埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
〈093〉百道良いとこ一度はおいで! ―福利厚生の場としての百道①―
現在では白く長い砂浜が名物となったシーサイドももちですが、昭和末に埋め立てられるまでは現在の西新2丁目・7丁目、百道1丁目が海岸に面した「海辺のまち」として知られていました。
現在のシーサイドももち。
白砂青松を再現した弓なりの砂浜です。
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百道一帯の開発の変遷
江戸時代~明治時代のこの一帯は、西側に福岡藩の砲術練習場(射撃場)、東側には紅葉八幡宮の広大な境内地があり、それ以外には一部屋敷地もありましたが、そのほとんどが松林が広がる広大な原野でした。
(「福岡市明細図」明治28年、福岡市博物館蔵)
明治時代の百道周辺の様子。
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大正時代に入ると、紅葉八幡宮が移転(大正2年〈1913〉)し、大正6年(1917)には東側に西南学院が大名町(現在の中央区赤坂)から移転してきます。
これらは百道開発にとっての最初の大きな出来事でした。
さらに大正7年(1918)7月には東側に百道海水浴場が開場したことで、大正末~昭和初期には百道海岸は東側を中心に周辺の開発熱が一気に進んでいきます。
(「最新福岡市街及郊外地図」大正14年、福岡市博物館蔵)
大正時代の百道一帯。
少しずつ建物が増えていますが、住宅は少なめ。
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(「最新福岡市地図」昭和13年、福岡市博物館蔵)
昭和10年代の様子。
だいぶ松(緑の部分)が減り、住宅も増えてきました。
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とくに百道海水浴場は大人気で、夏になると福岡県内のみならず県外からも多くの人が集まるリゾート地となり、たくさんの海の家や旅館が建ち並ぶようになりました。
(『福岡日日新聞』昭和7年8月27日紙面より)
海辺にずらーっと並ぶ海の家。
ちなみにこの写真は桟橋に建てられた休憩所から撮ったもの。
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百道に集まってきた社員寮や保養所
戦後になってももちろん百道海水浴場人気は健在でしたが、周辺の環境には少し変化が起こります。
会社の保養所や社員寮などが多くできはじめました。
こちらは昭和43年(1968)の町内の地図の一部です。
(「自治体現勢広報シリーズ №60 町会全図」
〈昭和43年版、株式会社広報出版センター福岡営業所〉より、個人蔵)
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右端が樋井川、左端が室見川(金屑川)、上が海岸線で、一番下の部分に左右に走る道路が現在の明治通りです。当時はこの道を市内電車が走っていました。
この地図に、個人宅以外(と思われるもの)に色をつけてみます。
(「自治体現勢広報シリーズ №60 町会全図」 〈昭和43年版、株式会社広報出版センター福岡営業所〉に加工、個人蔵) |
結構な範囲ですね。
面積的には少なくとも半分くらいは個人宅以外が占めているようです。
この中から、学校や公共施設・会社・商店を緑色にしてみました。
(「自治体現勢広報シリーズ №60 町会全図」 〈昭和43年版、株式会社広報出版センター福岡営業所〉に加工、個人蔵) |
面積が大きいところは、西南学院や修猷館、小学校、あとは拘置所などですね。
現在の明治通り沿いには、商店や会社が多いようです。
ちなみに海の家や旅館はこちら。ちょっと分かりづらいですが、青色の部分です。
(「自治体現勢広報シリーズ №60 町会全図」 〈昭和43年版、株式会社広報出版センター福岡営業所〉に加工、個人蔵) |
百道海水浴場がある東の海岸沿いにあるのはもちろんですが、その南側にも2軒ほど旅館がありました。
さて、ここまで色分けされていない部分が残っていますが、これが会社や国・県などが所有する寮や保養所です(オレンジの部分)。
(「自治体現勢広報シリーズ №60 町会全図」 〈昭和43年版、株式会社広報出版センター福岡営業所〉に加工、個人蔵) |
やはり海沿いと東側に多いようですね。
寮以外にも保養所があるというのも、海水浴場が売りの百道の特徴といえそうですね。
実際、どのような会社が寮や保養所を設けていたのか、この町内地図に加えて、ほぼ同年につくられた昭和42年(1967)の「福岡地典」も参考にしながら社名を抜粋してみました(判読できたもののみ/五十音順)。
1、麻生産業
2、福岡海浜 ※団体名かどうか不明
3、福岡県共済組合(水光苑)
4、フランスベッド
5、古河大峰炭鉱
1、NHK
2、旭電子 *
3、アサヒビール
4、英数学館
5、大阪屋
6、開発銀行(日本開発銀行?)
7、九州大学 ※学長公舎
8、熊本相互(銀行?)
9、建設省
10、鴻池組 *
11、神戸銀行
12、公務員アパート(国)
13、サントリー ※寮か保養所かは不明
14、市営住宅
15、住友海上
16、住友石炭
17、専売公社
18、全服連(全日本洋服協同組合連合会?)
19、大正海上火災
20、竹中工務店
21、千代田コンサルタント *
22、中外製薬
23、東京銀行
24、長門運輸株式会社
25、西鉄タクシー
26、西鉄ライオンズ
27、日興證券
28、日産 *
29、日産化学 *
30、日清製粉
31、日赤
32、日本火災
33、日本炭業
34、野村證券
35、日立電子
36、福岡熊本営林署
37、福岡相互銀行(のちの福岡シティ銀行)
38、富士銀行
39、富士フイルム
40、母子寮
41、松下電器
42、丸十
43、丸味珍味食品工業
44、水城学園
45、三井銀行
46、三井信託銀行
47、三井鉱山
48、三菱銀行
49、三菱商事
50、モリメン
51、森山綿業 *
52、山一証券
53、郵政アパート
54、吉村医院
*印は追加(2024.10.11)
書き出してみるとあらためてその数の多さに驚きますが、いまでも良く知られている一流企業の名も多数並んでいます。
中には「西鉄ライオンズ」寮の名前も見えますね。
これは雨天練習場なども備えた合宿所で、昭和34年(1959)から百道にあり、開業当時は大変話題にもなり、また百道の名物にもなった施設です。
また、保養所の「水光苑」は現在、跡地近くに碑が残されています。
(福岡市史編さん室撮影) サザエさん通りにある「セブンイレブン」前にあります。 |
働く人の福利厚生のために
社員寮(社宅)の歴史は古く、明治時代にできた仕組みと言われています。当時はそれまでになかった「会社」というものが誕生し、工場などで働く人が増えていきますが、労働環境や通勤を苦に辞める人も多く、労働力の確保が課題とされました。
そこで会社(経営者)は働く人の生活まで責任を持って面倒を見るということで、社員専用の住宅を用意したのだそうです。
戦後はさらに労働力の確保が課題となっていきます。
そこで、働く人にとってよりメリットとなるような魅力的な条件の一つとして、社宅や社員寮、あるいは保養所など、いわゆる「福利厚生」の充実が求められる時代になっていきました。
このような観点から見ると、これだけの企業が百道に寮や保養所を設けたということは百道がそれに適した場所だと判断されていた(あるいは評判を呼んだ)ということかもしれません。
それもやはり戦前から百道海水浴場の人気によって都市型リゾート地といわれた「百道」ブランドのなせる技?なのでしょうか。
調べてみるまでこれだけ多くの会社が集まっているとは思わなかったので、個々の会社の事情と百道の関係については、引き続きもっと詳しく調べてみたいと思います。
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]
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