2024年10月11日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈094〉四島さんの「二宮佐天荘」と百道 ―福利厚生の場としての百道②―

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。








〈094〉四島さんの「二宮佐天荘」と百道 ―福利厚生の場としての百道②―


前回は、かつての海岸線エリアにはたくさんの寮や保養所が集まっていたというお話をご紹介しました(現在の西新2丁目・7丁目、百道1丁目付近)。




あらためて昭和30~50年代に百道に寮や保養所があった会社の一覧を見ていると、銀行や証券会社、保険会社など、金融系の会社の名前が意外と多いことに気がつきます。



保養所

1、麻生産業

2、福岡海浜 ※団体名かどうか不明

3、福岡県共済組合(水光苑)

4、フランスベッド

5、古河大峰炭鉱

(五十音順)


寮・社員住宅

1、NHK

2、旭電子

3、アサヒビール

4、英数学館

5、大阪屋

6、開発銀行(日本開発銀行?)

7、九州大学 ※総長公舎

8、熊本相互(銀行?)

9、建設省

10、鴻池組

11、神戸銀行

12、公務員アパート(国)

13、サントリー ※寮か保養所かは不明

14、市営住宅

15、住友海上

16、住友石炭

17、専売公社

18、全服連(全日本洋服協同組合連合会?)

19、大正海上火災

20、竹中工務店

21、千代田コンサルタント

22、中外製薬

23、東京銀行

24、長門運輸株式会社

25、西鉄タクシー

26、西鉄ライオンズ

27、日興證券

28、日産

29、日産化学

30、日清製粉

31、日赤

32、日本火災

33、日本炭業

34、野村證券

35、日立電子

36、福岡熊本営林署

37、福岡相互銀行(のちの福岡シティ銀行)

38、富士銀行

39、富士フイルム

40、母子寮

41、松下電器

42、丸十

43、丸味珍味食品工業

44、水城学園

45、三井銀行

46、三井信託銀行

47、三井鉱山

48、三菱銀行

49、三菱商事

50、モリメン

51、森山綿業

52、山一証券

53、郵政アパート

54、吉村医院

(五十音順)




しかもこれらの場所は(もちろん全部ではありませんが)、とくにエリアの東側(現在の西新2丁目付近)に集中していたようです。


(地理院地図Vectorをベースに作成)※住所は現在
百道にあった寮・社宅・保養所(昭和30年代)。
青が金融関係、緑はそれ以外。


(地理院地図Vectorをベースに作成)※住所は現在
百道にあった寮・社宅・保養所(昭和40年代)。
青が金融関係、緑はそれ以外。だいふ増えてきました。


(地理院地図Vectorをベースに作成)※住所は現在
百道にあった寮・社宅・保養所(昭和50年代)。
青が金融関係、緑はそれ以外。徐々に減少傾向のようです。



なかでも昭和40年代から名前が出てくる「福岡相互銀行」(のちの福岡シティ銀行→現在の西日本シティ銀行)は、実は当時社長だった四島一二三さん(ししま・ひふみ/1881-1976)の自宅が、この社宅の隣にありました。

※四島一二三さんは昭和46年(1971)から会長に就任。


四島一二三さんは言わずと知れた福岡経済界の大重鎮ですが、戦後は百道(西新)に居を構えていたんですね。


(地理院地図Vectorをベースに作成)※住所は現在
赤い部分が四島邸があった土地。
社宅ができてからは半分が社宅、半分が自宅になっていました。




四島さんが百道に住むまで

ここで四島さんの経歴を、文筆家・原田種夫が綴った『二宮佐天荘主人 四島一二三伝』(1966年)を基に少し振り返ってみたいと思います(ダイジェストみたいになってスミマセン…)。



