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2020年11月27日金曜日

〔連載ブログ14〕空想美術読本 にらまれた鬼(疫病)はどうなる?

 市川團十郎のにらみは、病を祓うと有難がられてきました。昔の人は、一体どんなイメージをもっていたのでしょうか?

 

まだ菌やウイルスの存在が知られていない時代、人々は「鬼」や「虫」や「悪い風」が病を引き起こすのだと考えました。なかでも鬼は、「鬼やらい」や「疫鬼」の語のとおり、病の元としてひろく認知されていました。

すると、病が祓われる、というのは、團十郎の睨みによって鬼が祓われるようなイメージに近いかもしれません。

でも、祓われるって……どんな感じなのでしょうか。

  

一瞥(いちべつ)でジュワッ…と焼き切れるようなイメージ?

イラスト1

それとも、神仏の徳に当てられてポワァ~ンと浄化されるイメージ?

イラスト2

鋭い閃光のような視線に、ズバーンと刺し貫かれるようなイメージでしょうか?

イラスト3

 

ところで「飲食養生鑒(いんしょくようじょうかがみ)」という絵では、体の中にたくさんの働く細胞のような存在が描き込まれています。

飲食養生鑒(いんしょくようじょうかがみ)

こんな絵をみていると、「疫鬼(病を起こす鬼)」も案外小さかったのでは?なんて想像してしまいます。

実際、病をはじめとする悪いものは、親指や背中から入り込んでくるそうですし…(参考:過去ブログ)。

  

とかなんとか空想していたら、こんな絵がありました。

暫(しばらく)
「暫」(※展示資料ではありません)

豆まきをする團十郎の左上に、転げるように逃げてゆく鬼がいます。あまりの慌てぶりに、気の毒やら可笑しいやら。

暫(しばらく)の部分拡大画像

きっと團十郎ににらまれた鬼(病)も、こんな風に追い払われていたんだろうなと妙に納得できました。

逃げた鬼はまたどこかで悪さをするかもしれませんが、「祓う」ときいて「退治・根絶」しかイメージできなかった私は、ちょっと反省です。優しくなろう…

 

 今週末11/29(日)まで開催中の「やまいとくらし」後期展示「疫病と歌舞伎」には、疫病を祓うとされる團十郎の絵姿がたくさん並んでいます。

浮世絵ににらまれて、常設展示室から「ワァァァァ」「ヤメテー」と逃げ出す小さな鬼たちを想像しながら、ごゆっくりお楽しみください。

 

(文・学芸課佐々木 画・みすみ)



2020年11月25日水曜日

〔連載ブログ13〕團十郎と俳句(2)

 「やまいとくらし」後期展示にて公開している資料の中から、歴代の市川團十郎が詠んだ俳句を紹介します。

 

まずは、今回初公開となる資料から。

描かれているのは、2代目團十郎の演じる「暫(しばらく」。歌舞伎のスーパーヒーローです。

二代目市川團十郎図

 

上部に一句、

「喰つみや かち栗ほとの 力昆布  栢莚」

とあります。

「喰(くい)つみ」はお正月に食べるお重のことで、中に詰められた食材名が「かち栗」「力昆布」など、おめでたい掛け言葉になっています。 

「勝ち」や「力」は、舞台上の「暫」が超人的なパワーで悪人をバッタバタとなぎ倒す姿と、よく重なります。新年の豪華な食膳のイメージとあいまって、晴れ晴れとした印象の一幅です。

 

「暫」のにらみを受けると一年を無病息災で過ごせると言われているため、おそらくこの絵の元の持ち主は歌舞伎ファン、それも團十郎の贔屓(ひいき)筋(すじ)で、新年の床の間に飾って一年の無病息災と多幸を祝っていたのでしょう。

 

 

 気になるのは、「栢莚(はくえん)」の署名です。

「栢莚」の名を使用したのは、2代目團十郎のみとする説と、2代目だけでなく4代目・6代目および12代目の市川團十郎も使用したという説があります。いずれにせよ、この句が市川團十郎の直筆(じきひつ)であれば、とても貴重です。

果たして、本物なのでしょうか…?

結論はまだ出せませんが、今後、筆跡その他を検証して、作者や制作時期を特定することが課題です。

  

 

次にもう1点、展示資料をご紹介しましょう。

こちらも「暫」のにらみです。演じる役者は河原崎権十郎(かわらざきごんじゅうろう)、のちに九代目市川團十郎を襲名し、劇聖(げきせい)と呼ばれた名優です。

青砥五郎照綱(あおとごろうてるつな) 九代目三舛(みます)

 

上部に「三升」の名で寄せられた俳句は、九代目の作です。宝井其角の吟に触発されたものと前置きして、

恥かきの 素袍やむかし 鬼やらひ

とあります。

俳句の意味を解説するのは大変むずかしいのですが、お恥ずかしい芸ですと前置きしながら、自らの演じる暫が鬼(疫病)を祓うことについて、宮中行事の名をかりて触れているようです。

 

「鬼やらい」・・・悪鬼すなわち疫病を祓うこと。

 大晦日に行われる宮中行事を指す場合と、2月の節分を指す場合がある。

「かき」・・・・・「恥掻き」と「柿の素袍(すおう)(柿色の装束)」の掛け言葉。

 華やかな茶色(柿色)は、「團十郎柿」と呼ばれ、粋な装いの代名詞だった。

 

自らを「恥かき」と呼ぶのは、謙遜(けんそん)でしょうか、照れ隠しでしょうか。

いずれにせよ歴代團十郎の俳名やその俳句からは、長く受け継がれてきた歴史や矜持、人気を得ても決して驕らない姿などが伝わってきます。

 

「疫病を祓う」とされた團十郎の絵姿だけでなく、ぜひその俳句にも注目してみてください。

展示品のほかにも、歴代團十郎の俳句がまだいくつかあります。いつか、まとめてご紹介する機会があればと思います。

 

(学芸課・佐々木)

2020年11月24日火曜日

〔連載ブログ12〕團十郎と俳句(1)

