑑賞ガイド⑪ 福岡で生まれた現存最古の国産自動車─アロー号

 福岡市博物館に寄託されている「アロー号」(株式会社矢野特殊自動車所有)は、福岡で作られた自動車です。現存最古の国産乗用自動車として、日本機械学会によって平成21年(2009)に「機械遺産」に認定されました。アルミ板で覆われた銀色の車体は、現代の自動車よりも二回りほどコンパクトですが、常設展示室でも目を引く存在のひとつです。

常設展示室で展示中の「アロー号」
アロー号(常設展示室)

制作者は、福岡工業学校(現福岡工業高校)出身の矢野倖一。矢野は当初、模型飛行機用のエンジンを自作するほど、飛行機に強い関心を持っていました。そんな矢野に自動車の制作をすすめたのは、運輸業で財を成した福岡の実業家村上義太郎でした。村上は陸上交通の重要性を認識し、日本の道路事情に合う自動車が必要であると考えていました。村上の勧誘を受け、矢野は自動車の研究に乗り出します。そして、学校卒業後の大正2年(1913)から本格的に国産自動車の設計を開始しました。車の名前は自身の名字から「アロー号」としました。

 矢野は、村上の仲介で鉄工所を作業場として借り、時には福岡工業学校や九州帝国大学工科大学(現九州大学工学部)の施設を使用しました。必要な部品は手作業で金属を加工して自作しました。ただし、タイヤやプラグ、マグネットは外国製を使用しています。

 大正4年(19158月、アロー号はテスト走行を行いましたが、エンジンの不調のため動きませんでした。矢野は、ドイツ・ベンツ社の技師から気化器に原因があると聞きます。技師が福岡にいたのは、第一次世界大戦の最中で、ドイツ軍の捕虜が福岡市内の収容所に収容されていたためでした。矢野は海路上海に向かいイギリス製気化器を購入し、アロー号に取り付けました。この結果、エンジンが動くようになりました。その後、アルミ板と和紙で車体を制作し、アロー号は完成しました。大正51916)年8月のことでした。総制作費は約1224円。当時の大卒者の初任給は35円程度、国産自動車の製作にかなりの費用がかかっていたことがわかります。

アロー号のフロントグリル部分のアップ
クラシカルなフロントグリル部分、細いタイヤはリヤカー用を転用した

ガソリンタンクの栓のアップ
エンジン冷却水用とガソリン用の2つのタンクの栓にはアロー(矢)の意匠がある

さて、アロー号の大きな魅力のひとつに、現在でも走行できるという点があります。博物館では、株式会社矢野特殊自動車のご協力のもと、平成28年(201610月にアロー号完成100年を祝して「走る!!アロー号」というイベントを開催しました。200名ほどの観客が見守る中、エンジンを掛けられたアロー号は、少し高めのエンジン音を響かせながら、博物館の前庭の池の周りを無事に周回しました。その時、私は、アロー号の勇姿を近くで見ながら、100年前の確かな技術力やアロー号を今日まで維持してきた方々の熱意に思いを馳せていました。私事はさておき、展示室内では、残念ながらエンジンを掛けることはできませんが、据え付けのモニターでエンジン音を聞くことができます。長文失礼いたしました。ではでは★☆

博物館前庭を走るアロー号
イベントで博物館前庭を走るアロー号。運転手は株式会社矢野特殊自動車の矢野社長。
手前でベストショットを狙う館長の姿も。

(学芸課 野島)


2020年11月4日水曜日

【ふくおかの名宝】鑑賞ガイド⑩ ある博多人形伝説

 小島與一(こじまよいち:1886~1970)は大正~昭和期を代表する博多人形師で、「名人」といえばこの人、というほど有名でした。

14歳で白水六三郎(しろうずろくさぶろう)に入門して近代的な人形制作技術を身につけ、1925年(大正14)にフランス・パリで開かれた国際博覧会では「三人舞妓(さんにんまいこ)」が銀牌に輝くなど、博多人形が郷土玩具から美術工芸品へと生まれ変わる動きを牽引しました。

