2023年2月24日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈026〉本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。





〈026〉本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~


『シーサイドももち』という本を制作する際、内容とともに思い入れをもって考えたのが「見た目」です。

とくに今回は、デザイナーの植松久典さん、イラストをお願いしたピーアンドエルさん写真家の加藤淳史さんにはたくさんの要望(無理難題)にお答えいただき、とてもお世話になりました。

また「見た目」とはデザインだけでなく、素材についてもイメージを大事につくりました。今回はその辺の、ちょっとマニアックなお話をしたいと思います。


* * * * * *


まず本文の紙について(いきなりだいぶマニアックでスミマセン)。


通常、中身がオールカラーの書籍をつくる場合、なるべくキレイに色が再現できて、さらになるべく裏写りしないものを選ぶことが多いです。


こちらは王子製紙さんの印刷見本。
同じ印刷でも紙が違うと色味も違って見えます。
(……見えますよね?)


ところが今回は、ちょっと色の再現度は下がりますが、あえて風合いのある「アドニスラフ80」という紙を選びました。

これはコミック本の本文用紙などによく使われている紙です。

これはその手触りが、『シーサイドももち』の内容のメインである「百道海水浴場」や「よかトピア」の時代感、そしてイメージをより伝えられるかなと思ったからです。


こちらが使用した「アドニスラフ」。
ちょっと粗い感じもしますが、色が沈んだことでいい風合いに。


一方こちらは「b7ナチュラル」という紙。写真が多い印刷物には最適です。
とても発色が良く裏写りもなく大変良い紙ですが、美しすぎるので今回は採用しませんでした。
(つ、伝わりますかね……?)



続いては本の造り


『シーサイドももち』はもちろん、現在出している『新修福岡市史ブックレット・シリーズ』は、いわゆる〝ソフトカバー〟という仕様です。ソフトカバーは〝並製本〟とも呼ばれ、表紙が本体と同じ大きさの紙であることが特徴の一つなんですね。


ちなみに、ソフトカバーに対して〝ハードカバー〟という言葉を聞いたことがあるかもしれません。これは〝上製本〟とも呼ばれて、並製本と違い、本体よりも表紙がちょっとだけ大きくはみ出るサイズになっています。

ほかにももっといろいろと違いはあるのですが、代表的な違いをざっくり言うと、そんな感じです。


これは並製本。文庫・新書やコミックなどで多く見られます。


こちらが上製本。見るからに頑丈そうですね。
福岡市史では「資料編」や「民俗編」などで採用しています。


上製本を開くとこんな感じ。緑の部分が本文サイズ。
ちょっとだけ枠がはみ出てるのが分かりますか?


寄ってみるとよく分かります。
これが上製本の特徴です。


さらに、今回のブックレット・シリーズは並製本ですが、利用しやすさを考えて、「より開く」よう、「クータバインディング」という工法の製本を行ってもらっています。


○印の部分がよく開くための技術。

※クータバインディングは、長野の製本会社「渋谷文泉閣」さんが開発した素晴らしい技術です。くわしくはこちらをご覧ください。


「より開く」という事は、それだけ読みやすく、持ち歩いて本を読む時でもストレスがありません。

また、編集的には本の内側ギリギリまで内容を詰め込めるという利点があります。




ソフトカバーもハードカバーも、本によってはさらにカバーが巻かれていることがあります。カバーには、本が傷つくのを防ぐという役割があります。


『シーサイドももち』にもカバーを巻いています。

カバーの表紙絵は、東区香椎にある「ピーアンドエル」さんの手による賑やかな雰囲気が楽しい「よかトピア」開催時のシーサイドももち地区です。

本文の紙で時代感を意識しましたので、カバーもツルっとしたようなものではなく、ザラザラでボコボコなテクスチャ―のある「ユニテックG スノーホワイト」という紙を使い、傷まないようPP加工を施しています(だいぶマニアックになってきましたねー)。

寄ってみると良い感じにボコボコしています。


そして、このカバーをめくってみると……。




その下からは、戦前に賑わった「百道海水浴場」が現れる、という仕組みになっておりまして、これは制作時に大変こだわった部分です。


それは、埋立地であり今は30数年の歴史しかないシーサイドももち地区ですが、その下にはそれはそれは長い歴史があるんですよ、という、この本の意図を表わしています。



さらにさらに、カバーをめくった本体の表紙、こちらにもちょっとした工夫があります。

ゆるチップ〈ゆき〉」というボール紙を使っているのですが、実際に本を見てもらうと分かると思いますが、本来印刷面として使われるツルツルでキレイな面ではなく、通常は裏側となるザラっとした方を表にして印刷してもらいました。

