埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラからご覧ください。
第2回(「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈072〉百道松原を買った藤金作(その2)─元寇防塁発見の回─
前回は明治時代の代議士、藤金作が百道松原をしぶしぶ買い入れ、のちにそれを売ったら値段が爆上がりしていた話でした。
さて、藤からそのときに松原を買ったのは西南学院でした。
西南学院は、現在も西新やそれに隣接する埋め立て地「シーサイドももち」に広くキャンパスを構えるミッションスクールです。
学院の創設は大正5(1916)年。
福岡市の大名町で開学しました(現在の中央区赤坂)。
ただ大名町でのスタートは暫定的なもので、校地は当初から西新町の百道松原と決めていたのだそうです。
『西南学院七十年史』によれば、開学にむけて、大正4(1915)年には九州電灯鉄道(のち東邦電力)から西新町の土地を購入する交渉をはじめていました。
学院を創設した宣教師C・K・ドジャーが本国とやりとりした手紙によれば、購入予定地は5エーカー(約6121坪)で、値段は1万5000ドル(3万円)だったとのこと。
出た、九州電灯鉄道!
前回、紅葉八幡宮から譲り受けた土地などで不動産業をやっていたことを紹介しました。
九州電灯鉄道が西新町に持っていた百道松原は10年で11倍の値段に跳ね上がっていました。
前回の話はこちらで。
今回の西南学院の校地の購入は、西新の土地が急騰していくさなかでの計画だったことになります。
購入予定地は約6121坪が3万円くらいだったとのことですので、坪単価にすると4円90銭くらいになるでしょうか。
ただ購入費の工面が開学に間に合いませんでした。
そのため大正5年2月、福岡県からの開学の認可を大名町にあった神学校の跡地で受け、まずは大名町の仮校舎で学院をスタートさせています。
翌年の大正6年、この大名町の土地を売却して西新町の校地の購入費にあて、当初の開学予定地だった西新町で校舎をつくりはじめました。
なお、実際に購入したのは1万98000㎡(6000坪)とのことです(さきほどの数字は5エーカーから換算しましたので、その誤差かもしれません)。
この九州電灯鉄道(のち東邦電力)から買った最初の校地は、現在の西南学院大学の東キャンパス、そのうちのさらに南側部分だけになります。
今だと大学博物館(開学当時の本館)などがあるあたりですね。
(東キャンパスの北側部分は別の機会に購入されたものですが、この話はまた今度に)
西南学院大学のキャンパスマップはこちらをご覧ください。
なお、現在の西南学院周辺の位置関係はこのようになっています。
(Google MAPから作成) |
このキャンパスをさらに拡充するために買い足したのが、前回ご紹介した藤金作の松原でした。
場所は九州電灯鉄道から買った最初の校地の西側。
面積は今回も1万9800㎡(約6000坪)です。
この場所は現在でいうと、西南学院大学の中央キャンパス(その東側の半分くらい)にあたります。
購入は大正9(1920)年5月のことでした(『西南学院七十年史』より。これと藤の伝記『藤金作翁』記載〈払い下げから12年後〉との整合性が問われますが、ひとまず〈071〉で考えた通りにしておきます)。
なお学院では当初、九州電灯鉄道から買った土地を中等学部、藤金作から買った土地を高等学部の校地としておおむね利用していきました。
その境は細い道があるだけで現在のように大きな道路で隔てられてはいませんでした(この話もまた今度に)。
さらに、そうした校地の北側には松原を経て海が広がっていて、学院周辺の景色は今とはまったく違うものでした。
ところで、西南学院が藤金作から買った土地を含む一帯は、旧制高等学校(のちの九州大学教養部)を誘致する話も持ち上がっていた場所でした。
西南学院が購入する直前の大正8(1919)年のことです。
旧制高校の誘致はこのブログの〈014〉が詳しいので、こちらをご覧ください。
当時の新聞記事によれば、誘致にあたっては藤金作に了解を得たような記録があります。
藤がかつて福岡への帝国大学の誘致に関わった代議士で高等教育に関心を持っていたこともあるでしょうが、想定していた用地に藤の松原も含まれていたからかもしれませんね。
藤の帝国大学誘致についてはこちらが参考になります(第1巻 通史編Ⅰ「第1編 第2章」をご覧ください)。
※ 直接内容をご覧になりたい方はコチラをクリックしてください(PDFデータが開きますのでご注意ください)。
旧制高校の誘致失敗(現在の中央区六本松の地に決定)と西南学院の土地取得の前後関係や、そのときの藤金作の動きなど、もう少し調べてみる必要がありそうですよね。
何かヒントが得られましたら、またこのブログでご紹介したいと思います。
ただ、藤が西南学院に売却したのは6000坪。
前回の話によれば、藤はまだ2万4900坪の百道松原を持っていたはずです。
ふつうに考えれば、この2万4900坪の松原は今回西南学院に売った土地に続いているはずだと思うのです(国から払い下げられた不人気の松原でしたから、ここからここまでみたいに、どーんと広い一続きの土地ではないかと思うのですけど…)。
でも今回藤が西南学院に売った土地の南側には、すでに修猷館の校地がありました(明治33〈1900〉年に大名町からここに移転。現在も変わっていません)。
東側は九州電灯鉄道から西南学院が最初に買った校地です。
さらには北側には陸軍の射撃場が大きく東西に陣取っていました(射撃場の話は『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』梓書院に詳しいです)。
そうなると、今回売った西側方向にしか藤の松原が広がる余地はないのでは?というのが、『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』をつくりながら予測していたことでした。
本を出版したあと、細かく新聞記事の調査をつづけるなかでこういう記事が見つかりました。
『九州日報』大正9(1920)年10月31日の記事です。
見出しには、「元寇防塁を掘出した」「昨日の記念式挙式の記念に」「昨日見事なものを発掘」という文字が興奮気味にならんでいます。
元寇防塁とは、鎌倉時代に起こった蒙古襲来に備え、船でやってきた相手が上陸するのを阻止するために博多湾岸につくられた石と土でできた壁です(当時は「石築地」と呼ばれていましたが、大正時代には元寇防塁と呼ばれるようになりました)。
さて、記事の内容を箇条書きで書き出してみると、おおよそこのような感じです。
・元寇防塁が西新町の百道松原なる西南学院校庭内に発見されたのは昨年(大正8年)のことだった。
・そのため、筑前早良郡の教育者や有志で組織された早良史談会では、どこか適当な場所を発掘して土地の誇りにしたいという話が出ていた。
・元寇防塁の所在地である西新小学校では、昨日(大正9〈1920〉年10月30日)、「教育勅語御下賜三十年」の記念式をおこなった。
・その記念として、小学校の高等科の生徒に「中学修猷館の西方なる藤金作氏所有の松林の一部」を掘らせてみた。
・すると立派な防塁の跡が現れた。
・発掘を視察していた木下(讃太郎)元寇史跡保存会長・川端(久五郎)早良郡長・眞鍋(博愛)学校長や町の有志連中も、その発見に勇みおどって喜んだ。
・防塁の高さ1間・幅1丈で、600年あまり前のそのままの形。
・早良史談会ではさっそくこの松林の所有主たる藤金作に相談して、その保存を講じている。
・これで今後は元寇防塁の跡を視察する人は、糸島郡今津まで足を運ぶ必要がなくなる。
・昨日は発掘後、木下が生徒に講義をおこない、参列者一同は防塁の側で冷酒を酌みつつ昔をしのんだ。
なんと、この記事によれば、元寇防塁が見つかった場所は藤金作の松原だったようなのです。
それも藤が西南学院に松原を売った同じ年。
この場所がどこかというと、ここです。
(Google MAPから作成) |
そういえば、前回紹介した藤の伝記『藤金作翁』には、百道松原では元寇防塁が見つかって、高貴な人びとが訪れる場所になったので、まだまだ高値が期待できるといったことが書いてありました。
百道松原の一般的な話かと思っていたのですが、あの話は、まさに藤の所有地でおこった出来事だったのですね…。
このとき元寇防塁が見つかった場所は、藤が西南学院に売った土地の西に位置していますので、やっぱり藤の土地は西側に広がっていた可能性が高いと思われます。
ところで、なんで急にここを掘ったのでしょう??
「教育勅語御下賜三十年」の記念と、元寇防塁を掘ってみようという発想の結びつきがいまいち謎です…。
真相は分からないのですが、この新聞記事がヒントになるかもしれません。
この発掘の前年、『福岡日日新聞』大正8(1919)年6月25日の記事です。
見出しは「福岡百道松原に元寇防塁発掘」「西南学院敷地内の史跡」「高四尺五寸幅一丈二尺五寸の石塁」。
記事の概要はこのようなものでした。
・海水浴場に隣接する西南学院の構内に石塁の一部が露出しているのを木下讃太郎が見つけた。
・数回にわたって調査した結果、高さ4尺5寸・幅12尺5寸・長さ10間にわたる元寇石塁だった。
・石塁はまだ地中に埋まっている。
・もともと西南学院の6000坪の大部分は元寇防塁の跡で、寄宿舎以外の建物は全部防塁のうえに建てられている。
・今回木下が調査した結果、理化学教室をつくる際に長さ約30間にわたる石塁が壊れ、その石700個あまりが今も散乱しているのは大変残念。
この記事で、もともと西南学院の大部分は元寇防塁の跡と言っているように、江戸時代にはすでにこのあたりの不自然な地面の盛り上がり部分に元寇防塁が埋まっているのでは?と言われていました(貝原益軒『筑前国続風土記』)。
それをふまえて、木下讃太郎(地元の郷土史家)はこれまでも西南学院の校地で元寇防塁の踏査をおこなっていたようです。
この記事は大正8(1919)年ですから、西南学院が藤から松原を買う前。
つまり新聞記事にある西南学院の6000坪は、九州電灯鉄道から買った最初の校地(現在の東キャンパスの南側)ということになります。
さらに『西南学院七十年史』によれば、記事の日付の大正8(1919)年6月で建設が終わっていたのは第1(東)校舎のみで、それと東西軸を揃えて校地の西側に第2(西)校舎を建てているところ。
その2つの間にあって両校舎をつなぐ本館(現在も残る大学博物館)は、大正9(1920)年の着工ですので、このときはまだありません。
記事に出てくる「理化学教室」に名前が似ている「物理化学実験室」が第2校舎の北側に建てられるのも大正10(1921)年のことですので、やはりこのときにはありません。
そうすると、元寇防塁が壊されたと言っている「理化学教室」は、新聞の日付からすれば第1・第2校舎のどちらかでなければならないはずなのですが、細かくは分かりませんでした(残念…)。
ただ、記事によれば「理化学教室」の建設で壊れた部分以外に、高さ4尺5寸・幅12尺5寸・長さ10間の元寇防塁が見つかっていたように読めます。
高さまで記していますが、これは完全に掘ったのではなく、土の高まりから推測したものかもしれません。
詳細に大きさを記述していますので、ある程度まとまった範囲ということはうかがえます。
実は近年の研究で、すでに大正9(1920)年ころ、西南学院の本館の北側に元寇防塁が露出保存されていたことが分かりました(のちに埋め戻されています)。
この本館北側の元寇防塁については、西南学院大学の伊藤慎二先生の研究が詳しいので、ぜひご覧ください。
当時の写真や西新のそのほかの防塁についても紹介されています。
伊藤先生はつい最近も元寇防塁について福岡市の講座でお話しくださいました。当日の配布資料はこちらでご覧になれます。
福岡市埋蔵文化財センター第5回考古学講座(伊藤慎二「元寇防塁石積みの出現背景を考える」)
伊藤先生によれば、この本館北側の元寇防塁の発見の経緯は不明なものの、本館建設前の写真にすでに写っているため、本館竣工前には保存されていたことが分かるそうです。
そうすると、遅くとも大正9年には見つかっていたことになります。
built during Mongolian Invasion Six hundred years ago.」の注記があり、当初から元寇防塁と認識されていたこともうかがえるとのこと(アルバムは1918年ころから作成されたものだそうです)。
ただ、さきほどの新聞記事を参考にすれば、発見自体は大正8年までさかのぼることもあり得るのではないでしょうか。
さらに保存となると、『福岡日日新聞』大正9(1920)年7月16日の記事が関わってきそうです。
見出しには「元寇防塁保存 西南学院の施設」とあって、概要はこうです。
・西南学院構内で元寇防塁石を発見したことはすでに報じた通り。
・早良郡ではその保存について、県庁を経て内務省史蹟天然記念物保存会へ願い出た。
・保存したい場所は15歩、石塁は高さ5間・幅2間。
・深さおおよそ1間くらいの地中に埋没していて、同校が管理保存している。
・この場所は校舎建設予定地なので、保存は急を要する。
・その保存方法は、石塁を発掘したうえで、前後に長さ5間・幅3尺・深さ1間の空間をつくって石塁を露出させ、そこに土砂が侵入しないように両側にさらに石塁をつくって、そのうえに高さ1尺5寸くらいの鉄梱をつくってはどうか。
・費用は概算で約370円、今後の管理には年額5円が必要になる見込み。
・管理は地方公共団体に委ねるように。
この記事にある保存の方法とは異なりますが、伊藤先生が紹介された写真に写っている西南学院の本館北側の元寇防塁も、掘り出したうえで石塁の前に空間を設ける露出展示になっていて、周囲に見せることを意識している点で共通しています。
時期が一致することからしても、本館北側の元寇防塁の保存の背景には、新聞記事にあるような地元の要望があったと考えるのが自然でしょう。
そして、これらの新聞記事からは、西南学院の校舎が次々と建てられていくことが予想されるなかで、元寇防塁の発掘・保存を急ぐ焦りも感じられます。
西新小学校の生徒による発掘は、西南学院がキャンパスを西に拡充するために藤金作から土地を買ったばかりのとき(購入が5月、発掘は10月でした)。
西南学院の校地ですでに見つかっていた元寇防塁の保存を国に願い出て(9月)、すぐのことです。
「教育勅語御下賜三十年」は、元寇防塁の発掘を急務とし、保存を要望する人びとにとって、ちょうど良くめぐってきた好機だったのでしょう。
こうした西南学院校地や藤金作の松原から元寇防塁が見つかったことで、百道松原では防塁熱がヒートアップしていきます。
大正10(1921)年には元寇殉難将士の招魂祭なるものが開催されています。
大正13(1924)年になると、西新小学校(陸軍の射撃場の跡地で、西南学院の北側。現在もこの場所にあります)をつくるための道路敷設工事で、あらたな元寇防塁が見つかりました(これがまた数奇な運命をたどりますので、次の機会にぜひご紹介しようと思っています)。
大正14(1925)年、今度は百道松原に東亜勧業博覧会を誘致する運動までおこります。
その理由の1つに、百道はなんといっても元寇防塁の地域なので、これを取り入れて観覧者に見てもらおうと言っています。
さらには大正15(1926)年になると、藤の土地で見つかった元寇防塁の場所に護国神社を建てる計画が進んでいきました。
東亜勧業博覧会の誘致、護国神社の建設計画については、このブログの〈010〉と〈028〉が詳しいです。
そして、昭和6(1931)年には、藤の土地で見つかった元寇防塁が国の史跡に指定されました。
その後の第二次世界大戦中には、元寇防塁が残るメモリアルな場所であることをうたい、大東亜建設大博覧会が西新で開催されたこともありました。
藤の松原で元寇防塁が見つかってからは、西新・百道松原といえば、娯楽は海水浴場、歴史は元寇防塁とすっかりイメージが定着し、まちの運命を握る存在になっていったのでした。
藤の松原で見つかった元寇防塁のその後はというと、昭和36(1961)年に福岡市教育委員会によって整備がおこなわれ、大正の発掘以来露出していた石塁が積み直されたようです。
さらに昭和45(1970)年にも福岡市教育委員会が史跡として整備し、現在のような形になりました(このときは史跡の東側で一部発掘調査もおこなわれています)。
そして現在の姿はこんな感じです。
修猷館の西端には「史跡元寇防塁」の石碑(ライオンズクラブが昭和51〈1976〉年に建てたもの)。
ここの交差点名も「防塁」です(はす向かいには早良郵便局がある交差点)。
この石碑がある道を北に進むと、藤金作の松原で西新小学校の生徒が掘った元寇防塁です。
国史跡への指定が昭和6(1931)年、この形で整備されたのが昭和45(1970)年です。
こちらが防塁の南側(陸側)。
こっちが北側(海側)の様子。
現在はその横に元寇神社が建っています。
元寇神社のお世話は、かつて百道松原にあった紅葉八幡宮がなさっているそうです。
(ただ、いつ建ったのか調べたのですが分からずじまい…。どなたか教えてください…)。
この元寇防塁の発掘と国史跡への指定が百道松原とそれを参照してつくられた埋め立て地「シーサイドももち」のその後を運命づけるものとなりました。
(このあたりの話はぜひ本の方、『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』〈梓書院〉をご覧ください)
こうしてこの場所は元寇防塁の史跡地という形で、かつての百道松原を思い起こさせる姿を今にいたるまで残すことになりました(松原も防塁も当時のままではないですが…)。
ではその史跡の北側はというと…
(こちらは鎌倉時代だと海側、砂浜が広がっていたはずの場所ですね)
第二次世界大戦後、西南学院はキャンパスをさらに西側に広げるために、現在の西南学院大学の中央キャンパス西側半分くらいと西キャンパスを購入しようとします。
これが昭和24(1949)年のこと。
この現在の西キャンパスに該当する土地が、史跡地の北側に隣接する場所です。
ところが、中央キャンパス西側半分は購入できたものの、西キャンパスは資金不足から半分しか買えませんでした。
西南大が買えたのは北側部分だけだったのです…。
南側(こちらが史跡地に隣接している方)は、当時の郵政省が買っています。