福岡県三井郡金島村(現在の久留米市北野町金島)に生まれた四島さんは、高等小学校を卒業後、17歳でなんといきなりアメリカに渡ります

そして22歳の時には農園の責任者となり、29歳で「四島商会」という会社を立ち上げ社長に就任。

若い頃から事業家として、しかも海外で成功を収めていたんですね。


その後も渡米と帰国を繰り返しますが、大正7年(1918)には正式に(?)帰国し、翌々年には40歳で結婚。その後、夫婦で伊崎の借家に落ち着きました。

大正13年(1924)、この借家の家主であった広辻信次郞らとともに「福岡無尽株式会社」を設立。これがのちの福岡相互銀行(福岡シティ銀行)の源流となります。



私生活では昭和2年(1927)には借家から近い伊崎浦に家を建てています。そこではヤギやニワトリ、セキセイインコ(数十羽)を飼っていたのだそうです。

昭和11年(1936)に一度大濠へ転居しますが、昭和20年(1945)の福岡大空襲で家を焼失したため、伊崎にあった娘さんの家で一時的に避難生活を送ったのだそうです。


その後、昭和22年(1947)には百道へ転居し、そこから逝去される昭和51年(1976)までずっと百道にお住まいでした。



百道にあった四島邸の場所は西新町108-8

現在の西新2丁目、旧西南学院高校(現在は西南学院大学博物館や大学院の建物があるエリア)のすぐ東隣です。


この百道の土地は、昭和22年(1947)に昌栄土地株式会社(西鉄不動産の前身)から買ったもので、広さは390坪ほど。その中に50坪ほどの家を建てて暮らしたそうです。


(地理院地図Vectorをベースに作成)※住所は現在
赤い部分が四島一二三さんが購入した土地です。
ここがだいたい390坪。自宅はこの土地の西側に建っていました。




〝二宮佐天荘〟の暮らし

四島さんは生前、この百道の自宅を「二宮佐天荘」と名付けていました。

「二宮佐天荘」とは四島さんが尊敬する「二宮尊徳・宮本武蔵・佐倉宗五郎・天野屋利兵衛」の4人の頭文字から取って名付けたのだそうです。



ちなみにこの通称を使い始めたのが昭和2年(1927)頃と言われていますが、当初は宮本武蔵ではなく幡随院長兵衛だったそうですが(「二幡佐天荘」)、戦後になってこれを宮本武蔵に変えたのだとか。

なので伊崎に住んでいた頃は自宅を「二幡佐天荘」と呼び、戦後百道に移ってから「二宮佐天荘」と称するようになりました。



そんな二宮佐天荘での生活は、原田種夫によれば「節制を守り、健康に気をつけ、ごく質素なもの」だったとか。


それは、朝4時に起床、まずは書の稽古(これは昭和38年から続けていたそうです)をしてから草花や鶏の世話

そして自分の朝食を準備し、朝食が済んだら自ら片付けをして、6時半には家を出て始発電車で銀行に出勤します。

夕方はきっちり4時には銀行を出て、家に帰ってからは陽が高いうちは地下足袋に作業服姿でふたたび草花や鶏の世話をして過ごし、家族で夕飯を食べて7時には就寝、というものでした。



戦前、伊崎の家では十数羽のセキセイインコを飼っていた四島さんは、百道の家でもニワトリを飼い(なんと50羽!)、裏庭には色とりどりの草花柿・桃・みかん・茂木びわ・ユスラ・グミ・木イチゴなどの果樹を植え、それらすべての世話を四島さんと奥様でされていたそうで、作業服姿の四島さんを初めて見た人は奉公人か使用人と間違える人もいたといいます。


ニワトリ50羽…。(写真はイメージです)



ところで四島さんの始発電車通勤は有名な話で、昭和32年(1957)まで約30年以上続いたのですが「四島の一番電車」と呼ばれて名物になっていました。

どのくらい名物だったかというと、朝ちょっとでも四島さんが停留所に来るのが遅れると始発電車の運転手が待っていてくれたり、知らない人に始発電車の時間を問い合わせられることもあったとか…。


ちなみに昭和32年(1957)で始発電車通勤を止めたのは、なんと職員組合からの要望で「80歳近くになっての電車通勤は危ないから」という理由で車通勤になったのだそう!