これも本文用紙やカバーと同じような理由ですが、さらにイラストが海水浴場なので、実はちょっと「砂っぽさ」を意識してみました(わー、マニアック)。


左が通常の表。白っぽくてちょっと光沢があります。
右が通常の裏。ザラザラとした感じで光沢はありません。



さらに本には「オビ」と呼ばれる紙を巻いています。

オビは、より多く本の情報をお伝えするために、キャッチコピーや推しポイントを載せるものです。よくデカデカと「映画化決定!」や、写真とともに著名人の推薦コメントなんかが書いてある、アレです。


オビの用紙はちょっと無理をお願いして「クラフトペーパー〈プレーン ハトロン〉」という紙を使ってもらいました。

このクラフト感が青ベースの表紙とマッチして、新たな効果を生み出しています(……と、思うのですが、どうでしょうか??)。

そんな実用第一のオビですが、ここにも一工夫(というか一遊び)しています。


本を開いてオビを取ると……。

元寇防塁を守る武士と……


唐船が登場。


さらに裏側も。

優雅に飛ぶカモメと……


ネコ!!



このように、『シーサイドももち』では、本を単に「情報が書かれたもの」と捉えるのではなく、手に取って触ってそこから感じてもらうためのツールとして捉え、その中でもっとも効果的だと思う選択をしてつくりました。


* * * * * *


これまで、書籍『シーサイドももち』の内容について【別冊】と題してきましたが、今回はちょっと視点を変えて、この「本」自体のこだわりについて紹介してみました。

『シーサイドももち』にはこんな感じでちょっとした仕掛けというか、小さな遊びをあちこちにちりばめ、本として細かいところにこだわってつくりましたので、ぜひお手に取ってじっくり見て、感じていただけますと幸いです♪






#シーサイドももち #本をつくる #紙をえらぶ #造本設計は大変だけどたのしい


Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル

2023年2月17日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈025〉よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。





〈025〉よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989


海をまるごと会場にしてしまったアジア太平洋博覧会(よかトピア)。

その会期中には、国際ヨットレースも開かれました。


オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989

ニュージーランドオークランド市から博多湾を目指した、1万200キロの太平洋縦断レースです。


※オークランド市はニュージーランドの最大都市で港町。博多港とオークランド港は1979年に姉妹港、福岡市とオークランド市は1986年に姉妹都市になって交流を続けています。




草場隆さん(アジア太平洋博覧会協会事務局長)の著書によると、1986年の年末には国際ヨットレースの話が関係者と語られているようで、翌年には福岡ヨットクラブ・日本外洋帆走協会を中心に企画が具体化していったそうです。

開催は1988年2月に正式決定されました(ヤマハ発動機・RKB毎日放送が協賛)。


イメージキャラクターも決まって、ヨットに欠かせない風をつかさどる神「風神」を図案化したものが採用されています。



1989年1月22日にエントリーが締め切られ(45艇が応募)、レースには37艇が参加しました。

参加国は、日本・ニュージーランド・オーストラリア・アメリカ・オランダ・イギリス・ポーランド・スウェーデン・ノルウェー、全部で9か国に及んでいます。


参加者のなかには、ニュージーランドのオークランド市で船を新造してレースにのぞむ方もいました。

よかトピアFMパーソナリティーのフランクさんは、一時FMの仕事をお休みしてこのレースに参加するなど(→ 7「開局! よかトピアFM(その2)」、この大規模な国際レースにみなさん大変な熱の入れようでした。



1989年1月31日、いよいよレースの概要が発表されます。

コースは3区間。

【第1レグ】オークランド(ニュージーランド)~スバ(フィジー)の約2140km

【第2レグ】スバ(フィジー)~グアム(アメリカ)の約5000km

【第3レグ】グアム(アメリカ)~福岡(日本)の約3060km

区間ごとのレースとともに、全コースを通じた総合優勝を決めます。


サタワル島からのヤップカヌーは九州の東側を通りましたが(→ 第23回「ヤップカヌーの大冒険」、このレースは九州の西側を通って、長崎方面から福岡入りするコースです。


スタートは4月22日

ゴールは6月中旬の見込みとされました。

なお、参加艇のクラスは、大きさに応じて、レーシンググループ(IORクラス)とクルーザーグループ(GHS)とに分けられました。



こうした間にも、福岡ではレースに向けて気分が盛りあがっていきます。


1988年10月16日には、プレイベントとして「博多湾メモリアルヨットレース'88」が開かれました。

福岡市西区小戸のヨットハーバー沖から能古島西側を往復するコースを、77艇(486人)が競っています。

距離は約8キロ、所用時間は2時間前後です。


結果は次の通り。

【1位】CITY BOY 【2位】ゼフィルス 【3位】ラササヤン

もっとも、レースといっても家族連れでの参加も多く、波と海風を楽しむなごやかな時間だったそうです。


こうして、オークランド~福岡間のレースに注目が集まるとともに、博多湾でのヨット熱も高まっていきました。



さて、肝心のオークランド~福岡ヨットレースの結果ですが…。






最初に福岡にゴールしたチームは「フューチャーショック」(ニュージーランド)!