その人柄は天真爛漫で多くの人々に愛されるいっぽう、浪費癖や遊興癖など破天荒なエピソードに富み、火野葦平(ひのあしへい)の小説「馬賊芸者(ばぞくげいしゃ)」のモデルにもなりました。

そんな與一が人形「初袷(はつあわせ)」を制作したのは1914年(大正3)のこと(以下は原田種夫著『人形と共に六十五年―小島与一伝―』にもとづく逸話です)。

当時與一は博多券番の芸妓(げいこ)であったひろ子に惚れ込み、駆け落ち未遂事件まで起こしたほどでした。その後も稼いだ金はすべてひろ子のためにつぎ込む始末で、仕事も手につかない日々が続いていました。

駆け出しの人形師であった與一には、ひろ子を身請(みうけ)するだけの経済力がなかったのです。

23歳当時の小島與一の写真
小島與一(23歳当時)

ひろ子の写真
ひろ子

そんな折、與一は福岡市役所で開かれた品評会に出品するよう師匠から勧められ、ひろ子をモデルにすることを思いつきます。彼はこのとき料亭の2階にひろ子を連れ出し、3日間かけて制作に打ち込んだといいます。 ちなみに、「初袷」という名は、この人形が縞模様の袷(あわせ)の着物を着ているからですが、袷は冬用の裏地のある着物なので、表地と裏地が合うという意味で二人の逢瀬のことをかけたネーミングかもしれません。

小島與一作 博多人形「初袷」
小島與一作「初袷」


こうして会心の作品をモノにした與一は品評会場に向かいますが、あまりにも急いでいたため中島橋の欄干にぶつけて人形の手を折ってしまい、何とか修理をして出品に間に合わせました。

「初袷」の出来は素晴らしく、審査員たちは皆これを一等に推しましたが、審査員の一人であった師匠の白水だけは修理の痕跡を見破り、あえて2等に落としたといいます。それは與一が女色に溺れ、人形師としての研鑽を怠っていたのを戒める厳しい愛の鞭でした。

こうして與一は再び気持ちを入れ替えて人形作りに打ち込み、2年後には周囲の人々の手助けもあって與一とひろ子はめでたく結婚することが出来たということです。

♪~博多へ来るときゃ一人で来たが 帰りゃ人形と二人連れ~ 
〔正調博多節〕より

 (学芸課 末吉)

小島與一作の博多人形「初袷」は、福岡市博物館開館30周年記念展「ふくおかの名宝」で展示中です。 
「ふくおかの名宝」では、原田嘉作平の博多人形「夕映え」を石膏型と一緒に展示しています。また、企画展示室で開催中の新収蔵品展では、白水八郎作の博多人形「熊野」を展示していますので、あわせてご覧ください。 


 

2020年11月2日月曜日

【ふくおかの名宝】鑑賞ガイド⑨ もうひとつのゴールド

 

福岡市の志賀島から発見された国宝「金印」が今なお多くの人々の関心を集めるのは、それが権力を象徴する印章であり、また印面の文字や伝来に関して多くの謎が秘められているからでしょう。しかしもっと重要な要素は、やはり富を象徴する金で作られているという事実ではないでしょうか?

実は、志賀島にはもうひとつ、奇しくも金にまつわる文化財が伝わっています。

志賀海神社(しかうみじんや)所蔵の「鍍金鐘(ときんしょう)」(重要文化財)と呼ばれる、朝鮮・高麗時代(13世紀)の梵鐘です。青銅(ブロンズ)製で、全体の高さが52.8㎝、口径が30.5㎝、重量は約30㎏あります。大人の男性ならなんとか一人で持ち上げられるくらいの重さです。

鍍金鐘の全体写真
鍍金鐘 志賀海神社蔵

その形は典型的な朝鮮鐘(ちょうせんしょう)の特徴を示していて、上部にS字状に体をくねらせた龍頭(りゅうず)と、甬(よう)と呼ばれる筒状の突起があり、鐘身の四方には乳郭(にゅうかく)や撞座(つきざ)、仏像などが極めて精巧に表されています。シンプルな日本の梵鐘とは異なり、とても華やかなデザインです。