(これらを誰から買ったかは不明なのですが、これももとをたどれば藤金作の松原だった可能性が高いように思います)
福岡市の大濠公園横にある福岡簡易保険支局の建物が第二次世界大戦後にアメリカに接収されると、郵政省が買ったこの土地に簡易保険局が移転してきました(福岡地方簡易保険局)。
大濠の建物がアメリカから返還され、簡易保険局がそちらに戻ったのは昭和33(1958)年。
その後、郵政省が買ったこの百道松原の土地は九州郵政研修所として使われました。
『西南学院七十年史』によれば、今後もし研修所の建物が新しくなったりすれば、買い逃したこの土地を購入することは難しくなるため、西南学院は早くから郵政省から購入する意志をもっていたようです。
昭和41(1966)年、ようやく西南学院がこの郵政省の土地を得ることができました。
ただ、購入は簡単ではなく、かなりご苦労があったようです。
まずここは国の土地であるため、購入ではなく別の土地との交換が必要だったとのこと。
そうなると、現在地と利便性や評価額などが同じ条件で、納得してもらえる土地を探さなければなりません。
単純にお金を払えば良いというわけではないのですね…(これは大変)。
このとき救いの手を差し伸べたのは、なんと監獄でした。
百道松原には明治の終わりに着工して以来、昭和40(1965)年に移転するまで、監獄があって、これもかつての松原の景色の1つでした。
このブログでは、前にこの監獄の歴史とともに内部の「見学ツアー」が開かれていますので、ぜひこちらをご覧ください。
昭和40(1965)年に空き地になった監獄の一部(7000坪)を西南学院が購入し、これと県外の2か所をあわせて、郵政省の土地と交換したのだそうです。
監獄の跡地であれば、もとは同じ百道松原。
郵政省の土地から徒歩圏内で、利便性も変わりません。
そういうわけで、この監獄跡には現在も九州郵政研修センターが建っています(福岡市の早良区役所やももちパレスのならびですね)。
左の建物が九州郵政研修センターです。 |
まさか藤が買った松原の話が、監獄のその後にまで繋がってくるとは思いませんでした…。
西南学院はさっそくこの場所に大学の体育館とプールを建設します(昭和45〈1970〉年)。
それ以来、ながらく元寇防塁の史跡地と体育館・プールが隣り合う景色が続いていました。
それが昨年、西南学院大学の新しい体育館とプールが旧体育館のすぐ横に完成しましたというニュースを聞きました。
あれ、そうしたら旧体育館はどうなっているの?と気になって見にいったところ…
ない! 旧体育館がもうない! 更地!!
そして、これまで体育館に身を隠していた元寇防塁の史跡地の北側(海側)が丸見え状態です!
(写真正面の松林がかつて藤金作の土地だった元寇防塁の史跡地、写真右の大きな建物が新体育館です)
近づいてみます。
これは今だけのレア元寇防塁ですねー。
まさにここだけ壁のようになっています。
この体育館跡地にはあらたな建物ができるそうですが、これまでよりも史跡に配慮した空間になるとのことですので、すごく楽しみです。
長年まちの変化を見続けてきた藤金作が買った松原でしたが、またあらたな景色がつくられるのをここで見守っていくことになりそうです。
・清原陀仏郎『藤金作翁』(非売品、1935年)
・『早良郡志』(名著出版、1923年)
・西南学院学院史企画委員会編『西南学院七十年史』(西南学院、1986年)
・西南学院百年史編纂委員会編『西南学院百年史』(西南学院、2019年)
・九州大学百年史編集委員会『九州大学百年史 第1巻 通史編Ⅰ』(第1編第2章 京都帝国大学福岡医科大学)
・『九電鉄二十六年史』(東邦電力株式会社、1923年)
・東邦電力史編纂委員会編『東邦電力史』(東邦電力史刊行会、1962年)
・九州電力株式会社編・財団法人日本経営史研究所『九州地方電気事業史』(九州電力株式会社、2007年)
・西日本鉄道株式会社100年史編纂委員会『西日本鉄道百年史』(西日本鉄道株式会社、2008年)
・川上市太郎「元寇史蹟」『福岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第14輯、1941年(1979年復刻)
・伊藤慎二「西南学院大学構内のもうひとつの元寇防塁─大学博物館北側の元寇防塁─」『西南学院大学国際文化論集』第31号第2巻(2017年)
・伊藤慎二「西南学院大学構内のもうひとつの元寇防塁遺構:新資料の紹介 附戦前の絵葉書に写る西新元寇防塁」『西南学院大学国際文化論集』第35号第2巻(2021年)
#シーサイドももち #百道 #西新 #百道松原 #藤金作 #西南学院大学 #九州電灯鉄道 #東邦電力 #木下讃太郎 #元寇防塁
[Written by はらださとし/illustration by ピー・アンド・エル]
※ 誤植を修正しました(2024.3.11)
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