2023年2月10日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈024〉戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。




〈024〉戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係


福岡市博物館では、現在「水とくらし」という展示を行っています(企画展示室4、~3月26日)。

今年2023年は福岡市の上水道事業開始からちょうど100年の節目にあたり、この展示ではそれを記念して、古代から近代の福岡市域の人びとによる水と水源確保の歴史を振り返り、福岡市がすすめる「節水型都市づくり」についても紹介しています。


※ 展示についてはコチラをご覧ください。



福岡市の上水道は、大正12(1923)年に平尾浄水場曲渕ダムが完成し給水をはじめたことから始まりますが、この事業の計画段階では12万人分の水源を確保することを念頭に進められていました。

しかし、給水が始まった大正12年の時点で人口はすでに14万人超。それから以後も福岡市の人口は、市域の拡張もあってどんどん増加していきます。



1922年と1942年の市域を比べると、20年で6倍以上!
1942年の濃い部分が1922年時点の市域です。
(ちなみに現在は334.78㎢です)



福岡市域の50年間の人口推移(国勢調査データから作成)。

※ いずれも市史編さん室作成
(『新修福岡市史ブックレット・シリーズ①わたしたちの福岡市―歴史とくらし―』〈2021年〉に掲載)



戦後になると、戦争で一時的に減少していた人口が再び増加。さらに戦災で破損した水道管からの大規模な漏水井戸水の枯渇などもあり、水道の再整備はより急務となります。

それまで福岡市の水源は、水道事業がはじまって以来ずっと平尾浄水場と曲渕ダムに頼ってきましたが、それだけではこの状況にとても対応できるものではなく、昭和20年代以降、那珂川や多々良川、室見川水系からも取水を開始しました。


しかし、水源が確保できても周縁部にいくほど水道管は枝分かれして細くなっていったため、大規模な断水はなくとも何かあれば局地的に水が止まるといった事態は、割とあちこちで起こっていたようです。



昭和29(1954)年8月の新聞には、「夏になると断水する百道付近」という投書が掲載されています。これは百道に住む会社員からの投書で、その内容は次のようなものでした。


(略)毎年夏になると海水浴場が水を使用するためか、一般家庭では食事時はもちろん朝七時ごろから夜十時ごろまで断水し困っております。海水浴場の水の使用は市民の健康上、娯楽上、文化設備の一環として私どもも大いに賛成するものでありますが、一般家庭の生活を犠牲にしても良いという訳にはいきません(略)当局の善処と回答を望みます。

(昭和29年8月18日『西日本新聞』朝刊8面「【市民の声】夏になると断水する百道付近」より)


これに対して市当局は、数日後の新聞紙面にこのような回答を寄せています。


「(略)水道局としましても少しでも良くなるようにと昨年いらい数ヶ所鉄管の敷設替えをしました。目下、室見水源地から別府橋間に大口径の鉄管を敷設しておりますが、これが完成すれば西新町一帯も水圧が強くなります(略)何とぞ今暫くのご辛抱のほどお願いいたします

(昭和29年8月24日『西日本新聞』朝刊8面「【市民の声】断水する百道付近の水道などに回答」より)



……お互いに切実な訴えであることが伝わってくる投稿ですね。


(福岡市水道局所蔵)
昭和30年に製作された上水道配管図(部分)。赤で描かれた線が配水管です。
図には描かれていませんが配水管からさらに給水管が分岐して水を届けます。


(福岡市水道局所蔵)
こちらが上図の凡例。図を拡大してみると、管のサイズが分かります(吋→インチ)。
西新~百道付近は10インチ(25.4㎝)~3インチ(7.62㎝)の鉄管が使われているようです。


昭和29年の夏は、水道事業の第6回拡張工事がはじまる直前で、この工事は室見水源の拡張が主な目的でした(認可・着工が昭和29年12月、完工が昭和31年5月)。またその前の第5回拡張工事も昭和26年から開始しており(完工は昭和31年3月)、こちらは主に東部ですが水道管の追加布設を行っているので、新聞記事にある水道局の回答は、この2つの事業のことを指しているようです。


一方、同じ頃の百道海水浴場といえば、まさに戦後の全盛期。〝海の銀座〟と称して大々的に宣伝し、昼夜問わずたくさんのイベントが連日行われており、市内はもちろん、市外からも多くの人が百道を訪れていた時期です。

さらにこの年は梅雨が長引き7月いっぱいは雨が多く、8月になってから一気に人が海に押しかけたという事情もありました。8月はじめには百道に約5万人が訪れたという報道もあります(昭和29年8月2日『西日本新聞』朝刊6面「砂浜は人とパラソルの花模様 ざっと30万の人の波 本社主催各海水浴場 盛沢山の催しに賑わう」)

とくに百道海水浴場は海の家旅館などの設備が充実していたので、それだけの人が押しかけてシャワーや風呂などを一気に使えば、周辺の家々に影響が出るのも当然です。



現在の福岡市の水道設備では、もちろんこんなことは起こりませんが、戦後の楽しい海水浴の影には、めぐりめぐってこうした影響もあったという、ちょっと変わった事例をご紹介しました。


(福岡市水道局)


【参考文献】

・「福岡市水道創設100周年記念 水とくらし」福岡市博物館企画展示解説589(福岡市博物館、2023年)

・『福岡市水道五十年史』(福岡市水道局、1976年)

・『福岡市水道七十年史』(福岡市水道局、1994年)

・福岡市ホームページ/市のプロフィール/市の変遷 

 https://www.city.fukuoka.lg.jp/shisei/profile/index.html

・新聞記事

昭和29年8月18日『西日本新聞』朝刊8面「【市民の声】夏になると断水する百道付近」

昭和29年8月24日『西日本新聞』朝刊8面「【市民の声】断水する百道付近の水道などに回答」

昭和29年8月2日『西日本新聞』朝刊6面「砂浜は人とパラソルの花模様 ざっと30万の人の波 本社主催各海水浴場 盛沢山の催しに賑わう」



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Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル

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