歌舞伎役者は、「名跡(みょうせき)」という役者としての名前のほかに、俳句を詠む際に使用する「俳名(はいみょう)」を持っています。

例えば、一般によく知られる「市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)」という名前は名跡で、初代團十郎の「才牛」、2代目團十郎の「栢莚」などは俳名です。名跡も俳名も同じ名を襲名することがありますが、名跡が代々全く同じ名前であるのに対して、俳名は代ごとに微妙な変化や工夫がみられます。

 

例えば、今年5月に、13代目市川團十郎白猿の襲名予定が発表されました。※現在、襲名披露公演は延期されていますが、ちょうどいま博多座では市川團十郎を襲名する予定の市川海老蔵特別公演が上演されています。新型コロナウイルスの影響で惜しくも中止された2月公演から半年以上、ようやく再開・再会できる舞台ですね。25()まで。 この13代目の襲名する俳名が「白猿」です。

 

「白猿」は5代目團十郎の俳名ですが、元は2代目が名乗った「栢莚」という俳名に対して、4代目が遠慮して一画減らした「柏莚」を使用したことを踏まえているのでしょう。

すなわち、栢莚・柏莚・白猿はいずれも「はくえん」という同じ読みでありながら、画数を減らしたり猿を自称したりすることで、先代の名を受け継ぎながらも敬意を表して自分を一歩後ろに据えているのです。

歴史と矜持を感じさせる、よき名ですね。

 

 それでは、代々の團十郎はどんな俳句を詠んだのでしょうか?


まずは、「やまいとくらし」後期展示で現在初公開されている資料から。

二代目市川團十郎図

 

「喰つみや かち栗ほとの 力昆布  栢莚」

 

  

さて、一体どんな意味なのでしょうか? 次回へつづきます。

※「やまいとくらし」後期展示「疫病と歌舞伎」の会期は29日㈰までです。 


(学芸課・佐々木)

2020年10月23日金曜日

〔連載ブログ11〕疫病を祓う⁉ 歌舞伎のちから

 江戸時代、人気を博した娯楽のひとつが歌舞伎でした。木戸銭(きどせん=見物料)は安くなく、見物するのも一日がかりだったようで、そうそう気楽な遊びではなさそうですが、それでも人々が詰めかけたのは、歌舞伎が日頃の憂さを晴らしてくれる「自己解放」の場でもあったからだと言われています。

江戸時代の芝居小屋を遠近法を使って臨場感たっぷりに描いた浮世絵

「浮絵歌舞妓芝居之図」(展示中):今は懐かしい、すし詰めの芝居小屋。群衆の熱気が伝わってくる。

 

熱烈な人気は、伝説を生む土壌となります。よく知られるのは、「團十郎のにらみを受けると一年を無病息災で過ごせる」というもの。そのほか、実際に2代目團十郎や7代目團十郎が、にらみや見得をきることで、瘧(マラリヤ)の患者をたちどころに治してしまったという逸話も、幕末~近代の資料に残されています。

 こうした不思議な逸話の成立背景として、しばしば近世期の不動信仰と市川團十郎の関係が指摘されますが、そもそも、歌舞伎すなわち芝居というものは「芝の上で疫病を退ける舞を舞ったこと」を起源とするのだと記す資料もあります。

 歌舞伎が本来的に疫病を祓う存在だったというのは興味深い言説ですね。

 ここでなぜ舞・芝居・歌舞伎に疫病を祓うちからがあるのかを説明するには、神事・祭礼とのつながり、芸の様式美、また中近世の社会構造と民衆の心理など、多方面の研究をひもとかねばなりません。でもそうした難しい考察を抜きに、ふと、一観客の身で想像してみると―――心惹かれる役者が自分の目の前で、同じ空間で、生きて、動いている、それも縦横無尽に!―――そりゃあ問答無用で免疫力あがっちゃうよなぁと、妙に納得できてしまいました。

もしかすると疫病を祓う歌舞伎のちからの正体は、熱狂しすぎてテンションごと免疫力もあげてしまうファン自身のちからだったりするのかもしれません。

コロナ時代を乗り切る秘訣、ここにあり?

(学芸課 佐々木)

 

 

 

【おまけ情報】

外出せずにweb上でのみ楽しまれる方のため、以下こまごました補足情報やネットサーフィンのきっかけになりそうなリンクを貼っておきます。

 

①木戸銭について

劇場や座席、時代によってかなり幅がありますし、現代の貨幣価値に換算するときに何の物価を基準にするかによっても大きく値が変動します。したがって正確にいくらと算出するのは難しいのですが、歌舞伎を座ってみようと思えば、感覚的にはテーマパークの1日フリーパス付入場券くらいの出費になったと思われます。もちろん、パンフレットや食事代、お土産代は別途必要で、できたらお洒落もしてゆきたい、という点は現代と変わりません。

総合すると当時の歌舞伎は、おいそれとは行けないけれど全く行けないわけじゃなく行けたら絶対はしゃぐやつ、だったと推察されます。

 

②歌舞伎の上演時間について

芝居小屋は自然光を取り入れており、上演時間はだいたい日の出から日の入り前まででした。顔見世興行という年に一度の節目には、前日から徹夜でお祭り騒ぎをする者もいたそうです。

 

③芝居の起源・語源について

 『古今役者大全』巻之一「芝居の始りのこと」に、「上代のことだっただろうか、奈良の南円堂の前にできた大きな穴から煙が噴出し、その邪気にあたった人がみな疫癘(えきれい=疫病)に侵された。芝の上で三番叟を舞って邪気を払い退けたことから、芝居の語がうまれた。」(大意)とあります。

原文を読みたい方はこちら → 国立国会図書館デジタルコレクション『古今役者大全』巻之1,3-6コマ番号10~11196https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533801

 

 
【参考文献など】もっと知りたい方へ。

◆西山松之助著・日本歴史学会編集『人物叢書 市川団十郎』(1960年・吉川弘文館)

◆田中久夫編『不動信仰』(1993年・雄山閣出版)

◆服部幸雄著『歌舞伎歳時記』(1995年・新潮社)

◆高橋幹夫著『シリーズ江戸博物館4 芝居で見る江戸時代』(1998年・芙蓉書房出版)

〔連載ブログ10〕「いま」みておきたいものってなんだろう

「やまいとくらし」後期展示では、疫病という切り口で歌舞伎関連資料を展示します。

初代から8代目までの歴代団十郎が当たり役に扮した浮世絵
3代目歌川豊国(初代歌川国貞)「相続栄三升(としどしおいわいのくみいれ)」
初代から8代目までの市川團十郎が、それぞれの当たり役に扮して大集合!