4月22日にオークランドを出発して、6月15日の到着でした。

ゴールにあたっては、13人のクルーを桑原市長が花束を抱えて出迎えました。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
「フューチャーショック」のクルー。油断すると、すぐ法被を着せられます…
(ヤップカヌーでも着せられてました…)



その後も次々とゴールを果たして、総合順位の優勝はこのようになりました。

 IORクラス 「BBCチャレンジ飛梅」(福岡)

 GHSクラス 「ノーザンクェスト」(ノルウェー)


IORクラス総合優勝の「BBCチャレンジ飛梅」は、あのニュージーランドで船を新造してレースにのぞんだチームです!

実は過去にもハワイの国際レースで優勝経験を持つクルーの船。

地元開催のレースでみごと優勝を果たしました。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
「BBCチャレンジ飛梅」のクルー


6月22日には会場内のリゾートシアターで歓迎レセプションが開かれ、入賞チームの表彰がおこなわれました。



レース後には、実際に太平洋を縦断してきたヨットが、よかトピア会場に展示されました(テーマ館前、7月10日まで)。

展示されたのは、総合2位でゴールした「リベルテ・エキスプレス」号。

エントリーナンバー1番で、当初から優勝候補の一角として注目されていたチームの船です。

この船をデザインしたのは、有名ヨットデザイナーの1人、ブルース・ファーさん(ニュージーランド)。

「リベルテ・エキスプレス」号はファーさんの最新作だったそうで、船体に桜吹雪が舞うその優雅な姿を間近で見ることができる(しかも岡の上で!)、貴重な機会になりました。


また、後日このレースのドキュメンタリー映像が、テレビで放送されています。

スポーツドキュメンタリー 波頭を翔ぶ! 太平洋縦断ヨットレース全記録

【制作】RKB毎日放送

【放送】1989年7月22日(土)14:00~14:54

【放送局】東京放送・北海道放送・東北放送・静岡放送・中部日本放送・毎日放送・山陽放送・中国放送・RKB毎日放送(JNN系基幹9局ネット)



ヨットを介した世界との交流はこれだけではありませんでした。


よかトピア会期中の1989年7月29日・30日には、「広州・オークランド・福岡ジュニア親善ヨット大会」が博多湾で開かれました。

※広州市(中華人民共和国)は1979年から福岡市の姉妹都市です。


これは小戸ジュニアヨットクラブ・福岡県ヨット連盟が企画して、白屋(熊本市)がスポンサーになって実現した、こどもたちのヨットを通じた交流イベントです。

オークランド市(ニュージーランド)・広州市(中国)・日本から60人のこどもたちが招待されました。

「ヨットレース」ではなく「大会」と名付けたのには、海から未来をになうお客さんを迎えて、「であい」「親善」の機会にしたいからという、企画者の思いがこもっているのだとか(なんだかあたたかい気持ちになりますねー)。

この大会の開催が決定すると、前年から広州市の小学生ヨットマンが来福するなど、早くも博覧会のテーマでもある「であい」が広がっていきました。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
広州・オークランド・福岡ジュニア親善ヨット大会


また、よかトピア会期中の博多湾では、ほかにもヨットのレースやデモンストレーションがありました。

 クルーザー(Y23)マッチレース 3月25・26日

 ミニホッパー級ジュニアチャンピオンレガッタ 3月31日~4月2日

 ヨットのデモンストレーション 4月9日~8月27日

 シーホッパー級西日本選手権大会 4月15・16日

 セールボード博多湾オープンレガッタ 4月29・30日

 ヤマハマリンショー 3月17~21日、5月3~5日

 ボードセーリング・レース 5月28日

これは一例で、まだまだたくさん。


そういえば、よかトピア会場の大型休憩施設「よかトピアオアシス」や、よかトピアのフラッグも、ヨットの帆をイメージしてつくられています。

ヨットや帆は、よかトピアのテーマである「海の道」や「であい」をイメージさせてくれる大事なアイテムにもなっていました。


「よかトピアオアシス」。1500人を収容できる無料休憩施設。
夏の暑い日は日除けになってまさにオアシスになりました。

会場内にはためく三角のバナーは、ヨットの帆をイメージしたもの。

※ どちらも西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡'89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より。



