埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラ。
第1回(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
第2回(「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。
〈010〉元寇防塁と幻の護国神社
福岡市の代表的な史跡の一つに、「元寇防塁」があります。
元寇防塁とは、鎌倉時代の文永11(1274)年の元の襲来を踏まえて防衛設備としてつくられた石築地(いしついじ)のことです。
ゲーム「Ghost of Tsushima」の影響もあってか、最近とくに話題の史跡です(こちらはその名のとおり対馬ですが……)。
※「Ghost of Tsushima」についてはコチラをどうぞ。
福岡市域の元寇防塁は、現在確認されているだけでも今津(西区)から箱崎(東区)にかけて、福岡市沿岸部の広い地域でその遺構が知られています。
約20㎞にわたりつくられた高さ2m以上の石の壁は、海から見ると相当な威圧感があったことでしょう。
これは生の松原の元寇防塁。 |
大正2(1913)年に今津で初めて元寇防塁の遺構が発見されると、そのドラマチックな物語とあいまって「元寇防塁」への関心が高まり、ゆかりのある各地では慰霊祭なども開かれるほどの盛り上がりを見せます。
西新町でも大正8年に西南学院構内で元寇防塁の遺構が見つかり、翌9年にはまた別の百道松原でも遺構が見つかりました。
大正9年の発掘は、教育勅語発布30周年を記念して西新小学校の児童らによって発掘作業が行われて遺構が見つかり、ニュースになりました。
こうして西新・百道地区も、「元寇を記念する場所」の一つとして名前が知られ、ますます元寇防塁熱は高まっていきました。
(『西新ー福岡市立西新小学校創立百周年記念誌』 〈福岡市立西新小学校創立百周年記念会、1973年〉より) 大正9年の発掘の様子。頑張って掘ってます! |
そんな中、大正15年に「百道松原に元寇の殉難者を祀る大神社を建てよう!」という話が持ち上がったことは、あまり知られていません。
この事が大々的に報じられたのは、大正15年のことです。
当時の新聞には、
「元寇の殉難者を祀る 護国神社 百道に建設」(福岡日日新聞』大正15年7月8日朝刊7面)
という見出しが踊り、すでに福岡市の関係者が現地を視察し、さらには松原国有地3万坪の無償貸与まで折り込み済みだと報じられています。
※ ちなみにここで言われている「護国神社」は、今の護国神社とは何の関係もない「護国神社」ですので、あしからず……。
この写真は、戦前に発行された西新町の元寇防塁を写した絵葉書ですが、よく見るとそこにはしっかりと「護国神社建設豫定地」という標柱が写り込んでいます。
(福岡市博物館市史編さん室所蔵) 絵葉書をよく見ると……。 |
書いてあるーーー!!! |
さらにほかの新聞報道から一部を抜粋すると、
「先づ県社として百道に創建される護国神社の規模 境内地は六千坪でこと足り 別格官幣社引直は容易」(大正15年7月11日『福岡日日新聞』朝刊7面)
「護国神社祭神 福岡県当局談」(大正15年7月17日『福岡日日新聞』朝刊7面)
「百道松原に建設の護国神社 東邦の敷地寄附も纏り近く願書提出の運び」(昭和4年6月9日『福岡日日新聞』朝刊7面)
「福岡で今秋十月 元寇弘安役記念祭 城外練兵場で廿日大々的に執行 護国神社創設促進」(昭和6年8月6日『福岡日日新聞』朝刊4面)
といった記事が次々と見られます。
かなり本気で神社建設を推進しようとしていたようです。
この場所は、大正9年に西新小学校の児童たちが発掘した場所で、現在の西南学院大学の裏辺り。
現在は「元寇防塁跡」として整備され、いつでも見学することができます。
周辺も現在では住宅街となっていますが、当時はまだ一帯には多くの松が繁り、現在よりもより静謐な雰囲気の場所だったのでしょう。
この神社建設計画はその後、昭和になってからもしばらくは話題になったようですが、そのうち立ち消えとなり、結局百道に大規模な神社が建設されることはありませんでした。
【交通案内】
どのような理由から立ち消えになったのでしょう。オチがないので気になって眠れません。
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