2022年11月18日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈014〉あゝ、あこがれの旧制高校

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

12(「百道地蔵に込められた祈り」)

第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。



〈014〉あゝ、あこがれの旧制高校


以前このブログで、百道の元寇防塁跡に護国神社を誘致したいという動きがあった、というお話を紹介しました(→〈010〉「元寇防塁と幻の護国神社」)。


実はこの手の誘致話、まだほかにもあったんです。


* * * * * * * 


大正時代の初め、福岡には旧制高等学校なく、これを誘致しようという話が持ち上がっていました。

旧制高等学校とは、帝国大学への進学などのための予備教育的な機関であり、福岡県にとってもその誘致は悲願でした。


そこで問題となったのは「どこに建てるか」です。

学校となると、ある程度の広さが必要になりますし、旧制高校となれば環境も大切です。


この当時、まだ福岡市ではなかった西新町は、明治33(1900)年に中学修猷館ができ(現在の県立修猷館高校、大名町から移転)、その後道路の拡張や軌道(電車)の敷設など、新しい町としてのスタートを切ったばかりとも言える時期でした。

そこで大正8(1919)年3月、当時の西新町長岸原佳哉をはじめ町会議員一同ら有志は、この機運に乗り遅れまいと西新町に旧制高等学校を誘致するため、活動を開始します。

候補として選ばれた場所は、中学修猷館の北、百道海水浴場西側の百道松原一帯でした。


(「福岡博多及郊外地図」福岡県立図書館所蔵)
大正9年の地図を見ると、中学修猷館の北側は広大な松林。
これはたしかに何かを誘致したくなりますね。
ちなみに西新小学校も移転前(大正15年に現在地へ移転)。


現在の地図で見るとこの辺り……?


西新町がアピールしたポイントはこうです。

・近隣に福博電車や北筑軌道が走り、今川橋終点からも5丁(約550m)ほどと近く、九州帝国大学にもそこから電車1本で行けるほど交通の便がいい

・中学修猷館や西南学院中学に隣接しているので、教育上も文教地区としての利便性が高い

・なにより白砂青松の景勝地を控え、環境がいい

(大正8年3月18日『福岡日日新聞』朝刊7面記事「高等学校の新候補地 西新町百道松原地内 有志の運動開始』より要約)


さらにこの時、彼らは修猷館正門側の道路を拡張、並木通りに改造して、それを隔てた東側に寄宿舎を設けるといった計画(夢)にまで言及しています。

これはまるで現在のサザエさん通りの姿そのものです。

また、この誘致活動には地元の有志に加え、一時は眞野九州帝大総長や元衆議院議員の藤金作も賛同したと伝えられました。


道路拡張……並木通り……。

その後、誘致合戦は報道も二転三転する中、5月の報道では候補地が第8候補まで増えています。

 ① 早良郡鳥飼村

 ② 同郡鳥飼村・樋井川村区内

 ③ 同郡鳥飼村・樋井川村区内

 ④ 同郡西新町

 ⑤ 同郡西新町

 ⑥ 筑紫郡八幡村

 ⑦ 糟屋郡大川村・仲原村区内

 ⑧ 糟屋郡大川村

(大正8年5月14日『福岡日日新聞』朝刊2面記事「高等学校敷地」より要約)


②・③と④・⑤は重複なのか、はたまた複数候補があったのか分かりませんが、いずれにしても県は西新町を鳥飼に次ぐ候補地として、文部省との交渉に当たったようです。


そんな中、渦中の安河内福岡県知事は各候補地について、次のように述べました。

・平尾の候補地からは遊郭が見えるのでよくない

・鳥飼村谷は埋め立てなどの工事に費用がかかりそうだ

・交通の便を考えなければ、環境は粕屋方面がよい

・大川村は高地、仲原は田地だが、早良郡方面に比べて土地代が安い

・教授の通勤は車というわけにはいかず、交通の便は重要となるため、結局福岡市の近くがよいか

・百道松原は保安林なので、高等学校のような大きな建物であれば防風の面から見ても良いし、同所は地質が建築に適しているので工費も省けそうだ

(大正8年6月13日『福岡日日新聞』朝刊3面記事「高等学校敷地 安河内知事談」より要約)


この談話からは、西新町もなかなか好感触なのでは?!と思ってしまいますが、結局は鳥飼村に決定したため、西新町に高等学校がつくられることはありませんでした(大正11年開校)。


ちなみに福岡旧制高等学校は戦後、新制九州大学の発足とともに「九州大学福岡高等学校」となりますが、その後廃校となり、その跡地には九州大学分校、そして教養学部が建ち、現在では六本松の中心地として、「六本松421」が建っています。

すっかり福岡の新名所となった六本松421。
大学があった頃の風景とはすっかり変わってしまいました。


六本松の九州大学跡地に建つ「青陵乱舞の像」。
旧制福岡高等学校を偲び、同窓会によって建てられました。
上の写真の左隅のあたりに建ってます。

高等学校誘致という大事な局面で、西新町が百道を候補地に選んだ背景には、西新町という新しいまちの中で交通の便が良い上に開発の余地があり、なにより白砂青松の景勝地を控えている素晴らしい環境という事が大きなポイントになっていたようです。


* * * * * * * 


もちろんこれは「たられば」の話です。

でも誘致活動が成功し、旧制福岡高校が西新町にできて、そしてそのまま九州大学の一部が建っていたら……。

もしそんな世界線があったなら、西新は一体どんなまちになっていたのでしょうね?



#シーサイドももち #西新町 #幻の旧制高等学校 #あったかもしれない歴史

 

Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル]

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