2023年4月28日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈035〉開局!よかトピアFM(その7)「ここでも聴けたよかトピア」


埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回(「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。




〈035開局!よかトピアFM(その7)「ここでも聴けたよかトピア」


日本初のイベント放送局「よかトピアFM」(愛称はRADIO MOMO)。

開局した1989年は福岡にFM局が少なかった時代。アジア太平洋博覧会のためのラジオ局だったはずが、そのかっこいい放送スタイルと音楽で、半年間の会期中に福岡はもちろん、全国にもファンが広がっていきました。


これまで開局に至る準備から、全番組パーソナリティーゲストミュージシャンのみなさんを調べてきましたが、ラジオはリスナーあってのもの。

というわけで、今回はリスナー編です。



「よかトピアFM」をどんな人が聴いていたのか気になるのですが、これは会期中に一度調査がおこなわれています。

調査の概要はこんな感じです。


【よかトピアFMの聴取状況調査】

調査機関 ビデオリサーチ

調査期間 1989年6月3日(土)~6月9日(金)

調査地域 福岡都市圏(福岡市役所から半径20kmに含まれる自治体)

調査対象 12~65歳(全752サンプル)



この調査によると、「よかトピアFM」を知っている人は全体の62.5%(12~29才の割合が高いです)でした。さらにそのなかで実際に聴いたことがある人31.3%(20~29才の男性が高割合)。


6月はじめに調査されていますので、時期はちょうど博覧会の会期の真ん中あたり(よかトピアは3月17日~9月3日に開催されていました)。

7~8月の夏休みに来場者が一気に増えますので(一番多いときは1日で19万人超え!)、「よかトピアFM」もまだまだこれからといったころなのですが、若い世代を中心に認知度はすでに高くなっているように見えます。



このとき、放送を聴いている場所についてアンケートをとっています。それによると、54.3%が車の中48.4%が自宅10.1%が会場内とのことでした。


「よかトピアFM」が音のパビリオンらしく、シーサイドももちを飛び出して、会場の外でよく聴かれていたようです。

車の中が多いのは、カーステレオにFMチューナーやカセットが標準装備されて、ラジオの音楽番組やカセットテープの音楽を楽しみながら運転することがすでに浸透していたこともあるでしょうし、朝8時の放送開始から定期的にお知らせしていた交通情報もドライバーに好まれたのだと思います。


そういえば、1991年の映画『波の数だけ抱きしめて』(東宝。監督は馬場康夫さん)でも、FMラジオと車との相性の良さが描かれていました。今だと、自分のスマホと車のディスプレイオーディオをBluetoothなどで接続して、CarPlayやAndroid Autoを使っていつものお気に入りの音楽やラジオを高音質で聴けますが、当時はカセットテープを自分で編集したり、イコライザー付きカーステレオや高品質のスピーカーをわざわざ積んで音に凝ったりする人も多かったですよね(そうそう、いくつものカセットテープを車の中に持ち込むためのケースが売ってたりもしました…)。



車中のリスナーさんといえば、このブログの元ネタ『radio MOMO よかトピアFMの記録』(FMよかトピア事務局、1989年)におもしろいおたよりが載っていました。

福岡県京都郡豊津町(現在のみやこ町)のSさんが、仕事で福岡県庁まで車を走らせたときに、どこからどこまで「よかトピアFM」が聴こえるのかを調べて、知らせてくださっているのです(おたよりのお名前はすべてイニシャルかラジオネームで載っていましたので、そのまま失礼します)。

※ちなみに、使ったラジオは「クラリオンのAM・FMステレオチューナー付カセットステレオ6053型」だそうです。


Sさんのおたよりによると、行きは豊津町を出発して、下道で飯塚方面へ向かったところ、田川市を過ぎて、近畿大学前あたりから聴こえ始めたそうです(ただしモノラル)。

いったん飯塚市内で音が途切れたものの、八木山峠頂部まで来るとまた聴こえはじめて、峠をくだって篠栗町に入ってからはステレオのきれいな音質で聞こえたのだとか。


帰りは、古賀から高速道路にのって小倉南インターチェンジ経由で帰宅されているのですが、古賀サービスエリアまではステレオのきれいな音質、ここを過ぎるとだんだん聞こえなくなったそうです。



なんというリアルな情報。Sさんのとても貴重な記録でした。

「よかトピアFM」は、福岡タワーから超短波放送100Wで送信して、おおむね福岡都市圏の190万人をエリアにおさめていました。

ただ、実際は福岡タワーのあるシーサイドももちからの距離だけではなく、地形なども影響して、聴きやすい場所と聴きづらい場所があったはずです。今でもカーオーディオでラジオを聴くと、福岡エリアの周波数は、Sさんの調査のような傾向があるように感じます。


(福岡市博物館所蔵『radio MOMO よかトピアFMの記録』12ページより抜粋)
Sさんの調査を図にしたもの


Sさんの調査では、飯塚市で聴きづらかったという「よかトピアFM」。


ところが、遠くは北海道でも聴けたという人がいました。


遠くの短波放送を受信するBCL(Broadcasting Listening)がブームになったのは、1970年代のこと。ソニー「スカイセンサー」やナショナル「クーガー」など、短波を受信できるメカニカルな風貌のラジオが流行りました。

全盛期には及びませんが、ウェブでの放送が未発達の時代に遠くの放送を受信できたときの喜びは、よかトピアの当時も特別なものでした。


遠くのラジオ放送をキャッチして、その受信報告書を放送局に送ると、受信した証明としてベリカード(Verification Card)をもらうことができて、これをコレクションしている人もいます。


「よかトピアFM」にもこの受信報告書が全国から届きました。ざっとこのような数が記録に残っています。



【よかトピアFMに届いた受信報告書の数】

北海道6

青森県2、宮城県1、秋田県1、山形県2、福島県1

茨城県1 埼玉県11 千葉県5 東京都13 神奈川県7

新潟県3 富山県1 長野県1

静岡県6 愛知県2 三重県1

京都府3 大阪府4

島根県2 岡山県2 広島県1 山口県1 

愛媛県1

佐賀県4 長崎県8 熊本県1 大分県1 鹿児島県2 沖縄県1



そのエリアは、北は北海道南は沖縄にまで及んでいます。もっとも、受信報告の数はその地域の聴こえやすさというより、BCLファンの母体数の違いによるところが大きいかもしれません。


