2015年12月27日日曜日

明治大正期の日本号と母里家

学芸課の宮野です。
博物館だより「Facata」101号の連載「百道浜クロニクル」、いい話です。ぜひお読みください。
※まもなくホームページにアップされる予定です。

さて、年末の片づけをしていたら、1942年9月に山崎麓という国文学者が『書物展望』12(11)(137)という雑誌に発表した「母里太兵衛の後裔」という文章が出てきました。(のちに『福岡県人』21-2、1943年2月発行に再録)。

これまであまり知られていない明治大正期の母里家に関するエピソードが数多く書かれています。今回思わず全文をテキストデータ化してしまいましたが、日本号を純粋に“作品”としてご覧になりたい方は読まれない方がよいかもしれません。しかし、その背景にあるものも全て知った上で日本号をご覧になりたい方には必読の文章です。

併せて「秘密―かくす・のぞく・あばく」展をご覧いただくとよりお楽しみいただけるはずです。その理由は、、、、秘密です。

※入力にあたって、旧字は新字になおしましたが、「ゐる」とか「いふ」といった仮名遣いはそのままにしております。文中に現在では一般的に使わない表現も含まれておりますが、原文を尊重して改変せずにそのまま掲載しております。その点、ご了承下さい。


大身鑓 名物「日本号」福岡市博物館所蔵

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山崎麓「母里太兵衛の後裔」


 日本の戦国時代に興味をもつ人ならば筑前黒田藩の名将に母里太兵衛(一に太平、母里但馬ともいふ)ある事を記憶してゐるであろう。彼は黒田の始祖、如水、長政の二代に仕へ栗山備後と並称された人物である。主命により福島正則のもとへ使者として出かけ、彼の酒量を知らぬ福島と賭をなし、正則が太閤殿下より賜つた日本号の名槍を貰ひうけて帰つた逸話は講釈種にもなつて居りひろく大衆にも知られてゐる。
 その母里太兵衛の子孫は連綿として三百年もつゞき明治年間にいたつてゐる。私の少年時代、不思議にも母里氏の後裔と接触してゐた。その想ひ出を話してみよう。

