埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラ。
第1回(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
第2回(「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。
〈012〉百道地蔵に込められた祈り
かつて百道の浜の近くに「百道地蔵」というお地蔵さんがあった事をご存知でしょうか?
場所はよかトピア通りの裏手、現在ではマンションが建ち、その面影はありません。
西新公民館横、地下鉄西新駅7番出口から地蔵跡地まではこんな感じです。 (地蔵の場所は最後の電柱の場所あたりです) |
(2007年撮影) 移転後、しばらくは碑が建てられていました。 |
この百道地蔵建立の背景には、百道海水浴場にまつわる悲しい出来事がありました。
※ 藤崎にある百道地蔵は「藤崎百道地蔵」といって、また別のお地蔵さんですので、あしからず……。
海水浴場の水難事故
百道海水浴場は、大正7(1918)年の開場から昭和40年代に閉鎖されるまでの約50年間、福岡市内のみならず遠方からも海水浴客が訪れる、大変人気の高い海水浴場でした。
(絵葉書「(福日主催)百々道海水浴場」より) 戦前の百道海水浴場の様子。ここはたくさんの人が集まる人気の場所でした。 |
とはいえ、水のレジャーにつきものの水難事故が多く起こっていた事も事実です。
戦前の百道海水浴場での最大の水難事故は、大正15(1926)年7月28日に起きました。
しかもこの事故は、福岡女子高等小学校の夏季聚楽(林間学校)で起こったのです。
(絵葉書「福岡女子高等臨海学校 学習」) 福岡女子高等小学校の夏季聚楽(林間学校)の様子です。水泳だけでなく、松林のテントでの学習の時間もありました。 |
その年の林間学校は7月17日から28日まで。全生徒160名ほどが参加し、28日はその最終日の納会として、競泳や浅瀬での宝探しなど楽しい余興が行われていました。
(絵葉書「福岡女子高等臨海学校 寶探し」) 宝探しは海の中に桃や玉を撒いてそれを探すというもの。当時はよく行われていました。 |
事故のあらまし
納会の最中、多くの人に揉まれて30名近くの児童が溺れてしまいます。
同行した教員や居合わせた福岡市医師会のスタッフ、あるいは遊泳中だった海水浴客らが協力して救助を行いましたが、そのうちの児童5名が命を落としてしまったのです。
また助かった他の児童も蘇生処置を必要としたほどの重大事故でした。
事故の一報は、その日開かれていた市会(市議会)にも報され、当時の時實市長や久世市会議長らは議会閉会後に現場へ弔問に急行。後日市として弔慰金を贈るなどの対応を取っています。
市会はその他にも、救助に尽力したとして、市医師会と海水浴場を主催する福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社の前身)に対し、市会の決議をもって感謝の意を表明しました。
一方、同行していた校長は涙ながらに「教育者としての私の生命も亡(ほろ)びました」と新聞に語り、後日辞表を提出。ほかの全職員も責任を取り1ヶ月分の減給と、遺族に対して弔慰金を贈った事などが報じられました。
盛大な葬儀と慰霊祭
葬儀には、職員・児童のほか市内の他の高等女学校代表や、市長代理として助役や市会議員、また一般の人もあわせると約3000人が参列したといいます。
時實市長、久世市議会長もそれぞれ弔辞を出し、市長弔辞は全文が新聞に掲載されました(大正15年8月1日『福岡日日新聞』朝刊3面)。
一方で、海水浴場を主催する福岡日日新聞社でも、この事故で犠牲になった児童と、これまで水難事故にあった人たちの霊を慰めるため、8月7日から3日間にわたり、盛大な慰霊祭を行いました。
慰霊祭は、百道海水浴場の浜辺約100坪を使い、大テントを張って祭壇を設け、そこには海の幸や山の幸、あるいは福岡市が寄贈した御神酒や篤志家による供物や花輪が供えられました。
その様子を伝えた新聞記事によると、式は住吉神社と香椎宮の宮司が執り行い、さらには竈門神社、筥崎宮、太宰府天満宮からも宮司や関係者が参集した、とても大がかりなものだったようです。
百道地蔵の建立
百道地蔵について地元の人は、「此処のお地蔵様は日によって顔の表情が変わられる」といい、いつも誰かがお花を供えるなど、とても大事にされていたそうです。
* * * * * * *
現在、百道地蔵は博多区にある崇福寺の心宗庵に移され、大切に祀られています。
その表情は優しく、隣には松の木が植えられていて、まるで水難事故で亡くなった人たちの霊を慰め、また海で楽しむ人々を見守ってきた往時の姿を思い起こさせるようでもあります。
崇福寺に移された百道地蔵。隣には松の木が。 |
【交通案内】
○崇福寺/福岡市博多区千代4丁目7番79号
[西鉄バス]西鉄バス「千代町」より、徒歩約5分
[福岡市地下鉄]千代県庁口駅[H03]7番出口から徒歩約5分
【参考資料】
『福岡日日新聞』
・大正15年7月28日夕刊2面「福岡高等女学校 女生徒廿八名溺る 内五名は哀れ絶息 百道夏期聚落納会の惨事 医師会救護班の大活動」
・大正15年7月30日夕刊2面「哀れな五少女の遺族へ 福岡市から弔慰金を贈る」
・大正15年8月1日3面「真夏の陽も光鈍く 痛ましき五少女の校葬 三千の会葬者涙に暮る」
・大正15年8月6日3面「慰霊祭の準備を急ぐ」
・大正15年8月8日3面「厳かな百道慰霊祭―昨夕より― 五少女のみ霊安らかに眠れと 山の幸海の幸くさぐさ供えへ」
・大正15年8月10日夕刊2面「百道慰霊祭 厳かに終る 昨朝の納祭最終行事 稀に見る大仕掛の大祭無事済む」
西新公民館歴史研究会『西新町の歴史(1)歴史物語散歩』(西新公民館、1986年)
※ 絵葉書はすべて福岡市史編集委員会所蔵。
#シーサイドももち #百道海水浴場 #百道地蔵 #崇福寺
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]
趣味で「福岡市新四国八十八ヶ所霊場」を調べたり、巡ったりしています。第72番札所として百道地蔵尊が記載されているのですが、こちらの記事が非常に参考になりました。崇福寺さんにある百道地蔵を訪ねてみようと思います。
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