2023年8月11日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈049〉福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった ―よかトピアの松下館(2)―

          

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラからご覧ください。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回(「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回(「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)
第36回(「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」)
第37回(「開局!よかトピアFM(その8)『今日もリスナーさんからおたよりが届いています』」)
第38回(「西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~」)
第39回(「「地球をころがせ」を踊ってみた ―「よかトピア」オリジナル音頭―」)
第40回(「映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~」)
第41回(「よかトピアでアジア旅 ― 三和みどり・エスニックワールドのスタンプラリー ―」)
第42回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画①〕スリルを楽しむ~百道の飛込台とハイダイビング~」)
第43回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画②〕大海を泳ごう~かつての遠泳、いまはオープンウォータースイミング~」)
第44回(「百道海水浴場はどこにある?」
第45回(「2100年のパナコロニーからPAF522便に乗船したら、こうなった―よかトピアの松下館(1)―」
第46回(「百道テント村100年 大解剖スペシャル!」)
第47回(「トラジャのアランとコーヒーと ―よかトピアのウェルカムゲートはまるで宙に浮かんだ船―」)
第48回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画③〕世界水泳観戦記録 in シーサイドももち」)






〈049〉福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった―よかトピアの松下館(2)―


どこの博覧会でも人気なのは企業グループの大きなパビリオン。

特に家電メーカーのパビリオンは、生活に密着している技術と品々であるだけに、新しい暮らしを身近に感じさせてくれて、たくさんの観客を集めるスター的な存在でした。


〈045〉で紹介したアジア太平洋博覧会(よかトピア)の「松下館」もそうした1つ。

この「松下館」は松下電器産業を中心に、九州松下電器など全部で15社からなる松下グループが出展したパビリオンでした(松下電器は現在のパナソニック)。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
よかトピアの松下館


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博覧会で多くの人が楽しみしていたのは、未来を予感させる最新技術。なかでも、高度経済成長の頃から高い技術と新しいアイデアで日本の産業を牽引してきた電機メーカーのパビリオンには...

http://fcmuseum.blogspot.com/2023/07/0452100paf5221.html


松下グループのパビリオンといえば、1970年の大阪万博では、奈良時代のような建物が池に浮かぶおごそかな概観や、5000年後の人々に残した「タイム・カプセルEXPO'70」が話題になりました。

その後、どの博覧会に出展しても注目される存在になっています。


1970年の大阪万博の松下館についてはこちらに説明があります。

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1970年に開催された日本万国博覧会、当時の先端技術を駆使して建てられたパビリオンが林立する未来都市空間。さまざまな樹木や草花を植え、太陽の塔を中心に、自然の森、そして新たな緑の公園として再生しました。

https://www.expo70-park.jp/cause/expo/matsushita/


タイムカプセルはこのサイトがさらに詳しいです。中身のリストがすごい…。

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このページは、日本万国博覧会(EXPO'70)の松下館で実施されたタイム・カプセルプロジェクトの収納品等のうちタイム・カプセルEXPO'70トップを紹介しています。

https://panasonic.co.jp/history/timecapsule/


定期点検用のカプセルは2000年に一度開封されました。次の点検は2100年とのこと(私はもう点検すら見られないことが確定です…)。

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タイムカプセルを30年ぶりに開封/1970年の大阪万博を記念して製作された「タイム・カプセル EXPO'70」が、2000年3月、30年ぶりに開封された...

https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/chronicle/2000.html




ただ、よかトピア(1989年)の頃はプラザ合意(1985年)から続く円高…。

自動車や電機メーカーなど輸出企業は厳しい時期でした。

よくバブル景気のときだから当時の博覧会は華々しかったと言われたりもしますが、業種によっては、必ずしもそうとは限らなかったようです。


しかもよかトピアが開催された1989年は博覧会ラッシュ


これは1989年に市制100周年を迎える都市が多かったことが関係していました(100周年が各市で重なっているのは、1888(明治21)年に制定された市制によって、翌1889年に40近くの都市がいっせいに市になったからでした。これは仕方ない…)。