特筆されるのは表面に金メッキ(鍍金)が施されている点。鍍金した梵鐘は高麗時代に登場し、現在世界に数点しか残っていませんが、その中で最も出来栄えの優れた作品です。残念ながら今は全体が緑青(ろくしょう)に覆われていますが、よく目をこらして見ると金の部分があるのがわかります。

鍍金鐘の一部分をアップ ところどころに金がみえる
鍍金鐘(部分)

ところで、鍍金鐘は江戸時代には既に志賀海神社の宝物として「神鐘」と呼ばれていたことや、時には表面を研磨したこと(!)も記録に見えますが、いつ頃志賀島にもたらされたかは不明です。

ただ、志賀海神社は志賀島周辺で古代から航海や製塩などに従事した阿曇(あずみ)氏の祖先を祀った神社で、九州でも有数の海神信仰の聖地でした。

そのためか、志賀島は遣唐使の寄港地となったほか、平安時代には長講堂領(ちょうこうどうりょう)と呼ばれる天皇家の荘園に属し、中央貴族が熱望した唐物(からもの)を輸入する窓口の役割を担っていました。また、室町時代には日本と朝鮮の双方の外交使節が志賀島を訪れた記録も残されています。

こうした歴史を顧みると、鍍金鐘は中世のある時期に九州と大陸を往来した人々の手でもたらされた可能性が高いと言えるでしょう。

なお、もうひとつ忘れてはならないのは、梵鐘は海の神である龍神への奉納品とされることもあったという事実です。それは梵鐘には龍頭と呼ばれる部分があるからで、実際に梵鐘を海に沈めた例も知られています。

梵鐘とは本来、寺院などで音を鳴らして時刻を知らせるためのもの。しかし鍍金鐘はたぐいまれな精巧さとまばゆい金の輝きゆえに九州の海の神に奉納されたとも考えられます。そのおごそかなイメージは、まさに韓国ドラマ『太王四神記』に登場する「神器(じんき)」を彷彿とさせます。

(学芸課 末吉)

重要文化財 鍍金鐘(志賀海神社所蔵)は、福岡市博物館の常設展示室に展示しています。 「ふくおかの名宝」展の観覧券で、11月29日(日)までの会期中に限り、常設展示室(国宝 金印を展示中)と企画展示室(名鎗「日本号」を展示中)もご覧いただけます。

2020年10月30日金曜日

【ふくおかの名宝】観賞ガイド⑧ 国宝 刀 名物「圧切長谷部」(へしきりはせべ)

 織田信長が黒田孝高の才能を認めた証し

 オリジナルの銘は磨(す)り上げられてありませんが、刀身全体に飛焼きが散らばった皆焼(ひたつら)の刃文(はもん)から、本阿弥光徳(ほんあみこうとく)が作者を南北朝時代の京都の刀工・長谷部国重(はせべくにしげ)と鑑定し、「長谷部國重 本阿(花押)」と金象嵌銘を刻んでいます。また、差表(さしおもて)には同じく金象嵌で「黒田筑前守」と黒田長政の所持銘があります。

へし切長谷部の写真 刀身全体、きっさきのアップ、金象嵌銘「黒田筑前守」と「長谷部國重 本阿(花押)」
写真左から、金象嵌銘「長谷部國重 本阿(花押)」、差表の金象嵌銘「黒田筑前守」、
「圧切長谷部」の鋒(きっさき)、刀身全体

現在の姿は、反りの浅い打刀(うちがたな)となっていますが、身幅(みはば)が広く大鋒(おおきっさき)の姿から、元は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて流行した大太刀(おおだち)を短く磨り上げたことが明瞭です。表裏に茎尻(なかごじり)まで搔き通された樋が、茎尻で棟側の半分ほどの幅となり、磨り上げの際、棟(むね)側も削って反りを浅く変更したことが分かります。