 物語は五十年の昔にさかのぼる。明治廿四年頃の事である―。
 当時私の父は福岡県書記官をつとめてゐた。知事は鎮西探題とあだ名されてゐた豪傑、安場保和氏であった(後、男爵例の後藤新平伯の岳父)官尊民卑の風が盛で、一書記官でも単なる地方官吏といふのではなく、昔の一藩の家老ぐらゐの権威をもつてゐた時代である事を呑みこんでゐて貰はぬとこの話は興味が湧かぬかも知れない。
 父は県庁のある天神町に住んでゐて徒歩で通つてもいくらもない距離なのに当時のお役人の風習で堂々とお抱への車で役所から帰つてくる、入浴と晩食がすむと三男である私が呼びつけられる。時節は夏であつた事がはつきり私の印象に残つてゐる、春でも秋でも同じであつたのだろうが。
  『母里さんへ行つて、お暇なら碁をうちにお出で下さいと云つておいで』
  『はい』
 父の命令は恐ろしい、私は早速出かけた。
 母里さんの家は私の家の真正面の向ふにある。鉄鋲が扉にうちつけてあるいかめしい邸門で、左手に長屋が二軒つづいてゐる、どうしても江戸ならお旗本の門構へである。
 これが黒田家の名臣母里太兵衛の後裔たる母里の当主の住んでゐられる邸なのである。恐らく江戸時代三百年の間、代々こゝに住んでられたのであらう。当主もやはり太兵衛と名のつて居られた。
 その門をはいると直ぐ土塀につき当つてしまふ。土塀の中は桐畠であつた。まるで城の枡形のやうに土塀にさへぎられて正面が見通せない。そこを左に曲り更に右へ曲ると正面に大きな玄関があらはれ相当広い邸宅がある。昔はそこが母里家の住宅であつたに違ひないのだが、今は貸家になつて別の人が住んでる、その邸を右手に眺めながらずつと奥へ進むとまた土塀があり小さい門をはいると六間ばかりある住宅にぶつつかる、そこが今の母里家の住宅なのである。
 明治維新後、大きな邸宅住まひをやめ、昔は家来だちの住んでゐたか、それとも隠居の住んでゐた家を本邸とはなしてしまひ、自分たちの住宅に改造されたのではあるまいかと後になつて私は想像して見た。
 その土塀の左手には紫陽花がしげつてゐて、花のさかりの頃は病める夫人の蒼ざめた頬がいくつも覗いてるやうでその頃やつと小学校に入学したばかりの私には、夕暮そこを通るのが何となく気味がわるかつた事を今でもはつきり想ひ出す。
 玄関で声かけると、いつも眉の剃り痕の青々した色の白いふとつた奥さんがにこにこして出て来られた。
 母里さんは呼びに行くと大抵来られた。先方も好きな道だし、夜は退屈してゐられたものらしい。
 母里さんと父との碁は丁度よい相手で互先であつたとの事その父の力量といへばそれから廿年後私は知つたのであるが初段に星目位のもの、別に師匠について習つたわけでもない自己流、母里さんも御同様であつたらしい。それで御両人いかにも楽しさうなのだから好敵手だつたに違ひない。
 母里さんは髭のない細面でいかにも穏和な人物、静かな言葉つきで名家の主人にふさはしい人柄であつた。その頃可なりの老人だと思つてゐたが、今から考へるとまだ五十にはなつてゐられなかつたのである。
 母里さんと父との応対は今考へても興味深いものがあつた。父はいつまでも役人風の抜け切れぬ頭の高い人であつた、ところが母里さんに対しては実に慇懃鄭重をきはめてゐる、母里さんも実に慇懃である、何となく一脈相通ずるものがあつて互に敬意を失はず親みあつてゐたと思はれる。
 それから二十年後、父の追想談によつてわかつたのであるが、母里さんは遊んでゐてもし方がないからと父に就職口を依頼されたのださうだ、そこで県庁方面はいふに及ばず、各方面をさがして見たが何分中年ではあり漢学の外新しい学問をしてゐられる訳ではなし適当な地位がない、漸くさがし出したのが、県立病院の書記の役であつた、それで宜しいかと尋ねたら母里さんは喜んで承諾され、その頃は毎日弁当をさげ出勤されてゐたのである。いはゞ病院の事務員さんである。
 それに対し父があんなにも鄭重であつたのは全く理由があつた、それは名家に対する父の武士気質から来たものである、父は但馬出石の仙石藩で百石とりの武士の出身である、大藩なら百石とりなぞは軽輩であるが、例の仙石騒動で三万八千石に減封せられた出石藩では相等な家柄である、しかし黒田藩に於ける母里家の地位から比較すると全くお話にならない、維新前に旧藩の生活をした父には、依然かういつた格式、旧名家に対する尊敬、などを失はなかつたのである。
 しかも母里さんの人格が近隣からも敬意を払はれ、誰一人悪評をはなつものがゐなかつた、その人格も父に気に入つてゐたためであつたらう。世が世ならば大藩の大身、小藩の小身といつたやうな感慨が父の胸中に湧いてゐたらしい。

 母里さんの家によく私は遊びに出かけた。庭の奥には竹藪があり、その横に古色蒼然たる土蔵が建つてゐた。普通の白壁でなく褐色の砂壁であり、外見は余り堅固さうにも見えなかつた、この土蔵の中に例の有名な日本号の槍がしまつてあるのだと教へられてゐた、土地の人は日本号などとしかめつらしい名で呼ばず飲み取り槍と称してゐた、酒を飲んで福島家から取つたといふ意味だ。
 この槍について神秘的な伝説がつたはつてゐる、江戸時代、福岡の城下におこりの病、狐つきといつたやうな病人があると、母里家の主人に頼みに来る、主人はこの名槍をひつさげて出かけ、鞘をはらつて病人の頭上に煌々たる穂先を閃めかすと、病人の病がたちまち全快したさうだ、名器の威徳で神経的な病気には効験があつたものと見える。
 この脆弱さうに見える土蔵にも興味ある逸話が残されてる。これも数代前の昔、この土蔵に沢山の宝物がしまつてあると睨んだ一人の盗賊、ある夜忍びこんで土蔵の裾に穴を切りあけて這入らうとした、すると上から砂がさらさら落ちて穴を埋めてしまつた、盗賊はせつせと砂をかい出した、いくら砂を掘り出しても砂が出きつてしまはない、穴の前には見る見る砂の山が築きあげられたが砂は尽きない、もぐり込んで内壁を切り開くわけにもいかぬ、その内に夜が明けかゝつた。盗賊は狼狽して空しく逃げてしまつた。
 これは土蔵の外壁と内壁との間が厚くできて居り、そこに砂が多量に詰めてあつたのだといふ。人のもぐれる土管でも用意して行かぬ限り忍びこめないのだつた。昔の人の周到な構築といふべきであらう。
 飲み取り槍といひ、この土蔵の構造といひ、子供心にも面白く感じながら、その古びた褐色の壁近く来ると、その寂然たる姿に何となく一種の神秘さを感じ、楽書をする気にもならなかつた事を覚えてゐる。