その後、博多湾では「タモリカップ」(2015年8月1日・2日開催)や、「ルイ・ヴィトン・アメリカズカップ・ワールドシリーズ福岡大会」(2016年11月18~20日開催。18日は練習レース)など大きなヨットレースが開かれ、博多湾のヨット文化は受け継がれています。


2016年のアメリカズカップ(シーサイドももちの地行浜沖)。
この日は帆走に必要な風がとても弱くて、レースに苦労されていたように覚えています…。


この博多湾のヨット文化、よかトピアが勢いづけたことは間違いないのですが、実はそれに至るには、長いヨットマンの伝統と福岡のまちづくりが関わっていました。

この話はまた今度に。




【参考文献】

・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・草場隆『よかトピアから始まったFUKUOKA』(海鳥社、2010年)

・『ヤマハ マリンニュース』65号(ヤマハ発動機(株)広報室宣伝課、1989年)

・『西日本新聞』1988年8月6日「3姉妹都市交歓ヨットレース 広州、オークランドから少年少女30人招待」

・『西日本新聞』1988年8月7日「県境超えヨットマンが握手 唐津の子供たち招待」

・『西日本新聞』1988年8月27日「アジア博で親善ヨット大会」

・『西日本新聞』1988年9月10日「来福の広州市ヨットクラブ 本社など訪問」

・『西日本新聞』1988年10月17日「博多湾に77艇参加 シティボーイ優勝 アジア博前にヨットレース」

・『西日本新聞』1988年11月1日「本場NZでヨット建造中 現地新聞でも紹介」

・『西日本新聞』1989年2月1日「アジア太平洋博記念ヨットレース 9ヵ国、45艇、500人参加」

・『フクニチ新聞』1988年9月10日「よかトピアヨット大会頑張るぞ 広州の少年選手ら来福」

・『フクニチ新聞』1989年2月1日「福岡・ヤマハカップヨットレース 9ヵ国45チーム参加」

・『朝日新聞』1988年9月10日「ヨット大会で来福」

・『朝日新聞』1988年9月14日「広州・オークランド・福岡親善のジュニアヨット大会開催 来年のアジア太平洋博」

・『毎日新聞』1988年9月10日「ニイハオ!ヨット頑張りましょう」

・『毎日新聞』1988年10月17日「家族ぐるみ博多湾“遊帆” 77艇クルージング」

・『毎日新聞』1989年2月1日「よかトピアヨット 45艇、5百人参加」

・『読売新聞』1988年10月17日「博多湾でヨットレース 77艇、さわやか快走」

・『読売新聞』1989年2月1日「NZ―福岡ヨット 9か国45艇参加 よかトピア記念レース」


※ クレジットのない写真はすべて福岡市史編さん室撮影


#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #ニュージーランド #オークランド #広州市 #ヨット


Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル

2023年2月13日月曜日

【Discover the Feature Exhibition】 Ancient Temples

  Familiar Temples from Distant Times

January 17th (Tue.) ~ March 12th (Sun.), 2023

Feature Exhibition Room 1

The temple bells ring in New Year's Eve, children play and run through the temple grounds... The traditions and scenes may have changed little by little with the times, but temples are still a part of our daily lives.

Sue ware with the word "寺-temple" (8th century)

In Japan, Buddhism was introduced from Baekje in the 6th century and the building of temples began. Later, in the Nara period (710-794), Emperor Shomu erected the Great Buddha at Todaiji Temple and established Kokubunji Temple in each of the provinces of the country. Chikuzen Province (present-day part of Fukuoka Prefecture) was home to Kanzeonji Temple, one of the most famous temples on Kyushu Island. Today, we can still visit the Todaiji Temple in Nara and the Kanzeonji Temple in Dazaifu, while many other temples built during this period are no longer standing. There are some abolished temples in Fukuoka City, such as called 'Miyake Haiji' or 'Takabatake Haiji.’

What is the reason the temples were built, and why did they disappear over time? This exhibition explores how these unrecorded temples came to be known to us, and how they existed in the region, based on documents and excavated artifacts. 


Exhibition view

2023年2月10日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈024〉戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。




〈024〉戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係


福岡市博物館では、現在「水とくらし」という展示を行っています(企画展示室4、~3月26日)。

今年2023年は福岡市の上水道事業開始からちょうど100年の節目にあたり、この展示ではそれを記念して、古代から近代の福岡市域の人びとによる水と水源確保の歴史を振り返り、福岡市がすすめる「節水型都市づくり」についても紹介しています。


※ 展示についてはコチラをご覧ください。



福岡市の上水道は、大正12(1923)年に平尾浄水場曲渕ダムが完成し給水をはじめたことから始まりますが、この事業の計画段階では12万人分の水源を確保することを念頭に進められていました。