本当に社員からも愛されていたんですね。




また、二宮佐天荘はジグザグに折れた塀も有名でした。

これはちょうど八つ折りになっていて、「七転び八起き」を表しているのだとか。

このエピソードもよく知られたところで、修猷館高校の卒業式でその由来が紹介されたり、家の前に観光バスが停まって車掌さんが説明したりしたこともあったそうです。

そして玄関前には還暦の際(昭和16年)に友人から贈られたという日蓮像とライオン像が鎮座していて、これも四島邸の「看板」の一つでした。



WEB版「四島一二三記念館」トップ画面に描かれた塀。
このジグザグ塀が目印でした。



四島邸に集まる若い人々

古い土地台帳を見ると、昭和30年(1955)にこの土地は四島さん個人の所有から福岡相互銀行の所有に変わっていることが分かりました。

土地の半分はそのまま四島さんの自宅として使われ、昭和40年(1965)には残りの半分に「百道アパート」を建て、各店舗の課長級を対象とした家族寮として使われるようになったのです。

アパートの共用広場には家族寮らしく、ジャングルジムなどの遊具もありました。


四島邸は、そこに社宅ができる前からさまざまな人が集まる場所だったようです。

社宅が建つ前はそこにテニスコートが2面あり、銀行の若手社員などがよくテニスをしに来ていたそう。

そして練習後はみんな四島さんの家に寄って四島さんが沸かした風呂に入って帰るのが習慣だったといいます。


また四島邸は百道海水浴場のすぐそばでしたから、夏になると海水浴に行く社員が家族連れでやって来ます。そのたびに四島さんはやはり自ら風呂を沸かしてもてなしました


四島さんは、こうしてときどきやって来る行員にお菓子やお茶を勧めて、若い人の話を聞くのが楽しみの一つだったのだそうです。

これも、四島さんが役職などにとらわれずさまざまな人から親しまれていたことが分かるエピソードですね。



四島さんと百道

四島さんや周囲の人が親しみ長く住んだこの百道の家は、四島さんが亡くなった後、平成8年(1996)に住居を復元した形で「四島一二三記念館」として、約7年間同じ場所で公開されていました。

記念館には四島さんの書や記念の品などが展示されていたそうなのですが、現在はweb版としてその足跡や資料を見ることができます。

thumbnail
福岡相互銀行(福岡シティ銀行の前身)の創立者、四島一二三さんは、自由闊達ながらもひたむきな精神と、ユーモラスな経営信条で、永年にわたって多くの人たちに親しまれながら、昭和五十一年に九十六歳の生涯を終えられました。本サイトが、その偉大な先人の生きざまと志を伝える一助となれば、幸いと存じます。
https://www.kk-foundation.jp/sisi/index.html





そんな四島さんが愛した西新町108-8の土地ですが、その経歴を明治までさかのぼってみると、その一番初めは西新町に縁の深いある人物が所有していたことが分かりました。


それは筒井條之介です。

筒井は九州日報社(現在の西日本新聞社の前身の一つ)の記者で、明治から昭和にかけて活躍した社会運動家にして玄洋社の中心人物でもあった頭山満の甥に当たる人物です。

そして町議員も務め西新町が福岡市に編入されるのに尽力した人物でもあります(西新町は大正11年4月に福岡市になりますが、筒井本人はその直前に病死されたのだそうです…)。


その功績をたたえて、現在西新公民館の隣にある西新緑地(早良区西新2丁目10)の中に巨大な記念碑が建てられています。

そして同じ西新緑地には頭山満が植えたクスノキと碑が建てられています。


(福岡市史編さん室撮影)
西新緑地内にある筒井條之助の碑。
高さがなんと3mほどある大きなものです。


(福岡市史編さん室撮影)
西新緑地の中央には同じく西新出身の頭山満が植えたクスノキが。
11歳の時(慶応元年)に植えたといわれる苗木は、約160年経って
立派な大木に育ちました。



西新町発展の立役者の一人であった筒井は、明治44年(1911)に払下げられた百道松原の土地を購入しているのですが、そのうちの一部に後に西新町108-8となる土地が含まれていました。

そしてその土地は巡り巡って36年後の昭和22年(1947)、今度は福岡経済界の雄であった四島一二三さんが取得します。


四島さんはここで約30年の年月を過ごし、やがて自身やご家族のお人柄もあって多くの人が集まるサロンのようにもなったという縁は、なかなか感慨深いものがあるなあと感じる発見となりました。




(福岡市史編さん室撮影)
現在の二宮佐天荘付近の様子。この道を進むと明治通りです。
明治通り手前の向かって左手には西新公民館や西新緑地があり
筒井條之助の碑が鎮座しています。