 母里さんには三人の娘さんがあるだけであつた。末に男児が産れたけれど三歳位の時になくなたのである。定めて落胆された事と思ふ。その時にはもう長女の富子さんに養子か来てゐた、中年にできた末の男児にはかゝれぬとの心構へであつたらしい、富子さんはその時十八で、母親似の色白の丸顔であつた、養子は春次郎といひきりつとした好男子である、駒場の農科の実科出身だと後から聞いた。
 前に述べた昔の本邸は貸家になつてゐて、いろんな人が借りたらしいが私には全く記憶がない、たゞ一度だけ覚えてゐる、それは七八人の書生さんが当時流行の白木綿の兵子帯をまいてごろごろしてゐた事である。
 この人達は玄洋社の壮士で当時激烈をきはめた選挙運動の折には、大刀を提げて奔走したといふ、といつても白昼公然帯刀を許されないのだから、蓮根に見せかけるため、刀を藁づとにつゝみ、わざと泥を上に塗つて持ちあるいてゐたと近所の人々の噂を聞いた。
 よく覚えてゐないけれど、この人達の移転後間もなく母里家の本邸はとり崩され、一面の畑地となつてしまつた、家賃の安い時代だから古い建物の修繕費と、収支償はなくなつたのだらうと後から想像してゐる。
 その前に母里さんの奥さんも病死され、母里家は何となく一脈の淋しさに包まれて、せつせと畑に手入れをしてゐられた母里さんの姿もやつれてゐたやうだつた。
 それから間もなく安場知事は愛知県へ転任せられ、私の父は非職(今の休職)となり、私一家は元の古巣の東京へ舞ひもどつて、母里さんとも別れてしまつた。
 しかし父と母里さんとは毎年、賀状の交換をしてゐた、それから何年経過した後だか覚えてゐないが、母里家では日本号の名槍の湮滅を心配され、黒田侯爵家へ献納されたとか、預けられたとか聞いた。昭和になつてからだと記憶するが、この種の古名器、重宝の展覧会が上野公園で開催せられた時、黒田侯爵家からこの日本号が出品される由新聞に報ぜられてるのを見、感慨をあたらにした次第である。
 母里さんは私の父より数年はやく逝去せられ、それからは年賀状は養子春次郎さんの名で父の没するまで続いた。しかしそれはもう福岡からではなく岩手県などの種馬場からである。春次郎さんは畜馬の方で農林省の技手を勤務されてゐたのである。後には技師になられた事と思ふ。
 春次郎さんは今生存してゐられゝば、もう七十五六歳の高齢である、夫婦の間に子がなかつたさうだから、多分養子をされたであらうし、もうその養子もりつぱな壮年のはずである。しかし母里家で太兵衛を名のつたのは私の知つてゐるあの母里さんが最後の人であつたらう。

 あれから三十年の後、大正八年、私はなつかしい福岡に旅行した、まつ先に天神町へ出かけた、私のゐた家は全く改築されて昔の面影はちつとも残つてゐない。電車さへ通るやうになつてゐた。
 それなのに母里家の邸門だけは儼然として昔のまゝのいかめしさを存して建つてゐた。黒い鉄鋲のある扉も昔通りであつた。何ともいへないなつかしさが胸一杯であつた、福岡市で国宝的存在、史蹟保存の意味で保護を加へてゐるのではあるまいか。その時ふとそんな考へがうかんだ、さうだとすると五十余年後の今日でもまだ天神町に残つてゐる事と思ふ。(了)
































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