圧切(へしきり)はかつて織田信長(おだのぶなが)が愛用した刀で、信長が黒田孝高(よしたか)(官兵衛(かんびょうえ)・如水)に授けたものです。所持銘によってか、『享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)』では伝来を信長→羽柴秀吉(はしばひでよし)→黒田長政としますが、黒田家に伝来した『享保名物帳』の写本(福岡市博物館蔵)では、名物帳記載の伝来を、本阿弥家の誤説であるとして否定しています。

『黒田家譜』によると、天正3年(1575)、信長が中国地方の大半を治める毛利輝元(もうりてるもと)に対抗して西に勢力を広げようとする頃、当時、小寺政職(こでらまさもと)に仕えていた孝高はいち早く信長に味方するよう献策しました。孝高は自らすすんで使者となり、岐阜城(ぎふじょう)に信長を訪ね、中国攻めの策を進言しました。この時、信長が褒美として与えたのが圧切です。それまで播磨の一豪族の家臣に過ぎなかった孝高が、信長に才能を見出され歴史の表舞台に登場する端緒となりました。孝高は中国攻めの大将となった秀吉を助け、本能寺の変で信長が倒れると秀吉を天下人へと導きます。


振り下ろさずともよく斬れる刀 

刀は本来振り下ろして引き切りするものですが、圧切は押し当てただけで切れるという鋭い切れ味を表現した名称です。『黒田御家御重宝故実(くろだおんいえごじゅうほうこじつ)』や黒田家伝来の刀剣帳『御蔵御櫃現御品入組帳(おくらおひつげんおしないりくみちょう)』(福岡市博物館蔵)によると、ある時、信長が茶坊主を手討ちにする際、台所の膳棚(ぜんだな)の下にもぐりこまれ、刀を振り下ろせなかったため、棚の下に刀を差し込んで圧し付けたところ、手に覚(さと)らず切落したことによって命名されたとします。巷間でよく「棚ごと切った」という説明を見かけますが、これではただのよく斬れる刀になってしまい、「圧し切り」の意味をなしません。

圧切は信長が茶坊主を手討ちにするくらいのものですから、信長が普段使いで愛用していた刀であったと考えられます。信長ははるばる訪ねてきた孝高と面談し、見所のある人物だと見込み、その時、手許にあった圧切を授けたのでしょう。
(学芸課 堀本)

2020年10月28日水曜日

【ふくおかの名宝】鑑賞ガイド⑦ 蒙古襲来と異国降伏の祈り ─金光明最勝王経─

 

 博多湾(はかたわん)一帯は、古来、日本における外国との交渉や外来文化受容の窓口として栄え、様々な文化や文物がもたらされてきました。平時における対外交流の拠点という性格は、戦時においては、一転して国防の最前線となりました。その最たる例の一つが蒙古(もうこ)襲来(しゅうらい)です。

 アジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築いたモンゴルの大軍が押し寄せた文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)、両度の蒙古襲来に際し、博多湾沿岸は主要な舞台となりました。九州に所領を持つ御家人(ごけにん)が全国から博多湾沿岸に参集し、蒙古軍と激戦を繰り広げたのです。文永の役において日本は箱崎(はこざき)や博多の守りを固めモンゴル軍を迎撃しようとしたため、モンゴル軍は百道原(ももちばる)あたりから上陸し、祖原山(そはらやま)や赤坂山(あかさかやま)に陣を構えて戦いました。祖原山にいたる最も近い海岸が福岡市博物館があるあたりです。当時の海岸線は博物館から250mほど南にあり、モンゴル軍は沖合に停泊した大船から上陸用の小船に乗り換え、砂浜に乗り付けて上陸したのです。

文永の役後、鎌倉幕府は次の襲来に備え、モンゴル軍の上陸を阻むために博多湾沿岸の砂丘上に総延長約20kmにおよぶ元寇防塁(げんこうぼうるい)を築きました。弘安の役ではこの防塁によってモンゴル軍の上陸を阻み、防塁のない志賀島や海の中道が戦場となりました。大風の助けもあり、モンゴル軍を撃退することができましたが、モンゴルの脅威は消えず、3度目の襲来に備え、博多湾沿岸の警固や元寇防塁の修理は、弘安の役後60年にわたり、室町幕府の時代になっても続けられました。