なぜ歌舞伎? そう思われた方も多いことでしょう。
理由を一言で言うなら、「たのしい展示にしたいから」なのですが、もう少し、説明させてください。

新型コロナウイルスの流行以来、私たちのくらしは大きく変わりました。今なお、行きたいところに行ったり、会いたい人に会ったり、気軽に日々を生きることが憚られ、身体的にも精神的にも不自由を強いられています。経済的な負担も大きく、感染の収束とあわせて先の見えない不安が増大しています。コロナ下で目にした社会問題の数々は、時に腹立たしく、情けなく、しかし同時に個人で抗うには限界を感じざるを得ないものでもありました。どうにかしたい、でもどうしようもない、大きな流れを前にただ願うような気持ちでこの数か月を過ごされた方も少なくないことでしょう。

こうした状況下で、博物館にできることは何か? ずっと考えていました。
はっきり言って、ワクチンを開発したり経済支援を届けたり、直接的にコロナ禍を解決する手段をもたない博物館は、社会に求められているのだろうか?と、不安を抱く気持ちも半分ありました。
でももう半分には、博物館だからこそできる役割を果たしたい、探したいという気持ちもありました。
そして話し合い、探し、たどりついた答えが、この「やまいとくらし」リレー展示に詰まっています。

博物館が「いま」したいこと。すべきこと。
ひとつは、過去の疫病に関する情報をまとめることです。
これらは新型のウイルスに直結する情報ではありませんが、私たちが今とるべき行動のヒントとなり、先々も参照できるアーカイブになります。
また変わらぬ過去の人々の姿が、今の人々の心に寄り添ってくれるという確信もあります。

もうひとつは、すべての人にひらかれた安全なおでかけ先となること。
できれば、ちょっと気分の晴れる、たのしいおでかけ先になることです。
文字にすると取るに足らないことのようですが、個々人の抱える身体的・精神的な閉塞感、社会全体のストレスや無力感、そういった諸々を和らげるには、いま、安心して心を解放できる「たのしい場所」の確保が大切ではないか、とおもうのです。

なぜなら、市民のみなさんにとって「いま」みておきたいものとは、コロナ禍を乗り切るヒントが詰まったものだけでなく、コロナ時代を生きる元気が湧いてくるものでもあるんじゃないかと思うからです。

歌舞伎は、江戸時代以来、多くの人々を熱狂させてきました。江戸時代から明治にかけて、疫病や火災・天災、幕府の弾圧、社会の変化などで度々窮地に立たされながらも、身分を超えて支持者をあつめ、ともに逞しく乗り切ってきました。本展が、その熱量とパワーにあやかって、晴やかでたのしい展示を目指そうと考えたのは、上記のような理由からです。

10月下旬現在、世間では自粛ムードが少し薄れてきつつあるように感じられますが、まだ外出できない職業・地域の方も、依然多くいらっしゃいます。そろそろ外出したいけどやっぱり怖い、という声も聞こえてきます。外出はするけど安心できる場所じゃないとね、という人も多いでしょう。

まだおでかけできない方はインターネットで、おでかけしたくなった方は福岡市博物館の展示室で、どうぞ気分転換にご利用ください。

館内は、職員一同、消毒と換気を徹底しています。安心してお越しくださいね。

思ったより長くなったので、展示資料にまつわるあれこれは、次のブログにて!

(学芸課 佐々木)

2020年9月1日火曜日

〔連載ブログ9〕病はどこから身体に入ってくるのか

 新型コロナウイルス感染症の流行によって、私たちは生活様式の変更を余儀なくされています。今まで以上に手洗い・うがいの徹底、マスクの着用、「三密(密集・密接・密閉)」の回避など、感染拡大防止が求められるようになりました。

 それは、新型コロナウイルスの感染経路として、現時点で大きく分けて飛沫感染と接触感染の二つが想定されているからです。

 

【飛沫感染】

くしゃみや咳などにより、感染者の飛沫と一緒にウイルスが放出され、他者がそのウイルスを口や鼻から吸い込んで感染すること

【接触感染】

ウイルスが手に付着した状態で目、鼻、口などの粘膜を触ることで感染すること

 

 つまり、ウイルスが体内に侵入する主な経路は、目、鼻、口であることは医学的に解明されているわけです。(このようなことは言うまでもなく、皆さんにとってはごく当たり前で常識的なことだと思います。)

 

 しかし、現代では常識的なことでも、医学が発達していなかった時代には、目に見えない病魔の正体はわかりません。しかし、病魔を体内に “入れない“方法を考えねばなりませんでした。


 では、病魔はどこから体内に侵入してくると考えられていたのでしょうか。

 直接関係ないことかもしれませんが、皆さんは「霊柩車(れいきゅうしゃ)を見ると親指を隠す」という俗信・迷信をご存じでしょうか。(もはや霊柩車も失われた文化かもしれませんが…)


実は、これに似た親指の俗信・迷信は少なくありません。例えば、「夜道を歩くときは、親指を中にして握っていると狐に化かされない」、「疫病を除けるには両手の親指を中にして握っているとよい」、「猛犬に出会ったときは両手の親指をなかにして拳を握りしめ、犬の眼を睨むと良い」などです。

 

このように親指に関する俗信や迷信を調べると、霊柩車を見て親指を隠すのは死の穢(けが)れが体内に侵入することを防ぐためだと推測できます。つまり、親指は人間の身体の中でも目に見えない何ものかの出入り口として考えられていたようです。