しかし、給水が始まった大正12年の時点で人口はすでに14万人超。それから以後も福岡市の人口は、市域の拡張もあってどんどん増加していきます。



1922年と1942年の市域を比べると、20年で6倍以上!
1942年の濃い部分が1922年時点の市域です。
(ちなみに現在は334.78㎢です)



福岡市域の50年間の人口推移(国勢調査データから作成)。

※ いずれも市史編さん室作成
(『新修福岡市史ブックレット・シリーズ①わたしたちの福岡市―歴史とくらし―』〈2021年〉に掲載)



戦後になると、戦争で一時的に減少していた人口が再び増加。さらに戦災で破損した水道管からの大規模な漏水井戸水の枯渇などもあり、水道の再整備はより急務となります。

それまで福岡市の水源は、水道事業がはじまって以来ずっと平尾浄水場と曲渕ダムに頼ってきましたが、それだけではこの状況にとても対応できるものではなく、昭和20年代以降、那珂川や多々良川、室見川水系からも取水を開始しました。


しかし、水源が確保できても周縁部にいくほど水道管は枝分かれして細くなっていったため、大規模な断水はなくとも何かあれば局地的に水が止まるといった事態は、割とあちこちで起こっていたようです。



昭和29(1954)年8月の新聞には、「夏になると断水する百道付近」という投書が掲載されています。これは百道に住む会社員からの投書で、その内容は次のようなものでした。


(略)毎年夏になると海水浴場が水を使用するためか、一般家庭では食事時はもちろん朝七時ごろから夜十時ごろまで断水し困っております。海水浴場の水の使用は市民の健康上、娯楽上、文化設備の一環として私どもも大いに賛成するものでありますが、一般家庭の生活を犠牲にしても良いという訳にはいきません(略)当局の善処と回答を望みます。

(昭和29年8月18日『西日本新聞』朝刊8面「【市民の声】夏になると断水する百道付近」より)


これに対して市当局は、数日後の新聞紙面にこのような回答を寄せています。


「(略)水道局としましても少しでも良くなるようにと昨年いらい数ヶ所鉄管の敷設替えをしました。目下、室見水源地から別府橋間に大口径の鉄管を敷設しておりますが、これが完成すれば西新町一帯も水圧が強くなります(略)何とぞ今暫くのご辛抱のほどお願いいたします

(昭和29年8月24日『西日本新聞』朝刊8面「【市民の声】断水する百道付近の水道などに回答」より)



……お互いに切実な訴えであることが伝わってくる投稿ですね。


(福岡市水道局所蔵)
昭和30年に製作された上水道配管図(部分)。赤で描かれた線が配水管です。
図には描かれていませんが配水管からさらに給水管が分岐して水を届けます。


(福岡市水道局所蔵)
こちらが上図の凡例。図を拡大してみると、管のサイズが分かります(吋→インチ)。
西新~百道付近は10インチ(25.4㎝)~3インチ(7.62㎝)の鉄管が使われているようです。


昭和29年の夏は、水道事業の第6回拡張工事がはじまる直前で、この工事は室見水源の拡張が主な目的でした(認可・着工が昭和29年12月、完工が昭和31年5月)。またその前の第5回拡張工事も昭和26年から開始しており(完工は昭和31年3月)、こちらは主に東部ですが水道管の追加布設を行っているので、新聞記事にある水道局の回答は、この2つの事業のことを指しているようです。


一方、同じ頃の百道海水浴場といえば、まさに戦後の全盛期。〝海の銀座〟と称して大々的に宣伝し、昼夜問わずたくさんのイベントが連日行われており、市内はもちろん、市外からも多くの人が百道を訪れていた時期です。

さらにこの年は梅雨が長引き7月いっぱいは雨が多く、8月になってから一気に人が海に押しかけたという事情もありました。8月はじめには百道に約5万人が訪れたという報道もあります(昭和29年8月2日『西日本新聞』朝刊6面「砂浜は人とパラソルの花模様 ざっと30万の人の波 本社主催各海水浴場 盛沢山の催しに賑わう」)

とくに百道海水浴場は海の家旅館などの設備が充実していたので、それだけの人が押しかけてシャワーや風呂などを一気に使えば、周辺の家々に影響が出るのも当然です。



現在の福岡市の水道設備では、もちろんこんなことは起こりませんが、戦後の楽しい海水浴の影には、めぐりめぐってこうした影響もあったという、ちょっと変わった事例をご紹介しました。


(福岡市水道局)


【参考文献】

・「福岡市水道創設100周年記念 水とくらし」福岡市博物館企画展示解説589(福岡市博物館、2023年)

・『福岡市水道五十年史』(福岡市水道局、1976年)