【参考資料】

・『福岡地典』昭和36年版・昭和42年版

原田種夫『二宮佐天荘主人 四島一二三伝』(福岡相互銀行、1966年)

・『福岡相互銀行40年史』(福岡相互銀行行史編纂委員会、1967年)

・『福岡市立西新小学校創立百周年記念誌「西新」』(福岡市立西新小学校創立百周年記念会、1973年)

・『ゼンリン 西区』(ゼンリン、1979年)

・山崎剛『西新町風土記』(私家版、2019年)

・ウェブサイト
 ・WEB版「四島一二三記念館」 https://www.kk-foundation.jp/sisi/index.html




シーサイドももち #百道海水浴場 #社員寮 #社員の福利厚生 #四島一二三 #二宮佐天荘 #筒井條之助



Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル 

2024年10月9日水曜日

特別展「大灯籠絵」を楽しむために その22 総館長のギャラリートークのご案内

 

ただいま開催中
11月4日(月・振休)まで

会場:福岡市博物館 特別展示室

特別展「大灯籠絵」、会期も半ばまできました。
オープンしたころは残暑厳しいなかでしたが、今はもうすっかり秋ですね。

特別展「大灯籠絵」の会場内の様子を少しだけ見ることができる動画をご用意しました。
コチラからご視聴ください。

さて、10月12日(土)、
当館 中野総館長のギャラリートークを開催します。
福岡市博物館 総館長 中野 等

テーマ:絵解き戦国合戦
日時:10月12日(土) 午後2時~午後3時
集合場所:福岡市博物館2階 特別展示室入口
※事前申込不要
※参加費は無料ですが、特別展「大灯籠絵」の観覧券が必要です

9月28日の総館長の講演会「大灯籠絵にみる娯楽としての”歴史”」にいらした方も、そうでない方も、
歴史学者である総館長の絵解きで、「大灯籠絵」を鑑賞する最後?の機会です。

展示中の「太閤記山崎大合戦之図」/筥崎宮

例えば、豊臣秀吉が明智光秀を討った「山崎の戦い」を題材にした「大灯籠絵」は、どのように絵解きされるのか?
乞うご期待!!

(by おーた)

2024年10月7日月曜日

Otoroe: The Astonishing World of Giant Lantern Paintings


Period: September 13 ~ November 4, 2024
Venue: Special Exhibition Room
Opening Hours: 9:30am - 5:30pm (last admission: 5:00pm)
Closed: Mondays (if Monday falls on a national holiday, the following weekday)
Charge:
・Adults: 1,200yen
・High school and University students: 800yen
   *The chicket includes admission to the Permanent and Feature Exhibition Rooms.
 *No charge for Junior High School Students and younger.
  
Ohama Nagarekanjo Otoro,
Tangible Folk Cultural Property by Fukuoka Prefecture
 (Taken on August 24, 2023)

In areas along the Hakata Bay coast in Fukuoka City, there are places where giant lanterns called "Otoro" are displayed along roadsides during summer festivals. The lanterns are often decorated with striking depictions of warriors and legends.

One of the famous events in which giant lantern paintings ("Otoroe") are displayed is Ohama Nagarekanjo, a local summer festival held every year in August in Fukuoka City (photo above). This festival’s original purpose was to pray and hold a memorial service for people who had died in a severe natural disaster in 1755 and the plague of the following year. The giant lantern paintings, which have been adorned with prayers for the dead and the safety of the town at festivals, evoke feelings of extraordinary excitement and fear.

“Igagoe vendetta,” giant lantern painting/ Hakozaki Hachiman Shrine

This exhibition brings together – for the first time – approximately 60 giant lantern paintings from across Fukuoka, including 9 designated as Tangible Folk Cultural Property by Fukuoka Prefecture. Some exhibits are photographs to protect the originals. The exhibition also focuses on the artists responsible for these paintings, and introduces other prints, posters, and hanging scrolls they created.

We hope you will take this opportunity to view these unique and highly impactful paintings and learn about the local customs of Fukuoka at the exhibition site!