 

その他にも、無防備な背中からは悪いものが侵入しやすく、特に生まれたばかりの赤子は気をつけなければならないと考えられていました。それは赤子の産着が大人の着物とは異なり、背筋に縫い目のない一つ身の着物で、背後を見張る“目”がないからでした。

 

そこで、悪いものの侵入を防ぐために、産着の背に魔除けとして“背守り”を縫い付けることがありました。非科学的ではありますが、呪(まじな)いをかけた縫い“目”によって侵入を防ごうというわけです。

 

背守りは写真1のように色糸を縫い付ける場合もあれば、縁起の良い吉祥紋様(きっしょうもんよう)を縫い付けることもあります。

 

写真1 産着(一つ身)

写真2はその吉祥紋様や魔除け紋様の見本です。本来はこの上でアイロン掛けや裁縫をする際に使うもので、ヘラ台といいます。


写真2 ヘラ台(背守り見本)
 

このヘラ台には70個ほどの背守りの見本が載っています。例えば、魔除けとしての意味合いが強いものには六芒星(ろくぼうせい)、いわゆる「かごのめ」紋様があります。悪いものは「凝視」されることを嫌うと考えられたため、目がたくさんある「かごのめ」が魔除けの意味を持っていました。


また、子どもの成長を願う紋様に「麻」があります。丈夫ですくすくと真っ直ぐ育つ麻の植生にあやかったものです。麻にまつわる紋様として「あさのは」や「あさのはぐるま」なども載っています。

         


 

ほかにも、縁起の良い紋様として「松」や「鶴」などがあります。松は常緑であることから常磐木と呼ばれ、古くから吉祥樹として親しまれてきました。一方、「鶴は千年」といわれるように長寿を象徴していて、「ろつかくつる」「をりつる」「つるのまる」「くわりんつる(こうりんつる)」などが載っています。

    


 もちろん、こうした風習は現代の私たちから見れば迷信であることは明らかで、新型コロナウイルス対策にはなりません。しかし、このような風習にすがりながらも、先人たちが災禍(さいか)を乗り越えてきたことは揺るがない事実です。

 

少しでも今を生きる私たちのヒントになれば幸いです。

 


(学芸課 石井)

 


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【余談】

写真2には、「みます(三枡)」の紋様も載っています。枡は穀物や液体の量を計るための入れ物です。

 


この三枡紋は歌舞伎役者市川團十郎の定紋(家々や団体で定めている正式な家紋)として有名です。市川家の三枡紋は大中小の枡が入れ子になった形で、写真2に載っている紋とはデザインが多少異なりますが、どちらも同様の意味を持つといわれています。

 

枡は「増す」に語呂が合い、三枡は益々繁盛をさらに上回って芝居小屋が大入りになるという願掛けが込められています。

 

益々繁盛=ますますはんじょう=升升半升=二升半

※枡は升とも表記することがあります

 

 益々繁盛は二升半、三枡は三升です。つまり、三升は二升半よりも大きな数字になるため、さらに縁起が良いということになります。※一升は約1800ml

 

このように吉祥紋様は歌舞伎役者とも関連しています。「やまいとくらし ~今みておきたいモノたち~」の後期展示(令和21020日(火)~1129日(日))では、市川團十郎を含めた歌舞伎関連資料の展示を予定しています。こちらも併せてお楽しみください。

〔連載ブログ8〕屋根の上から

「やまいとくらし~今みておきたいモノたち~」の中期展示では、「みえないものと生きる-ウチとソトにいるもの」をテーマに様々な資料を紹介しています。

 

今回はその中からひとつ。

「鬼瓦」をご紹介しましょう。

鬼瓦といえば、瓦屋根の棟の端に乗っかった怖い・厳つい顔を思い出す方も多いのではないでしょうか。

某芸人さんのネタにもありましたね(・・・古い?!)。

鬼の顔を表現したものは、「鬼面文鬼瓦」といいます。

 

鬼の顔ではない鬼瓦もあるのでしょうか?

瓦が日本へやってきた7世紀頃の日本の瓦には、鳳凰(ほうおう)などの神獣や蓮の花をモチーフにした鬼瓦(と言っていいのでしょうか)が使われていました。

鬼瓦は、物怪(もののけ)や怨霊(おんりょう)などの邪悪なものが建物に寄り付かない・入らないようにするためや、火災・落雷などの災害から建物を守るための瓦、と言われていますが、最初は吉祥を呼び込んだり、清浄な場所であることを示すものとして使われていたのかもしれません。

 

鬼の顔をモチーフにした鬼瓦が多く作られるようになるのは、8世紀以降のこと。

当館の寄託資料の中に、その頃作られた鬼瓦があります。

 

鬼面文鬼瓦(怡土城出土) 個人蔵(福岡市博物館)


角はありませんが、大きく見開いた目と口からのぞく牙は、私たちが知っている鬼瓦に近いものがあります。

怡土城(いとじょう)は、糸島市と福岡市にまたがる高祖山(たかすやま)西側山麓一帯に、756年~768年に造られた山城です。安史の乱から始まった国際情勢の混乱に備える軍事拠点として吉備真備(きびのまきび)が築城に当たりました。この鬼瓦は海の向こうから来る脅威に対してもにらみをきかせていたのでしょうか。

  

さて、今回展示しているのはこのような鬼面文鬼瓦です。

鬼面文鬼瓦(伝福岡城出土) 福岡市博物館蔵


一部折れてしまっていますが、にょっきりと伸びた二本の角、口から飛び出している牙、ぎょろりとした目、大きな鼻と立派な髭は、まさに私たちが想像する鬼の様相です。

二本の角がついた鬼面文鬼瓦が登場するのは、鎌倉時代の終わり頃以降と言われていますが、なぜ二本の角が付いた鬼の形が一般的になったのか、はっきりしたことはまだわかっていません。

外部からの悪疫に対しては恐ろしい存在でも、私たちにとっては、それから守ってくれる善き存在。そう考えながら見るとなんだか親しみを感じられるのは私だけでしょうか。

普段は見上げることしかできない鬼瓦。

今回の展示では真正面から向き合ってみてはいかがでしょう。

(学芸課 福薗)


〔連載ブログ7〕水の神と生きる

特設展示「やまいとくらし」、連載ブログにおこしいただきありがとうございます。7回目の今回は考古分野担当の新人学芸員、朝岡がお送りいたします。 

さて、唐突ですが当館常設展示の一角にある↓の土器。上段と中段にそれぞれ文様が刻まれているようです。何かの形を表したもののようですが、みなさん、何に見えるでしょうか。


※福岡市埋蔵文化財センター所蔵 


写真では一部しか映らないため、図にしてみましょう。


※『比恵遺跡群37-第82次調査報告-』福岡市埋蔵文化財調査報告書第832集より


今回は中期展示「みえないものと生きる」に関連しながら、この図像の謎にも迫っていきたいと思います。


さて、上に載せた土器は福岡市博多区の比恵遺跡群(ひえいせきぐん)でみつかった弥生土器です。約1900年前のもので、当時は中国から多くの文物が流入してくる時期でした。金印「漢委奴国王」を奴国王が中国・後漢の皇帝から贈られた時期にも近い頃です。 


通常、土器は使えなくなったものが捨てられて埋まるので、バラバラに割れた状態で出土します。しかし、上記の壺はほぼ完全な形で井戸から出土しました。また、弥生時代の人が井戸を埋める途中で入れたような状況で出土しているため、井戸を使用しているときに不注意で落っことしたものではなく、井戸を廃棄する際の祭りごとに使われたものなのでしょう。壺の形をみると、口が狭くなっているため、固形物を入れたとは思えません。おそらく水、もしくは酒などを入れて井戸の神様に供えたのではないでしょうか。


 井戸の信仰については、現代にも通じるものがあります。遺跡の発掘調査では近現代の井戸が見つかることもありますが、調査開始時に、表土の掘削で使うバックホー(ショベルカー)の操縦士にその井戸を掘ってもらうように指示すると「古い井戸に触ると絶対に悪いことが起きる」と言って嫌がられます。調査後に工事に入る建築土木業者さんからも、工事中に井戸を壊したらいろんな悪いことがあったという話をよく聞きます。もしこれを読んでいるあなたがRPGゲーム好きであったなら、何気なしに村を探索していると不意に井戸から魔物が現れてやられてしまったという経験もあるでしょう。日本の神話ではいくつかの世界が上下に重層的に存在しているという世界観が示されることもありますので、井戸は地下の別世界に繋がっており、何か良くないものも上がってくるという思想が生まれたのでしょうか。

 

また、発掘調査でみつかった近現代の井戸からは、水道管に使われるような塩化ビニル管などの筒状のものが縦に刺さった状態でみつかることが多々あります。これは底にいる井戸の神様が息をできるようにと井戸を埋める際に突き刺すものだそうです。井戸を埋めた場所の地盤が弱くならないようにと、水抜きの意味合いもあるのだとか。遺跡からは中世の井戸に竹が刺さった状態で埋められていた事例が発見されることもあり、こうした風習が古くから行われていたことがわかります。

↑少しわかりにくいですが、矢印の位置に地面からまっすぐ飛び出した塩化ビニル管があります。
この下に近現代の埋められた井戸があります。


話は少し変わりますが、「水」に関わる神話として有名なものにスサノオのヤマタノオロチ退治があります。日本書紀(今年は完成1300周年!)などの記述によると、高天原を追放されたスサノオが出雲の国で泣いている老夫婦と娘に出会います。話を聞くと、8人いた娘が次々にヤマタノオロチ(8つの頭がある大蛇)に喰われ、残る一人になってしまったというではありませんか。そこでスサノオはその娘を嫁にすること条件に、オロチ退治を引き受けます。

 

スサノオはまず老夫婦に強い酒を準備させました。そして、やってきたオロチにそれを飲ませ、酔い潰し、眠ったところに切りかかるという方法で(若干卑怯な気もしますが)倒すわけです。ちなみにこのときにオロチの尾から出てきたという太刀が、三種の神器のひとつである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)になります。

 

さて、このヤマタノオロチ。正体は出雲を流れる斐伊川(ひいがわ)というのが有力な説となっています。その根拠としてはオロチ退治にまつわる伝承地が斐伊川流域に集中していることや、オロチの外見は頭と尾が8つずつあり、長さが谷8つ、峰8つに及ぶとされ、多くの支流が合流しながら流れる斐伊川に合致することなどがあります。また斐伊川は暴れ川で、1873年(明治6の水害の際、場所によっては高さ6mに及ぶ土砂が堆積し、住民が食糧難に陥ったそうです。考古学においても古墳時代に各地で大規模な水利事業が行われるようになることが明らかにされており、オロチ退治の伝承は、古代において地域の有力者が治水灌漑事業によって斐伊川を制御したことがモデルと考えられます。なお、スサノオと結婚した娘はクシナダヒメといい、別名はイナタヒメ(稲田姫)。農耕を象徴する神であるという説もあります。(※参考文献 山陰中央信報社2012『古事記1300年 神話のふるさと~山陰のゆかりの地を訪ねる~』)


今回の「やまいとくらし」中期展示では古墳時代の神マツリの道具を展示しています。手のひらに乗るほど小さなサイズの器などは日用の食器としては使えないため、それらがまとまって出土した折には何らかの祭りごとの痕跡と考えるほかないわけです。当時の川や水路から出土することもあり、農業開発に伴う水辺での祭祀が行われていたのでしょう。あるいは神話のように川を蛇神や龍神に見立て、酒や剣(あるいはその模造品)を用いる祭りごとが行われていたかもしれません。水に関わる龍蛇が登場する古代の神話は多く、少なくとも、水の神に関する信仰が古墳時代まで遡ることは間違いなさそうです。