(福岡市博物館所蔵)
「よかトピアFM」のベリカード


実際にシーサイドももちから遠いところで聴いてくださったリスナーさんのおたよりが、『radio MOMO よかトピアFMの記録』に載っていました。いくつかご紹介してみましょう(途中省略したりして再構成しましたが、言葉遣いは当時のまま残して雰囲気をお伝えします)。



まずは、東京都杉並区のAさん(29歳)です。

「今季3回目のレポートです。わずかな入感ながらYES-FMに比べ、よかトピアFMの方がトレンディ感覚に満ちていることが感じられます。7月5、6、7日は大変ESコンディションがよく、この日0955(朝9時55分)からの受信は初のステレオ受信、夕方も入感し、大変エキサイトしました。」


YES-FM」はよかトピアと同時期に開催されていた横浜博覧会(YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE '89、略称「YES'89」)のFM局です。「トレンディ感覚に満ちている」と「よかトピアFM」をほめてくださっていますが(うれしいです!)、「よかトピアFM」の出力は100W、「YES-FM」は10Wでした。出力の違いにあらわれているように、「よかトピアFM」は広く福岡都市圏に向けて音楽を中心にしたプログラムを、「YES-FM」は来場者に向けて博覧会情報を主に放送していましたので、両放送局のスタイルの違いは、目的と対象とするリスナーの違いによるものだろうと思います。

ただ、せっかく博覧会でFM局をやるなら音楽を中心に放送しよう!という発想は、音楽が大好きな福岡っぽいですよね。


おたよりのなかにある「ESコンディション」は、上空に急に現れる電離層(「スポラディックE層」「Eスポ」)のことだと思います。電波を反射して遠くまで届けてくれるので、「よかトピアFM」を思わぬ遠い場所で聴いてもらえることもありました。



仙台市青葉区のMさん(22歳)もそのお一人。こういうメッセージを送ってくださっています。

「連日のEスポ伝搬でこの日もチューナーダイヤルをまわしていたところ聞いたことのない放送局(貴局)が入感しました。はじめは海外FM局かと思っていると、よかトピアと言っているではありませんか。イベント放送局なのにあまりにも番組が洗練されているのに驚きました。」


同じように、秋田県平鹿郡にも電波が届いていました。Oさん(31歳)のおたよりです。

「最初Eスポで何の局かわかりませんでしたが、何と?!よかトピアFM局ではありませんか! 100Wパワーとのことですが、よく北の秋田までとんでくるものですね! 驚きました! 遠くて行けそうにありませんが、電波で楽しみました。


急に知らない番組が聴こえてきて、しかもそれが九州でおこなわれている博覧会の期間限定のイベント放送局だったら驚きますよね。

まさか東北の方々に、こういう形で「よかトピア」を楽しんでもらっていたなんて、今回はじめて知りました。



さらにこれは特別な例ですが、6月3日(13~15時)には、ラジオジャパン(NHKワールド・ラジオ日本)で、サイマル放送(ほかのチャンネルでの同時放送)もおこなわれています。この時間だけは世界のリスナーに向けて、クリアーな音で番組を届けました。



もちろん、シーサイドももち近くのリスナーさんからも、連日こうしたメッセージが届いていました。

SNSがない時代のラジオの生放送は、双方向でやりとりができる特別なメディア。曲のリクエストはもちろん、何気ない日常の出来事や番組の感想をたくさん送ってくださっています。


次はこうしたリスナーさんのおたより大特集でこの「よかトピアFM」シリーズを閉めたいと思います。


【参考文献】

・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・『radio MOMO よかトピアFMの記録』(FMよかトピア事務局、1989年)

・『よかトピアFMタイムテーブル』VOL1~3((財)アジア太平洋博覧会協会)


#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #よかトピアFM #リスナーさん #BCL #受信報告書 #べリカード


Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル



※ 次週の【別冊シーサイドももち】はゴールデンウィークのためお休みします。
  次の更新は、5月12日(金)の予定です。

2023年4月21日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈034〉百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機

  

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。






〈034〉百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機


大正時代末期のほんの短い期間、水上飛行機が百道に離発着していたことをご存知でしょうか?

この話、わりとその界隈(どの界隈?)では知られた話のようですが、このことに最初に注目したのは市史編さん室が発行している広報誌『市史だより Fukuoka』第20号(2015年1月)のコラム「歴史万華鏡」の「百道海水浴場に水上機の飛行場があった!」ではなかったかと思います(テキストは田鍋隆男さん)。

書籍『シーサイドももち』でも紹介したこちらのお話ですが、今年は初めて百道に水上飛行機がやって来てから99年目(惜しい!)。

というわけで、今回はその後日談を含めてもう少し詳しく紹介したいと思います。

※上記コラムはコチラから読めます。→ 福岡市史 福岡歴史コラム


* * * * * *


大正時代から昭和にかけて、飛行機の技術が飛躍的に進歩したことで、日本国内にも民間の飛行機会社や研究所ができ始めていました。

日本航空株式会社もその一つです。

同社は現在の日本航空株式会社(JAL)とはまったくの別会社。大阪の会社で、毛織物で財を成した川西清兵衛の息子である川西龍三が大正12(1923)年に創設した、民間の航空会社です。

日本航空株式会社の飛行機は大阪-別府間を主に郵便輸送として運航していましたが、航路拡大のため、福岡に水上飛行機の発着場をつくることにしました。

そして今から99年前の大正13(1924)年4月7日、百道に水上飛行場を置く認可が下り、同社は百道に出張所を開設しました。*1


(国土地理院2.5万地形図
「福岡」「福岡西南部」「福岡南部」「福岡西部」大正15年測量)
百道にあった水上飛行場の場所(推定)。


現在だと、だいたい博物館南側のやや西寄りに当たると思われます。


同月11日にはさっそく別府-福岡間の航空路開きが行われたのですが、当時の新聞記事にはその様子が詳しく報道されています。*2


航路開きは当初12日に実施する予定だったのですが、11日の方が天候が良いとの判断で、予定を前倒して実施。当日は日本航空株式会社の湯谷 新宮 登一安部 勉が操縦する3機の飛行機が、別府市制施行を祝う宣伝ビラを積んで10時50分に別府を発ちました。

