織田信長が黒田孝高の才能を認めた証し
オリジナルの銘は磨(す)り上げられてありませんが、刀身全体に飛焼きが散らばった皆焼(ひたつら)の刃文(はもん)から、本阿弥光徳(ほんあみこうとく)が作者を南北朝時代の京都の刀工・長谷部国重(はせべくにしげ)と鑑定し、「長谷部國重 本阿(花押)」と金象嵌銘を刻んでいます。また、差表(さしおもて)には同じく金象嵌で「黒田筑前守」と黒田長政の所持銘があります。
写真左から、金象嵌銘「長谷部國重 本阿(花押)」、差表の金象嵌銘「黒田筑前守」、 「圧切長谷部」の鋒(きっさき)、刀身全体 |
現在の姿は、反りの浅い打刀(うちがたな)となっていますが、身幅(みはば)が広く大鋒(おおきっさき)の姿から、元は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて流行した大太刀(おおだち)を短く磨り上げたことが明瞭です。表裏に茎尻(なかごじり)まで搔き通された樋が、茎尻で棟側の半分ほどの幅となり、磨り上げの際、棟(むね)側も削って反りを浅く変更したことが分かります。
圧切(へしきり)はかつて織田信長(おだのぶなが)が愛用した刀で、信長が黒田孝高(よしたか)(官兵衛(かんびょうえ)・如水)に授けたものです。所持銘によってか、『享保名物帳(きょうほうめいぶつちょう)』では伝来を信長→羽柴秀吉(はしばひでよし)→黒田長政としますが、黒田家に伝来した『享保名物帳』の写本(福岡市博物館蔵)では、名物帳記載の伝来を、本阿弥家の誤説であるとして否定しています。
『黒田家譜』によると、天正3年(1575)、信長が中国地方の大半を治める毛利輝元(もうりてるもと)に対抗して西に勢力を広げようとする頃、当時、小寺政職(こでらまさもと)に仕えていた孝高はいち早く信長に味方するよう献策しました。孝高は自らすすんで使者となり、岐阜城(ぎふじょう)に信長を訪ね、中国攻めの策を進言しました。この時、信長が褒美として与えたのが圧切です。それまで播磨の一豪族の家臣に過ぎなかった孝高が、信長に才能を見出され歴史の表舞台に登場する端緒となりました。孝高は中国攻めの大将となった秀吉を助け、本能寺の変で信長が倒れると秀吉を天下人へと導きます。
振り下ろさずともよく斬れる刀
刀は本来振り下ろして引き切りするものですが、圧切は押し当てただけで切れるという鋭い切れ味を表現した名称です。『黒田御家御重宝故実(くろだおんいえごじゅうほうこじつ)』や黒田家伝来の刀剣帳『御蔵御櫃現御品入組帳(おくらおひつげんおしないりくみちょう)』(福岡市博物館蔵)によると、ある時、信長が茶坊主を手討ちにする際、台所の膳棚(ぜんだな)の下にもぐりこまれ、刀を振り下ろせなかったため、棚の下に刀を差し込んで圧し付けたところ、手に覚(さと)らず切落したことによって命名されたとします。巷間でよく「棚ごと切った」という説明を見かけますが、これではただのよく斬れる刀になってしまい、「圧し切り」の意味をなしません。
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