2023年5月12日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈036〉幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢

 

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回(「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回(「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)






〈036〉幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢


ある日、昭和初期の西新の地図を眺めていると、あまり見慣れない文字が目に飛び込んできました。

それがコチラ。


(昭和2年「地図報知第73号 大福岡市の市街」、松源寺所蔵)
この地図の…。


(昭和2年「地図報知第73号 大福岡市の市街」、松源寺所蔵)
ココ!!


よく見ると、「百道女学」と書かれています。


(昭和2年「地図報知第73号 大福岡市の市街」、松源寺所蔵)
隣は大正15年まで当地にあった移転前の西新小学校。


そういえば新聞広告にも似た名前の学校の学生募集広告がありました。


(昭和3年1月12日『福岡日日新聞』夕刊2面)


百道女子学院」…???


聞き慣れない名前です。まるで2000年代の深夜番組に出てくるアイドルグループみたいなネーミング(多方向にスミマセン)。

とても気になったので、さらに詳しく追ってみたところ、そこには意外なドラマがありました。


* * * * * * *


「百道女子学院」とは、昭和初期に西新にあった学校で、この学校をつくったのは「調須磨(しらべ・すま)」(あるいは「須磨子」)という人物でした。

この須磨さん、実は「ただもの」ではなく(学校をつくった時点で「ただもの」ではありませんが)、なんと九州帝国大学法文学部に初めて入学した女子学生2名のうちの1人なのです。


(『調須磨遺稿集』より、国立国会図書館所蔵)
調須磨さん。凜々しいまなざしですね。


調須磨さんは、明治33(1900)年に嘉穂郡飯塚町(現 飯塚市)で生まれました。

明治45(1912)年、当時開校したばかりだった直方高等女学校(現 直方高等学校、明治42年開校)に入学しますが、須磨さんは当時から大変優秀だったようで、卒業に際して黒田奨学会から「学業優等品行端正生徒の模範」として賞を受けたほどでした。

大正5(1916)年には奈良女子高等師範学校(現 奈良女子大学)に入学。卒業後に宮崎県立都城高等女学校(現 県立都城泉ヶ丘高等学校)の教諭となった須磨さんですが、「もっと学びたい!」という意欲は強く、2年後の大正11(1922)年には東京帝国大学文学部の聴講生となっています。

その後、1年間の遊学期間を経て翌年には熊本の大江高等女学校(のちの熊本フェイス学院高等学校、現在は開新高等学校と合併して廃校)の教諭となりますが、大正14(1925)年に九州帝国大学法文学部が女子にも門戸を開いたことでさっそく願書を出し、ついに初めての女子学生として九州帝国大学への入学が許されたのです。

このことは、当時の新聞でも大きく報じられています。


(大正14年2月5日『福岡日日新聞』朝刊3面、福岡市博物館所蔵)
願書を提出した時点で受けた取材の記事。
熊本の自宅に記者がアポ無しで押しかけたようです。


こうして九州帝大の初の女子学生の一人として勉学の道をひたすらまい進した須磨さんですが、やはり教育者という仕事は彼女の天職だったようで、九州帝国大学在学中、ついに自分で学校をつくることを決意。

それが百道女子学院でした。


須磨さんが九州帝国大学に入学した翌年、大正15(1926)年に百道女子学院は誕生しています。

9月10日に行われた開校式の様子は、当時の新聞で次のように報じられました。


福岡市西新町に新設した百道女子学院では、十日午前十時から同校にて同院開校式並に新入生入学式を挙行したが、同学院理事川端久五郎氏の開会の辞に次ぎ勅語奉読設立者調道太郎氏の挨拶学院長調須磨子女史の告辞あり。川端理事から帝大女高師等出身の同校職員十数名を紹介し、顧問西川虎次郎中将、白坂修猷館長、高崎烏城氏、西新小学校長其他の祝辞演説あり。閉会後来賓父兄に茶菓の饗があつて来賓は右の外西新町有志其他十数名に達し盛会であつた。尚ほ今回は学年中途の募集にも拘らず新入学生廿数名福岡県を最多とし熊本宮崎等に及んで居る。

(大正15年9月11日『福岡日日新聞』朝刊7面より、句読点の一部は筆者)



記事からも分かるように、開校式には西川虎次郎白坂修猷館館長など、西新町の関係者がこぞって参列しています。

学校は西新町中東、旧西新小学校横のレンガ造りのビルにありました(現在の明治通り沿い、ドン・キホーテ西新店がある辺りです)。

なぜ学校の場所を西新町にしたのかなど、その設立経緯については資料がなく、詳しいことは分かりませんが、そこには彼女の支援者であった川端久五郎(記事中では理事)という人物が大きく関係していたようです。


川端久五郎は須磨さんの伯父に当たる人物で、大正7(1918)年~12(1923)年まで早良郡長を務めていました。


(『早良郡誌』より)
川端久五郎。

川端久五郎は金銭面でも須磨さんの活動を支えていたようです。

また記事の中に川端久五郎とともに設立者として名前がある「調道太郎」とは、おそらく須磨さんの父と考えられます。道太郎は飯塚や直方で医師をしていた人物と思われます。

彼らの理解と支援によって、須磨さんは自身が理想とする女子教育の道を進んでいったのです。


百道女子学院については正式な記録が少なく、設立や運営に関することはほとんど分からないのですが、新聞に百道女子学院の設立申請の内容が報じられていて、そこには開校当時のカリキュラムが載っていました。

それによると学習課程は下記のようなものでした。


【研修科】
[入学資格]高等女学校卒業またはそれと同等以上の者
[目的]女子高等師範学校、女子大学、女子専門学校等へ入学するための学科を習得する
[修業年限]1年間
[定員]50名
[学科]修身・国語・数学(代数幾何・算術)・地理・歴史・物理・化学・動物・植物・鉱物・生理・衛生・裁縫・図書・英語

【技芸科】
[入学資格]技芸科高等部は高等女学校卒業またはそれと同等以上の者
      技芸科普通部は高等女学校・小学校卒業またはそれと同等以上の者
[目的]将来家事に従事するための必須の学科や技芸を習得する
[修業年限]高等部 1年間/普通部 2年間
[定員]100名
[学科]
 ●高等部 修身・国語・数学・英語・家事・裁縫・手芸・図書
 ●普通部 修身・国語・算術・家事・裁縫・手芸

(大正15年7月20日『福岡日日新聞』朝刊7面より作成)



これを見ると、とくに研修科ではかなり高い教育を行おうとしていたようです。須磨さんの女子教育に対する高い理想が伺えます。

須磨さん自身、九州帝大では哲学を専攻し、卒業論文では「フッサール哲学に於ける内在及超越の問題に附いて」、大学院の研究論文では「志向性に就いて」「現象学的時間に就いて」等、いくつもの論文を著しています。


自身は九州帝大で哲学を学び、理想とする女子教育のための学校も立ち上げ、一見順風満帆のように見える須磨さんですが、実は身体に大きな問題を抱えていました。

奈良女子高等師範に入学した後、大正10(1921)年ごろから呼吸器を病み、それからたびたび療養を余儀なくされていたのです。



百道女子学院を設立してからは、ますます病魔に蝕まれていった須磨さん。そんな中で自身の研究と学院経営を両立することは、とても困難を極めたようです。学院設立後、担当教授や川端氏、また学校関係者に宛てた書簡には、その苦悩が綴られています(『調須磨遺稿集』)。

そして昭和4(1929)年4月からはついに福岡を離れ、大阪での本格的な療養生活を送ることになりました。この時には学業も学校経営もすべてを「一切放擲」しての療養だったようです。


そんな中でも、なんとか昭和5(1930)年3月に大学院へ研究論文を提出し大学院での学業を終えることができた須磨さんでしたが、ついに力尽き、同年8月22日に30歳の若さで亡くなってしまいました。


百道女子学院も、さまざまな困難に見舞われます。

須磨さんの体調が優れず、なかなか学校経営に参画できなくなっていたこともあった中、昭和4年には開校から校舎として使っていた西新町のビルからの退去を余儀なくされ、祖原に移転します。

さらには須磨さんの死から2年後、最大の支援者であった川端久五郎も昭和7(1932)年1月22日に亡くなってしまいます。


須磨さんと川端氏いう大きな柱を失った百道女子学院のその後は昭和6(1931)年までは学生の募集を行っているものの、在学生の修業年数からおそらく昭和8(1933)年ごろまでは存続していたでしょうが、その後はまったく不明です。



大きな理想とそれを実現できるだけの能力を持ちながら、志半ばにしてついえてしまった須磨さんの夢。須磨さんの人生はまるで朝ドラにでもなりそうな激動の30年でした。

もし須磨さんが健康で、その後も元気に福岡の女子教育向上のために力を尽くしていたら、九州帝大初の女子学生であり学生起業家でもあった須磨さんは、福岡の女子教育のパイオニアとして、もっと世に知られた存在になったかもしれません。

また、このブログでも何度か「あったかもしれない歴史」として、百道の開発史をご紹介してきましたが、須磨さんがもし健在だったら、百道女子学院は福岡でも有数の女子大学(あるいは高校)に成長して、西新で修猷館や西南学院と肩を並べる名門校になっていたかもしれませんね。


* * * * * * *


ところで、百道女子学院は設立時に西新町中東のレンガ造りのビルにあったという話をしました。それは須磨さんの書簡などからも伺えるのですが、昭和3(1928)年の卒業写真が残されており、そこに往時の姿を垣間見ることができます。


(『調須磨遺稿集』より、国立国会図書館所蔵)
第2回卒業式の日の記念写真。
後列の一番左は弟の守正氏。その隣は久五郎さん?

ところがこの校舎、どうやら須磨さんたちが建てたものではなく、それにはまた別のドラマがあるようですので、そちらはまた次回にご紹介したいと思います。






【参考文献】

・調須磨『調須磨遺稿集』(百道女子学院、1931年)

・冨士原雅弘「旧制大学における女性受講者の受容とその展開―戦前大学教育の一側面―」(『教育学雑誌』第32号、1998年)

・嘉穂郡役所『嘉穂郡誌』(名著出版、1972年)

福岡県早良郡役所編『早良郡誌』(名著出版、1973年)

・八女市史編さん委員会編『八女市史 年表編』(八女市、1992年)

・新聞記事
 「九大最初の女学生」(大正14年2月5日『福岡日日新聞』朝刊3面)
 「百道女子学院設立認可申請」(大正15年7月20日『福岡日日新聞』朝刊7面)
 「百道女子学院きのふ開校式」(大正15年9月11日『福岡日日新聞』朝刊7面)
 「(広告)生徒募集」(大正15年8月6日『福岡日日新聞』夕刊3面)
 「(雑件)生徒募集」(昭和2年2月11日『福岡日日新聞』夕刊3面ほか)
 「百道女子音楽会」(昭和2年11月12日『福岡日日新聞』朝刊3面)
 「百道の音楽会 非常なる盛会」(昭和2年11月14日『福岡日日新聞』朝刊3面)
 「(広告)家政科・文科 生徒募集」(昭和3年1月12日『福岡日日新聞』夕刊2面ほか)
 「(広告)受験準備 女子夏期講習会」(昭和4年7月21日『福岡日日新聞』朝刊4面ほか)
 「(広告)生徒募集」(昭和5年3月15日『福岡日日新聞』夕刊3面ほか)
 「(広告)生徒募集」(昭和6年3月22日『福岡日日新聞』朝刊5面ほか)
 「(訃報)川端久五郎氏」(昭和7年1月24日『福岡日日新聞』朝刊3面)
 「川端福島町長町葬」(昭和7年1月28日『福岡日日新聞』朝刊7面)



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Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル

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