この宣伝ビラには、

『日本航空株式会社は別府福岡間航空路郵送を祝し併せて別府市制施行に対する多大の御同情と御後援とを感謝し尚此機に臨み福岡市並に中津町民諸子に敬意を表す 別府市は来る十五日市制施行祝賀会を開催す』

と書かれていたそうです。


別府を発って約1時間半後、12時30分にまず宮飛行士が、次いで12時50分には安部飛行士の飛行機がそれぞれ百道に無事着水。初めて水上飛行機を間近で見たという人も多かったことでしょう。新聞に載った写真を見ると、たくさんの人が見物に集まった様子が分かります。

そして最後に残った湯谷機ですが、別府を発ってすぐ厚い雲に阻まれて航路を見失い、約2時間遅れで福岡に到着し、市内に例のビラを撒いて、午後3時にようやく百道に着水しました。

こうして記念すべき第1回目の飛行はなんとか成功となったのでした。


(福岡市博物館所蔵)
別府から到着した日本航空株式会社の飛行機2機。


さらに同月15日には「披露飛行大会」と称して、百道でのデモンストレーション飛行が行われました。これはかなり大規模な催しだったようで、その雄姿をひと目見ようと百道の海岸や近隣の西公園、さらには市内各所に見物人が集まったといいます。

この披露飛行には、最初に別府-福岡間を飛んだ湯谷・宮・安部飛行士に加え、ベテラン飛行士で当時アイドル並みの人気を誇っていたという後藤勇吉も参加しました。

後藤勇吉は宮崎県の出身で、日本人初の一等飛行機操縦士であり、この年の7月に毎日新聞社の飛行機「春風」号で初めて日本一周飛行を成し遂げたという、当時の飛行機界のレジェンドです。

※後藤勇吉についてはコチラをご覧ください → 宮崎県郷土先覚者・後藤勇吉


さて、百道の会場では西新ゆかりの西川虎次郎をはじめ、元衆議院議員の藤金作や初代福岡市長でもあった中立木、平塚郵便局長、石橋福岡市助役、上田西新警察署長、金近水産試験場長、百田保安課僚など、約100名の来賓が飛行の時を待っていました。

飛行が始まると各飛行機は、空中での大回転から、縄梯子を下ろしてそこにぶら下がったり逆立ちして両手を振ってみたり、また両翼の間に立つ(どうなってるの?!)などの見事な曲芸飛行を披露し、集まった観客を喜ばせました。

全部で4回の飛行を行い、飛行機の披露飛行は大盛況のうちに幕を閉じました。*3


(福岡市博物館所蔵)
宙返りする飛行機。
これは大正6年に来日した「鳥人スミス」こと
アメリカのアート・スミス氏による飛行。


こうして華々しく開場した百道の水上飛行場ですが、同じ年の8月には入船町(現在の中央区港付近)への移転が決まります。

9月になると格納庫などが完成して、9月9日にはすべての移転が完了。百道の水上飛行場は4ヶ月という短期間でその役目を終えました。*4




・・・と、いいたいところですが、実は移転後も百道ではしばらくの間水上飛行機の発着が行われていたようです。

あくまでも一般向けの遊覧営業だったようですが、当時の新聞記事を見てみると、移転した翌年の大正14年夏からさっそく「遊覧飛行会」と称して、遊覧飛行の募集を行っています。

主催もこれまで通り日本航空株式会社となっており、パイロットも同社の宮飛行士や安部飛行士、また亀井五郎飛行士などの若手が名を連ねていました。*5

そのため同社では、定期飛行はなくなっても百道海水浴場の東端(樋井川の近く辺りと思われます)に臨時の出張所を置き、昭和3年までは営業を続けていたようです。

ちなみにこの遊覧飛行、価格は1回10円。昭和4年当時の福岡-大連間の運賃が40円だったそうなので、これはなかなかの贅沢ですよね。


そんな遊覧飛行ですが、実は貝島炭鉱で知られる貝島太市(大正8年に貝島商業社長、昭和6年に貝島炭鉱社長)の長男、貝島慶太郎が高校生の頃、百道ではありませんが入船町からの遊覧飛行を体験しています(さすがお金持ち・・・)。


(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
これはおじいちゃんの貝島太助(1845-1916)


自身の著書『思ひ出』(私家版、1929年)によれば、飛行機に大きな憧れを抱いていた高校生の慶太郎くん(あえてそう呼びますが)は、恐らく大正14年か15年の8月、入船町の飛行場から水上飛行機に乗って、博多湾を中心に福岡市上空を周遊しています。

この時のパイロットはご存知、宮さん。慶太郎くんも憧れた人ではあるものの、乗る飛行機が中古だったらしく、それを知った慶太郎くんは乗る前から不満のご様子。

ですが、いざ「飛行帽」をつけてもらえば期待も高まり、いよいよ離陸です。

入船町から飛び立った飛行機はまず西公園の真上を通り、今度は香椎方面ヘと方向転換。その後那珂川上空を通り、たった3分で香椎上空に到着しました。

この間、慶太郎くんは持参のカメラで写真を撮ったり(揺れて上手くいかなかった模様)、香椎上空では自分の別荘を探したりとなかなかのボンボンぶりを発揮。さらにはここぞとばかりに隠し持った無数のビラを撒いてみますが手にまとわりついて上手くいかず、最終的には苦笑する宮さんに手伝ってもらってなんとか撒くことができたようです。

(慶太郎くんが撒いたビラの内容は不明ですが、こうした上空からのビラ撒きは当時飛行機とセットだったのでしょう)

福岡市を一周し、最後は百道海水浴場の浴客が見守る中を「人の頭をすれすれに」飛行し着水。慶太郎くんドキドキの初飛行はこうして終わりました。

こうした遊覧飛行は高額とはいえ人気だったようで、日本航空株式会社としても飛行機というものを一般市民に紹介する良い機会となったようです。


こうして福岡の人々にも親しまれた日本航空株式会社ですが、昭和4(1929)年に国策会社である日本航空輸送株式会社の設立によって解散。航路は引き継がれたものの、水上飛行場は名島に新しく水陸両用の飛行場ができたため(昭和4年4月完成、運用開始は昭和5年から)、入船町の水上飛行場と百道の遊覧飛行はその短い使命を終え、廃止となったのでした。


* * * * * *


いかがだったでしょう?

福岡の飛行場の歴史はこのあと名島、板付、そして現在の福岡空港へと続いていくわけですが、それは小さな小さな百道の水上飛行場から始まっていました。

とはいえ、なぜ日本航空株式会社が航路拡大という大事なポイントに百道を選んだのか、それは今のところ分かっていません。申請認可から初フライトまで、報道によればその間わずか4日。しかも大阪の会社ですから、もっと以前から調査を行っていたことでしょう。

大正時代末~昭和初期であればまだまだ百道松原には開発の余地があり、実現したかどうかは別としても、この時期各所から「あの広大な土地を何かに利用したい」と思われていたことは、このブログでも何度か紹介しました。

その辺りの選定経緯についてはぜひ今後も追いかけていきたいと思いますが、しかし水上飛行場も最終的には言わばレジャー施設として使われたというのは、まさに海水浴場全盛期だった当時の百道らしい姿ともいえますね。






【参考文献】

・荒山彰久『日本の空のパイオニアたち 明治・大正18年間の航空開拓史』(早稲田大学出版部、2013年

・貝島慶太郎『思ひ出』(私家版、1929年)

・柴多一雄「戦前期における民間航空の発展と福岡市」(福岡市史編集委員会編『市史研究ふくおか』第12号、2017年)


一般財団法人日本航空協会「逓信省航空局 航空機乗員養成所物語(4)– 航空輸送会社の誕生 –」https://www.aero.or.jp/culture/aviationand-culture/20070415-7780/

・アジ歴グロッサリー「コラムNo.1 【 内地と外地を結んだ民間航空網 】」https://www.jacar.go.jp/glossary/gaichitonaichi/column/column1.html

・国立国会図書館「近代日本人の肖像」https://www.ndl.go.jp/portrait/

・宮崎県郷土先覚者「後藤勇吉」http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/goto/


・新聞記事
・大正13年4月6日 朝刊3面「百道着水場 愈認可 近く延長飛行」*1
大正13年4月12日 朝刊3面「湯谷稍遅れて着く 途中密雲に悩んで難飛行 別府福岡間の飛行成功」*2
大正13年4月16日 夕刊2面「百道の披露飛行大会 翼上に逆立つ大曲技 縄梯子に下つて国旗を撒く 三機入乱れて飛ぶ」*3
大正13年8月20日 朝刊3面「百道から福岡築港へ 飛行場移転【朝鮮連絡飛行延ぶ】」*4
大正13年9月3日 朝刊3面「百道飛行場 愈々移転 工業学校裏に」*4
大正13年9月10日 朝刊3面「百道を離水して工業学校裏へ【飛機の空中輸送終る】」*4
・大正14年7月26日 朝刊3面「博多湾遊覧飛行 百道海水浴場で開始の日本航空の主催」*5
昭和2年8月17日 朝刊3面「盆明けで百道賑ふ 浴客一万余押寄す」
昭和3年8月7日 朝刊2面「休暇に入って―めっきり賑ふ百道浴場 海水浴に納涼に夥しい人出 真に銷夏の理想郷」
・昭和3年9月25日 夕刊2面「発展を予想して地価は騰る 拡大しゆく大福岡 国際航空路名島飛行場3」


#シーサイドももち #百道海水浴場 #百道の水上飛行場 #日本航空株式会社 #後藤勇吉 #貝島慶太郎


Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル

2023年4月19日水曜日

【Discover the Feature Exhibition】 The Sakimori

 - Soldiers garrisoned in Northern Kyushu in Ancient Times

January 17th (Tue.) ~ April 23rd (Sun.), 2023

Pottery from Tohoku region (Northern Japan) 8th century

Since Fukuoka is the closest city in Japan to Mainland China, it was not only a window for foreign exchange but also a place vulnerable to invasion as an entry point from the continent.

In 663, Japan suffered a crushing defeat at the hands of the combined forces of Tang and Silla, known as the Battle of Baekgang. The Yamato Imperial Court, fearing a Tang invasion, dispatched soldiers from the eastern provinces to Kyushu, such as Tsushima, Iki, Tsukushi and other provinces as the Sakimori soldiers.

Pottery from the Tohoku region was excavated from a pit dwelling from the Nara period (710-784) at the Zasshonokuma site in Hakata Ward, Fukuoka City. The shape of the dwelling is similar to that from the Tohoku region, leading us to believe that it’s also the residence of the Sakimori soldiers who had been dispatched from the same region.

During the Mongol invasions of Fukuoka in 1274 and 1281, a group of warriors from the western provinces were dispatched to the area. The 'Mōko Shūrai Ekotoba,’ an illustrated account of the Mongol invasion, eloquently describes the battle against the army. It also shows the exploits of Takezaki Suenaga, a samurai warrior from Higo (present-day Kumamoto area).

In this exhibition, we focus on the soldiers who had been stationed in Fukuoka to fight against foreign enemies, such as Western samurai warriors in the Kamakura period (1185-1333), as well as the ancient Sakimori soldiers.

Exhibition view


2023年4月14日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈033〉開局! よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月


埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。






〈033〉開局! よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月



アジア太平洋博覧会の音のパビリオン「よかトピアFM」。会場内の放送ブースから、はやりの音楽とともに博覧会の情報を会場の遠く外にまで届けていました。そのため、音楽好きのリスナーに向けて新曲のプロモーションにやってくるゲストもたくさん。


前回は1989年7月までのゲストをふり返りましたので(→〈031〉)、今回は8月から閉会(9月3日)までのゲストを調べてみます。ゲスト編がようやくゴールです。



【8月】

02日 J-BLOODS(ジェイブラッズ)

03日 鈴木トオル

04日 EPO(エポ)

04日 上田知華

05日 深津絵里

06日 カマサミ・コング(13:00~17:00スペシャルDJ)

13日 (KDDスペシャル リゾートシアターより生中継 松岡直也ほか)

16日 辛島美登里

24日 松本伊代

25日 鈴木雅之

29日 関口誠人



8月ゲストはJ-BLOODSから。4人組のバンドです。1989年6月21日にシングル『FENCE』、7月21日にはアルバム『THE GATE WAY』を発売したばかりでのご出演でした。



3日の鈴木トオルさんは、1985年にデビューしたバンド「LOOK」のボーカル。シングル『シャイニン・オン 君が哀しい』がヒットしました。
のちにバンドを離れ、1989年からはソロで活動されています。最初のソロシングル『夜を泳いで』が1989年7月21日、アルバム『砂漠の熱帯魚』が8月21日にリリースされていますので、ゲストにいらっしゃったときは、あらたなキャリアを始められたばかりの時期だったことになります。『夜を泳いで』はゆったりとしたテンポのなかに、ギターのカッティングやブラスがかっこよく鳴っている曲でした。

※オフィシャルサイトにディスコグラフィーがアーカイブされています。このブログでも参照しました。



4日はシンガーソングライターのEPOさんがゲスト。
1980年にシュガー・ベイブの『DOWN TOWN』をカバーしてデビューされました。テレビ「オレたちひょうきん族」(フジテレビ、1981年放送開始)のエンディング曲でしたので、番組とともにご記憶の方もいらっしゃるかもしれないですね。資生堂のCMソング『う、ふ、ふ、ふ、』(1983年発売)も大ヒットしました。
その後イギリスに活動拠点を移されて、よかトピアFMに出演されたときも、イギリスでつくられたアルバム『Super Natural』をリリースされたばかり(7月21日発売)。福岡にいながら、ご本人の声でイギリスでの活動について直接聴くことができる貴重な機会になりました。
EPOさんはその後もご自身のスタイルで歌手活動を続けられ、最近ではシティ・ポップの再評価のなかで、ますます精力的にライブをおこなっておられます。


この日のお二人目のゲストは上田知華さん。
1978年に「上田知華+KARYOBIN」(歌・ピアノと弦楽四重奏で編成)でデビューされました。のちにはソロで活動され、1984年に1stソロアルバム『Classiest』を発売。ゲスト出演された1989年には、2ndアルバム『OKITE』をリリースされています。その美しい旋律はたくさんの楽曲提供でも聴くことができ、なかでも上田さんが作曲を担当された今井美樹さんのシングル『PIECE OF MY WISH』(1991年)は大ヒットしました。

※上田さんのオフィシャルサイトではディスコグラフィーがアーカイブされています。このブログでも参照しました。



5日は深津絵里さんが出演されています。
深津さんは大分県のご出身。1988年に映画『1999年の夏休み』(松竹。監督は金子修介さん。この作品は萩尾望都さんの『トーマの心臓』を翻案したものだそうです)で俳優デビューされました(当時のお名前は「水原里絵」)。ドラマ『きらきらひかる』(フジテレビ)やドラマ・映画でシリーズ化されて大ヒットした『踊る大捜査線』(フジテレビ・東宝)などへのご出演で、俳優として誰もが知る存在です。
実は深津さん、歌手としても活動されていました。デビューシングルは『マリオネット・ブルー』(「高原里絵」名義。1988年10月21日発売)。最近では『カムカムエヴリバディ』(NHK連続テレビ小説)でその歌声を披露され、話題になりましたね。
よかトピアFMにご出演された1989年には、シングル『7つの涙』(6月21日発売)と『アプローチ』(11月21日発売)をリリースされていて、どちらの曲ものちにアルバム『アプローズ』(1990年2月21日)に収められました。深津さんの貴重な歌手時代の一コマに、よかトピアFMがあったと知って今回驚きでした。



6日のカマサミ・コングさんはラジオDJ。
当時はハワイの放送局を活動拠点にしながら、日本をふくめた海外の放送局でも番組を持たれるなど、国際的な人気パーソナリティでした。その人気ぶりは、まるでラジオを聴いているように、コングさんのDJとドライブにぴったりな音楽を楽しめるアルバム(角松敏生さん・山下達郎さん・オメガトライブなど)が発売されるほど。今でも福岡のLOVE FM「THE KONG SHOW」(日曜19時)などでそのお声を聴くことができ、変わらずご活躍です。
この日は、そんなアジア太平洋をまたにかけるコングさんの特別プログラムを、よかトピアの会場から13~17時の4時間生放送。日曜日でしたので、ふだんは「よかトピア Music Heat Wave」を放送している枠でしたが、世界的にみても特別な時間になりました。


(福岡市博物館所蔵)
「よかトピアFM」の番組表(5~6月)


13日はちょっと変わったプログラム。博覧会のリゾートシアターで開催されたコンサート、「KDD 001 SOUND COCKTAIL '89」を生中継しています。
6月26日にゲストにいらっしゃった松岡直也さんや、サーカスバブルガムブラザーズ大野えりさんらが出演されたコンサートです(→〈029〉)。よかトピアの会場にいなくても、ラジオを通してコンサートと博覧会の盛り上がりを体験できる贅沢な放送でした。



16日のゲストは辛島美登里さん。鹿児島県のご出身です。
辛島さんのオフィシャルサイトによると、ご自身の今の活動につながる作品は、1989年6月25日に発売されたシングル『時間旅行』とのこと。7月25日にはアルバム『Gently』もリリースされています。ゲスト出演はその直前でした。翌年11月にはシングル『サイレント・イヴ』がドラマ主題歌になって大ヒット。細かな感情の動きをつづった歌詞を美しいメロディーにのせて歌った曲、それにぴったりの辛島さんの歌声に、今でも多くのファンがコンサートに足を運んでいます。
ふり返れば、そうした現在の活動につながるシングル・アルバムが発売され、ファンがどんどん増えていったときに、よかトピアFMに出演されたことになります。



24日は松本伊代さんがご出演。1982年デビューの「花の82年組」のお一人として、80年代アイドルの代表的な存在です。ゲスト出演されたときは、すでに誰もが知るアイドルでした。実はアジア太平洋博覧会では、たくさんのアイドルがコンサートをおこなっています。
男闘呼組の人気のすさまじさは前にご紹介しましたが(→〈001〉)、ほかにも河合奈保子さん(3月18日・19日)・松本典子さん(3月23日)・荻野目洋子さん(5月7日)・芳本美代子さん(5月8日)・渡辺美奈代さん(5月9日)、そして伊代さんと同じ「花の82年組」の早見優さんも5月10日に会場内のリゾートシアターでコンサートを開かれました。


鈴木雅之さんは現在も第一線で活躍されている歌手。
ドゥーワップ・グループ「シャネルズ」(のちに「ラッツ&スター」に改名)のメンバーとして、1980年にデビューされました。『ランナウェイ』『街角トワイライト』『め組のひと』などヒットを重ねたのち、鈴木さんは1986年にシングル『ガラス越しに消えた夏』、アルバム『mother of pearl』でソロ活動を始められています。
ゲスト出演されたのは、ソロシングル『LOVE OVERTIME』(5月21日発売)を経て、シングル『別れの街』(9月1日発売)とアルバム『Dear Tears』(9月21日にLP盤を発売。1991年8月23日にCDで再発売)のリリース直前のころ。『LOVE OVERTIME』はレイ・パーカーJr.さん(映画『ゴーストバスターズ』の主題歌で有名ですよね)、『別れの街』は小田和正さんのプロデュース(アルバム『Dear Tears』も)でした。

※鈴木雅之さんのオフィシャルサイトにディスコグラフィーがアーカイブされています。このブログでも参照しました。



29日にご出演の関口誠人さんは、バンド「C-C-B」のギター・ボーカル。のちにバンドを離れて、1988年にソロデビューされています。このときのゲスト出演は、7月21日にアルバム『Women & Me』を発売されたばかりでした。タイトル曲の『Women & Me』は、当時ならではビートが効いたなかに、電子音がよいアクセントになっている曲。ほかにもニュージャックスウィングを意識したポップな曲なども収録されていて、今聴いてもかっこよく、「C-C-B」とは違う魅力を味わえるアルバムです。



関口さんで8月のゲストは最後。やっと9月にたどり着きました。と言っても、9月3日でよかトピアは終了…。ミュージシャンのゲストを迎えたのも9月1日が最後でした。よかトピアFM最後のゲストミュージシャンはこのバンドです。



【9月】

01日 JADOES(ジャドーズ)



最後にユニークなバンドをゲストに迎えました。ジャドーズです。
デビュー前にタレントとしてテレビのバラエティー番組に出演していた、異色の経歴を持つファンクバンド。1986年にシングル『FRIDAY NIGHT』でデビューして以来、コンスタントにシングル・アルバムのリリースを続けました。プロデュースは角松敏生さん。
よかトピアFMに出演されたときは、9月21日にシングル『Morning Love』の発売を控えていたときでした。ただ、残念なことに90年代に入るとバンド活動は縮小していきました。
このジャドーズのボーカル・ベースの藤沢秀樹さんは、のちに「ダンス☆マン」として活躍されています。ミラーボール星からやってきた「ダンス☆マン」は、シングル『背の高いヤツはジャマ』(1998年3月18日発売)でデビューする一方で、楽曲提供では、編曲を担当したモーニング娘。の『LOVEマシーン』が1999年に大ヒット。以後、『恋愛レボリューション21』『ザ☆ピ〜ス!』『そうだ! We're ALIVE』など、モーニング娘。の一連のヒット曲の編曲を担当して、現在もハロプロをはじめとするたくさんの方々に曲を提供されています(『そうだ! We're ALIVE』は、最近、米津玄師さんが『KICK BACK』にサンプリングしたことでも話題になりましたね)。



ちなみに閉局前夜の2日には、パビリオン「九州館」入り口のステージから、ロックバンドのライブ「ラストナイトライブ」を放送しています。この「九州館」のイベントステージは、在福放送局もふだん番組中継に使っていた場所でした。KBCラジオが「はつらつサタデー」「KBC歌謡広場」を公開放送したこともあります。


そして最後の9月3日は電話リクエスト特集。この日のために電話を増設してリスナーから曲のリクエストを受け付けました。今だとツイッターやメールで募集しますので、とりあえずリスナーはどんどんリクエストを送ることができますが、電話だとまずは放送局に繋がるまでが一苦労…。しかもこれが最後の放送日ですから、リスナーもドキドキ・イライラしながら、必死で固定電話からかけ続けたはずです(どなたかリクエストが採用されたという方がいらっしゃらないでしょうか? ぜひ当時の思い出を聞いてみたいです)。

最後の放送は、リゾートシアターで大フィナーレを飾った博覧会の閉会式の生中継。日本初のイベントFM局のよかトピアは、これで放送免許の期限を迎え、終了しました。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
よかトピアFMの目の前にあったパビリオン「九州館」。
入り口のところにイベントステージを備えていました。



1989年3月1日の開局から、閉会した9月3日までに迎えたゲストミュージシャンは、手元の『radio MOMOよかトピアFMの記録』に記されているだけでも、のべ73組


こうしてお一方ずつふり返ってみると、リリース直前・直後の方々が多く、やはり新しい作品の地方プロモーションのために出演されていたものと思われます。

ただよく見てみると、国際的に活躍されているミュージシャンを少なからず含んでいて、そのキャスティングにはアジア太平洋博覧会らしさが出ていました。さらには、九州出身の方も多く、九州全体で取り組んだよかトピアならではの地元色の濃いラインナップにもなっていました。

みなみこうせつさんやスタレビなど、たびたびお声を聴く方もありました。


期間限定の博覧会のための放送局。でもその放送範囲は福岡都市圏にまで及んでいて、当時人気の音楽を強く意識して番組をつくっていたよかトピアFMは、出演する側にとっても、単なるプロモーション活動のなかの1か所を超えた特別な場所だったように感じられます。


個人的には、ドリカムがよかトピアと同期デビュー(?)で、よかトピアの会期中の6か月間に大人気グループに上り詰めていったことにびっくりでした。ほかにも、今では楽曲提供でヒットを続けられている方々が、ご自身のミュージシャン活動でよかトピアに来られていたことを知って、福岡人として何だかうれしい気持ちにもなりました。


この73組はミュージシャンだけですし、そのほかに出演された方はもっと多いはずですから、実際は毎日、放送ブースは大にぎわいだったようです。

その詳しい記録が残っていないのがとても残念。どなたかカセットテープにエアチェックされて、お持ちではないでしょうか…。あるいはよかトピアFMに協力されたKBCさんに同録が残っていると、当時の福岡の音楽環境を知るとても貴重な資料になるのですが…。ぜひ音楽のまち福岡の一コマをこれからも残していきたいです。



さて、(その6)までやってきたよかトピアFMブログですが、ラジオ局として成り立つためには、放送する側だけではなく、聴く側の存在を忘れるわけにはいきません。リスナーがこのラジオをどう受け取っていたのかは、そのままよかトピアFMとは何だったのかという評価にも繋がりそうです。


ということで、次はリスナー編をやって、めでたく完結を迎えたいと思います。どうかあと少しだけお付き合いください。


【参考文献】

・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・『radio MOMO よかトピアFMの記録』(FMよかトピア事務局、1989年)

・『よかトピアFMタイムテーブル』VOL1~3((財)アジア太平洋博覧会協会)


#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #よかトピアFM #EPO #深津絵里 #カマサミ・コング #辛島美登里 #松本伊代 #鈴木雅之 #ダンス☆マン


Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル


※ 2023.4.28 タイトルを変更しました。

2023年4月7日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈032〉聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~


埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。




〈032〉聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~


シーサイドももちのことを知るために忘れてはいけないのは、「西新」というまちの存在です。

西新といえば多くの学校があり、商店街があって飲食店なども充実していて、地下鉄やバスが通り天神や博多などへのアクセスも良く、福岡で人気のまちとして必ず名前が挙がる場所です。

そして西新は昨年、福岡市に編入して100周年という節目を迎えました。

とはいえ、「福岡市の西新」としては100年ですが、西新にある「市立西新小学校」の歴史はもっと古く、その創立は明治6(1873)年にまでさかのぼります。



西新小学校についてはコチラ。



そんな西新小学校は、今から50年前、ちょうど創立100周年を迎えた1973(昭和48)年に、100周年事業の一環として1冊の記念誌を作りました。

それが今回紹介する『西新―福岡市立西新小学校創立百周年記念誌―』という本です。






この本が本っっっっ当にスバラシイ!!!(声を大にして言いたい)


まず注目すべきはこの表紙

この松原と海を描いた絵。実はこの絵を描いたのは、画家の伊藤研之(いとう・けんし)です。

伊藤研之は1907(明治40)年、福岡市大名町生まれ。中学修猷館(現 県立修猷館高等学校)の出身です。のちに早稲田大学に進学しますが、卒業後は福岡に戻り活動します。二科会の福岡支部長福岡文化連盟の初代理事長を務めた人物です。

1978年に亡くなっていますので、この絵は晩年期の作品ということになります。

修猷館出身ということからの縁なのか、実際のところはよく分かりませんが、巨匠の作品がこんなにさらっと使われているのも何だか良いですよね。





さて、このスバラシイ本を作ったのは、当時の校長で安河内和好先生という方です。

安河内和好先生


安河内先生は当時西新小学校に在籍して6年目。たまたま100周年の節目に校長職だっただけ(と言ってしまえばそれまでなのですが)にもかかわらず、この『西新』制作に多大な労力と情熱をそそぎ、並々ならぬ気合でこの事業を遂行されました。

内容も、単に西新小学校の歴史をまとめるだけではなく、西新町全体の歴史をまるごと詰め込んだ構成となっています。


まず西新の歴史については、『早良郡誌』や『筑前国続風土記拾遺』、あるいは『西新町教育便覧』や福岡県史資料などから西新に関する記述を細かいところまでとにかく集めているようです。

コピーなどなく、また執筆も手書きであったであろう当時、これは相当な労力だったろうと、本当に頭が下がります。


そして何よりこの本がスバラシイのは、その多くが「卒業生や教職員からの聞き書き」により構成されているところです。

1970年代といえば、まだまだ明治生まれの方が多くご存命であった時代(明治40年生まれとして60代後半)。安河内先生はそんな明治・大正・昭和それぞれの時代を知る方々から丹念に思い出話を聞き、それを時代順(あるいはトピック別)に並べることで、西新小学校、そして西新というまちの100年を見事に形にしたのです。

さらにはお話だけではなく、「思い出地図」とでも言うような、話者の記憶の中の町並み地図や、各所から提供された貴重な写真類も多く掲載されているので、明治時代以降の西新の風景を復原する大変大きな手がかりにもなります。



明治33~35年頃の記憶の地図。
縮尺なんか関係ねえ!


もちろんこれら聞き書きは人の記憶が頼りですから、時には間違っていることもあります。裏付けできる資料などがなく事実と確認できないことも多々あるので、お話をそのまま鵜呑みにはできないこともあり、注意が必要でもあります。

ですが逆に言えば、資料には残らない細かい話話者の感情までもがそのまま綴られているので、そこには資料集にはない迫力が生まれます。

これはもうまさにこのタイミングでしか成し得なかったことだと思います。


そんな貴重な聞き書きの中から、時代順にいくつか紹介します。まちや生活が変わっていく様子を思い浮かべながら読んでいただければと思います。


※以下、すべて『西新』より引用。文末の( )は掲載ページ数。



* * * * * *


◎明治時代◎

「杉山稲荷さまのこと」 明治三十四年卒業 西嶋スギノ

 私が七才の頃、明治三十年頃のことで古い話です。紅葉八幡の松原に松葉カキに夕方行きますと、杉山さまの大きな松の木の根っこの下に穴がありまして、そこから大きな狐がのっそりのっそり競馬場の方に歩いていくのをみていました。(p.46)


※ 紅葉八幡宮は大正2年まで現在の明治通り沿いにありました。
※ 競馬場についてはコチラ → 〈019〉西新と愛宕の競馬場の話。


「明治の頃の新地」 明治三十四年卒 西嶋スギノ

 わたしの生いたちは、新地でした。当時の新地は、東は樋井川河口(昔は金龍寺川と呼んでいました)から、西の方は、今のパレスの処に祭られてあった紅葉八幡宮境内まででした。南は旧通り片原町の裏側から百道の海岸まででした。当時は電車通りはなく、お屋敷原といって、田中どん、小野どん、西村どん、倉塚どんなど、十五軒くらいの士族の広い屋敷があり、周囲は一面の桑畑でした。また煉瓦工場がありました。金龍寺川の向岸は浄満寺のお墓のところから、こちらは、記念病院の前くらいの川幅で大変広い川で石垣等はなく、地行方面へ遊びに行くのに、潮が引いているときは裸足で渡りました。(p.79)