※福岡市博物館所蔵 古墳時代の神マツリの道具
 奥の2つの土器は高さ5cm程度で、日用の食器とは考え難い。


さて、話は戻って冒頭の弥生土器。文様は何に見えるでしょうか。この流れでお訊きすれば、答えはおのずと決まっているかもしれません。そう、その身をくねらす龍蛇にみえないでしょうか。弥生時代は井戸や水田稲作に伴う水路の掘削など、水に対する需要が大きく高まる時期でもあります。また、水害も多かったようで、この時期の水田跡の多くは洪水で埋もれた状態でみつかります。水に対する感謝、あるいは恐怖といったものが、水の信仰に繋がったとすれば、それを可視化した龍蛇のモチーフが弥生時代に遡り、井戸の神として祀られたとしても不思議はありません(龍であるならば、モチーフ自体は当時の中国から入ってきたのでしょう)。

 

新型コロナウイルスが猛威を振るう昨今。筆者も某博物館でお話しする予定だった歴史講座が中止になってしまいました(実は今回のお話はその内容を一部含みます)。考古遺物からは具体的な祭祀の所作や信仰の内容はわかりませんが、古代の人々が自然などの“みえないもの”を敬い、そして同時に畏れてきたことはわかります。そう、常に私たちは“みえないもの”と共存し、ともに生きてきました。もしかすると、今を乗り切るヒントも身近なところにあるのかもしれません。(学芸課 朝岡)





 

〔連載ブログ6〕《WEB限定公開》「避病院」の図面

こんにちは。

特設展示「やまいとくらし」の連載ブログにお越しいただきありがとうございます。

今回は、WEB限定公開という形で、展示に関係する資料のひとつ「避病院」の図面(館蔵)を紹介します。明治時代に寺社建築の図面を数多く手がけた亀田吉郎平(かめだ・きちろうべい)に関する資料群に含まれていた資料です。特設展示で陳列する予定でしたが、スペースの関係で陳列を見送ることになったので、ブログで解説させていただきます!!


「避病院」の平面図。患者の状態に応じて36室の病室を使い分けるしくみを採用。


「避病院」とは、伝染病患者を他と隔離して収容し治療することに特化した病院です。
明治10年(1877)以降、主にコレラの感染対策として、全国に設置されるようになりました。
 

コレラはコレラ菌で汚染された水や食物を摂取することで感染する伝染病で、19世紀に世界的に流行しました。日本にも江戸時代の終わりから断続的に感染者があらわれ、明治10年から13年にかけては全国各地で大流行しました。

 

博物館に残る「避病院」の図面は、筑紫郡八幡村大字高宮(現 福岡市中央区)に建設する予定だったもののようです。実際に高宮に常設の「避病院」が建設されたという記録は、今のところ見つかっていません。院内の部屋は、並列した6つの病室と、両端の看病人の部屋に分かれています。6つの病室は右から順に「快復期患者室」、「軽症患者室」、「病室」(2室)、「重症患者室」(2室)と割り当てられています。患者の状態によって収容される病室が異なる仕組みです。「避病院」が、患者の隔離を徹底した施設であったことがわかります。

 

福岡地方における「避病院」は、明治12年(1879)、コレラ流行の中で那珂郡千代村堅粕東松原(現 福岡市博多区)に病室を設置したことに始まります。その後、コレラや赤痢の流行にともなって施設を増設していきました。しかし、この場所には福岡医科大学(現 九州大学医学部)が建設されることとなり、明治43年(1910)に「避病院」は福岡市内桝木屋に移転しました。これを荒津病院と呼びます。荒津病院は、市内に伝染病患者が発生した場合、自宅療養を許可された人以外、全ての患者を受け入れることになりました。大正時代後半の「スペイン風邪」の大流行の際にも多くの患者を受け入れました。

 

ちなみに、特設展示第1章「伝染する病に向き合う」(721日~830日)では、祝部至善(ほうり・しぜん)が昭和時代戦後に描いた博多の風俗画のうち、「コレラ患者の輸送」を展示しました。

コレラ患者の輸送

この絵の通り、コレラに感染した者が見つかった際は、警察官と市役所の職員が先導して、感染者を担架にのせて運びました。画面の下部には筆書きで「松原の避病院ゆき」と書かれています。「避病院」は、伝染病の感染拡大を防ぐための施設として、人びとの記憶に残っていたのです。
(学芸課 野島)


2020年7月23日木曜日

〔連載ブログ5〕外出自粛「しなかった」モノ

こんにちは

今年の夏はなかなか旅行や帰省の計画が立てられないですね。
当館でも、今年度はお出かけだ!と準備を進めていたのに、計画変更になってしまったモノが色々と出てきてしまいました。(これについてはぜひ連載ブログ4をご覧ください。)
一方で、この状況でも無事に出張をして、お仕事(展示)中の資料もあります。今回は特設展示「やまいとくらし」の中の第2部「『外出自粛』したモノたち」番外編!ということで、外出自粛「しなかった」モノについて書いてみたいと思います。

臨時休館中のある日、机の上に「常設展でタイムリーな顔、展示してなかったっけ?」というような伝言が先輩(在宅勤務期間ですれ違い出勤中)から残されていました。その「顔」、というのが、まさに外出中のモノ2点、人形(ひとがた)と人面墨書土器です。

人形(ひとがた)と人面墨書土器は、古代の出土品として奈良や京都を中心に全国的に発掘されるもので、漫画のようなタッチで描かれる顔は1点1点がとても個性的です。先の伝言で出てきた「顔」も、しかめ顔や目尻が下がったちょっと困ったような顔、

土器に描かれた顔。眉をぐっと寄せて、への字の口……にらみ顔にもみえます。

一方で表情が読み取れない朴訥(ぼくとつ)な雰囲気の顔となかなかに親しみが持てる表情をしています。

こちらは人形のお顔。顔に対して遠慮がちな鼻と口。

さて、タイムリーというのも、これらは奈良・平安時代に災厄を除けるために使われたものだからです。悪いことをこの人形(ひとがた)や土器に移して川に流し、捨てることで、お祓いするという使われた方がされたと考えられています。このふたつも高畑遺跡(博多区)の、奈良時代の歴史書に使われた大きな溝の跡から見つかっていますので、何かの災厄除けとして役目を果たしたものでしょう。
また同じく奈良時代、『続日本紀』の天平7年(735)、同9年(737)の記録には、九州で疫病が蔓延し、それが全国的に広がっていった様子が残されています。

「この頃、大宰府では疫病で亡くなる人が多い」「大宰府が管轄する国々に疫瘡(天然痘)が大流行して、(人々が多く病床についた)」と書かれています。(『続日本紀』天平七年八月の記事より)


福岡の古代に関する病とお祓い、それに関係するモノにスポットをあてるチャンスだと先輩はメモを残してくれたわけです。

とある日の常設展示室。コレとコレのことですよね……!
「そうなんですよ、でも……!」このふたつは「タイムリーな(のに今だけ常設展示室にいない)顔」なのです。

さて、当館から電車で1時間と少し、九州国立博物館で8月30日まで開催中の特集展示「筑紫の神と仏」には、この顔たちが出張しています。

チラシには見たことのある顔が……!(画像は上記HPよりお借りしました。)

資料を出張させるのは、多くの人にそのモノを知ってもらい、興味を持ってもらうチャンスにもなります。昨年の段階から、「古代の人々が祈りを捧げた痕跡」としてこのふたつのモノに着目をしていただいて、この春、展示の準備にあわせて当館の常設展示室から姿を消していたところでした。なんとタイムリー……。

というわけで、タイミングを逃してきていましたが、今回の特設展示「やまいとくらし」につながっているぞということで、思い切ってご紹介してみました。いつもはお出かけするモノはそっと見送り、そっと注目するのが常ですので、このように紹介させてもらうというのはちょっとした冒険です。きゅーはくさん、どうもありがとうございます。

ところで、日々見慣れている資料が違うところで展示されている姿は、とても新鮮に映るものです。どのような展示内容の中でどのようなモノたちに囲まれて展示されているのか、という点はもちろんのこと、置かれている向き、高さ、ライトの当て方が、次に自身で展示するときのイメージに組み込まれていきます。
このブログで、外出中のモノたちにちょっとでも興味を持っていただけましたら、そして展示中の九州国立博物館へ、秋以降は常設展示室で(きっとアップデートして)展示されている当館へ本物を見に足を運んでみようかなと、ちょっとでも思っていただけましたら嬉しいです。

現在の展示室。外出中の「顔」は秋になると、ここに戻ってくる予定です。
(学芸課 佐藤)

〔連載ブログ3〕山笠に願いを込めて

特設展示「やまいとくらし~今みておきたいモノたち~」連載ブログの第3回目。今回は江戸時代担当の髙山が、第1章「伝染する病に向き合う」で展示している「博多祇園山笠番付」を紹介します。

博多祇園山笠は、毎年71日から15日にかけて行われる櫛田神社(福岡市博多区)の祭礼です。今年は、新型コロナウイルス感染症拡大の影響で延期となってしまいましたが、例年、祭りの期間中には歴史上の逸話などを題材に、煌びやかに飾り付けられた山笠を街の各所で見ることができます。

今回紹介する「博多祇園山笠番付」は、天明元年(1781)から文久3年(1863)までの82年間、山笠の標題(飾りの題材)を書き継いだものです。筆者は、江戸時代、山笠の人形制作に携わっていた土居町(博多区)の人形師・小堀家の人物と考えられています。

同じように山笠の標題を記録した番付は、他にも数点存在することが知られていますが、この番付の特徴的な点は、山笠の標題に加え、福岡藩の政治向きや藩主の動静、米の価格、地震や台風などの天災、町中で起きた出来事などの情報を、ほぼ毎年簡潔にまとめて記述している点です。

今回の特設展示の準備で番付を見ていますと、天明3年(1783)と文化元年(1804)に疱瘡(天然痘)が流行、享和3年(1803)と万延元年(1860)に麻疹(はしか)が流行、文久2年には麻疹とコレラが流行したという疫病(伝染病)に関する記述がありました。麻疹については「小児大人迄致申候」(享和3年)、「男女若物ハ残す病気仕候」(万延元年)、「大はやり申候」(文久2年)と記され、流行状況も詳しく知ることができます。

「博多祇園山笠番付」の寛政元年(1789)の部分
疱瘡山が立てられたと記されている。

また、疱瘡の流行に関わる「疱瘡山」の記述もありました。疱瘡山とは、例年立てられる6本の山笠とは別に、疱瘡の終息を願って立てる山笠のことです。番付によれば、寛政元年に土居町下・行之町・片土居町・鰯町下・川端町(いずれも博多区)で、文化元年(1804)に薬院町(中央区)で、文化2年には福岡新大工町(中央区)で、弘化4年(1847)に対馬小路(博多区)で疱瘡山が仕立てられたことが分かります。疱瘡山が仕立てられていることから、いずれの年にも疱瘡が流行していたことがうかがえます。また、福岡の町方(薬院町、新大工町)でも疱瘡山が仕立てられていることは注目に値する点です。

去る7月1日、今年唯一の山笠となる飾り山が櫛田神社に奉納されました。博多祇園山笠は、仁治2年(1241)、疫病退散のため承天寺(博多区)の聖一国師が施餓鬼棚に乗って甘露水をまいたことを起源とされる祭礼です。私も、江戸時代の人々と同じように神社に奉納された飾り山に疫病退散の願いを込めたいと思います。

※「博多祇園山笠番付」の全文翻刻や詳しい内容については、宮野弘樹「資料紹介 博多瓦町中村家伝来博多祇園山笠番付」(『福岡市博物館研究紀要』第28、福岡市博物館、2019年)をご参照ください。
(学芸課 髙山)

〔連載ブログ4〕「外出自粛」したモノとは・・・

こんにちは。

特設展示「やまいとくらし」の連載ブログにお越しいただきありがとうございます。今回は、第2章「『外出自粛』したモノ」から、昭和39年(1964)の東京オリンピックに関する資料を紹介します。

そもそも、「外出自粛」したモノって何ぞや、という話だと思いますので、まずはここから説明します。
新型コロナウイルス感染症の影響で、当館は2月27日から3月20日、4月4日から5月18日にわたり休館しました。全国の博物館でも展示の計画が再検討され、延期や中止になる展覧会がありました。当館から貸し出され他館で展示される予定だった資料も、展覧会の延期や中止の影響で、「外出自粛」を余儀なくされました。

色んな場所にお出かけする予定だった「我が子」たち(愛情を込めた館蔵資料の呼び方)、お出かけがキャンセルになった彼らを当館で披露しちゃおうというのが第2章「『外出自粛』したモノ」の主旨なのです!!

さて、話を資料に戻しますね。昭和39年(1964)に東京で開催された第18回オリンピック競技大会、通称東京オリンピックは、アジア地域で開催された初めてのオリンピックです。日本は、バレーボールや体操男子団体総合、レスリングや柔道など、さまざまな種目で金メダルを獲得しました。オリンピックの盛り上がりは、テレビの普及率を高めたと言われています。一方で、オリンピックを目途に東海道新幹線が開通し、東京国際空港(羽田空港)が滑走路を拡張するなど、インフラの整備も行われました。東京オリンピックは、当時の人びとの生活を変化させる一大イベントとなりました。

オリンピックの盛り上がりを支えたものの一つが、グラフィックデザイナー亀倉雄策の手によるオリンピック公式ポスターでした。シンプルで力強いエンブレム、各種競技の躍動感が伝わるポスターデザインは、今見てもある種の新鮮さを感じさせてくれます。これらのポスターは、絵葉書としても印刷され、さらに多くの人の手に渡ったようです。小学校や中学校で購入が受け付けられたという話を聞いたことがあります。

今年、東京で2回目のオリンピックが開催されるということで、昭和39年の東京オリンピックへの注目が高まっていて、当館にもオリンピック関係資料に貸し出しの打診が来ていました。しかしながら、オリンピックの開催が延期となったことで、今年度の貸し出しはキャンセルになってしまいました。来年度には他館に「外出」しているかもしれませんが、今回の特設展示でご覧いただけましたら幸いです。

昭和39年(1964)の東京オリンピック開催記念絵葉書
ポスターと同じデザイン

(学芸課 野島)


〔連載ブログ2〕イメージキャラクター「鍾馗」について

7月21日(火)から特設展示「やまいとくらし~今みておきたいものたち~」が当館常設展示室内で行われています。



皆様は、タイトルの右側にいる “ゆるかわ”な髭を生やした人物が誰だか分かりますか。これは『人物略画式図』(鍬形蕙(くわがたけい)斎(さい)画)に描かれた「鍾馗(しょうき)」です。

鍾馗は中国の民間信仰に伝わる道教系の神様で、本来は眼光鋭く、豊かな髭を持ち、黒衣を纏(まと)い、冠を身に着け、剣を抜いた、“ゆるかわ”とは無縁な厳(いか)つい姿をしています。その鍾馗について次のような伝説があります。

唐の玄宗皇帝が、激しい熱病を患った際に不思議な夢を見ました。夢の中で突然現れた大鬼が、皇帝をからかう虚耗(きょこう)という小鬼の体を引き裂いて食べてしまったのです。皇帝が大鬼の正体について尋ねると、科挙(中国で行われた官吏登用試験)に落第し、自害した鍾馗であることが分かりました。その後、夢から醒めた皇帝は熱病がすっかり治っていることに気が付き、夢の中の大鬼の姿を悪霊や邪気を払う守り神として画家に描かせ、宮中に掲げました。そして、これが一般に伝わり、年末には鍾馗の絵を家の中へ掲げて魔除(まよ)けにするようになりました。※タイトルの左側にある赤みがかった生き物は、夢の中で鍾馗に追われた小鬼です。

このように中国で疫病(えきびょう)を払う神として信仰されていたものが、室町時代以降、日本でも信仰されるようになりました。日本では端午の節供に飾る幟(のぼり)に描かれ、武者人形が作られるなどしました。
天保9(1838)年の『東都歳事記』には江戸の市中を描いた「端午市井(しせい)図」(長谷川雪旦画)が収録され、そこには鍾馗の幟が描かれています。他にも、明治31(1898)年の『風俗画報』第159号には「十軒店(じっけんだな)幟店の図」(山本松谷画)が収録され、五月人形店の景況を記録しています。十軒店はかつて現在の東京都中央区日本橋にあった地名です。(分かりにくいかもしれませんが、店内に鍾馗の幟と掛軸、人形があります。)

「端午市井図」(長谷川雪旦画)『東都歳事記』
「十軒店幟店の図」(山本松谷画)『風俗画報』第159号


また、疱瘡(ほうそう)(天然痘(てんねんとう))除けの呪(まじな)いとして用いる疱瘡絵にも鍾馗が描かれました。治療法が確立していなかった時代は疱瘡をもたらす疫(えき)神(しん)が近づかないように、疫病や厄除けに効果があるとされていた赤一色で鍾馗などを描きました。当館所蔵資料には、天保年間(1830-43)に制作された「疱瘡絵(為朝 達磨 鍾馗)」(歌川国安画)があります。(達磨の方が目立っていますが・・・手前にいるのが鍾馗です・・・。)

「疱瘡絵(為朝 達磨 鍾馗)」(歌川国安画)当館蔵

この他にも、新潟県東蒲原郡地方では、一年間の集落の安全や無病息災を願って村境に鍾馗像を象(かたど)った大きな藁(わら)人形を奉納する行事が残されています。また、京都では、向かいの家の鬼瓦から睨まれることを嫌い、その防御策として小屋根に瓦製の鍾馗像を飾る町家も見られます。
 このように鍾馗に関係する魔除けの民間信仰は全国各地に分布し、日本人に馴染みの深いものとなっています。

ぜひ皆様、この“ゆるかわ”鍾馗様を目印に、常設展示室へお越しください。
ご来館お待ちしております。

(学芸課 石井)