埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラ。
第2回(「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。
〈023〉ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅
〝海図・羅針盤を持たず、空と風と波だけを頼りに太平洋を縦断して、5000キロ離れた福岡を目指す〟
ちょっとすぐには信じられないこの壮大な航海がおこなわれたのは、よかトピアの開催1年前のことでした。
よかトピアを主催したアジア太平洋博覧会協会で事務局長をつとめた草場隆さんの回顧によると、この企画はすでに、東急グループとパビリオンの出展について話し合うなかで生まれていたそうです。
企画は太平洋学会が立案・計画して具体化されました。その内容は、太平洋のミクロネシア連邦ヤップ州サタワル島から、グアム・サイパンを経て福岡に至る5000キロを、現地の伝統的なカヌーで旅するというもの。
しかも、羅針盤や海図を使わず、太陽・星・雲・波を頼りに人力で航海するという大冒険でした。
※ミクロネシア連邦ヤップ州サタワル島は、ヤップ本島の南東約100キロにある周囲6キロの島。公用語は英語。
この大冒険はユニードが協賛して、よかトピアの開幕1年前のプレイベントとしておこなわれることになりました。
※ 地図はこちらからも見られます。→ Googleマップ
1988年4月4日に出発したヤップカヌーの壮大な旅は、たびたび大きく報道されました(なかでも西日本新聞は出発前から現地で取材し、同行記事を掲載しています)。当時の新聞からこの航海をふり返ってみます。
旅のために用意された船は、ミクロネシアの伝統的カヌーで、長さと帆柱がそれぞれ8メートル。カヌー本体にアウトリガー(船体を安定させる浮き)を取り付けたものでした。一応オールを備えてはいるのですが、帆走がメーンです。
船名は「ティーピュー号」(サタワル語で「1つの心」の意味)。
乗員は全部で8人でした。
【船長】ルイス・ルッパンさん(63)
【副船長】トーマス・ナムルグさん(37)
【帆・綱係】アルフォンソ・レイルグさん(37)
【帆係】イシドーレ・メタワラーさん(30)
【帆係】イエッシー・エモルマイさん(31)
【海水のくみ出し係】アンドリュウ・イゴマルさん(35)
【かじ取り】ジョセビョ・エラキュルグさん(24)
【食料係】ジョン・ラロゴさん(34)
船長のルッパンさん以外は若手のメンバー構成です。
実はルッパンさんは沖縄国際海洋博覧会(1975年)のときに、今回同様、ヤップカヌー「チェチェメニ号」でサタワル島~沖縄(3000キロ)の航海に成功した人物です。父親に教わった自然を頼りにした航海術はたくみで経験も豊富でしたが、今回は目的地が福岡で距離は5000キロ、航路も違うので未知の冒険でした。
なお、安全のために随伴船がカヌーを見守ることになりました。
この船は「第21千歳丸」(143トン・乗員6人)、船長は松川正之さん、随伴隊長は新貝勲さん(58)がつとめました(新貝さんの航海日誌の一部はのちに西日本新聞で公開されました)。新貝さんは福岡市在住で、かつてK2登山隊長を経験した方でした。
※K2はパキスタンのカラコルム山脈の最高峰で、高さが世界第2位の山(8611メートル)。1977年に新貝勲さんが隊長つとめた日本山岳協会の登山隊が、世界で2番目、日本人としてはじめて登頂に成功しました。
出発にあたって、船には食料になるバナナ・ヤシの実・ウミガメの肉などが積み込まれました(ウミガメは神の恵みとして、特別なときにしか食べないものなのだそうです)。乗員は島の民謡「死ぬまで一心」を歌って団結を誓い、乗員の母親や妻らは風習にしたがい航海の安全を願いました。
当時、乗員のほとんどは電気・ガスがない小さなヤシぶきの家に住んでいましたので、島の長老は、若い人たちが日本で経験し何かを感じて帰ってくることが、きっとミクロネシアのためになると語ったそうです。
こうして1988年4月4日、ティーピュー号はサタワル島を出発しました。
では、新貝さんの航海日誌をもとにした記事やそのほかの新聞記事からティーピュー号の旅を追いかけてみます。
4月6日
天気が良く、風速3~4メートルの風にのって航海は順調だったようです(平均速度は5ノットほどとのこと)。ただ、人力ですから、乗員は自分の仕事を少しもおろそかにすることはできず、睡眠も交代でうとうとする程度。みんなで歌を歌って、眠ってしまわないようにしていたのだとか。
4月7日
日本のコンテナ船と遭遇。
4月8日
無事にグアム島アプラ港に到着して、食料などを補給しています。
4月11日
サイパンに向け出港。
4月13日
サイパンを出発して以来、北東の向かい風と高い波にはばまれて(低気圧の接近によるものだったそうです)、カヌーは3日間、東西に行ったり来たりするだけで、グアムから離れることができなかったとのこと(前日には船首の一部も破損してしまいました)。乗員の疲労も限界だったため、ルッパン船長の判断でこの日グアムに引き返すことになりました。
そのうえで、コースをサイパンへ北上するのではなく、北西寄りにとり、沖ノ鳥島~南大東島~種子島方向へ向かうように変更しました。
4月18日
グアムを再出発。
4月22日
朝、沖ノ鳥島が見えます。やっと日本です。
4月23日
ところがこの日の夕方から雨が降り、シケてきたとのこと。波が大荒れになり、ティーピュー号が木の葉のように波間に漂ったと、新貝さんは日誌に記しています。随伴船さえも、乗員が船上で転ぶほどの揺れだったそうです。
そうしたなか、夜10時30分、随伴船内にベルが鳴り響き、カヌーから救助要請が届きました。帆係のメタワラーさんが波にさらわれ、船底に落ち、足をけがしたのです。
ただ、荒れる夜の海で、カヌーから随伴船にけが人を運んでくること自体が命がけです…。サーチライトで海を照らし、随伴船から若い船員がまずボートに乗り移ります。それから命綱を頼りに、カヌーに近付いていくのですが、このときの波は高さが7~8メートルもあったそうです。
無事にメタワラーさんを連れ戻った船員の姿に、山で危険を経験してきた新貝さんもほっと胸をなでおろし、その勇気に驚いたのだとか。
幸い、メタワラーさんのけがはひどいものではありませんでした。
4月25日
南大東島沖を通過。
4月26日
屋久島が見え、随伴船では船舶電話が通じるようになりました。種子島の東側を通り、九州の東沖合を北上していきます。
4月27日
日向灘を北上し、高知県宿毛市の片島港沖に着きました。ここでしばらく休息です。
4月30日
早朝に片島港を出発。
5月1日
最後の難関、関門海峡を通らなければなりません。午前10時30分、ちょうど潮の流れが西向きから東向きに変わる潮止まりのタイミングを見はからって、海峡に入っていきました。ただし、関門海峡は帆走できない決まりなので、帆をおろして、随伴船にえい航されての通過になりました。22キロの海峡を約2時間で通り抜けたそうです。その間、カヌーの乗員はみんな、関門橋の大きさに驚いて見上げていたのだとか。この日は玄界島沖に停泊して、翌日の上陸に備えました。
5月2日
玄界島沖を出発。博多湾内では、福岡県ヨット連盟のヨットや地元漁協の漁船、約70隻が出迎えて伴走しました。
能古島東側沖で検疫と入国手続きを済ませ、午前10時45分、できたばかりのシーサイドももちの人工海浜の地行浜側に無事上陸。
浜では祝福の花火にあわせて、福岡市消防音楽隊の演奏が到着を歓迎し、桑原市長とともに市民や幼稚園児(淡水幼稚園・けご幼稚園)、よかトピアのためにつくられたグループ「シェイク・ハンズ」ら約300人がカヌーの乗員を迎えました。
幼稚園児から花束を受け取ったルッパン船長は、乗員を1人ずつ紹介して、日本のみなさんに会いたいと思っていましたと、日本語であいさつ。ヤップ州知事の親書を市長に手渡しました。
(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より) 博多湾に着いたヤップカヌー |
こうして長い旅を終えて、無事にヤップカヌーが福岡に到着しました。
もっとも、帆船ですので、風が吹かない日など随伴船に一時えい航されたり、途中コースを変更せざるを得ないこともあったりしましたが、何はともあれ全員無事に航海を終えることができました。
コースを変更したことで、良かったこともありました。
予定よりも1週間ほど早く到着したため、急きょ5月3日・4日に開かれる博多どんたくに参加できることになったのです。ティーピュー号もどんたくの中央広場(県庁跡地)に展示されることになりました。
ただ、残念ながら当日は雨に降られ(どんたくに雨はつきものですものね…)、3日のパレードは中止に。その代わりに乗員のみなさんははじめて乗る地下鉄や地下街を楽しみました。
4日はユニードダイエー福岡店(ショッパーズプラザ)で買い物。靴を買う姿が新聞に残っています。ちなみに船長はトローリング用の釣り道具を買うつもりだったそうですが、見つからずに残念そうだったのだとか(補聴器の電池を2個買われたそうです)。
この日は雨のなか、どんたくのパレードにも参加。博覧会協会のどんたく隊の先導車に乗って、翌年に開かれるよかトピアをアピールしました。
※この年からパレードが国体道路から明治通りに変わっています。
6日には福岡市動植物園も訪れています。よかトピアのTシャツ・法被姿で、豆汽車を楽しみ、アシカにエサをあげたり、サイに触ったり、ユーモラスなゴリラを熱心に見たり、ヘビを怖がったりと(サタワル島にはヘビがいないとのこと)、思い出に残る1日だったそうです。
福岡を楽しんだティーピュー号のみなさんでしたが、8日には福岡を離れ、新幹線で東京へ向かいました。
9日、首相官邸でミクロネシア連邦大統領の親書を小渕恵三官房長官に手渡し、10日には飛行機で帰国されています。
この旅にはいくつか後日談があります。
実はカヌーがサタワル島を出発する前日に、市内の淡水幼稚園の園児が書いてカプセルに入れたメッセージを、現地の子どもたちが海に流していました(今だと海洋環境の保全のためにダメかもしれないですね)。
そのうちの4個はヤップ州の島々で拾われて、これを企画したユニード本社に送り届けられたのでした。その後、メッセージを書いた園児のもとに届けられました。
また、このヤップカヌーの旅は写真速報展(カラーパネル45点を展示)が各地で開かれ、あらためてその航海のリアルな様子に人びとの関心が集まりました。
ユニードが協力した航海でしたので、会場はダイエーやアピロスなどお買い物のときに気軽に見られる場所ばかり。おおいに博覧会開催をアピールする場になりました。
【写真速報展の会場】
天神ショッパーズ(4月30日~5月8日)
ダイエー原店・中間店・香椎店、ユニード二日市店、アピロス野間店・香椎店(5月2日~8日)
アピロス福重店、ダイエー下大利店(5月9日~15日)
なお、福岡市内の大島眼科病院の松井孝夫院長(当時)は、ヤップカヌーの計画にあわせて「福岡・ヤップ親善医療団」をつくり、1988年2月から2か月間、島民の無料健診をおこなっています。
ヤップカヌーをきっかけにして、よかトピアの開催前から、お互いをよく知り、いろいろなところで博覧会のテーマである「であい」が広がっていました。
ヤップカヌーが旅した当時、福岡・九州とアジア太平洋とをつなぐ「道」や「であい」をテーマにかかげて、よかトピアの準備が進められていました。
でも正直なところ、市民にとってはそれを知識として知ってはいても、ふだんの生活のなかでアジア太平洋とのつながりを直接感じる場面は少なかったはずです。
ところが、このカヌーに乗ってやってきたサタワル島の8人のクルーは、確実に福岡が太平洋の島々と海を通じて繋がっていることを実感させてくれました。
これはよかトピアのアジア太平洋というテーマに、おおいに説得力を持たせることになりました。
そしていよいよ、よかトピア開催に向けて福岡のまちが盛り上がっていくことになります。
この太平洋の5000キロの旅を終えたカヌーですが、よかトピアの会期中は、とうきゅうトロピカル・ビレッジで野外展示されていましたので、実際にご覧になった方も多いかもしれませんね。
(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より) |
【参考文献】
・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)
・草場隆『よかトピアから始まったFUKUOKA』(海鳥社、2010年)
・新聞記事
『西日本新聞』1988年4月12日~16日「(連載)海はるかヤシの道―ヤップカヌー五千キロ―」(栗田耕司)
『西日本新聞』1988年5月12日・13日「ヤップカヌーの冒険―随伴隊長航海日誌から―」上・下
『西日本新聞』1988年5月16日夕刊「ヤップカヌー航海記」
『朝日新聞』1988年4月27日・30日夕刊、5月2日夕刊・5日
『西日本新聞』1988年4月10日・16日・27日・29日、5月2日・2日夕刊・3日・5日・8日・15日
『日本経済新聞』1988年5月2日夕刊
『フクニチ』1988年4月27日、5月1日・3日・4日・5日・7日・17日
『毎日新聞』1988年5月2日夕刊・5日・17日
『読売新聞』1988年4月16日・23日・27日、5月2日夕刊・17日・19日
#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #ミクロネシア #ヤップ #カヌー #ユニード
[Written by はらださとし/illustration by ピー・アンド・エル]
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