※ 現在の明治通り。


「西新小学校奉職の思い出」 旧職員 松原伍勝

私が奉職した頃の西新小学校は、紅葉八幡宮(その頃は既に現在の処に移転していました。その西隣りにありまして、木造の平家建の校舎でした。周辺は一面の青松白砂で、所謂百道松原で、その名残の松が今幾本か西南学院の校庭あたりに見えるのみです。(p.68)

※ 大正6~7年。その後本人は上京し、関東大震災の時には麹町高等女学校に勤務。昭和48年時点で83歳とある。


明治のころの小学校生活 ※記名なし

(略)私は明治三十九年の頃の卒業生です。その頃の服装ですが式のときは紋付袴で普段は和装下駄草履で男子は学校帽をかぶっていました。風呂敷包みで教科書、石板石筆をもって通っていました。(略)運動会は百道松原昔の紅葉八幡さまの裏か浜であっていました。体操、棍棒、亜鈴、綱引き、玉入れ、徒歩競争、お遊戯などがあっていました。(略)(p.116)



明治10年代の卒業生。



◎大正時代◎

「藤崎の風物詩」 大正十四年卒業 富永八郎

地蔵尊※1の裏は 乾繭所※2があり 春は生繭が山と積まれていた、刑務所官舎※3と県道の境に高さ二米程の土手があり、少年達の草スキーの場であった。(p.83)

※1 千眼寺境内。
※2「かんけんじょ」。繭を乾かすところ。
※3 現在の早良区役所一帯にあった福岡刑務所の一部にあった刑務官の官舎のこと。


「嗟・百道原頭」 大正七年卒業 萱島弥平

われは海の子』の唱歌は正にわがものと思い込み白砂青松の百道の浜を高唱して歩き廻った。(略)この松原と浜丈けは後輩の児童生徒に残して置き度かったものと嘆かれる。(p.84)


「福岡市西新尋常高等小学校の思い出」 旧校長 松熊孫三郎

校舎は、平屋建四棟で、四棟目の裏の道を挟んで、西南学院中学部の赤煉瓦の校舎が建って居ました。(略)全児童数が、約一千一百人余でありました。(略)新校舎が現在の校地に新築されるように成りましたのは、大正十一年に西新町が、早良郡から福岡市に合併する条件の一つに約束されて居たと聞いて居ました。(略)
 いよいよ最後に屋内体操場が建ちましたが、これは大濠公園で開催されました、東亜勧業博覧会の陳列館を、西新、当仁、草ヶ江、警固、春吉の五校に持って来たものと覚えて居ます。(略)(p.88~89)



今川橋を通る北筑軌道(大正5年)



◎昭和時代(戦前~戦中)◎

「西新小学校の思い出」 昭和五年卒 金堀一男

確か三年の時だったと思うが、以前の西福岡警察署の隣にあった古い木造のぼろ校舎から、現在の百道松原の中に聳える鉄筋の新しい校舎―「当時としては市内に確か大名小学校と二校」―に机や椅子を担いで、一日掛りで移転したが、文字通り白砂青松の濃い緑の中に真白い校舎が、浮んで見えて、吾々の自慢であったこと。そして新校舎は波打際から確か四、五十米位しか離れてゐないので、夏には昼休みの時間に、吾々悪童共が、先生の眼を盗んでは真裸で水泳に夢中になり、昼からの始業の鐘が鳴ると、大あわてで教室にかけこんで先生に叱られたことが昨日の様に懐しく思い浮んで来る。そして今日では想像も出来ないが、当時は室見川の河口まで、一面の松原続きで、体操の時間や、放課后先生と一緒に松露探しに出かけ〝俺のが一番大きい〟と級友達と自慢し合ったものだ。
 それから夜ともなると、悪童連が、誰云うとなく校庭に集まって来て、〝肝だめし〟と称して、西新小の先輩が発掘した元寇防塁の辺りから、人家もまばらで、薄や藪の生い茂った新屋敷を通って、刑務所の隣にあった千眼寺の新しい墓標に、自分の名前を書いた名札を、卑怯者と云われたくない一心でこわごわと置いて、逃げる様に飛んで帰って来たこと。(p.89~90)


「私のおもいで」 旧代校長 清水競

 昭和十五年から十九年九月まで四年半の在職中は世間は戦時色一色と言うところ学校教育も例外ではありません。学校の位置が丁度扇の要どころで運動場は広いし百道海岸とあって色々の行事を引きうけたりしたものです。
七月の下旬には市内小学校の連合夏季聚落の会場となりました。大名、警固、住吉、奈良屋、春日、それに西新が常連でした。県立高女の有志の脱衣所、遠く基山小学校の要請で一教室を提供しました。近くに県の社会教育会館がありますので海洋少年団幹部講習があると五六年の団員の実地指導の映画撮影等に出ました。また福日新聞社が文化映画「軍国童謡集」を製作した時その一場面の撮影に協力したこともあります。(p.94~95)


小学校正門前での連合夏季聚楽開会式の様子(昭和17年)



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いかがだったでしょう?

話者の言葉をそのままを書き留めたような記述も多く、そのため話が前後することもあるのですが、読んでみるとそれがまたリアルです。

また、お話の軸はあくまでも思い出話ですが、その中には「え、当時そんなことが?」といった出来事や、失われた地名、そして場所が当たり前のようにさらっと現れます。これもまた今となっては貴重な記録資料の一つと言えると思います。


これらの「証言」を読んでいると、わたしたちがいま何気なく過ごしている日常も、いずれは「歴史」になるのだなあと、何だか感慨深い思いがします。

そう考えると、違うの世代の方々のお話を聞いてみる、あるいは自身の体験を記録しておくというのがいかに大事かということがよく分かります。

この本がスバラシイと感じるのは、編者の安河内先生がそうした小さなことを丹念に広い上げながら、証言の一つ一つを大事にしてこの本を作られたからなのでしょう。


この『西新』は、福岡市総合図書館の2階にある「郷土部門」で閲覧が可能です。

細かいところまではとてもここではお伝えできませんので、つづきはぜひ直接お手にとって、100年にわたる西新の人々の生の声に触れていただければと思います。






※ 引用、写真はすべて『西新―福岡市立西新小学校創立百周年記念誌―』(福岡市立西新小学校創立百周年記念会、1973年)より。


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Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル