埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
〈088〉70年続く伝統の林杯ヨットレース ― 百道とヨット① ―
パリオリンピックでは連日さまざまな種目で熱戦が繰り広げられ、選手たちが活躍する姿が報じられています。
夜~深夜にかけての中継を連日追いかけて寝不足…という方も多いかもしれません。
普段、あまり興味がない種目を知るきっかけにもなるのがオリンピックでもありますよね。
今回のパリオリンピックでは、32競技329種目の競技が行われていますが、すべてがテレビ中継されるわけではなく、積極的に探さなければ見られない競技も多くあります。
その一つがセーリング、つまりヨット競技です。
先日行われた上位10艇で争うメダルレースでは、混合470級で岡田奎樹・吉岡美帆組が銀メダルを獲得しました!
そしてこれ、なんと20年ぶりの快挙なのだそうです!
岡田・吉岡ペア、銀メダルおめでとう~~~~!!! ちなみに岡田選手は北九州市出身なんですよ。 |
日本では全国的にも昔から海や水の競技は比較的盛んで、ヨットもその一つです。
とくに福岡(博多湾)はその地形から、波がおさえられる上に適度な風に恵まれていて、昔からボートやヨットが盛んな場所として有名です。
最近では2016(平成28)年には、シーサイドももち沖を舞台に「アメリカズカップ・ルイヴィトン・ワールドシリーズ」が開催され、大きな話題となりました。
ほかにも博多湾では国際大会や全国大会など、大規模なヨットレースがたびたび開催されています。
こちらのブログでも、アジア太平洋博覧会―福岡’89(よかトピア)に関連して1989年に開催されたヤマハカップヨットレースについてご紹介しました。
ヨットやセーリング競技は「まさに夏!」といったイメージの競技ですが、実際には中継などもあまりありませんし、じっくりと観戦する機会が少なく、経験者でなければなかなか分かりづらい競技かもしれません。
そこで、ここでヨットについてほんの触り程度の素人ヨット解説を…(長いので飛ばしてもらっても大丈夫です)。
ヨットにはいくつか種類ありますが、ものすごーくざっくり分けると「クルーザー」と「ディンギー」があります。
クルーザーには船室があり、1人乗りのものから多人数で乗れるものまであります。
これらはエンジンのないもの(キールボート)や外洋を航行できるもの(セーリングクルーザー)など、さまざまな種類に分けられます。
先にご紹介した「アメリカズカップ」は、このクルーザーの中の「AC45」というヨットを使ったレースでした。
クルーザーってこういうイメージ。かっこいい。 |
一方の「ディンギー」は、より小型のヨット(1~2人乗り)でエンジンや船室はありません。ジュニアクラスや国体、オリンピック競技などでも使われています。
このディンギーにもさらにいろいろな種類があり、たとえばジュニアクラスでも使われているのが1人乗りの「OP級」で、一番小さなヨットです。
「420(ヨン二ーマル)級」は船体の長さが4.2mあるヨットで、高校生が国体などで使用します。
さらに大学生以上になると「470(ヨンナナマル)級」や「スナイプ級」があり、470級はオリンピックのセーリング競技でも採用されています(470級は船体の長さが4.7mあるヨットです)。
今回銀メダルを獲得したのも、この470級の混合、つまり470級の男女混合でのレースでした。
また、スナイプ級は帆が2枚あるのに対し、420級と470級ではさらに3枚目の帆があるのも特徴の一つです。
※ 割愛しますがヨットには他にももっとたくさん種類があります。
ちなみにパリオリンピックでは470級のようなヨットのほかにも、ウインドサーフィンやカイトボード(ボードにパラグライダーの翼のような凧をつけて手動で操作し風に乗って水上を滑走する競技)なんかもセーリング競技として行われています。
さて、ディンギーヨットはエンジンを搭載していないので、風の力で動きます。
風の力といっても単に風に吹かれて動くわけではなく、むしろ風上に向かって進みます。
ただし風に向かって直進することはできず、風に向かってだいたい45度の角度でジグザグに進んでいくのが特徴です。
上から下に向かう青の矢印が風の向きとすると ヨットは風に向かってまっすぐには進めない…。 |
なので、目的地に向かってこのようにジグザグに進みます。 |
片方が膨らんでいるヨットの帆(セール)のまわりを風(空気の流れ)が通ると、空気の流れは帆の膨らんだ方が早くなり、もう片方の膨らんでない方では遅くなるという現象が起こります。
このとき、空気の流れが速い方に引っ張られるように動く力が生じます。これが「揚力」です。
青の矢印が風の流れ(右から左へ)とします。 |
そこに障害物(帆)を置くと、空気の流れが変化します。 |
障害物(帆)に角度があることで、膨らんでいる方を通る風と 膨らんでない方を通る風の速さに差が生じます。 |
すると、速い流れの方に引っ張る力が生じます。 これが「揚力」です。 |
この揚力をうまく発生させるためには、単に帆に風を当てる(受ける)だけではダメで、この図のように、いかに帆にうまく風を流すことができるかというのがポイントになってきます。
また、実際のヨットではこの揚力だけでなく、ヨットが進行方向に進もうとする力(推力)と、ヨットを横に押し流そうとする力の三者の力が拮抗しています。
こんな感じのイメージです。 |
前に進むためには横に押し流そうとする力をなるべく小さくする必要があり、それを担うのが船体の底に出ている「キール(センターボード)」、それに「ラダー(舵)」と呼ばれる部品です。
キールは出したり入れたりすることで調整し ラダーは左右の向きを変えることで力を制御します。 |
いずれの部品も水中にあり、ヨットが斜めに進もうとすることで水流に対して斜めになるため、これらにも帆と同じように水による揚力が生じています。
これらの力を制御しながら調整することで、ヨットを横に押し流そうとする力を抑えることができます。
つまり、ヨットを操縦するということは、このような風の流れや水の流れを瞬時に捉えて、帆の張り具合や風が当たる角度を調整し、また同時にラダーやキールも操作しなければならないということなんですね。
…うーん、難しすぎる!!