1989年に博覧会を開いたのは、たとえば横浜・堺・姫路・広島・名古屋・鹿児島・静岡・甲府などなど。


どの博覧会も集客を期待できる人気企業にパビリオンを出してほしいのですが、企業側はとても全部に応じる余裕はありませんでした。

出展するにしても、博覧会の規模によって予算に差をつけることは避けられません…。




当時のアジア太平洋博覧会協会の事務局長草場隆さん、アジア太平洋ゾーンを手がけた貞刈厚仁さんのそれぞれの回顧によれば、よかトピアでも特に大企業へ出展をお願いするには大変な苦労があったようです。


特に福岡市よりもはるかに規模が大きく、開催期間も重なっている横浜市名古屋市がよかトピアの前には立ちはだかっていました。



たとえば、松下館は名古屋市の「世界デザイン博覧会」にも出展しています。

「世界デザイン博覧会」は「ひと・夢・デザイン―都市が奏でるシンフォニー―」をテーマに、1989年7月15日から11月26日まで開催されました。


「世界デザイン博覧会」の公式記録からごく簡単にまとめると、名古屋の松下館はこのような内容でした。

「宇宙から地球への冒険旅行」

メインショーは、アドベンチャー・スペースシップ・シアター(巨大3面マルチスクリーン)での「宇宙から地球への冒険旅行」の上映。最初にパナソニックのロボット「スパーキー」から諸注意を受けて、いよいよ乗船(上映)。

時空は2100年の宇宙コロニー。人類は地球を休ませるために宇宙で暮らしていました。地球の様子を見るために、観客は宇宙船「パナファンタジア号」に乗り込みコロニーを出発。ところが突然の磁気嵐により、過去の地球に不時着してしまいます。故障を修理して、もとの時代にタイムトラベルしたものの、着いたのは何と1989年の「世界デザイン博」の会場でした…。(総入館者は121万5236人)


ん?

これって、よかトピアと同じではないです???


これ!


最後に不時着するのが、よかトピア会場か、デザイン博会場かの違いです…。



ちなみに横浜市の「横浜博覧会」の松下館も見てみます。

「横浜博覧会ーYES'89ー」は「宇宙と子供たち」をテーマに、1989年3月25日から10月1日まで開催されました。


「横浜博覧会」の公式記録によると、横浜の松下館はおおよそこのような感じです。

「スペース・マジカル・ショー 光と闇の伝説」

観客は宇宙船で宇宙旅行に出発。航行の様子はスクリーンに写し出されます。目的地の人工の光の楽園「ライトピア」に着く直前、隊員アイとノアに緊急避難の連絡があり、宇宙船はライトピアに光エネルギーを供給しているスペースコロニーへ。

ここでスクリーンが撤収され、ライブショーのシアターが出現します。以降は舞台で役者がアイとノアを実演。戦闘用ロボットに変身するクラスタービークル号が、舞台下から現れた光エネルギーを食べる怪物と戦います。そのなかで行方不明になってしまうノア。

舞台はライトピアへと移り、エレクトロニクスを駆使したステージ演出で、最後はライトピアに光エネルギーよみがえり、ノアも生還してめでたしめでたし。(総入館者は224万2926人)


よかトピアよりも演出が凝ってます…。

よかトピアのように映像だけじゃなくて、実演や光の演出もステージを盛り上げていたようです。



貞刈さんの本によれば、企業がパビリオンを出展する際の予算は、開催地周辺の人口から入場者数を仮定し、1名あたりいくらでかけ算をして算定されていたのだとか。

貞刈さんは横浜博を実際にご覧になり、企業パビリオンの規模の違いに、福岡の都市としての現状を実感されたそうです。


円高による輸出不況のなかで、出展が同時期に重なった松下館。

松下館の入場者は、よかトピアは116万人。世界デザイン博では121万人、横浜博では224万人ですから、福岡・名古屋が同じコンテンツ、横浜がオリジナルステージだったのは、やむを得ないことだったと言えます。


もちろんこうしたことは博覧会の企画当初から想定されていました。

そのため、よかトピアではアジア太平洋ゾーンの本物志向海の会場化大量のイベントなど、会場での体験を重視する独自のコンセプトを打ち出して、弱点をオリジナリティに変換していきました。



では、福岡と名古屋の松下館はただのコピーだったのかというと、福岡市と松下電器との歴史をふまえると、必ずしもそうとも言えないように思っています(結果はコピーには変わりないのですが…)。



ここで時代は遡って、1928(昭和3)年。

この年、福岡県久留米市の日本足袋株式会社が、福岡市大字住吉(現在の福岡市博多区美野島4丁目)に福岡工場をつくりました。ここでは最盛期には数千人が働いていたといいます。

なお、日本足袋からはタイヤ部門がのちに独立し、現在のブリヂストンができました。日本足袋は昭和12年に日本ゴム、そのあとアサヒコーポレーションを経て、現在はアサヒシューズになっています。


この日本足袋の工場案内(1937・昭和12年発行)に、当時の福岡工場の写真が載っていました(これは社名を日本ゴムに改める直前に発行されたようです。映画フィルム風のデザインが楽しいです)。


(個人蔵)
日本足袋の工場案内の表紙


(個人蔵)
福岡工場の外観


(個人蔵)
福岡工場の内観。
特殊ミシンを使って、数十種類の靴類を仕上げていたようです。



(個人蔵)
福岡工場には包装用の製紙工場も付属していました。
まさか紙からつくっていたなんて…。説明書きにある
「包装は商品の外出着です」という言葉が、製品への
誇りと、それを手にした人への気遣いを感じさせます。


ところがこの工場、1954(昭和29)年に久留米工場と合併して閉鎖されてしまいます…。


当時の福岡市は博多港を活かすために、輸出製品の工場(特に加工業)を誘致していました。1950(昭和25)年につくった工場設置奨励条例の該当第1号として、九州製糖の工場が東浜の埋め立て地にできています。


そんななかでの日本ゴムの工場撤退でした。

残ったのは、空き家になった鉄筋5階建ての大きな工場と6万9000㎡の広大な敷地…。



福岡市は、改正した工場設置奨励条例などを適用して、ここに松下電器を積極的に誘致しました。


松下電器はこの誘いに乗り気ではなかったそうです(役員会の大部分が反対だったとのこと)。福岡は家電生産に必要な関連産業が十分ではなく、九州での製品販売数も全国の1割にも満たなかったことがその理由でした。



ただ、最終的には社長だった松下幸之助さんの決断によって、日本ゴムから工場を買い、1955(昭和30)年に独立会社「九州松下電器株式会社」を発足させました。

独立会社にしたのは、福岡市が要請していた地元に利益を還元するためだったそうです。


社長は高橋荒太郎さん。松下幸之助さんは会長に就任しました。しばらくして、現場の運営は、のちに社長となる青沼博二さんに任せられたとのこと。

ちなみに福岡進出前に来福した松下さんから、青沼さん(当時は久留米にあった松下の乾電池工場にいらっしゃったそうです)は、工場をつくることを「どう思う?」と聞かれたそうです。青沼さんはそのときは「ここでやるのは不得策だ」とお答えになったのだとか(松下さんはそれを覚えていらっしゃって、あとでばつが悪かったとふり返っておられます)。

それほど、会社としては良い話ではなかったということなのでしょう。


青沼さんいわく、工場の建物は戦時中の迷彩塗装のままだったそうで、まずはそれを真っ白に塗り替えることから始めたとのこと(建て変わった今でも、建物は真っ白です)。



現在、九州松下電器はグループの再編により、パナソニックコネクト
株式会社になっています。写真は今の様子(福岡市博多区美野島4丁目)。
建物は創業時とは変わっていますが、その白色は今も那珂川をわたる
清美大橋の目印。


工場の目の前のバス停は「パナソニック前」(分かりやすい!)。
ここから博多方面に向かって道が高架になっていますが(写真奥方面)
1983年まではその下に国鉄筑肥線が交差して通っていました。


パナソニックのすぐ横が国鉄筑肥線の跡。
今は緑道になっています。高架下あたりに「筑前簑島駅」があって
日本足袋時代から工場で働くたくさんの人を運んでいました。


かつてのプラットホームを模したモニュメント。
このモニュメントは目的のない階段状になっているので、
福岡の「トマソン」としても有名です。

※写真はすべて筆者撮影。



なお、発足した九州松下電器の経営方針は次の3つでした。

・九州各県へ工場を展開して地域財政に寄与し、雇用を増やす。

・日本経済の課題でもある輸出を振興し、目標を輸出比率50%とする。

・それらを具体化するための人材を育成する。



操業は1956(昭和31)年からはじまりました。

小型モーターなどの生産からスタートし、自社でもその技術を応用した小型電気掃除機・カークリーナー・低価格の電気鉛筆削りなどを次々と開発しました。

電気鉛筆削りは九州松下電器の最初の海外輸出品になり、1984(昭和59)年にはアメリカ市場での占有率が70%にまで達したといいます。


高度経済成長期にラジオが急激に売れ、アメリカへの輸出も伸びるようになると、九州松下電器の自社開発ラジオ第1号「R-240」をはじめとして、独自の製品を生み出していきました。

レトロフューチャーなデザインの「パナペット・クルン(R-72)」(280万台も売れたそうです)、防水ラジオ「マリン1号(RF-622)」、当時流行したラジオと時計を合体させたクロックラジオの低価格機「RC-6030」(200万台を販売)などを自社開発して、ヒットさせています。


1964(昭和39)年からは、松下電器の真空管式ポータブルテレビをつくりはじめ、1971(昭和46)年になると輸出用の8型サイズのカラーテレビ「CT-771」を自社開発しました。

テレビがお茶の間でみんなで見るものから個人で使うものになり、さらには屋外に持ち出したり、車に載せたりすることを予見していた製品でした。


(個人蔵)
「パナペット・クルン(R-72)」の外箱。外箱までポップ!
先ほどの日本足袋の言葉「包装は商品の外出着です」
を思い起こさせます。


(個人蔵)
「パナペット・クルン(R-72)」の本体。とてもラジオには
見えない形。ちなみに丸い穴は腕を通して持ち運べるように
しているそうです…。斬新。

(個人蔵)
くるっとひねると、ラジオのチューナーが現れます。
ちなみに色は赤のほかに白・黄・青・緑がありました。


(個人蔵)
透明のプラスチック部分を回転させてラジオ局を
選局します。数字の通りAMのみです。



九州松下電器の製品はユニークな機能はもちろん、デザインも優れていて「グッドデザイン賞」を受賞したものも多いです。さきほどの「パナペット・クルン」はその新鮮なデザインが評価されて、ニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵されています。

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グッドデザイン賞の仕組みや、過去のすべての受賞対象が検索できる「グッドデザインファインダー」など、グッドデザイン賞に関する情報をご紹介するサイトです。毎年1回(4~6月頃)募集する、グッドデザイン賞への応募もこのサイトから行うことができます。

GOOD DESIGN AWARD
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Panasonic. Toot-A-Loop Radio (model R-72). c. 1972. Panasonic Company, Secaucus, NJ. ABS plastic. h. 2 3/4" (7 cm), diam. 6" (15.2 cm). Gift of Anne Dixon. 364.1993. Architecture and Design

https://www.moma.org/collection/works/3443


さて、こうしてみると、九州松下電器は松下グループの企業ではあるのですが、戦後の福岡市の工業を支えてきた地元企業だったことにあらためて気づきます。

その製品が世界で高く評価されている、福岡市を代表する企業だったのですよね(いまさらで、すみません…)。


地方の博覧会が重なった1989年、大きな企業グループへの出展要請は博覧会の成功を左右する、失敗が許されない大仕事でした。


アジア太平洋博覧会協会の事務局長だった草場さんの回顧によれば、よかトピアではこの大仕事を、九州松下電器への訪問からスタートしています(1986年5月27日)。


担当部門を介して、企業のトップへ直接出展をお願いしたのも、やはり九州松下電器が最初でした(1986年8月12日)。

このときのよかトピア側のメンバーは、博覧会協会副会長の桑原敬一さん(福岡市助役)、常任顧問の渡辺哲也さん(九州電力副社長)、専務理事の武田隆輔さん、事務局長の草場さんでした。(肩書きは当時のもの。桑原さんはのちには市長になり、よかトピアの宣伝に努めました)。

訪問した相手は、このときはすでに社長になっていた青沼さんです。


こうした交渉を積み重ねて、さらに松下グループのトップへの要請が叶ったのは1986年11月のことでした。これをうけて、1987年3月2日に松下グループが、よかトピアに出展することをおおやけに表明しました。


出展を要請する側にとって、最初にアプローチした企業でつまずくことは、その後にも影響を及ぼす可能性があります。たとえば、草場さんが別の企業の会長と面会した際には、その方は九州松下電器にはお世話になっていると雑談しながら、出展の段取りをつけてくれたそうです。

博覧会ラッシュですので、どの会社も、どこの企業がどこの博覧会にどのような形で出展するかが、大事な判断基準の1つになっていたと思われます。


そうしたなか、博覧会を成功に導くにあたって、九州松下電器が地元企業であることは福岡市にとって心強かっただろうと思います。



思い返せば、博覧会のテーマには「であい」や「まつり」が掲げられていました。

博覧会でのさまざま「であい」が、人びとの結びつきや新たなエネルギーを生み出して、さらにそのエネルギーが博覧会終了後も持続して未来をつくっていくこと、それを「まつり」と表現していました。


よかトピアを成功に導くために地元が一緒に盛り上げていくプロセス自体も、博覧会の大事な一場面だったと言えそうです。

その意味で、福岡市の工業を支えてきた九州松下電器と「まつり」を生み出せたことは、よかトピア独自の成果でした。

(それに、名古屋と同じ映像だとしても、福岡で「宇宙から地球への冒険旅行」が見られたことはありがたかったです。当時はLCCも新幹線のネット予約割引もありませんでしたので、今ほど気軽には福岡から名古屋まで見に行くということはできませんでしたから…)






よかトピアの成功のかげには、こうした地元企業の協力がたくさん積み重なっていたようです。また調べてご紹介したいと思います。







【参考文献】

・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)
・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)
・『大型マルチ映像の松下館─プレス用資料─』(松下電器産業(株))
・リーフレット『ADVENTURE SPACE SHIP 大型マルチ映像の松下館』(松下電器産業(株))
・草場隆『よかトピアから始まったFUKUOKA』(海鳥社、2010年)
・貞刈厚仁『Ambitious City―福岡市政での42年―』(松影出版、2020年)
・青沼博二「九州松下電器(博多区)」(『(写真展図録)福岡・博多─いま・むかし─』(朝日新聞西部本社企画部、1989年)
・九州松下電器株式会社広報室編『創造─九州松下電器30年のあゆみと展望─』(九州松下電器株式会社、1985年)
・『福岡市史 第6巻 昭和編後編2』(福岡市役所、1971年)
・『世界デザイン博覧会公式記録』((株)電通編集、(財)世界デザイン博覧会協会発行、1990年)
・『横浜博覧会公式記録』((株)神奈川新聞社編集制作、(財)横浜博覧会協会発行、1990年)
・ウェブサイト
 ・アサヒシューズ「アサヒヒストリー」(https://www.asahi-shoes.co.jp/company/history.html)
 ・パナソニックグループ「社史」(https://holdings.panasonic/jp/corporate/about/history/chronicle.html)
 ・グッドデザイン賞(https://www.g-mark.org/)
 ・MoMA(https://www.moma.org/)



#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #松下館 #パナソニック #九州松下電器 #パナペット #日本足袋 #アサヒ靴


Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル


※リンクの不備を修正しました(2023.8.14)

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