鎌倉幕府による軍事力の動員が、蒙古襲来に対する実効的な異国防御の最たるものであったことはいうまでありません。他方、当時の人々にとってもう一つ重要な防御策がありました。それは、神仏への祈祷(きとう)による防御です。現代的な感覚からすれば、無益な「神頼み」と一笑に付されるかもしれませんが、当時、異国降伏(ごうぶく)の祈祷は、武士が実際に戦闘することと同様に認識されていたのです。両者は表裏一体の関係にあったといえます。

例えば、永仁元年(1293815日付けの他宝坊願文案から、その具体的様子が分かります。肥後国の元寇防塁築造・警固番役の分担地域である生の松原(いきのまつばら)(福岡市西区)に鎮座する生松原十二所権現(壱岐神社)に熊野権現をはじめ諸神が勧請されました。熊野神が他宝坊の夢に現れ、日本を傾けようとする他国の調伏を跳ね返すため、自らを生の松原に祝い据えよ、諏訪大明神ほか10神の神もろともに他国の調伏を返すべしと語りました。このことは鎌倉幕府に報告され、肥後守護を通じ熊野十二神が勧請され、この時、生の松原の警固番役を務める肥後国御家人が軍装束(いくさしょうぞく)で参列したと記されています。異国防御の現場において、現実の防御を担う武士と一体となって戦う神々がいたのです。このような異国降伏の祈祷は、朝廷・幕府を問わず各地の主要社寺において盛んに行われました。

金光明斎勝王経の冒頭
重要文化財「金光最勝王経」の冒頭

 ここに紹介する重要文化財「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」10帖(個人蔵、当館寄託)は、当時行われた異国降伏の祈祷を端的に示す経典です。この経典は、弘安の役後9年を経た正応3年(12909月下旬に、伏見天皇(12651317、在位12871298)が天下泰平・海内静謐(かいだいせいひつ)を祈念して石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に奉納したものです。伏見天皇は近臣とともに金光明最勝王経を書写し、第一帖は天皇の宸筆となります。第十帖に記された石清水八幡宮別当(べっとう)新善法寺(しんぜんぽうじ)良清(りょうせい)法印の奥書によると、祈祷の眼目の一つに「異国の賊の名を聞かず」とあり、この書写奉納がモンゴル軍の再々襲を警戒し、これがないことを祈ったものであることが分かります。金光明最勝王経は、この経を聞いて受容すれば、四天王などの諸天善神の加護を得られ国難を除災するといわれ、仁王経(にんのうきょう)・法華経(ほけきょう)とともに国家鎮護の三部経に挙げられる経典です。また、伏見天皇は当時から能書家として知られ、伏見院流と呼ばれる書風の創始者となりました。本経典は鎌倉時代後期の名筆としても貴重な典籍です。

 このように、当時の人々にとって、異国降伏の祈祷は武士が実際に戦闘するのと同様に認識されていました。言うなれば、日本の神々とモンゴルの神々との戦いです。したがって、戦後、異国降伏の祈祷を行った社寺は、武士と同じく恩賞を幕府に請求することになるのです。

(学芸課 堀本)

金光明最勝王経 巻第十 奥書
第十帖 奥書

【釈文】

(第十帖 奥書)

最勝王経書写供養之旨趣者、為天下泰平・海内静謐也、被染宸筆之条、尊神定御納受歟、華洛安穏、皇業長久、柳営繁昌、武功無衰、異国賊不聞名、当社神弥施徳、祈祷之趣、蓋在此而已、

    正応三年季秋下旬              法印良清

2020年10月27日火曜日

【ふくおかの名宝】鑑賞ガイド⑥ おうちde京都観光 ─洛中洛外図屏風─

 
今回ご紹介するのは、重要文化財(らく)(ちゅう)(らく)(がい)()(びょう)(」です

その名のとおり「洛中と洛外」、すなわち「京の市中と郊外」を描いた、小ぶりの屏風です。

豪華絢爛かつ細部まで活き活きとした画面は、いくら眺めても驚きと発見に満ちています。また、かつては康(とくがわいえやす)の所有だった可能性が高く(※1)、その豊かな歴史的背景にも興味は尽きません。

【※1】徳川家康の遺品目録『駿府御分物道具帳』に、孝信筆の「洛中画の金小屏風」が記されている。尾張徳川家へ譲られた品のひとつで、本作との関連が指摘されている。

毎年、全国から貸出依頼が舞い込みますが、重要文化財なので1年間の公開日数や輸送回数が限られており、残念ながらご希望に副えないことも多々あります。

洛中洛外図屏風の右隻
洛中洛外図屏風 右隻

洛中洛外図屏風の左隻
洛中洛外図屏風 左隻

まさに、名も実も兼ね備えた福岡市の「名宝」です。


まずは、活気あふれる絵のなかをご紹介しましょう。

向かって右側、隻(うせき)をおおまかにエリア分けすると、このようになります。

画面右:1⃣五条大橋附近、画面中央下:2⃣寺町通附近、画面中央上:3⃣清水寺、画面左:4⃣八坂神社
1⃣ 橋(ごじょうおおはし)附近
2⃣ 通(てらまちどおり)附近
3⃣ 寺(きよみずでら
4⃣ 社(やさかじんじゃ)
京都の略地図 洛中洛外図で描かれているスポットを図示
概ね、向かって右手が南、左手が北となっていることがわかります。画面上部は、水平に流れる川(かもがわ)の向こう、つまり東にあたります。


1⃣五条大橋(ごじょうおおはし)附近

勧進相撲の場面
五条大橋付近では、勧進相撲(かんじんずもう)が催されています。


茶屋の店先
その近くには茶屋があり、接客する女性のほか千鳥足の酔客まで描かれています。
わずか数センチの描写から、ゴキゲン具合がみてとれますね。

五条橋西詰の店、武士が髷をゆってもらっている
橋の西詰にあるお店は、看板や道具から床屋だとわかります。
武士が髷(まげ)を結ってもらっているようです。


実は他の洛中洛外図屏風でも、五条大橋西詰にはよく似た床屋が描かれています。もしかすると、当時本当にあった床屋なのかもしれません。 


②寺町通(てらまちどおり)附近

寺町通には、たくさんの店が軒を連ねています。

右の店には刀を手にした客と店主、左の店の壁にはたくさんの槍がかけられている
刃物を手にした物騒な客は、強盗ではなく刀を研ぎにきたようです。
店主の周囲に、砥石や水桶がみえます。
左の店は武具屋、それも槍の専門店でしょうか。
壁一面にさまざまな槍が架けられています。


さらに北へあがると、
転んだ子供に対して、男性が角材を振り上げている。その右には逃げていく二人の子供。
なんと、瀬戸物屋(せとものや)の店先で、
店主が子どもに角材を振り上げているではありませんか。

一体何があったのだろうと、あたりを見回すと、

瀬戸物屋の棚には、倒れて割れた壺
お店の白い壺がひとつ、倒れて、割れています…。もしかすると、左の黒い壺も、か?


そして、笑いながら逃げる悪童。

笑いながら逃げていく二人の子供のアップ

先ほどの転んだ子どもは、逃げおくれたか、あるいは身に覚えのない罪をきせられたのでしょう。可哀そうに今にもぶたれそうでしたが、果たして…  

眺めていると、いくらでも想像が膨らみます。 

ここでは、子どもたちの悪戯も、庶民の商いも、武士のくらしの一コマも、すべて等しく、まちの一風景として扱われています。しかし1~2センチの人間にも暮らしの物語が垣間見えるよう神経が行き届いており、どれを主役にするわけでもないのに、どこをとっても主役級――そんな印象です。本作が描こうとしているのは、貴賤を問わず人々が生きて暮らす、その集積としての「みやこ」の姿であり、太平の世をよろこぶ絵だといえるでしょう。

現在「洛中洛外図屏風」と呼ばれる作品は100点余り確認されていますが、文献上の初出は16世紀初頭、多くがそれ以降18世紀半ば頃までに制作されたものです。これらと比較すると(※2)、本作は桃山末~江戸初期の作例と位置づけられます。また無落款(むらっかん)ですが、作風から狩野孝信(かのうたかのぶ)(15711618)の筆とみられます。孝信は、狩野永徳の次男にして狩野探幽3兄弟の父であり、桃山時代から江戸時代への過渡期に大集団・狩野派を率いた功労者です。

 【※2】これらの図様には、時代ごとの権力構造が反映されている。例えば、室町時代の初期作例では、将軍邸と御所が大きく描かれ公武の関係を強調するが、豊臣政権、徳川政権と時代がすすむにつれて、秀吉の建立した方広寺大仏殿や、家康の建造した二条城が大きく描かれはじめる。次第に、権力者の邸宅や寺社よりも、人々の日常の動きが取り上げられるようになってゆき、風俗画へと展開する。


ここではご紹介しきれませんでしたが、右隻(うせき)にも見どころがたくさんあります。

南蛮人あり、大原女(おはらめ)あり、茶人、猿曳(さるひき)、野良犬親子、それから御所(ごしょ)・紫宸殿(ししんでん)の雅な花見…



人々の息遣いがきこえる「洛中洛外図屏風」、着物や建物に着目した論考もあり、見どころは尽きません。もしお持ちであれば単眼鏡で、じっくりのぞいてみてください。きっと、タイムスリップが楽しめるはず。


5⃣    誓願寺(せいがんじ)

6⃣    職人の店々で賑わう通り

7⃣    御所(ごしょ)

                    (学芸課 佐々木)

重要文化財 洛中洛外図屏風は、資料保護のため、年間の公開日数が限られており、「ふくおかの名宝」展では前期(10/10~11/1)のみの展示です。お見逃しなく!!



2020年10月19日月曜日

【ふくおかの名宝】鑑賞ガイド⑤ 庚寅銘大刀(こういんめいたち)

 

ご紹介する鉄刀(てっとう)は、現在当館で展示している資料の中で一番新しく指定された国の重要文化財です。九州大学のキャンパス移転にともなう調査で2013年、現・伊都キャンパス内の元岡・桑原遺跡群(福岡市西区)の古墳から発見されました。

今回は、展示室で実際にご覧いただく際のみどころポイントという視点からご紹介したいと思います。


───「姿をみる」

 まずは全身をご覧いただきましょう

庚寅銘大刀の全体を写した写真
全身(福岡市埋蔵文化財センター提供)

長さは、74センチメートル。日本刀の特徴である反りはみられません。今回の鉄刀のように古墳に副葬されている刀は真っすぐな姿の直刀(ちょくとう)です。

反りがある刀が造られるようになるのは平安時代の半ば以降、それ以前の直刀は「大刀」と書いてたちといわれます。日本刀の太刀(たち)と紛らわしいですが、別物になります。


───「金色の輝きを楽しむ」

この大刀の特徴は、何といっても金色の文字が19字記されているところにあります。刀身の棟(むね・背中の部分)をご覧ください。

左:文字が記されている刀身の棟、右:展示ケース全体
展示室ではケースの左側からのぞき込んでみてください。

 鉄でできた刀身は全身錆び、銀色の輝きは過去のものとなっていますが、文字はつくられた当時の輝きのまま肉眼でくっきりとみることができます。

 この輝きは純度の高い金(9193%)によるものです。細く溝を彫りそこに金を埋め込む金象嵌(ぞうがん)で文字が記されています。

 金が光るところは文字だけではありません。緑青で黄緑色になった鎺(はばき)をよく見ると金色がところどころに残り、金メッキが施されていたことがわかります。じっくり顔を近づけてご覧ください。

大刀の柄の部分のアップ
喰出鍔(はみだしつば)の部分に金色がみえます。

───「文字を読む」

さて、大刀に書かれた漢字は、全部で19文字。

「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□(練?)」

と書かれています。最後の文字についてはの部分が2画のみみられ、「練」のほかに「錬」、「凍」などとも読めそうです。

最後の1文字のアップ

読めそうで難しいですね。

ここには大刀をつくった日時について、「庚寅の年の16日、庚寅の日時に刀を作りました」というようなことが書かれています(※1)。「庚寅」が重なる滅多にないときにつくったという吉祥的な意味合いをもっていたようです(※2)。

では庚寅の年とは具体的にいつでしょうか。「庚寅(こういん/かのえとら)」とは60個で1セットの干支(かんし)の一つで、具体的な年や日時を表す単語です。すなわち60年に一度、庚寅の年がやってくるわけですが(60歳で還暦というのはここからきています)、さらにその年の16日が「庚寅」の日にあたる組み合わせは、ぐっと限られ、古墳時代後期あたりの西暦570年と考えられています。具体的な日時を検討できる文字が刻まれている、というところは大きなみどころの一つです。

1 最後の部分は、「□」部分をどう読むかによって、刀をたくさん鍛錬してつくったのか、12本制作したのか、など内容もいくつかの解釈があります。

2 東アジアには「三寅剣」、「四寅剣」と呼ばれる剣があり、この大刀はその古い例にあたると指摘されています。時代を下った1617世紀の朝鮮半島では、災いを祓うような意味合いをもって寅年寅月寅日につくられたという記録があります。


───「文字を見比べる」

14文字目の「刀」のアップ
14文字目の「刀」

一字一字をみると、文字として線の止めや払いが意識されていることがわかります。金の輝きだけでなく、この書体の美しさも大きなみどころです。

さて最後に、鑑賞対象になる文字を楽しんでいただきながら、2度書かれる「庚寅」の字を見比べていただきましょう

左:冒頭の「庚寅」、右:2度目に出てくる「庚寅」のアップ
左が冒頭の「庚寅」、右が2度目に出てくる「庚寅」です。


同じ漢字を並べてみると、ところどころ字画が合わないところがみえてきます。「庚」の最終画の右払いや「寅」の1画目、ウ冠のてっぺんがないあたりなどがわかりやすいでしょうか。出土してすぐ、文字が錆に覆われている状態でのX線写真をみてもこの字画であったことがわかります。

冒頭の「庚寅」のエックス線写真
冒頭の「庚寅」のX線写真(福岡市埋蔵文化財センター提供)

つまり、出土してから文字が取れてしまったのではなく、古墳にこの大刀が納められる前の段階で、その金色の線は既になかったことがわかります(※3)。この大刀が見つかった古墳自体は、石室や土器の形状から、7世紀初頭~前半頃につくられ、何度か埋葬されたとみられています。西暦570年を契機につくられ、銘文が記された大刀は、しばらくの間、地上で人の手によって伝世されてから、糸島半島の古墳のひとつに副葬品として埋葬されたようです。

 「日」も2回でてきますのでそちらも見比べてみてください。

3 このような検討は、埋蔵文化財センターの保存処理作業の過程でされていきました。出土からの作業の様子は動画にまとめられています。庚寅銘大刀の保存処理作業を記録した動画は、福岡市埋蔵文化財センターのホームページで公開されています。とてもわくわくする動画ですので、こちらもぜひご覧ください。


 以上、独断と偏見による、みどころポイントでした。足を止めてみていただけるきっかけになればと挙げてみたものですので、ぜひ実物をみに常設展示室へ足を運び、皆さんそれぞれのみどころを見つけていただければと思います。

(学芸課 佐藤)

重要文化財 庚寅銘大刀(福岡市埋蔵文化財センター所蔵)は、福岡市博物館の常設展示室で公開しています。「ふくおかの名宝」展の観覧券で、会期中(10/10~11/29)に限り、常設展示室(国宝 金印を展示中)と企画展示室(名鎗「日本号」を展示中)もご覧いただけます。