This room has a section that reproduces the altar (for a Buddhist service to placate the dead) that is set up during the Ohama Nagarekanjo summer festival. Buddhist paintings, lanterns, stupas (wooden grave markers), and a boat, believed to carry the spirits of ancestors, are also on display. The lanterns crowned with an umbrella and flowers on either side of the section were made by participants in a workshop held at the museum in May.

2024年10月5日土曜日

【別冊シーサイドももち】〈093〉百道良いとこ一度はおいで! ―福利厚生の場としての百道①―

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。








〈093〉百道良いとこ一度はおいで! ―福利厚生の場としての百道①―


現在では白く長い砂浜が名物となったシーサイドももちですが、昭和末に埋め立てられるまでは現在の西新2丁目・7丁目、百道1丁目が海岸に面した「海辺のまち」として知られていました。


現在のシーサイドももち。
白砂青松を再現した弓なりの砂浜です。




百道一帯の開発の変遷

江戸時代~明治時代のこの一帯は、西側に福岡藩の砲術練習場(射撃場)、東側には紅葉八幡宮の広大な境内地があり、それ以外には一部屋敷地もありましたが、そのほとんどが松林が広がる広大な原野でした。


(「福岡市明細図」明治28年、福岡市博物館蔵)
明治時代の百道周辺の様子。


大正時代に入ると、紅葉八幡宮が移転(大正2年〈1913〉)し、大正6年(1917)には東側に西南学院が大名町(現在の中央区赤坂)から移転してきます。

これらは百道開発にとっての最初の大きな出来事でした。



さらに大正7年(1918)7月には東側に百道海水浴場が開場したことで、大正末~昭和初期には百道海岸は東側を中心に周辺の開発熱が一気に進んでいきます。


(「最新福岡市街及郊外地図」大正14年、福岡市博物館蔵)
大正時代の百道一帯。
少しずつ建物が増えていますが、住宅は少なめ。


(「最新福岡市地図」昭和13年、福岡市博物館蔵)
昭和10年代の様子。
だいぶ松(緑の部分)が減り、住宅も増えてきました。



とくに百道海水浴場は大人気で、夏になると福岡県内のみならず県外からも多くの人が集まるリゾート地となり、たくさんの海の家旅館が建ち並ぶようになりました。


(『福岡日日新聞』昭和7年8月27日紙面より)
海辺にずらーっと並ぶ海の家。
ちなみにこの写真は桟橋に建てられた休憩所から撮ったもの。



百道に集まってきた社員寮や保養所

戦後になってももちろん百道海水浴場人気は健在でしたが、周辺の環境には少し変化が起こります。

会社の保養所や社員寮などが多くできはじめました。



こちらは昭和43年(1968)の町内の地図の一部です。

「自治体現勢広報シリーズ №60 町会全図」
〈昭和43年版、株式会社広報出版センター福岡営業所〉より、個人蔵)

右端が樋井川、左端が室見川(金屑川)、上が海岸線で、一番下の部分に左右に走る道路が現在の明治通りです。当時はこの道を市内電車が走っていました。




この地図に、個人宅以外(と思われるもの)に色をつけてみます。

「自治体現勢広報シリーズ №60 町会全図」
〈昭和43年版、株式会社広報出版センター福岡営業所〉に加工、個人蔵)


結構な範囲ですね。

面積的には少なくとも半分くらいは個人宅以外が占めているようです。




この中から、学校や公共施設・会社・商店を緑色にしてみました。

「自治体現勢広報シリーズ №60 町会全図」
〈昭和43年版、株式会社広報出版センター福岡営業所〉に加工、個人蔵)


面積が大きいところは、西南学院修猷館小学校、あとは拘置所などですね。

現在の明治通り沿いには、商店や会社が多いようです。




ちなみに海の家旅館はこちら。ちょっと分かりづらいですが、青色の部分です。

「自治体現勢広報シリーズ №60 町会全図」
〈昭和43年版、株式会社広報出版センター福岡営業所〉に加工、個人蔵)


百道海水浴場がある東の海岸沿いにあるのはもちろんですが、その南側にも2軒ほど旅館がありました。




さて、ここまで色分けされていない部分が残っていますが、これが会社や国・県などが所有する寮や保養所です(オレンジの部分)。

「自治体現勢広報シリーズ №60 町会全図」
〈昭和43年版、株式会社広報出版センター福岡営業所〉に加工、個人蔵)


やはり海沿いと東側に多いようですね。

寮以外にも保養所があるというのも、海水浴場が売りの百道の特徴といえそうですね。





実際、どのような会社が寮や保養所を設けていたのか、この町内地図に加えて、ほぼ同年につくられた昭和42年(1967)の「福岡地典」も参考にしながら社名を抜粋してみました(判読できたもののみ/五十音順)。



保養所

1、麻生産業

2、福岡海浜 ※団体名かどうか不明

3、福岡県共済組合(水光苑)

4、フランスベッド

5、古河大峰炭鉱


寮・社員住宅

1、NHK

2、旭電子 *

3、アサヒビール

4、英数学館

5、大阪屋

6、開発銀行(日本開発銀行?)

7、九州大学 ※学長公舎

8、熊本相互(銀行?)

9、建設省

10、鴻池組 *

11、神戸銀行

12、公務員アパート(国)

13、サントリー ※寮か保養所かは不明

14、市営住宅

15、住友海上

16、住友石炭

17、専売公社

18、全服連(全日本洋服協同組合連合会?)

19、大正海上火災

20、竹中工務店

21、千代田コンサルタント *

22、中外製薬

23、東京銀行

24、長門運輸株式会社

25、西鉄タクシー

26、西鉄ライオンズ

27、日興證券

28、日産 *

29、日産化学 *

30、日清製粉

31、日赤

32、日本火災

33、日本炭業

34、野村證券

35、日立電子

36、福岡熊本営林署

37、福岡相互銀行(のちの福岡シティ銀行)

38、富士銀行

39、富士フイルム

40、母子寮

41、松下電器

42、丸十

43、丸味珍味食品工業

44、水城学園

45、三井銀行

46、三井信託銀行

47、三井鉱山

48、三菱銀行

49、三菱商事

50、モリメン

51、森山綿業 *

52、山一証券

53、郵政アパート

54、吉村医院


*印は追加(2024.10.11)


書き出してみるとあらためてその数の多さに驚きますが、いまでも良く知られている一流企業の名も多数並んでいます。


中には「西鉄ライオンズ」寮の名前も見えますね。

これは雨天練習場なども備えた合宿所で、昭和34年(1959)から百道にあり、開業当時は大変話題にもなり、また百道の名物にもなった施設です。


また、保養所の「水光苑」は現在、跡地近くに碑が残されています。


(福岡市史編さん室撮影)
サザエさん通りにある「セブンイレブン」前にあります。



働く人の福利厚生のために

社員寮(社宅)の歴史は古く、明治時代にできた仕組みと言われています。当時はそれまでになかった「会社」というものが誕生し、工場などで働く人が増えていきますが、労働環境や通勤を苦に辞める人も多く、労働力の確保が課題とされました。

そこで会社(経営者)は働く人の生活まで責任を持って面倒を見るということで、社員専用の住宅を用意したのだそうです。


戦後はさらに労働力の確保が課題となっていきます。

そこで、働く人にとってよりメリットとなるような魅力的な条件の一つとして、社宅や社員寮、あるいは保養所など、いわゆる「福利厚生」の充実が求められる時代になっていきました。


このような観点から見ると、これだけの企業が百道に寮や保養所を設けたということは百道がそれに適した場所だと判断されていた(あるいは評判を呼んだ)ということかもしれません。

それもやはり戦前から百道海水浴場の人気によって都市型リゾート地といわれた「百道」ブランドのなせる技?なのでしょうか。




調べてみるまでこれだけ多くの会社が集まっているとは思わなかったので、個々の会社の事情と百道の関係については、引き続きもっと詳しく調べてみたいと思います。








【参考資料】

・「自治体現勢広報シリーズ №60 町会全図」(昭和43年版、株式会社広報出版センター福岡営業所)

・「福岡地典」(昭和42年版、片山技研作、積文館発行)




シーサイドももち #百道海水浴場 #社員寮 #保養所 #社員の福利厚生 #海の近くに住みたい



・一部記事の情報を追加しました(2024.10.11)

Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル