2023年2月3日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈023〉ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「パオパオ・ロックとは」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

12(「百道地蔵に込められた祈り」)

第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)

第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)

第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)

第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)

第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)

第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)

第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)

第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)

第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)

第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)




〈023〉ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅


〝海図・羅針盤を持たず、空と風と波だけを頼りに太平洋を縦断して、5000キロ離れた福岡を目指す〟


ちょっとすぐには信じられないこの壮大な航海がおこなわれたのは、よかトピアの開催1年前のことでした。



よかトピアを主催したアジア太平洋博覧会協会で事務局長をつとめた草場隆さんの回顧によると、この企画はすでに、東急グループとパビリオンの出展について話し合うなかで生まれていたそうです。


企画は太平洋学会が立案・計画して具体化されました。その内容は、太平洋のミクロネシア連邦ヤップ州サタワル島から、グアム・サイパンを経て福岡に至る5000キロを、現地の伝統的なカヌーで旅するというもの。

しかも、羅針盤や海図を使わず、太陽・星・雲・波を頼りに人力で航海するという大冒険でした。


※ミクロネシア連邦ヤップ州サタワル島は、ヤップ本島の南東約100キロにある周囲6キロの島。公用語は英語。


この大冒険はユニードが協賛して、よかトピアの開幕1年前のプレイベントとしておこなわれることになりました。


※ 地図はこちらからも見られます。→ Googleマップ


1988年4月4日に出発したヤップカヌーの壮大な旅は、たびたび大きく報道されました(なかでも西日本新聞は出発前から現地で取材し、同行記事を掲載しています)。当時の新聞からこの航海をふり返ってみます。



旅のために用意された船は、ミクロネシアの伝統的カヌーで、長さと帆柱がそれぞれ8メートル。カヌー本体にアウトリガー(船体を安定させる浮き)を取り付けたものでした。一応オールを備えてはいるのですが、帆走がメーンです。

船名は「ティーピュー号」(サタワル語で「1つの心」の意味)。


乗員は全部で8人でした。

【船長】ルイス・ルッパンさん(63)、

【副船長】トーマス・ナムルグさん(37)

【帆・綱係】アルフォンソ・レイルグさん(37)

【帆係】イシドーレ・メタワラーさん(30)

【帆係】イエッシー・エモルマイさん(31)

【海水のくみ出し係】アンドリュウ・イゴマルさん(35)

【かじ取り】ジョセビョ・エラキュルグさん(24)

【食料係】ジョン・ラロゴさん(34)


船長のルッパンさん以外は若手のメンバー構成です。

実はルッパンさんは沖縄国際海洋博覧会(1975年)のときに、今回同様、ヤップカヌー「チェチェメニ号」でサタワル島~沖縄(3000キロ)の航海に成功した人物です。父親に教わった自然を頼りにした航海術はたくみで経験も豊富でしたが、今回は目的地が福岡で距離は5000キロ、航路も違うので未知の冒険でした。


なお、安全のために随伴船がカヌーを見守ることになりました。

この船は「第21千歳丸」(143トン・乗員6人)、船長は松川正之さん、随伴隊長は新貝勲さん(58)がつとめました(新貝さんの航海日誌の一部はのちに西日本新聞で公開されました)。新貝さんは福岡市在住で、かつてK2登山隊長をつとめた人物です。


※K2はパキスタンのカラコルム山脈の最高峰で、高さが世界第2位のの山(8611メートル)。1977年に新貝勲さんが隊長つとめた日本山岳協会の登山隊が、世界で2番目、日本人としてはじめて登頂に成功しました。



出発にあたって、船には食料になるバナナ・ヤシの実・ウミガメの肉などが積み込まれました(ウミガメは神の恵みとして、特別なときにしか食べないものなのだそうです)。乗員は島の民謡「死ぬまで一心」を歌って団結を誓い、乗員の母親や妻らは風習にしたがい航海の安全を願いました。

当時、乗員のほとんどは電気・ガスがない小さなヤシぶきの家に住んでいましたので、島の長老は、若い人たちが日本で経験し何かを感じて帰ってくることが、きっとミクロネシアのためになると語ったそうです。



こうして1988年4月4日、ティーピュー号はサタワル島を出発しました。


では、新貝さんの航海日誌をもとにした記事やそのほかの新聞記事からティーピュー号の旅を追いかけてみます。



4月6日

天気が良く、風速3~4メートルの風にのって航海は順調だったようです(平均速度は5ノットほどとのこと)。ただ、人力ですから、乗員は自分の仕事を少しもおろそかにすることはできず、睡眠も交代でうとうとする程度。みんなで歌を歌って、眠ってしまわないようにしていたのだとか。


4月7日

日本のコンテナ船と遭遇。


4月8日

無事にグアム島アプラ港に到着して、食料などを補給しています。


4月11日

サイパンに向け出港。


4月13日

サイパンを出発して以来、北東の向かい風と高い波にはばまれて(低気圧の接近によるものだったそうです)、カヌーは3日間、東西に行ったり来たりするだけで、グアムから離れることができなかったとのこと(前日には船首の一部も破損してしまいました)。乗員の疲労も限界だったため、ルッパン船長の判断でこの日グアムに引き返すことになりました。

そのうえで、コースをサイパンへ北上するのではなく、北西寄りにとり、沖ノ鳥島~南大東島~種子島方向へ向かうように変更しました。


4月18日

グアムを再出発。


4月22日

朝、沖ノ鳥島が見えます。やっと日本です。


4月23日

ところがこの日の夕方から雨が降り、シケてきたとのこと。波が大荒れになり、ティーピュー号が木の葉のように波間に漂ったと、新貝さんは日誌に記しています。随伴船さえも、乗員が船上で転ぶほどの揺れだったそうです。

そうしたなか、夜10時30分、随伴船内にベルが鳴り響き、カヌーから救助要請が届きました。帆係のメタワラーさんが波にさらわれ、船底に落ち、足をけがしたのです。

ただ、荒れる夜の海で、カヌーから随伴船にけが人を運んでくること自体が命がけです…。サーチライトで海を照らし、随伴船から若い船員がまずボートに乗り移ります。それから命綱を頼りに、カヌーに近付いていくのですが、このときの波は高さが7~8メートルもあったそうです。

無事にメタワラーさんを連れ戻った船員の姿に、山で危険を経験してきた新貝さんもほっと胸をなでおろし、その勇気に驚いたのだとか。

幸い、メタワラーさんのけがはひどいものではありませんでした。


4月25日

南大東島沖を通過。


4月26日

屋久島が見え、随伴船では船舶電話が通じるようになりました。種子島の東側を通り、九州の東沖合を北上していきます。


4月27日

日向灘を北上し、高知県宿毛市の片島港沖に着きました。ここでしばらく休息です。


4月30日

早朝に片島港を出発。


5月1日

最後の難関、関門海峡を通らなければなりません。午前10時30分、ちょうど潮の流れが西向きから東向きに変わる潮止まりのタイミングを見はからって、海峡に入っていきました。ただし、関門海峡は帆走できない決まりなので、帆をおろして、随伴船にえい航されての通過になりました。22キロの海峡を約2時間で通り抜けたそうです。その間、カヌーの乗員はみんな、関門橋の大きさに驚いて見上げていたのだとか。この日は玄界島に停泊して、翌日の上陸に備えました。


5月2日

玄界島沖を出発。博多湾内では、福岡県ヨット連盟のヨットや地元漁協の漁船、約70隻が出迎えて伴走しました。

能古島東側沖で検疫と入国手続きを済ませ、午前10時45分、できたばかりのシーサイドももちの人工海浜の地行浜側に無事上陸。

浜では祝福の花火にあわせて、福岡市消防音楽隊の演奏が到着を歓迎し、桑原市長とともに市民や幼稚園児(淡水幼稚園・けご幼稚園)、よかトピアのためにつくられたグループ「シェイク・ハンズ」ら約300人がカヌーの乗員を迎えました。

幼稚園児から花束を受け取ったルッパン船長は、乗員を1人ずつ紹介して、日本のみなさんに会いたいと思っていましたと、日本語であいさつ。ヤップ州知事の親書を市長に手渡しました。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
博多湾に着いたヤップカヌー


こうして長い旅を終えて、無事にヤップカヌーが福岡に到着しました。

もっとも、帆船ですので、風が吹かない日など随伴船に一時えい航されたり、途中コースを変更せざるを得ないこともあったりしましたが、何はともあれ全員無事に航海を終えることができました。



コースを変更したことで、良かったこともありました。

予定よりも1週間ほど早く到着したため、急きょ5月3日・4日に開かれる博多どんたくに参加できることになったのです。ティーピュー号もどんたくの中央広場(県庁跡地)に展示されることになりました。


ただ、残念ながら当日は雨に降られ(どんたくに雨はつきものですものね…)、3日のパレードは中止に。その代わりに乗員のみなさんははじめて乗る地下鉄や地下街を楽しみました。

4日はユニードダイエー福岡店(ショッパーズプラザ)で買い物。靴を買う姿が新聞に残っています。ちなみに船長はトローリング用の釣り道具を買うつもりだったそうですが、見つからずに残念そうだったのだとか(補聴器の電池を2個買われたそうです)。

この日は雨のなか、どんたくのパレードにも参加。博覧会協会のどんたく隊の先導車に乗って、翌年に開かれるよかトピアをアピールしました。


※この年からパレードが国体道路から明治通りに変わっています。



6日には福岡市動植物園も訪れています。よかトピアのTシャツ・法被姿で、豆汽車を楽しみ、アシカにエサをあげたり、サイに触ったり、ユーモラスなゴリラを熱心に見たり、ヘビを怖がったりと(サタワル島にはヘビがいないとのこと)、思い出に残る1日だったそうです。



福岡を楽しんだティーピュー号のみなさんでしたが、8日には福岡を離れ、新幹線で東京へ向かいました。

9日、首相官邸でミクロネシア連邦大統領の親書を小渕恵三官房長官に手渡し、10日には飛行機で帰国されています。



この旅にはいくつか後日談があります。


実はカヌーがサタワル島を出発する前日に、市内の淡水幼稚園の園児が書いてカプセルに入れたメッセージを、現地の子どもたちが海に流していました(今だと海洋環境の保全のためにダメかもしれないですね)。

そのうちの4個はヤップ州の島々で拾われて、これを企画したユニード本社に送り届けられたのでした。その後、メッセージを書いた園児のもとに届けられました。



また、このヤップカヌーの旅は写真速報展(カラーパネル45点を展示)が各地で開かれ、あらためてその航海のリアルな様子に人びとの関心が集まりました。

ユニードが協力したイベントでしたので、会場はダイエーやアピロスなどお買い物のときに気軽に見られる場所ばかり。おおいに博覧会開催をアピールする場になりました。


【写真速報展の会場】

天神ショッパーズ(4月30日~5月8日)

ダイエー原店・中間店・香椎店、ユニード二日市店、アピロス野間店・香椎店(5月2日~8日)

アピロス福重店、ダイエー下大利店(5月9日~15日)


なお、福岡市内の大島眼科病院の松井孝夫院長(当時)は、ヤップカヌーの計画にあわせて「福岡・ヤップ親善医療団」をつくり、1988年2月から2か月間、島民の無料健診をおこなっています。


ヤップカヌーをきっかけにして、よかトピアの開催前から、お互いをよく知り、いろいろなところで博覧会のテーマである「であい」が広がっていました。



ヤップカヌーが旅した当時、福岡・九州とアジア太平洋とをつなぐ「道」や「であい」をテーマにかかげて、よかトピアの準備が進められていました。

でも正直なところ、市民にとってはそれを知識として知ってはいても、ふだんの生活のなかでアジア太平洋とのつながりを直接感じる場面は少なかったはずです。


ところが、このカヌーに乗ってやってきたサタワル島の8人のクルーは、確実に福岡が太平洋の島々と海を通じて繋がっていることを実感させてくれました。

これはよかトピアのアジア太平洋というテーマに、おおいに説得力を持たせることになりました。

そしていよいよ、よかトピア開催に向けて福岡のまちが盛り上がっていくことになります。



この太平洋の5000キロの旅を終えたカヌーですが、よかトピアの会期中は、とうきゅうトロピカル・ビレッジで野外展示されていましたので、実際にご覧になった方も多いかもしれませんね。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)






【参考文献】

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・草場隆『よかトピアから始まったFUKUOKA』(海鳥社、2010年)

・新聞記事

『西日本新聞』1988年4月12日~16日「(連載)海はるかヤシの道―ヤップカヌー五千キロ―」(栗田耕司)

『西日本新聞』1988年5月12日・13日「ヤップカヌーの冒険―随伴隊長航海日誌から―」上・下

『西日本新聞』1988年5月16日夕刊「ヤップカヌー航海記」

『朝日新聞』1988年4月27日・30日夕刊、5月2日夕刊・5日

『西日本新聞』1988年4月10日・16日・27日・29日、5月2日・2日夕刊・3日・5日・8日・15日

『日本経済新聞』1988年5月2日夕刊

『フクニチ』1988年4月27日、5月1日・3日・4日・5日・7日・17日

『毎日新聞』1988年5月2日夕刊・5日・17日

『読売新聞』1988年4月16日・23日・27日、5月2日夕刊・17日・19日


#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #ミクロネシア #ヤップ #カヌー #ユニード


 

Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル]

2023年1月27日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈022〉福岡市のリゾート開発はじまりの地?

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「パオパオ・ロックとは」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

12(「百道地蔵に込められた祈り」)

第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)

第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)

第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)

第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)

第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)

第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)

第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)

第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)

第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)




〈022〉福岡市のリゾート開発はじまりの地?


先日、テレビ西日本さんからシーサイドももち地区(百道浜・地行浜)についての取材を受けました。


※内容についてはコチラをご覧ください。



百道浜や百道については、ほぼ書籍『シーサイドももち』に掲載した内容から紹介したのですが、地行浜や地行については紙幅の関係もあり、本にはあまり詳しくは掲載することができませんでした。


ところがこの地行の浜、とくに今川橋~伊崎にかけてのエリアは、実は百道よりも早い時期から福岡市のリゾート地として開発された場所だったのです!(ドヤァァァ)


海辺のリゾート地って本当にステキですよね(熱海ですが何か)。



地行~西公園・伊崎

明治時代、福博電気軌道(西鉄の前身の一つ、明治44年に博多電灯鉄道と合併し、翌年九州電灯鉄道に改称)は本業のほかにも、あらたに会社の定款を変更して不動産事業を開始しました。

まず最初に目をつけたのが地行西町周辺(現在の中央区地行2・3丁目あたり)。

福博電気軌道は、この周辺の土地を買収していくつかの住宅を建て、貸邸宅事業を始めたのです(明治43〈1910〉年頃~)。


これはかなり好評だったとみえて希望者が相次ぎ、地行西町には立派な庭付きのお屋敷が建ち並んでいたといいます。

また、松永安左衛門田中徳次郎など当時の九州電灯鉄道の経営陣のほか、九州帝国大学教授の荒川文六や大手銀行支店長などのお屋敷もこの周辺にあり、貸邸宅事業の成功とあわせてこの時期の地行一帯はいわゆる高級住宅地として認識されていたようです。


さらに福博電気軌道はこの貸邸宅事業の開始と同時に伊崎海岸に海水浴場を開設します(伊崎海水浴場、明治43年~)。

伊崎海水浴場は洋館休憩所のほか、休憩所2棟食堂1棟、さらに数軒の飲食店なども完備した、当時としてはかなり大がかりなものでした。


ちなみにこのとき設置された休憩所は、同じ年の3月に天神町(現在の中央区天神)で開催された「第13回九州沖縄八県連合共進会」で使われた建物(協賛会接待所)を移設したものです。


(福岡市史編集委員会所蔵)
こちらが伊崎海水浴場の様子。共進会から移設されたのは中央の建物。


(福岡市博物館所蔵)
こちらが九州沖縄八県連合共進会会場の写真。



左が伊崎、右が共進会……同じ建物!


(福岡市博物館所蔵)
共進会の会場はこんな感じ。おそらく矢印の建物がそれです。




伊崎周辺の明治時代の地図を見ると、海水浴場の範囲は実際にはそれほど広いものではなかったようです。すぐ隣には荒津山の崖が迫っています。

(1904年発行2万分の1地形図「福岡」〈「正式二万分一地形図修正[九州]所収〉)
赤で囲んだあたりが伊崎海水浴場。そんなには広くはない。


現在のよかトピア通りがおよその海岸線なので、伊崎海水浴場の場所はちょうど福浜団地入口交差点~中央市民プール前の信号あたりまでの道路沿いに当たります。


※ 地図はこちらからも見られます。→ Googleマップ



福博電気軌道は、伊崎海水浴場の近隣に潮湯(海水や塩水を湧かした風呂)や料亭を備えた旅館なども建設し、さらには西公園にも納涼場をつくるなどして、この一帯を「納涼銷暑の好適地」として大々的に宣伝しました。

この時期につくられた福博電車の名所案内を見ると、伊崎海水浴場にはたくさんの人が、そして周辺には旅館や温泉が描かれていて、その盛り上がりぶりがうかがえます。

(福岡県立図書館所蔵「福博電車沿線名所案内」〈明治43年〉より)
「今川バシ」(停留所)の海側一帯には「貸邸宅」の文字も確認できます。
というかこの絵は春なのか、夏なのか……(でもそこがいい)。



今川橋付近

大正3(1914)年、九州電灯鉄道(のちの東邦電力、通称は福博電車)は樋井川の東岸を埋め立て、そこに「今川橋納涼場」を開設しました。

大正12年に西新町が福岡市に編入されるまで、樋井川が福岡市域の境界線だったので、当時はここが福岡市の最西端です。

納涼場は当時の人々に大変の人気スポットで、夏の夜には多くの人が集まりました。

同社はこれに目をつけて、納涼場(今川橋停留所)までの電車の割引切符を販売するなど集客効果を狙ったのです。


(1904年発行2万分の1地形図「福岡」〈「正式二万分一地形図修正[九州]所収〉)
赤で囲んだあたりを埋め立てたようです。
昔の樋井川は水が陸地に入り込んでいたんですね。


(福岡県立図書館所蔵「福岡博多及郊外地図」〈『帝国都会地図』9〉、大正12年)
埋め立てた後はこんな感じ。すっかり陸地になっています。
赤丸のあたりに納涼場をつくったようです。

今川橋納涼場は今川橋停留所から樋井川東岸沿いの浜までのエリアにつくられ、川沿いには草花の市や売店、露店が並びました。

また、上の地図には描かれていませんが、樋井川の東側、現在の地行浜橋のたもとあたりには小規模な船だまりがあり(幅約36m×長さ約90m)、これを整備して子ども用の游泳場や釣り堀として利用しました。

舞台や相撲場を備えた納涼台は川に向かって突き出るようにつくられ(舞台は2つ作られた年もありました)、そこでは活動写真と博多にわかが上映されて人気を博したといいます。

ほかにも運動場やブランコなどの遊具や大噴水、さらには生け簀までもがつくられました。

当時の納涼場は新柳町などの歓楽街にあったこともあり、大人向けのものが主流でしたが、ここ今川橋では活動写真も子ども用のものを上映するなど、どうやらより子ども向けの納涼場だったようです。


とくに大正5(1916)年には大がかりな仕掛がつくられました。

少し長いですが、当時の雰囲気をお伝えするため、その様子を伝えた新聞記事をそのまま引用してみます。


(略)青竹のアーチに明るい電灯の揺らめきを見ながら入ると廿間(※約36m)に亘る桟橋が架つて居て下には見るからに冷い水が流れ時ならぬ雨がザアツと降つて来る。
桟橋を渡ると呼物の電気応用の深山幽谷、真蒼な森林に入ると雨降り風起り瀧は流れて川を描き又彼方の山の中腹には発電所が見えてお手のものゝ電車が其の麓を運転する
之れを抜けると伊太利式噴水の天女が捧げて居る花籠から真白な水が空に冲し更に又あの広い納涼場を更に浜の方へ歩いて行くと其処には高さ六十尺(※約18m)に余る電気灯籠が昼のやうな光りを投げてゐるし、水中に突出した十間に卅間(※約18m×54m)の納涼台には色々な設備がしてある。
余興として各組交代の博多仁和加西洋活劇の活動写真もある。
尚納涼会は午後七時からで今川橋行全線五銭とし同五時頃納涼会を報ずる楽隊電車が必ず市中を往復する。(略)

大正5年7月9日『九州日報』朝刊4面「今年の納涼会」より
※ 改行・( )内の注釈は筆者


明るい電灯に伊太利式噴水の天女……なんともにぎやかな様子ですね。

これは子どもたちだけでなく、大人にも喜ばれたことでしょう。



唐人町付近(抱ノ浜)

唐人町の浜側はかつて「抱ノ浜」と呼ばれていました。あまり知られてはいませんが、ここにも海水浴場が開設された時期がありました。


開場したのは、周辺の地行や百道から少し遅れた昭和12(1937)年。主催は九州日報社で、記事によれば設備も桟橋や飛び込み台、脱衣場などを備えていたといいます。

6月27日に行われた水神祭では、鳥飼八幡宮の山内宮司が斎主をつとめ、来賓も地元の総代や議員、玉屋の宣伝部長や伊崎浦の水難組合救助長などが参列したそうです。


……ところがこの翌年にはすでに『九州日報』紙面に抱ノ浜海水浴場の記事は見られなくなりました。

抱ノ浜海水浴場が一体いつまで存在したのか、規模はどのくらいだったのか、詳しいことはいまだ謎に包まれています。


昭和14年陸軍撮影空中写真/国土地理院)
黒門川と菰川に挟まれた部分、唐人町の浜側が抱ノ浜です。


* * * * * *


いかがだったでしょう?

大正~昭和にかけて百道が海水浴場として知名度を上げ盛り上がりを見せる以前、明治~大正時代初期には、樋井川から東、今川橋~伊崎にかけてのエリアがアーバンリゾート(言い過ぎ??)として開発されていたことがお分かりいただけたかと思います。

またこのエリアは明治時代に福博電気軌道(九州電灯鉄道)が最初に目をつけて一気に開発を行った場所だったわけで、福岡市における鉄道会社の土地開発の発端となった場所とも言えるかもしれませんね。




【参考文献】

上野雅生『現在の福岡市』九州叢書第1編(九州集報社、1916年)

・『九鐵二十六年史』(東邦電力株式会社、1923年)

・新聞記事

・明治43年7月17日『福岡日日新聞』朝刊5面「◎伊崎海水浴場開き」

・大正3年7月18日『福岡日日新聞』朝刊7面「福博電車の納涼場」

・大正5年7月9日『九州日報』朝刊4面「今年の納涼会」

・大正5年7月9日『福岡日日新聞』朝刊7面「福博電車納涼場開」

・大正6年7月20日『福岡日日新聞』朝刊7面「電灯に飾られた納涼場 福博に於ける三所三様の趣向」

・昭和12年6月28日『九州日報』朝刊3面「本社主催 抱ノ浜海水浴場 昨日盛大な水神祭」


#シーサイドももち #福博電車 #伊崎 #今川橋 #抱ノ浜ってどこ?


 

Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル]

2023年1月20日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈021〉博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「パオパオ・ロックとは」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

12(「百道地蔵に込められた祈り」)

第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)

第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)

第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)

第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)

第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)

第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)

第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)

第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)





〈021〉博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ


アジア太平洋博覧会(よかトピア)の特徴は、海を会場に取り込んだことでした。

それも、たんに博多湾を背景にしたのではなくて、日常的にイベントや交通路として使われていて、海が会場そのもの

埋め立てたばかりの場所、さらにはその埋め立ての目的の1つがかつての美しい海辺の景色を取り戻すことだった「シーサイドももち」だからこそできた博覧会でした。




そうした姿は開会式にも現れていました。

入場者を迎え入れる1989年3月17日の開幕に先立って、16日には2000人の招待客が出席し、開会式がおこなわれました。

式典の会場はリゾートシアターです(→ 〈001〉よかトピアに男闘呼組がやってきた!


10時10分、九州交響楽団が演奏する「サウス・パシフィック・メドレー」や、大画面「ジャンボトロン」に映し出される南洋の景色が開会への気分を盛り上げていきます。


10時30分、音楽にのせて、よかトピアに参加する37か国・2地域と国内パビリオン33館の代表者(計144人)がステージに登場。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡'89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)


10時38分、「ジャンボトロン」の映像がリアルタイムの博多湾に切り替わります。

そこには、たくさんの船の姿

ひときわ大きな船の上から、博覧会協会事務局長の草場隆さんが開会を宣言すると、花火があがります。

同時に福岡県ヨット連盟に所属するヨットからたくさんの風船が放たれ、博多湾に寄港していた船が一斉に祝福の汽笛を鳴らしました。

ビーチでは武田鉄矢さんがカヌーから砂浜に降り立ち、博覧会のテーマソング「海からのであい」を歌いながらリゾートシアターに向かって歩きはじめ、式典が始まりました(この模様はNHKで全国中継されました)。


よかトピアはまさに海の上から始まったのでした。


※「海からのであい」は武田鉄矢さんが作詞、山本康世さんが作曲したアジア太平洋博覧会のテーマソング。海や故郷への思いを武田鉄矢さんが歌ったこの曲は、開幕に先立って1988年8月にレコードとカセットテープで全国販売されました。




海を会場にしたよかトピアでは、水上オートバイ・セイルボード・ヨットなどのデモンストレーション、クルーザーやホバークラフトの試乗会、カヌーレース・ボート教室などが毎日のように開かれて、マリンレジャーを体験できました。


マリゾンでは、ヤマハ発動機とタイアップして特別につくった「マリンカプセル」に乗って、海の散歩も楽しめました。

「マリンカプセル」は免許なしで運転できるバッテリーボート。

大きさは長さ約3メートル・幅約1.5メートルほどで、最高時速は6キロでした。

2人乗りで、なんとオーディオまでついているおしゃれ仕様です(ちなみに料金は500円)。


同じくビーチでは足こぎの「ペダルボート」が家族客に人気でした。

カナダ製の3人乗りで、料金は600円(30分)でした。


ヤマハマリンワールドのクルーザー
セイルボード
マリンカプセル
ペダルボート

(写真4点は、西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡'89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)


よかトピアの会場までは、地下鉄・バス・自家用車などいろいろな交通手段がありましたが、船で行くこともできました


会場のビーチの東端(樋井川の河口左岸)には渡船場があって、海上シャトル便「オーシャンライナー」が発着していました。

「オーシャンライナー」は安田産業汽船が運行する、定員97名・最高速力33ノット(航海速力18ノット)の高速旅客船です。

水族館「マリンワールド」や海浜公園がある海の中道とよかトピア会場を、時速35キロ・片道15分で結びました。


(市史編さん室作成)


30分おきに、平日は9時30から17時まで(12時台は運行なし)、土日祝・夏休みは9時から18時まで(12時30分のみ運行なし)、ももち・海の中道の両方から出発していました。

当時の料金は、片道だと大人600円(小学生300円)、往復だと大人1000円(小学生500円)です。


今はアイランドシティができて、都市高速もそこまで延び、海の中道へ車でスムーズに行くことができるようになりましたが、当時は東区和白や雁ノ巣あたりで大渋滞にあうことも多く、百道からだと片道1時間半以上を覚悟して行き来していました。

公共交通機関では、バス・地下鉄・JRを使って乗り換えが必要でした。

それが「オーシャンライナー」だと15分で直接移動できて、水族館・海浜公園と博覧会の両方を楽しめるという、海を会場にしたよかトピアならではの交通手段になっていました。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡'89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
オーシャンライナー



実はこのシーサイドももちと海の中道を結ぶ航路は、安田産業汽船が運航する「うみなかライン」として今も続いています。

博覧会当時には乗ることができなかったのですが、フリーペーパー「市史だよりFukuoka」22号(2016年)でシーサイドももちを特集したときに乗ったことがあります。

※「市史だよりFukuoka」についてはコチラをご覧ください。


今は福岡タワーのそばにあるマリゾンが発着所になっています。


おおよそ平日はマリゾン・海の中道それぞれから4便ずつ、土日は8便ずつ、片道20分で運航されています(片道大人1100円・小人550円)。


※時刻表は安田産業汽船のサイトをご覧ください。



マリゾンを出発。

どんどんシーサイドももちが小さくなっていきます。

船のゆれはほとんど気になりません。


左手は能古島・糸島方面。

右手にはアイランドシティや立花山が見えて、海から福岡の景色をぐるりと見渡すことができます。

博多湾の景色を見ていたら、あっという間の20分。

海の中道に到着です。

渡船場の目の前がマリンワールドザ・ルイガンズ. スパ&リゾートでした。



帰りはこのコースを戻るのですが、博覧会当時だと、できたばかりの福岡タワーよかトピアのパビリオン・観覧車などがだんだんと近づいてくるはずですから、わくわく感が高まっていくのが想像できます。




さて、この海を存分に活かしたよかトピアですが、その範囲は博多湾を越えて、太平洋にまで及びました。

この壮大な旅についてはまた今度に。




【参考文献】

・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・『オーシャンライナー アジア太平洋博覧会・海の中道海浜公園 高速旅客船海上シャトル便のご案内』(安田産業汽船株式会社)


※ クレジットのない写真はすべて市史編さん室撮影。



#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #オーシャンライナー #うみなかライン #海の中道 #武田鉄矢


 

Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル]

2023年1月13日金曜日

【別冊シーサイドももち/増刊号】はじめてのテレビ取材!

先日、書籍『シーサイドももち』がきっかけとなり、福岡市史としてははじめてテレビ西日本さんの取材を受ける機会がありました。


最初にご連絡いただいたのは令和4年11月の初旬。

『シーサイドももち』を手に取ってくださったディレクターさんが、同局で平日の夕方に放送中の報道番組「報道ワイド 記者のチカラ」内で放送されている「マイニチ出口調査」というコーナーで、シーサイドももちエリアを取り上げたい!とのことでの取材依頼でした。


「記者のチカラ」についてはコチラ↓


この「マイニチ出口調査」とは月・水・金の16時台に放送されていて、福岡のとある地区に焦点を当て、その歴史から現在の気になるお店やスポットなどなど、そのまちについて徹底調査するという、出口麻綾アナウンサーによるコーナーです。



…このスタンス、当編さん室で作っている広報誌「市史だよりFukuoka」の特集コーナーと通ずるところが…。

そんな(勝手な)ご縁もあり、とても楽しく参加させていただきました!




…といった余裕はほぼなく、当日は軽くテンパりながら大汗をかいた取材となりました。


※ 広報誌「市史だよりFukuoka」についてはコチラをご覧ください。

こんな感じで作ってます。

「シーサイドももち」も始まりはココから(2016年)。


とはいえ、出口アナの華麗なアシストとスタッフの皆さんのリアクションの良さに気をよくして、シーサイドももちの埋め立て前の姿として百道海水浴場のお話から埋め立てた後に行われた「よかトピア」について、さらには今でも残っている「よかトピア遺産」など、「これでもか!」と盛り盛りでお話ししてしまいました(そしてまた汗をかく)。







中でも興味を持ってくださったのは、なんといっても太平くんと洋子ちゃん(頭部)!

(福岡市博物館所蔵)
どどーーん!
(手前は博多人形になった太平くんと洋子ちゃん)


そして福岡タワーの近くにひっそり?たたずむインドの神様の像たち

福岡タワーに向かって左(RKB側)。

福岡タワーに向かって右(TNC側)。

「私たちについてはいずれまた語ることにしよう」
(by ガネーシャ)


そしてそして、かつて百道海水浴場にあった巨大すぎて引く遊具たちでした。

左から巨大すべり台、巨大遊動円木、巨大ブランコ。


すべり台はよく見たらmajiでkegaする5秒前だった。

こちらは、以前このブログでも詳しく紹介しました。



こちらの様子は11月25日(金)の回で放送されました。





さらに先日、今度はお隣の地行浜を調べたいとのことで、ふたたび取材に。

地行浜といえば、PayPayドームシーホーク、それに九州医療センターなどがある地域。

さらに今年はなんといってもドーム開業30周年にも当たります。


30周年、おめでとうございまーす!(4月2日)



ところが地行浜は、書籍『シーサイドももち』ではあまり深く紹介できなかったエリア…。

というわけで、ここぞとばかりにふたたび張り切り、埋め立てる前のまちの様子や、ドームができた事によるさまざまな影響についてなど、今回も汗をかきつつお話しさせていただきました(楽しかったです)。



こちらの様子は1月11日(水)の回で放送されました。
(取材当日は慌てすぎて写真を撮り忘れました)

(ptoto by 写真AC)
反省。




書籍『シーサイドももち』をきっかけに、いろいろな角度からシーサイドももちエリアに興味を持っていただけたようで、本当に嬉しい限りです。




テレビ西日本の皆さま、本当にどうもありがとうございました!



#シーサイドももち #テレビ西日本 #記者のチカラ #ドーム開業30周年 #今川橋納涼場 #世界のスターも知ってる地行浜


※クレジットのない写真はすべて市史編さん室撮影。巨大遊具の画像は福岡市史編集委員会所蔵絵葉書『(福日社主催)百道海水浴場 Momoji seabath』(大正時代)。


Written by かみね

2023年1月6日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈020〉よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


今年もよろしくお願いします!



1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「パオパオ・ロックとは」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

12(「百道地蔵に込められた祈り」)

第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)

第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)

第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)

第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)

第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)

第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)

第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)




〈020〉よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8版(ゴリラ)」現る


さまざまなイベントでにぎわったよかトピアですが、会期中にテレビドラマの撮影もおこなわれました。



そのドラマは、石原プロモーション制作の『ゴリラ・警視庁捜査第8班』。

1989年4月から1990年4月にかけて、テレビ朝日系列で毎週日曜20時に放送されていました。


よかトピアが舞台になったのは、第10回「博多大追撃」の回(6月18日放送)です。

監督は鈴木一平さん、脚本は宮下隼一さんでした。



警視庁捜査第8班(通称ゴリラ)は、凶悪犯罪を捜査するために、秘密裏に活動する警視庁の組織。

刑事部長の指示によって、班長の倉本(渡哲也さん)のもと、伊達(舘ひろしさん)・風間(神田正輝さん)・谷川(谷川竜さん)らが捜査にあたりました。



さて、なぜそのゴリラがよかトピアに現れたかというと、伊達の所轄時代の後輩、神奈川県警の中田(仲村トオルさん)が護送中の強盗犯、唐沢を取り逃がしたことに始まります。

20億の宝石を盗んだ唐沢は、盗品を東南アジアに売りさばくブラックマーケットのボスと仲間割れをおこしていました。


福岡に現れた唐沢とその仲間。

ゴリラもそれを追って福岡へ向かいます。


飛行機でいち早く福岡に着いた伊達は、福岡県警と合流して、盗品の宝石が持ち込まれた大濠ウェディングホールに行くのですが、そこで中田と鉢合わせます。

中田も唐沢を追って福岡に来ていたのでした。


ところがここで伊達と中田は花嫁の誘拐事件に遭遇します。

誘拐した犯人は唐沢の仲間。

この花嫁は花婿とともに大濠ウェディングホールで働く従業員、花嫁の兄は福岡駐屯地に勤務する防衛隊員でした。


捜査車両とともにカーフェリーでやってきた倉本らもここで合流し、捜査が本格化します。

ただ、一度は唐沢らを追い詰めるのですが、銃撃戦のすえに逃げられてしまいました。


その後、唐沢は身代金として花婿に1億円の宝石を要求します。

大濠ウェディングホールのジュエリーコーナーにそれだけの宝石があることを見越した要求でした。

さらにその受け渡しには、わざわざ中田を指名してきました。


取り引きの場所と時間は、よかトピアのFMスタジオ前に14時。


ここで風間が博覧会について「アジア太平洋博覧会、通称よかトピア。名前の通り、アジア太平洋の国々とそのほかの国際機関が参加しての、西日本初の国際級の博覧会だそうです」と説明します。

伊達は「1日平均3万から4万の人が入っている。やつらはおそらくそれに目をつけたのだろうな」と推測するのでした。



こうして、いよいよドラマの舞台はよかトピア会場に移ります。


会場全体の空撮映像が入り、会場内の様子が写し出されます。

ここで、山笠の飾り山オアシス(休憩所)、パンドール(→ 〈013〉よかトピアのパンドールはアジアへの入り口大丸Ms.パビリオン観覧車に加えて、このブログで紹介したロバート・ネルソンさんのパフォーマンスも見ることができます(→〈011〉よかトピアのストリートパフォーマーたち


山笠の飾り山


大丸 Ms.パビリオン


さて、ドラマに戻ると、宝石を入れたアタッシュケースを手に、中田がよかトピアFMの前に到着します。

伊達は21世紀への飛翔館の前でモニュメントに身を隠し、風間・谷川もFM局の南側で中田を見守ります。

倉本はパンドールの前で捜査用に改造された三菱パジェロに乗り込み、車に備え付けたスコープで中田の姿を追っていました。



(市史編さん室作成)


よかトピアエフエム


21世紀への飛翔館


中田の時計が約束の14時を示すと、よかトピアFMのスタッフが中田にポケットラジオを渡します。

ラジオのスイッチを入れる中田。

※ちなみに中田の時計は今も中古市場で人気のセイコーのワールドタイム。デイト表示は放送日に合わせたのでしょうか、18日になっています。


平日14時と言えば、「NAGISA MUSIC PAVILION」の放送時間です(→〈007〉開局! よかトピアFM(その2)

パーソナリティーの田中ゆきさんが「赤いハンカチ」をリクエストするメッセージを読み上げます。


そのメッセージは「花嫁はマリンアドベンチャー館で待つ」。



マリンアドベンチャー館とは、MITSUI・TOSHIBA館のことです。

8×22メートルのモニター(64面マルチシステムとモニター230台で構成)で、スペースレスキュー隊員ゴクーの時空超えた冒険旅行「マリンアドベンチャー・不思議 海中大冒険」を放映していたパビリオンです。

観客はみんなで客席のシューティング・ガンを使って隕石や宇宙船を狙い、総合得点が100点になると、ストーリーが進行する仕掛けでした。


MITSUI・TOSHIBA館


MITSUI・TOSHIBA館の巨大モニター


MITSUI・TOSHIBA館に向かう中田、それにつづく伊達・風間・谷川でしたが、伊達はふと福岡タワーを見上げ、何かを思いついた様子。

伊達はタワーのエレベーターに乗り、外のデッキに出てそこからライフルを構えます。


中田はきちんと入館待ちの列に並んで、MITSUI・TOSHIBA館に入ります

入館待ちの列には子どもを連れた家族連れが多く見えますので、ゴクーの冒険が子どもたちに人気だったことが分かります。

館内のシーンでは、ほんのわずかなのですが、今ではもう見られない「マリンアドベンチャー」の映像が写っていて貴重です。


さて、この暗い館内で犯人は中田を蹴り飛ばし、宝石入りのカバンを奪って走り去ります。

追う中田・風間・谷川。



中田から報告を受けた倉本は、車上からスコープを使って犯人の姿を捕らえ、タワーの上からは伊達が双眼鏡で犯人の行方を追い、犯人がタワーの前を通過し、海へ向かったことを伝えます。


犯人は会場を走り抜け、リゾートシアター(→〈001〉よかトピアに男闘呼組がやってきた!の東側からビーチに降りて逃げます。

その先には無造作に置かれたモーターボートが見えますので、それに向かっているようです。


タワーやマリゾンを中心に
東西にのびるビーチ


中田・風間・谷川がビーチの段差を飛び降りて、マリゾン側から犯人に向けて銃をかまえます。

倉本も車でビーチに向かいます。

※ビーチの波打ち際と陸側では大きな段差があって、現在のようになだらかではないようです。


ビーチで遊んでいた家族を人質にとる犯人でしたが、背後から倉本のライフルで腕を撃たれ、必死でボートへ向かいます。

しかし、そのボートには爆弾がしかけられていたのでした。


爆風で飛ばされた犯人。

このよかトピアでの一件は、ゴリラを誘い出して爆破する陽動作戦だったのです。


ここで仲間に裏切られた犯人の最後の言葉から、唐沢の狙いが花嫁を人質に防衛隊員の兄から武器を手に入れ、宝石のブラックマーケットのボスに復讐することが見えてくるのでした。



この後も、今は閉店してしまったオートバックス大橋店や、カーチェイスが繰り広げられる箱崎埠頭荒津大橋など、福岡市内の景色がたくさんでてきますので、ぜひドラマでお楽しみください。


ストーリーやアクションはもちろん、大人気だった『西部警察』とのつながり、『あぶない刑事』へのオマージュなど、さまざまなしかけも楽しめるドラマです(「博多大追撃」でも館さん・仲村さんと浅野温子さんとの共演(?)がありました)。



このドラマがすごいのは、撮影はよかトピアを営業しながらおこなわれたことです。

撮影日は4月17日(月)、時間は7:00~19:00で撮り終えています。

この日の入場者は3万8000人。


これだけの人のなかで滞りなく撮影できるのは、映画でノウハウを身につけている石原プロだからこそでしょう。

たとえば、石原プロの代表作『西部警察』のうち、PART-Ⅲの第18回「パニック・博多どんたく」では、実際にどんたくをやっている町なかで撮影をおこなっています。

普通はセットを組んだり、エキストラに演じてもらうのでしょうが、演舞台やパレードも全部本物なのです…。

その分、今回のよかトピアのように当時の景色を楽しめたり、資料に使えたりするのですけど、現場のご苦労が想像できます。


実は、よかトピアで撮影した「博多大追撃」の脚本を書いた宮下さんは、『西部警察』の脚本家でもあります。

福岡ロケの第19回「決戦! 燃えろ玄界灘」も宮下さんの作品です(当時は宮下潤一と表記)。

この「決戦!燃えろ玄界灘」は福岡市の漁協の全面協力によって、博多湾で大漁旗をかかげた100隻の漁船が犯人の船を取り囲み、最後は海上で犯人の船を爆破した、『西部警察』のなかでも伝説の回です。


そういえば、このときの犯人も密輸組織でした。

福岡でのロケが決まってから脚本を書かれるのでしょうけど、よかトピアが掲げていた「であい」や「海の道」という福岡の特徴を、刑事ドラマ流に表現するとこうした形になるのでしょうね。


このよかトピアで犯人を追った神田正輝さん、実はこのあと別の作品でふたたびシーサイドももちを訪れています。

その話はまた今度に。





【参考文献】

・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・『西部警察 SUPER LOCATION 5 鹿児島・福岡編』(石原プロモーション著、青志社、2017年)


※ クレジットのない写真はすべて『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)より



#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #ゴリラ #石原プロ #渡哲也 #舘ひろし #神田正輝 #仲村トオル


 

Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル]