埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラ。
第1回(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
第2回(「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。
〈016〉百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)
近年、キャンプはすっかり定着して、いまもっともメジャーで人気のある趣味といっても過言ではありません。
福岡市の周辺にもたくさんのキャンプ場があり、家族連れやソロキャンパーなど、老若男女問わず多くの人が集まり、賑わいを見せています。
キャンプ場の多くは山や川のそばですが、能古島や唐泊など、海辺にもステキなキャンプ場がたくさんあり、どこも人気です。
また、すべての設備がホテル並みに備わった、グランピングなども人気となって、各地に施設がつくられています。
海でのキャンプっていいよね!(やったことはない) |
百道のキャンプ場「テント村」
かつて百道にも、夏季限定のキャンプ施設がありました。
海水浴場につくられた施設は、その名も「テント村」といいます。
百道のテント村は、百道海水浴場の裏手の松林の中にありました(場所は年毎に若干違ったようです)。
初めて百道にテント村が登場したのは、大正12(1923)年のことです。
この少し前、1910年代は欧米からキャンプという新しい文化が入ってきて、一般にも普及し始めた頃でもありました。
※ キャンプの歴史についてはコチラを参照ください → 日本キャンプ協会
しかしこのテント村、いまわたしたちが思い描くような、オシャレなレジャーとしてのキャンプ施設ではありません。
一番大きな違いは、名前に〝村〟とある通り、「そこで生活をする」ということを目的の一つに掲げていたことでした。
ではなぜ百道のキャンプ場は、このような一風変わった形態だったのでしょうか?
お手本となった大阪浜寺海水浴場
百道のテント村は、百道海水浴場を主催した福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社の前身)による企画ですが、これは完全なオリジナルではなく、実はお手本がありました。
それは、大阪毎日新聞社が主催した、浜寺海水浴場のテント村です。
浜寺海水浴場は、大阪府泉北郡浜寺村(現 堺市)にあった浜寺公園に明治39(1906)年に開場した、歴史のある海水浴場です。
大阪毎日社は海水浴場を開場した当初から、花火や相撲、また餅撒きや演芸、活動写真や仮装行列、盆踊り、戦国時代武者行列や空中飛行船など、海水浴客のために連日さまざまな催しを行いました(『浜寺海水浴場二十年史』大阪毎日新聞社、1926年)。
テント村もそのような、海水浴とのセット企画の一つとして、いまからちょうど100年前の大正11(1922)年に始まったものでした。
ですがこのテント村、実は花火や演芸など他のイベントとは一線を画す、壮大なコンセプトがあったのです。
(絵葉書「(濱寺名勝)海水浴場」、個人蔵) 浜寺海水浴場は海浜公園内にあり広大で、立派な設備が整っていました。 |
「むだせぬ会」とは
大正デモクラシーとともに起こった生活改善運動の流れから、大正9(1920)年ごろから各地で「むだせぬ会」または「節約会」といった組織がつくられるようになりました。
この運動は、ムダな飾りのない簡易的生活を目指し、消費の節約や産業合理化の実行を呼びかけたもので、大阪でも商業会議所会頭の今西林三郎によって「むだせぬ会」が組織されていました。
大阪の「むだせぬ会」では以下のような会則を設けています。
会則第5条(抜粋)
会員ハ次ノ事項ヲ堅ク実行スルモノトス
(イ)時間ヲ勵行スルコト
(ロ)献酬ヲ廃止スルコト
(ハ)瓦斯、電灯及上水ヲ濫費セサルコト
(二)山菓子ヲ廃止及辭退スルコト
(ホ)香奠返ヲ廃止及辭退スルコト
(『金融と経済』第36号、朝鮮経済協会、1922年より)
そして当時、大阪毎日新聞社の社長だった本山彦一も、この「むだせぬ会」理事の一人でした。
本山彦一(1853-1932) (国立国会図書館「近代日本人の肖像」 https://www.ndl.go.jp/portrait/) |
※ 生活改善運動……消費生活や社会生活の合理化を目指す社会運動の一つ。
※ むだせぬ会(節約会)は、大正11年時点で大阪・福井・神戸・金沢・函館・尾道・名古屋・台湾・朝鮮などで設立されていました。
浜寺のテント村
大正11年7月16日~8月27日に設置された浜寺テント村では、なるべく荷物を持ち込まず、無駄や見栄を省き、多少不便なくらいの生活を送ることを掲げています。
このように浜寺テント村は「むだせぬ会」の思想を実践する場として企画されたものでした。
浜寺テント村では55張のテントが置かれ、1テント1家族(4~6坪、4~5人)が1週間を1期としてテント生活を送ることになっていました(継続も可)。
また、これらテントの集まりを「村」という一つの共同体と捉え、各テント(家族)からの代表者で「村会」を組織し、明確な規則はつくらない代わりに、参加者の常識に訴える簡単な規約だけを決めていました。
結果、6週間の間いさかいもなく、平和に過ごすことができ、「規則のない事が、規則のある事よりも却て秩序正しく治つて行く事を知らしめた、テント村はこんなに自由の国である」と総括しています(『浜寺海水浴場二十年史』より)。
テント村には各「家」のほかにも、村役場テントや食堂テント、娯楽室テントなどを設置、村民はそこに裸で参加してもよく(裸こそ村のユニフォームという考え)、普段の身分や地位など一切関係ない、平等で対等な立場での共同生活を送ったのです。
また娯楽室では懇談会、かくし芸会、活動写真会、レコード大会、落語会、奇術会、手踊り会なども行われました。
さらに村民の間では「テントニュース」という謄写版の新聞まで発行され、村民は自由に意見を載せることができたといいます。
(絵葉書「大阪毎日新聞社主催 濱寺海水浴場」、個人蔵) 右下に写っているのがテント村の村役場。なんと2階建て!! |
「テント村は決して贅沢な避暑地を皆さんに紹介するつもりで建設したのではありませぬ、簡単な不自由な原始的の生活を営んで皆さんの健康を増進したいといふ趣旨から計画されたのです」
「一般が非常に贅沢になつて避暑するにも殊更便利な土地を選んでのらりくらりと致してをります」
「テント村であれば大阪の近くでこの村から日々通勤することが出来ます」
「こういう土地で簡易生活を営むことはどんなに多くの人々を利益することか」
(『浜寺海水浴場二十年史』より)
浜寺テント村について、主催者である本山彦一はこのような熱い思いを語っています。
このテント村は大変話題となり、その後全国へと広まっていきました。
* * * * * *
百道のテント村も、この浜寺テント村を参考にしてつくられました。
今回はあまり福岡の話ではありませんでしたが、次回は百道テント村での生活を実際に覗いてみたいと思います。
(つづく)
【参考文献】
『金融と経済』第36号(朝鮮経済協会、1922年)
『浜寺海水浴場二十年史』(大阪毎日新聞社、1926年)
大浦一郎「図書館資料に見る浜寺」(『大阪春秋』令和3年冬号〈通巻№181〉、2021年)
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