物理の知識ほぼゼロのわたしにはこれ以上詳しく説明できずかなり割愛していますので、もし間違っていたらどうかご教示ください…。
ちなみにこの揚力の原理は飛行機の翼と同じなのだそうです(限界)。
こういう感じのヨットがディンギー。 風と波を読みながら操縦します。これは相当難しそう…。 |
つまり何が言いたいかといいますと、ディンギーのようなヨットを走らせるには、適度な潮の流れと風が絶対条件なわけです。
そうすると、博多湾がいかにヨットに向いている場所かということがお分かりいただけるかと思います。
…と、前置きが大変長くなりましたが、今回はそんなヨットと百道にまつわるお話です。
(福岡市博物館所蔵) 大正11年の『福岡日日新聞』に掲載された 百道海水浴場でヨットを出している写真。 |
* * * * * * *
ヨットの歴史は学校から
福岡市でヨットが普及したのには何より博多湾という好環境に恵まれていることが大きいのですが、そうした環境から福岡市域の学校では九州大学を筆頭にかなり早い時期からヨット部があり、ヨットは学生たちによって広まっていきました。
福岡市内では現在でも高校で5校(修猷館高校、三陽高校、西南学院高校、福岡第一高校、福岡高校)、大学では6校(九州大学、日本経済大学、福岡大学、西南学院大学、九州産業大学、福岡歯科大学)のヨット部が活動しています。
中でも九州大学と修猷館のヨット部は、それぞれ大学・高校(旧制中学)で日本でもっとも古い歴史を持つヨット部といわれています。
九州大学のヨット部は昭和2(1927)年、修猷館のヨット部は昭和16(1941)年に創設したのが始まりです(九州大学は端艇部からの独立、修猷館は「国防訓練本部海事訓練部ヨット班」としての創部)。
現在は西区小戸にある福岡市ヨットハーバーが主な活動場所となっていますが、かつては名島や百道がヨット部の拠点となっていた時代が長くありました。
名島は主に九大が基地としており、百道は修猷館や西南学院などの練習場所として使われていました。
百道を中心に活動してきた修猷館ヨット部は、歴史が古いだけあってこれまでにさまざまの大会で好成績をおさめてきましたが、昭和30(1955)年には練習中に部員の一人が亡くなったという、悲しい歴史がありました。
当時、高校2年生だった林英男くんという部員が、練習中に遭難してしまったのです。
昭和30年の水難事故
(個人蔵) 林くん遭難事故の顛末を記した報告書。 |
修猷館高校のヨット部員8名は、5月に予定していた合宿の準備として、当時名島にあった九州大学ヨット部の艇庫(ヨットを格納する倉庫)がある合宿所へとヨットを運搬するため、ヨットに分乗して百道海岸を出発しました。
このように、練習のために百道から名島などにヨットを操縦しながら運搬することは日常茶飯事だったようです。
この時のヨットの編成は、A級12フィートディンギー(1人乗り)が5隻、スナイプ級(2人乗り)が1隻で、A級ディンギーのうち2艇は西南大ヨット部から借用したものでした。
※ A級12フィートディンギーとは、戦前~昭和40年代頃まで使用されていたヨットで、1枚帆の木製ヨットのことです。
計画では百道を出発し鵜来島を通り、福岡港の西防波堤で一度集合し、そこからみんなで東側防波堤に沿って名島に向かう予定だったそうですが、西防波堤のあたりで大型の木造漁船とニアミス。これを避けるため船団は一度ばらけてしまいます。
(『修猷館ヨット部創部五十周年記念誌』掲載図を基に作成、 下図は1/50000「福岡」昭和35年測量地形図〈国土地理院〉) 事故当日の航路。一度西防波堤で集まり名島へ向かう予定だったが、ここで漁船と遭遇。 |
いくつかのヨットは防波堤の内側で漁船が行き過ぎるのを待っていましたが、林くんが乗ったヨットは外側へとはぐれてしまったため、林くんはみんなの元に戻るのを諦めて、他のヨットより先に名島へと向かう形となりました。
内側に残ったいくつかのヨットも体勢をたてなおして再出発したものの、そのうち荒天となり、結局それぞれが単独帆走を強いられます。
それでもその日の夜7時~9時頃までにはみんな無事に名島へと到着できたのですが、先に行ったはずの林くんのヨットはいつまで経っても現れません。
部員たちはただちに警察に連絡して捜索を依頼。その間、名島の海岸で焚き火をして林くんの到着を待ちました。
部員たちも名島付近や志賀島周辺などを捜索したところ、香椎方面に捜索に行った部員が林くんのヨットを発見。
しかし、そこに林くんの姿はありませんでした。
その後も、水上署や海上保安部による巡視船、志賀島・伊崎浦の水難組合による捜査艇出動、漁協や潜水夫への捜査依頼、各放送局へ尋ね人放送の依頼、湾内や沿岸の捜査、ヨットによる巡回捜査等、などあらゆる手を尽くした捜索が行われました。
しかし結局、林くんは5月8日になって百道より西の姪浜沖の海上で遺体となって発見されてしまったのです。
(『修猷館ヨット部創部五十周年記念誌』掲載図を基に作成、 下図は1/50000「福岡」昭和35年測量地形図〈国土地理院〉) 事故現場の位置関係。 西防波堤までは林くんの姿が確認されており、その先で遭難して西へと流されたとみられる。 ヨットは26日夜のうちに海上を漂流しているところを漁船に発見されていたものの 船員はおらずセールも下りていたことから遺失物と思われてそのまま船溜まりに保管されていた。 |
事故から始まったヨットレース
このレースは亡くなった林英男くんにちなみ「林杯」と命名され、トロフィーも制作されました。
林杯のトロフィー。 |
このトロフィーは、福岡出身の彫刻家・安永良徳(1902-1970)が林くんのお父様の修猷館で同級生だった縁から、ご遺族の依頼によって、当時の九州ヨット協会が制作したものだそうです。
(個人蔵) 九州ヨット協会が林杯トロフィー制作をご遺族に報告したハガキ。 |
この林杯はその後も継続され、第1回の昭和30年から現在まで途絶えることなく綿々と続いているという、全国でも珍しい歴史あるヨットレースとなったのです。
そして今年の林杯が7月28日(日)に行われると聞き(記念すべき第70回!)、せっかくなので見学に行ってきました。
(福岡市史編さん室撮影) 西区小戸にある福岡市ヨットハーバー。 朝から快晴! |
当日は晴天に恵まれ、まさにヨット日和といった日曜日。
林杯ヨットレースは、小戸の福岡市ヨットハーバーで開催されました。
(福岡市史編さん室撮影) 続々と集まってくる選手たち。 学校名をプリントしたジャージがいいですね! |
今回のレースでは、
・470級(2人乗り) 5艇 ※ 大学生・一般
・スナイプ級(2人乗り) 8艇 ※ 大学生・一般
・420級(2人乗り) 9艇 ※ 高校生
・OP級(1人乗り) 16艇 ※ ジュニア
・シングルクラス(1人乗り) 24艇
・フリークラス(2人乗り) 4艇
以上のクラスで合計66艇の参加でしたが、林杯は420級の1位に授与されることになっています。
朝10時に開会式が始まり、挨拶や大会ルール、コースの確認などが行われました。
(福岡市史編さん室撮影) |
(福岡市史編さん室撮影) |
(福岡市史編さん室撮影) 林杯トロフィーと来賓の皆さん。 右から福岡県セーリング連盟9代会長の秋山さん 福岡市ヨットハーバー&ビーチ所長の田上さん 福岡県セーリング連盟8代会長の結城さん 林英男さんのご遺族で義姉に当たる林さん 福岡県セーリング連盟現会長の岡部さん |
その後、すぐにレースが始まるのかと思いきや、風を待つため正午スタートとのこと。
この日は北からのいい風が吹き、ヨットには最良のコンディションのようでした。
今回の林杯はこのようなコースで行われました。
スタート地点から1→2→3とブイをまわってフィニッシュ。
OP級だけは1ではなく、少し手前のブイをまわります。
ちなみにスタートもフィニッシュも実際には線はありません。
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ヨットハーバーの西側をスタート/フィニッシュ地点として、能古島の方向(北)へ向かって進みます(この図では上が能古島の方向です)。
実は数年前までレースは能古島を1周するコースで行われていたそうなのですが(かつては「博多湾一周」と名が付いていたくらいですし)、最近では博多湾内を大型の船が行き来する数が増え、漁協や海上保安庁からの許可が下りず、湾内に浮かべたマークブイを順にまわるようなコースで実施されているのだそうです。
この辺りは、以前にご紹介したオープンウォータースイミングと事情が似ていますね。
レースは1時間~1時間半ほど、先頭艇がフィニッシュした15分後をタイムリミットとして行われます。
まずはジュニアクラスのOP級以外が12時5分に一斉にスタートし、その後12時10分にOP級がスタートしました。
(福岡市史編さん室撮影) OP級以外のヨットが一斉にスタート。 |
(福岡市史編さん室撮影) 少ししてからOP級のヨットがスタート。 一回り小さい、かわいいヨットです。 |
(福岡市史編さん室撮影) いろんなクラスのヨットが混じり合っているので 大きさの違いがよく分かります(右側の小さいヨットがOP級)。 |
結果は、林杯の対象となる420級では福岡第一高校の宮前・小林ペアが1位となり、林杯が授与されました(トロフィーは返却され、かわりに楯が贈られるそうです)。
(福岡市史編さん室撮影) 420級の1位チームに70回目の林杯が授与されました。 |
最後に福岡県セーリング連盟の岡部会長にお話を伺ったところ、この林杯は昭和30年に遭難した林さんを追悼し、安全なセーリングを祈念して行われているのはもちろんのこと、市内の小学生や高校生、大学生、一般の人たちなど年齢や経験に関係なく参加しているので、「レース」ではあるものの、みんなでヨットを楽しむという意識が強いのだそうです。
たしかに、一般のレースだとヨットの大きさや年齢などで分けて順位を競いますよね。
この林杯ヨットレースではそれがなく、何よりもジュニアクラス以外のすべてのクラスが一斉にスタートするのも特徴の一つで、参加する方々も本当にヨットを楽しんでおられるようでした。
(福岡市史編さん室撮影) |
また、福岡からは国体・オリンピック選手を何人も輩出しているのですが、彼らもみな学生時代には林杯を経験しているとのこと。
これは70年も続く大会だからこそのエピソードですよね。
こんなに長い歴史を持つヨットレースが福岡で行われていることは、一般的にはあまり知られていないかもしれません。
林さんの事故に限らず海難事故は恐ろしくとても痛ましく悲しいことですが、誰よりも安全に気を配り、事故に遭われた海の仲間を追悼するヨットマンたちの心意気がこれほど長く受け継がれ、「やっぱりヨットは楽しい!」という思いに繋がっているというのはすごいことだと感動しました。
また、今回の林杯にも福岡ジュニアヨットクラブをはじめ、多くの子供たちが参加していたのも印象的でした。
日頃から海と繋がりが深く、どこよりも古くからヨットが盛んだった福岡。先人が脈々と繋いできた福岡のヨット文化は、きちんと次の世代に受け継がれているのだなと感じたレースでもありました。
(『福岡県セーリング連盟七十年史』より) 林杯60周年を記念して2014年に制作されたロゴ。 まだまだこれからも長く続けられることを願います。 |
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ヨットレースは夏に限らず通年で行われています。
夏の暑さもピークを迎えていますが、少し落ち着いてきたらぜひ皆さんも博多湾にヨットを見に行かれてみてはいかがでしょうか?
※ 作図はすべて福岡市史編さん室作成。
【参考文献】
・『修猷館ヨット部創部五十周年記念誌』(修猷ヨットクラブ、1991年)
・福岡県セーリング連盟六十年史編集員会編『福岡県セーリング連盟六十年史』(福岡県セーリング連盟、2008年)
・福岡県セーリング連盟七十年史編集員会編『福岡県セーリング連盟七十年史』(福岡県セーリング連盟、2018年)
・『福岡日日新聞』大正11年8月6日朝刊7面「ヨットの帆かげ 百道海水浴場にて」
#シーサイドももち #百道海水浴場 #ヨット #修猷館高校ヨット部 #林英男さん追悼 #ヨットレース #福岡市ヨットハーバー #パリオリンピック #セーリング
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]
※(2024.8.9)誤字を修正しました(470級は4.2mではなく4.7mです。失礼しました!!)
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