・『福岡市水道七十年史』(福岡市水道局、1994年)

・福岡市ホームページ/市のプロフィール/市の変遷 

 https://www.city.fukuoka.lg.jp/shisei/profile/index.html

・新聞記事

昭和29年8月18日『西日本新聞』朝刊8面「【市民の声】夏になると断水する百道付近」

昭和29年8月24日『西日本新聞』朝刊8面「【市民の声】断水する百道付近の水道などに回答」

昭和29年8月2日『西日本新聞』朝刊6面「砂浜は人とパラソルの花模様 ざっと30万の人の波 本社主催各海水浴場 盛沢山の催しに賑わう」



#シーサイドももち #百道海水浴場 #福岡市水道100周年 #水とくらし #水をたいせつに


Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル

2023年2月3日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈023〉ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。





〈023〉ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅


〝海図・羅針盤を持たず、空と風と波だけを頼りに太平洋を縦断して、5000キロ離れた福岡を目指す〟


ちょっとすぐには信じられないこの壮大な航海がおこなわれたのは、よかトピアの開催1年前のことでした。



よかトピアを主催したアジア太平洋博覧会協会で事務局長をつとめた草場隆さんの回顧によると、この企画はすでに、東急グループとパビリオンの出展について話し合うなかで生まれていたそうです。


企画は太平洋学会が立案・計画して具体化されました。その内容は、太平洋のミクロネシア連邦ヤップ州サタワル島から、グアム・サイパンを経て福岡に至る5000キロを、現地の伝統的なカヌーで旅するというもの。

しかも、羅針盤や海図を使わず、太陽・星・雲・波を頼りに人力で航海するという大冒険でした。

※ミクロネシア連邦ヤップ州サタワル島は、ヤップ本島の南東約100キロにある周囲6キロの島。公用語は英語。


この大冒険はユニードが協賛して、よかトピアの開幕1年前のプレイベントとしておこなわれることになりました。


※ 地図はこちらからも見られます。→ Googleマップ


1988年4月4日に出発したヤップカヌーの壮大な旅は、たびたび大きく報道されました(なかでも西日本新聞は出発前から現地で取材し、同行記事を掲載しています)。当時の新聞からこの航海をふり返ってみます。



旅のために用意された船は、ミクロネシアの伝統的カヌーで、長さと帆柱がそれぞれ8メートル。カヌー本体にアウトリガー(船体を安定させる浮き)を取り付けたものでした。一応オールを備えてはいるのですが、帆走がメーンです。

船名は「ティーピュー号」(サタワル語で「1つの心」の意味)。


乗員は全部で8人でした。

【船長】ルイス・ルッパンさん(63)

【副船長】トーマス・ナムルグさん(37)

【帆・綱係】アルフォンソ・レイルグさん(37)

【帆係】イシドーレ・メタワラーさん(30)

【帆係】イエッシー・エモルマイさん(31)

【海水のくみ出し係】アンドリュウ・イゴマルさん(35)

【かじ取り】ジョセビョ・エラキュルグさん(24)

【食料係】ジョン・ラロゴさん(34)


船長のルッパンさん以外は若手のメンバー構成です。

実はルッパンさんは沖縄国際海洋博覧会(1975年)のときに、今回同様、ヤップカヌー「チェチェメニ号」でサタワル島~沖縄(3000キロ)の航海に成功した人物です。父親に教わった自然を頼りにした航海術はたくみで経験も豊富でしたが、今回は目的地が福岡で距離は5000キロ、航路も違うので未知の冒険でした。


なお、安全のために随伴船がカヌーを見守ることになりました。

この船は「第21千歳丸」(143トン・乗員6人)、船長は松川正之さん、随伴隊長は新貝勲さん(58)がつとめました(新貝さんの航海日誌の一部はのちに西日本新聞で公開されました)。新貝さんは福岡市在住で、かつてK2登山隊長を経験した方でした。

※K2はパキスタンのカラコルム山脈の最高峰で、高さが世界第2位の山(8611メートル)。1977年に新貝勲さんが隊長つとめた日本山岳協会の登山隊が、世界で2番目、日本人としてはじめて登頂に成功しました。



出発にあたって、船には食料になるバナナ・ヤシの実・ウミガメの肉などが積み込まれました(ウミガメは神の恵みとして、特別なときにしか食べないものなのだそうです)。乗員は島の民謡「死ぬまで一心」を歌って団結を誓い、乗員の母親や妻らは風習にしたがい航海の安全を願いました。

当時、乗員のほとんどは電気・ガスがない小さなヤシぶきの家に住んでいましたので、島の長老は、若い人たちが日本で経験し何かを感じて帰ってくることが、きっとミクロネシアのためになると語ったそうです。



こうして1988年4月4日、ティーピュー号はサタワル島を出発しました。


では、新貝さんの航海日誌をもとにした記事やそのほかの新聞記事からティーピュー号の旅を追いかけてみます。



4月6日

天気が良く、風速3~4メートルの風にのって航海は順調だったようです(平均速度は5ノットほどとのこと)。ただ、人力ですから、乗員は自分の仕事を少しもおろそかにすることはできず、睡眠も交代でうとうとする程度。みんなで歌を歌って、眠ってしまわないようにしていたのだとか。


4月7日

日本のコンテナ船と遭遇。


4月8日

無事にグアム島アプラ港に到着して、食料などを補給しています。


4月11日

サイパンに向け出港。


4月13日

サイパンを出発して以来、北東の向かい風と高い波にはばまれて(低気圧の接近によるものだったそうです)、カヌーは3日間、東西に行ったり来たりするだけで、グアムから離れることができなかったとのこと(前日には船首の一部も破損してしまいました)。乗員の疲労も限界だったため、ルッパン船長の判断でこの日グアムに引き返すことになりました。

そのうえで、コースをサイパンへ北上するのではなく、北西寄りにとり、沖ノ鳥島~南大東島~種子島方向へ向かうように変更しました。


4月18日

グアムを再出発。


4月22日

朝、沖ノ鳥島が見えます。やっと日本です。


4月23日

ところがこの日の夕方から雨が降り、シケてきたとのこと。波が大荒れになり、ティーピュー号が木の葉のように波間に漂ったと、新貝さんは日誌に記しています。随伴船さえも、乗員が船上で転ぶほどの揺れだったそうです。

そうしたなか、夜10時30分、随伴船内にベルが鳴り響き、カヌーから救助要請が届きました。帆係のメタワラーさんが波にさらわれ、船底に落ち、足をけがしたのです。

ただ、荒れる夜の海で、カヌーから随伴船にけが人を運んでくること自体が命がけです…。サーチライトで海を照らし、随伴船から若い船員がまずボートに乗り移ります。それから命綱を頼りに、カヌーに近付いていくのですが、このときの波は高さが7~8メートルもあったそうです。

無事にメタワラーさんを連れ戻った船員の姿に、山で危険を経験してきた新貝さんもほっと胸をなでおろし、その勇気に驚いたのだとか。

幸い、メタワラーさんのけがはひどいものではありませんでした。


4月25日

南大東島沖を通過。


4月26日

屋久島が見え、随伴船では船舶電話が通じるようになりました。種子島の東側を通り、九州の東沖合を北上していきます。


4月27日

日向灘を北上し、高知県宿毛市の片島港沖に着きました。ここでしばらく休息です。


4月30日

早朝に片島港を出発。


5月1日

最後の難関、関門海峡を通らなければなりません。午前10時30分、ちょうど潮の流れが西向きから東向きに変わる潮止まりのタイミングを見はからって、海峡に入っていきました。ただし、関門海峡は帆走できない決まりなので、帆をおろして、随伴船にえい航されての通過になりました。22キロの海峡を約2時間で通り抜けたそうです。その間、カヌーの乗員はみんな、関門橋の大きさに驚いて見上げていたのだとか。この日は玄界島沖に停泊して、翌日の上陸に備えました。


5月2日

玄界島沖を出発。博多湾内では、福岡県ヨット連盟のヨットや地元漁協の漁船、約70隻が出迎えて伴走しました。

能古島東側沖で検疫と入国手続きを済ませ、午前10時45分、できたばかりのシーサイドももちの人工海浜の地行浜側に無事上陸。

浜では祝福の花火にあわせて、福岡市消防音楽隊の演奏が到着を歓迎し、桑原市長とともに市民や幼稚園児(淡水幼稚園・けご幼稚園)、よかトピアのためにつくられたグループ「シェイク・ハンズ」ら約300人がカヌーの乗員を迎えました。

幼稚園児から花束を受け取ったルッパン船長は、乗員を1人ずつ紹介して、日本のみなさんに会いたいと思っていましたと、日本語であいさつ。ヤップ州知事の親書を市長に手渡しました。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
博多湾に着いたヤップカヌー


こうして長い旅を終えて、無事にヤップカヌーが福岡に到着しました。

もっとも、帆船ですので、風が吹かない日など随伴船に一時えい航されたり、途中コースを変更せざるを得ないこともあったりしましたが、何はともあれ全員無事に航海を終えることができました。



コースを変更したことで、良かったこともありました。

予定よりも1週間ほど早く到着したため、急きょ5月3日・4日に開かれる博多どんたくに参加できることになったのです。ティーピュー号もどんたくの中央広場(県庁跡地)に展示されることになりました。


ただ、残念ながら当日は雨に降られ(どんたくに雨はつきものですものね…)、3日のパレードは中止に。その代わりに乗員のみなさんははじめて乗る地下鉄や地下街を楽しみました。

4日はユニードダイエー福岡店(ショッパーズプラザ)で買い物。靴を買う姿が新聞に残っています。ちなみに船長はトローリング用の釣り道具を買うつもりだったそうですが、見つからずに残念そうだったのだとか(補聴器の電池を2個買われたそうです)。

この日は雨のなか、どんたくのパレードにも参加。博覧会協会のどんたく隊の先導車に乗って、翌年に開かれるよかトピアをアピールしました。

※この年からパレードが国体道路から明治通りに変わっています。



6日には福岡市動植物園も訪れています。よかトピアのTシャツ・法被姿で、豆汽車を楽しみ、アシカにエサをあげたり、サイに触ったり、ユーモラスなゴリラを熱心に見たり、ヘビを怖がったりと(サタワル島にはヘビがいないとのこと)、思い出に残る1日だったそうです。



福岡を楽しんだティーピュー号のみなさんでしたが、8日には福岡を離れ、新幹線で東京へ向かいました。

9日、首相官邸でミクロネシア連邦大統領の親書を小渕恵三官房長官に手渡し、10日には飛行機で帰国されています。



この旅にはいくつか後日談があります。


実はカヌーがサタワル島を出発する前日に、市内の淡水幼稚園の園児が書いてカプセルに入れたメッセージを、現地の子どもたちが海に流していました(今だと海洋環境の保全のためにダメかもしれないですね)。

そのうちの4個はヤップ州の島々で拾われて、これを企画したユニード本社に送り届けられたのでした。その後、メッセージを書いた園児のもとに届けられました。



また、このヤップカヌーの旅は写真速報展(カラーパネル45点を展示)が各地で開かれ、あらためてその航海のリアルな様子に人びとの関心が集まりました。

ユニードが協力した航海でしたので、会場はダイエーやアピロスなどお買い物のときに気軽に見られる場所ばかり。おおいに博覧会開催をアピールする場になりました。


【写真速報展の会場】

天神ショッパーズ(4月30日~5月8日)

ダイエー原店・中間店・香椎店、ユニード二日市店、アピロス野間店・香椎店(5月2日~8日)

アピロス福重店、ダイエー下大利店(5月9日~15日)


なお、福岡市内の大島眼科病院の松井孝夫院長(当時)は、ヤップカヌーの計画にあわせて「福岡・ヤップ親善医療団」をつくり、1988年2月から2か月間、島民の無料健診をおこなっています。


ヤップカヌーをきっかけにして、よかトピアの開催前から、お互いをよく知り、いろいろなところで博覧会のテーマである「であい」が広がっていました。



ヤップカヌーが旅した当時、福岡・九州とアジア太平洋とをつなぐ「道」や「であい」をテーマにかかげて、よかトピアの準備が進められていました。

でも正直なところ、市民にとってはそれを知識として知ってはいても、ふだんの生活のなかでアジア太平洋とのつながりを直接感じる場面は少なかったはずです。


ところが、このカヌーに乗ってやってきたサタワル島の8人のクルーは、確実に福岡が太平洋の島々と海を通じて繋がっていることを実感させてくれました。

これはよかトピアのアジア太平洋というテーマに、おおいに説得力を持たせることになりました。

そしていよいよ、よかトピア開催に向けて福岡のまちが盛り上がっていくことになります。



この太平洋の5000キロの旅を終えたカヌーですが、よかトピアの会期中は、とうきゅうトロピカル・ビレッジで野外展示されていましたので、実際にご覧になった方も多いかもしれませんね。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)






【参考文献】

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・草場隆『よかトピアから始まったFUKUOKA』(海鳥社、2010年)

・新聞記事

『西日本新聞』1988年4月12日~16日「(連載)海はるかヤシの道―ヤップカヌー五千キロ―」(栗田耕司)

『西日本新聞』1988年5月12日・13日「ヤップカヌーの冒険―随伴隊長航海日誌から―」上・下

『西日本新聞』1988年5月16日夕刊「ヤップカヌー航海記」

『朝日新聞』1988年4月27日・30日夕刊、5月2日夕刊・5日

『西日本新聞』1988年4月10日・16日・27日・29日、5月2日・2日夕刊・3日・5日・8日・15日

『日本経済新聞』1988年5月2日夕刊

『フクニチ』1988年4月27日、5月1日・3日・4日・5日・7日・17日

『毎日新聞』1988年5月2日夕刊・5日・17日

『読売新聞』1988年4月16日・23日・27日、5月2日夕刊・17日・19日


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Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル]