2020年9月11日金曜日

【開館30周年記念コンサート】参加申し込み受付を終了しました。

 10月11日(日)開催の「開館30周年記念コンサート」は,昨日9月10日をもちまして申込受付を終了いたしました。たくさんのご応募、誠にありがとうございます。

応募が定員の100名を超えましたので、これから抽選に入らせていただきます。

当選結果は、e-mailで応募された方には、e-mail、往復はがきで応募された方には往復はがきの返信面にて近日中に送付しますので、ご確認いただけますと幸いです。

なお、抽選の詳細についてのお問い合わせにはお答えできません。

開館30周年記念コンサート

【日 時】令和2年10月11日(日)

    18時30分~(一時間程度)※会場は18時から

【会 場】福岡市博物館1階 グランドホール

【演奏者】大山 平一郎 ヴィオラ

     八尋 祐子 第1ヴァイオリン

     黒葛原 康子 第 2 ヴァイオリン

     白水 大地 チェロ

【曲目】 モーツァルト アイネ・クライネ・ナハトムジークからロマンス

モーツァルト 弦楽四重奏曲第 14 番ト長調 K.387 から第1楽章

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲作品 18-1 から第 2 楽章

チャイコフスキー 弦楽四重奏曲第 2 番からアンダンテ・カンタービレ

ギーゼキング 3 本のヴァイオリンのための小曲

ボロディン 弦楽四重奏曲第 2 番から夜想曲


※また、参加される方は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、以下の注意事項を良くご確認の上、ご協力をいただきますようよろしくお願いします。
●マスク非着用の方(特別な事情のある方以外)
●発熱・せきなど風邪の症状がある方
●体調不良の方
●新型コロナウイルス感染者、または感染の疑いのある方と濃厚接触があった方

その他、来場の際の注意事項については以下をご確認ください。

皆様のご理解・ご協力をよろしくお願いいたします。

福岡市博物館広報


2020年9月1日火曜日

〔連載ブログ9〕病はどこから身体に入ってくるのか

 新型コロナウイルス感染症の流行によって、私たちは生活様式の変更を余儀なくされています。今まで以上に手洗い・うがいの徹底、マスクの着用、「三密(密集・密接・密閉)」の回避など、感染拡大防止が求められるようになりました。

 それは、新型コロナウイルスの感染経路として、現時点で大きく分けて飛沫感染と接触感染の二つが想定されているからです。

 

【飛沫感染】

くしゃみや咳などにより、感染者の飛沫と一緒にウイルスが放出され、他者がそのウイルスを口や鼻から吸い込んで感染すること

【接触感染】

ウイルスが手に付着した状態で目、鼻、口などの粘膜を触ることで感染すること

 

 つまり、ウイルスが体内に侵入する主な経路は、目、鼻、口であることは医学的に解明されているわけです。(このようなことは言うまでもなく、皆さんにとってはごく当たり前で常識的なことだと思います。)

 

 しかし、現代では常識的なことでも、医学が発達していなかった時代には、目に見えない病魔の正体はわかりません。しかし、病魔を体内に “入れない“方法を考えねばなりませんでした。


 では、病魔はどこから体内に侵入してくると考えられていたのでしょうか。

 直接関係ないことかもしれませんが、皆さんは「霊柩車(れいきゅうしゃ)を見ると親指を隠す」という俗信・迷信をご存じでしょうか。(もはや霊柩車も失われた文化かもしれませんが…)


実は、これに似た親指の俗信・迷信は少なくありません。例えば、「夜道を歩くときは、親指を中にして握っていると狐に化かされない」、「疫病を除けるには両手の親指を中にして握っているとよい」、「猛犬に出会ったときは両手の親指をなかにして拳を握りしめ、犬の眼を睨むと良い」などです。

 

このように親指に関する俗信や迷信を調べると、霊柩車を見て親指を隠すのは死の穢(けが)れが体内に侵入することを防ぐためだと推測できます。つまり、親指は人間の身体の中でも目に見えない何ものかの出入り口として考えられていたようです。

 

その他にも、無防備な背中からは悪いものが侵入しやすく、特に生まれたばかりの赤子は気をつけなければならないと考えられていました。それは赤子の産着が大人の着物とは異なり、背筋に縫い目のない一つ身の着物で、背後を見張る“目”がないからでした。

 

そこで、悪いものの侵入を防ぐために、産着の背に魔除けとして“背守り”を縫い付けることがありました。非科学的ではありますが、呪(まじな)いをかけた縫い“目”によって侵入を防ごうというわけです。

 

背守りは写真1のように色糸を縫い付ける場合もあれば、縁起の良い吉祥紋様(きっしょうもんよう)を縫い付けることもあります。

 

写真1 産着(一つ身)

写真2はその吉祥紋様や魔除け紋様の見本です。本来はこの上でアイロン掛けや裁縫をする際に使うもので、ヘラ台といいます。


写真2 ヘラ台(背守り見本)
 

このヘラ台には70個ほどの背守りの見本が載っています。例えば、魔除けとしての意味合いが強いものには六芒星(ろくぼうせい)、いわゆる「かごのめ」紋様があります。悪いものは「凝視」されることを嫌うと考えられたため、目がたくさんある「かごのめ」が魔除けの意味を持っていました。


また、子どもの成長を願う紋様に「麻」があります。丈夫ですくすくと真っ直ぐ育つ麻の植生にあやかったものです。麻にまつわる紋様として「あさのは」や「あさのはぐるま」なども載っています。

         


 

ほかにも、縁起の良い紋様として「松」や「鶴」などがあります。松は常緑であることから常磐木と呼ばれ、古くから吉祥樹として親しまれてきました。一方、「鶴は千年」といわれるように長寿を象徴していて、「ろつかくつる」「をりつる」「つるのまる」「くわりんつる(こうりんつる)」などが載っています。

    


 もちろん、こうした風習は現代の私たちから見れば迷信であることは明らかで、新型コロナウイルス対策にはなりません。しかし、このような風習にすがりながらも、先人たちが災禍(さいか)を乗り越えてきたことは揺るがない事実です。

 

少しでも今を生きる私たちのヒントになれば幸いです。

 


(学芸課 石井)

 


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【余談】

写真2には、「みます(三枡)」の紋様も載っています。枡は穀物や液体の量を計るための入れ物です。

 


この三枡紋は歌舞伎役者市川團十郎の定紋(家々や団体で定めている正式な家紋)として有名です。市川家の三枡紋は大中小の枡が入れ子になった形で、写真2に載っている紋とはデザインが多少異なりますが、どちらも同様の意味を持つといわれています。

 

枡は「増す」に語呂が合い、三枡は益々繁盛をさらに上回って芝居小屋が大入りになるという願掛けが込められています。

 

益々繁盛=ますますはんじょう=升升半升=二升半

※枡は升とも表記することがあります

 

 益々繁盛は二升半、三枡は三升です。つまり、三升は二升半よりも大きな数字になるため、さらに縁起が良いということになります。※一升は約1800ml

 

このように吉祥紋様は歌舞伎役者とも関連しています。「やまいとくらし ~今みておきたいモノたち~」の後期展示(令和21020日(火)~1129日(日))では、市川團十郎を含めた歌舞伎関連資料の展示を予定しています。こちらも併せてお楽しみください。

〔連載ブログ8〕屋根の上から

「やまいとくらし~今みておきたいモノたち~」の中期展示では、「みえないものと生きる-ウチとソトにいるもの」をテーマに様々な資料を紹介しています。

 

今回はその中からひとつ。

「鬼瓦」をご紹介しましょう。

鬼瓦といえば、瓦屋根の棟の端に乗っかった怖い・厳つい顔を思い出す方も多いのではないでしょうか。

某芸人さんのネタにもありましたね(・・・古い?!)。

鬼の顔を表現したものは、「鬼面文鬼瓦」といいます。

 

鬼の顔ではない鬼瓦もあるのでしょうか?

瓦が日本へやってきた7世紀頃の日本の瓦には、鳳凰(ほうおう)などの神獣や蓮の花をモチーフにした鬼瓦(と言っていいのでしょうか)が使われていました。

鬼瓦は、物怪(もののけ)や怨霊(おんりょう)などの邪悪なものが建物に寄り付かない・入らないようにするためや、火災・落雷などの災害から建物を守るための瓦、と言われていますが、最初は吉祥を呼び込んだり、清浄な場所であることを示すものとして使われていたのかもしれません。

 

鬼の顔をモチーフにした鬼瓦が多く作られるようになるのは、8世紀以降のこと。

当館の寄託資料の中に、その頃作られた鬼瓦があります。

 

鬼面文鬼瓦(怡土城出土) 個人蔵(福岡市博物館)


角はありませんが、大きく見開いた目と口からのぞく牙は、私たちが知っている鬼瓦に近いものがあります。

怡土城(いとじょう)は、糸島市と福岡市にまたがる高祖山(たかすやま)西側山麓一帯に、756年~768年に造られた山城です。安史の乱から始まった国際情勢の混乱に備える軍事拠点として吉備真備(きびのまきび)が築城に当たりました。この鬼瓦は海の向こうから来る脅威に対してもにらみをきかせていたのでしょうか。

  

さて、今回展示しているのはこのような鬼面文鬼瓦です。

鬼面文鬼瓦(伝福岡城出土) 福岡市博物館蔵


一部折れてしまっていますが、にょっきりと伸びた二本の角、口から飛び出している牙、ぎょろりとした目、大きな鼻と立派な髭は、まさに私たちが想像する鬼の様相です。

二本の角がついた鬼面文鬼瓦が登場するのは、鎌倉時代の終わり頃以降と言われていますが、なぜ二本の角が付いた鬼の形が一般的になったのか、はっきりしたことはまだわかっていません。

外部からの悪疫に対しては恐ろしい存在でも、私たちにとっては、それから守ってくれる善き存在。そう考えながら見るとなんだか親しみを感じられるのは私だけでしょうか。

普段は見上げることしかできない鬼瓦。

今回の展示では真正面から向き合ってみてはいかがでしょう。

(学芸課 福薗)


〔連載ブログ7〕水の神と生きる

特設展示「やまいとくらし」、連載ブログにおこしいただきありがとうございます。7回目の今回は考古分野担当の新人学芸員、朝岡がお送りいたします。 

さて、唐突ですが当館常設展示の一角にある↓の土器。上段と中段にそれぞれ文様が刻まれているようです。何かの形を表したもののようですが、みなさん、何に見えるでしょうか。


※福岡市埋蔵文化財センター所蔵 


写真では一部しか映らないため、図にしてみましょう。


※『比恵遺跡群37-第82次調査報告-』福岡市埋蔵文化財調査報告書第832集より


今回は中期展示「みえないものと生きる」に関連しながら、この図像の謎にも迫っていきたいと思います。


さて、上に載せた土器は福岡市博多区の比恵遺跡群(ひえいせきぐん)でみつかった弥生土器です。約1900年前のもので、当時は中国から多くの文物が流入してくる時期でした。金印「漢委奴国王」を奴国王が中国・後漢の皇帝から贈られた時期にも近い頃です。 


通常、土器は使えなくなったものが捨てられて埋まるので、バラバラに割れた状態で出土します。しかし、上記の壺はほぼ完全な形で井戸から出土しました。また、弥生時代の人が井戸を埋める途中で入れたような状況で出土しているため、井戸を使用しているときに不注意で落っことしたものではなく、井戸を廃棄する際の祭りごとに使われたものなのでしょう。壺の形をみると、口が狭くなっているため、固形物を入れたとは思えません。おそらく水、もしくは酒などを入れて井戸の神様に供えたのではないでしょうか。


 井戸の信仰については、現代にも通じるものがあります。遺跡の発掘調査では近現代の井戸が見つかることもありますが、調査開始時に、表土の掘削で使うバックホー(ショベルカー)の操縦士にその井戸を掘ってもらうように指示すると「古い井戸に触ると絶対に悪いことが起きる」と言って嫌がられます。調査後に工事に入る建築土木業者さんからも、工事中に井戸を壊したらいろんな悪いことがあったという話をよく聞きます。もしこれを読んでいるあなたがRPGゲーム好きであったなら、何気なしに村を探索していると不意に井戸から魔物が現れてやられてしまったという経験もあるでしょう。日本の神話ではいくつかの世界が上下に重層的に存在しているという世界観が示されることもありますので、井戸は地下の別世界に繋がっており、何か良くないものも上がってくるという思想が生まれたのでしょうか。

 

また、発掘調査でみつかった近現代の井戸からは、水道管に使われるような塩化ビニル管などの筒状のものが縦に刺さった状態でみつかることが多々あります。これは底にいる井戸の神様が息をできるようにと井戸を埋める際に突き刺すものだそうです。井戸を埋めた場所の地盤が弱くならないようにと、水抜きの意味合いもあるのだとか。遺跡からは中世の井戸に竹が刺さった状態で埋められていた事例が発見されることもあり、こうした風習が古くから行われていたことがわかります。

↑少しわかりにくいですが、矢印の位置に地面からまっすぐ飛び出した塩化ビニル管があります。
この下に近現代の埋められた井戸があります。


話は少し変わりますが、「水」に関わる神話として有名なものにスサノオのヤマタノオロチ退治があります。日本書紀(今年は完成1300周年!)などの記述によると、高天原を追放されたスサノオが出雲の国で泣いている老夫婦と娘に出会います。話を聞くと、8人いた娘が次々にヤマタノオロチ(8つの頭がある大蛇)に喰われ、残る一人になってしまったというではありませんか。そこでスサノオはその娘を嫁にすること条件に、オロチ退治を引き受けます。

 

スサノオはまず老夫婦に強い酒を準備させました。そして、やってきたオロチにそれを飲ませ、酔い潰し、眠ったところに切りかかるという方法で(若干卑怯な気もしますが)倒すわけです。ちなみにこのときにオロチの尾から出てきたという太刀が、三種の神器のひとつである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)になります。

 

さて、このヤマタノオロチ。正体は出雲を流れる斐伊川(ひいがわ)というのが有力な説となっています。その根拠としてはオロチ退治にまつわる伝承地が斐伊川流域に集中していることや、オロチの外見は頭と尾が8つずつあり、長さが谷8つ、峰8つに及ぶとされ、多くの支流が合流しながら流れる斐伊川に合致することなどがあります。また斐伊川は暴れ川で、1873年(明治6の水害の際、場所によっては高さ6mに及ぶ土砂が堆積し、住民が食糧難に陥ったそうです。考古学においても古墳時代に各地で大規模な水利事業が行われるようになることが明らかにされており、オロチ退治の伝承は、古代において地域の有力者が治水灌漑事業によって斐伊川を制御したことがモデルと考えられます。なお、スサノオと結婚した娘はクシナダヒメといい、別名はイナタヒメ(稲田姫)。農耕を象徴する神であるという説もあります。(※参考文献 山陰中央信報社2012『古事記1300年 神話のふるさと~山陰のゆかりの地を訪ねる~』)


今回の「やまいとくらし」中期展示では古墳時代の神マツリの道具を展示しています。手のひらに乗るほど小さなサイズの器などは日用の食器としては使えないため、それらがまとまって出土した折には何らかの祭りごとの痕跡と考えるほかないわけです。当時の川や水路から出土することもあり、農業開発に伴う水辺での祭祀が行われていたのでしょう。あるいは神話のように川を蛇神や龍神に見立て、酒や剣(あるいはその模造品)を用いる祭りごとが行われていたかもしれません。水に関わる龍蛇が登場する古代の神話は多く、少なくとも、水の神に関する信仰が古墳時代まで遡ることは間違いなさそうです。

※福岡市博物館所蔵 古墳時代の神マツリの道具
 奥の2つの土器は高さ5cm程度で、日用の食器とは考え難い。


さて、話は戻って冒頭の弥生土器。文様は何に見えるでしょうか。この流れでお訊きすれば、答えはおのずと決まっているかもしれません。そう、その身をくねらす龍蛇にみえないでしょうか。弥生時代は井戸や水田稲作に伴う水路の掘削など、水に対する需要が大きく高まる時期でもあります。また、水害も多かったようで、この時期の水田跡の多くは洪水で埋もれた状態でみつかります。水に対する感謝、あるいは恐怖といったものが、水の信仰に繋がったとすれば、それを可視化した龍蛇のモチーフが弥生時代に遡り、井戸の神として祀られたとしても不思議はありません(龍であるならば、モチーフ自体は当時の中国から入ってきたのでしょう)。

 

新型コロナウイルスが猛威を振るう昨今。筆者も某博物館でお話しする予定だった歴史講座が中止になってしまいました(実は今回のお話はその内容を一部含みます)。考古遺物からは具体的な祭祀の所作や信仰の内容はわかりませんが、古代の人々が自然などの“みえないもの”を敬い、そして同時に畏れてきたことはわかります。そう、常に私たちは“みえないもの”と共存し、ともに生きてきました。もしかすると、今を乗り切るヒントも身近なところにあるのかもしれません。(学芸課 朝岡)





 

〔連載ブログ6〕《WEB限定公開》「避病院」の図面

こんにちは。

特設展示「やまいとくらし」の連載ブログにお越しいただきありがとうございます。

今回は、WEB限定公開という形で、展示に関係する資料のひとつ「避病院」の図面(館蔵)を紹介します。明治時代に寺社建築の図面を数多く手がけた亀田吉郎平(かめだ・きちろうべい)に関する資料群に含まれていた資料です。特設展示で陳列する予定でしたが、スペースの関係で陳列を見送ることになったので、ブログで解説させていただきます!!


「避病院」の平面図。患者の状態に応じて36室の病室を使い分けるしくみを採用。


「避病院」とは、伝染病患者を他と隔離して収容し治療することに特化した病院です。
明治10年(1877)以降、主にコレラの感染対策として、全国に設置されるようになりました。
 

コレラはコレラ菌で汚染された水や食物を摂取することで感染する伝染病で、19世紀に世界的に流行しました。日本にも江戸時代の終わりから断続的に感染者があらわれ、明治10年から13年にかけては全国各地で大流行しました。

 

博物館に残る「避病院」の図面は、筑紫郡八幡村大字高宮(現 福岡市中央区)に建設する予定だったもののようです。実際に高宮に常設の「避病院」が建設されたという記録は、今のところ見つかっていません。院内の部屋は、並列した6つの病室と、両端の看病人の部屋に分かれています。6つの病室は右から順に「快復期患者室」、「軽症患者室」、「病室」(2室)、「重症患者室」(2室)と割り当てられています。患者の状態によって収容される病室が異なる仕組みです。「避病院」が、患者の隔離を徹底した施設であったことがわかります。

 

福岡地方における「避病院」は、明治12年(1879)、コレラ流行の中で那珂郡千代村堅粕東松原(現 福岡市博多区)に病室を設置したことに始まります。その後、コレラや赤痢の流行にともなって施設を増設していきました。しかし、この場所には福岡医科大学(現 九州大学医学部)が建設されることとなり、明治43年(1910)に「避病院」は福岡市内桝木屋に移転しました。これを荒津病院と呼びます。荒津病院は、市内に伝染病患者が発生した場合、自宅療養を許可された人以外、全ての患者を受け入れることになりました。大正時代後半の「スペイン風邪」の大流行の際にも多くの患者を受け入れました。

 

ちなみに、特設展示第1章「伝染する病に向き合う」(721日~830日)では、祝部至善(ほうり・しぜん)が昭和時代戦後に描いた博多の風俗画のうち、「コレラ患者の輸送」を展示しました。

コレラ患者の輸送

この絵の通り、コレラに感染した者が見つかった際は、警察官と市役所の職員が先導して、感染者を担架にのせて運びました。画面の下部には筆書きで「松原の避病院ゆき」と書かれています。「避病院」は、伝染病の感染拡大を防ぐための施設として、人びとの記憶に残っていたのです。
(学芸課 野島)


2020年8月19日水曜日

ダルマさん覚悟しな

達磨といえば禅を伝えた尊い祖師、だからその像に不埒なことをするとバチがあたる・・というのが普通の感覚かもしれません。それは前回のブログでもふれたように、たとえ「雪だるま」であったとしても、です。

ところが人間というものはなかなか一筋縄ではいかないようで、江戸時代になると達磨を面白おかしく描いた作品が登場します。河鍋暁斎(かわなべきょうさい:1831~89)が、様々な有名絵師の画風によって描いた絵手本集「暁斎画談」にもそんな達磨さんの姿がいくつか見られます。

涼しげな美女の横に、あろうことかニタ~と嫌らしい笑みを浮かべた毛むくじゃらの達磨さんが立っています。まさに「美女と野獣」ですね。江戸中期の浮世絵師・奥村政信のタッチで描いた絵では、達磨さんと遊女がお互いの衣を取り替えて、しかも達磨さんが三味線を弾いて遊女をもてなしたりしています。

この達磨と遊女という何とも場違いな組み合わせの背景には、10年の年季奉公を終えないと自由の身になれなかった遊女が「面壁九年(めんぺきくねん)」の達磨さんより偉いのだという、洒落(しゃれ)に似た考え方があったと言われています。また、不特定のオジサマたちを相手にせねばならなかった遊女にとって、せめて客を達磨さんに見立てるという「笑えない笑い」の産物であったのかもしれません。

とはいえ、そこでは聖と俗、醜と美という本来最も遠いはずの概念が交錯(こうさく)していて、何だかもっと深い意味が込められているような気もします。

実は、こうした対立概念の交錯や反転は古くから文芸の世界で取り上げられていて、淀川で春をひさいでいた遊女・江口の君(えぐちのきみ)が実は普賢菩薩の化身であったという謡曲「江口」の話や、一休禅師とのからみで有名な地獄太夫(じごくたゆう)の話がよく知られています。

地獄太夫は地獄の様子を描いた衣を着ていたという泉州・堺の遊女でした。一休さんが地獄太夫に会いに行き「聞きしより見て恐ろしき地獄かな(聞きしに勝る、恐ろしいほど美しい地獄太夫だな)」と最大級の賛辞を贈ったところ、太夫は「し(死)にくる人の落ちざるはなし(私を買いに来る男で私の魅力にオチない奴はいない、だから一休さんアンタも地獄行きだ、覚悟しな)」と返したとか。〔以上、超意訳〕

江口の君にしても地獄太夫にしても、一流の坊さんを向こうに回す相当に肝の据わったインテリ遊女だったわけです。しかも、両者の間で交わされる「性」や「遊芸(ゆうげい)」の世界の中では、聖なるものが尊く俗なるものが下劣、というような二項対立式の価値観は、まったく意味をなさないことがわかります。

もちろん、それは客がたとえ本物の達磨さんであったとしても同じこと・・・遊芸恐るべし。

仏像学芸員

2020年8月12日水曜日

ダルマさんの涼しいお話

毎日暑いので、今回は少し涼しそうなネタをひとつ・・

インドから来て中国・北魏で禅を広めた達磨さんはやがて亡くなり、熊耳山(ゆうじさん)に葬られました。一説には達磨さんの活躍を妬(ねた)んだ別のインド人僧に毒殺されたとも言われます・・

それから3年後のこと、北魏の外交官であった宋雲という人物が西域から帰国する途中、パミール高原でなぜか片方の履(隻履)を持って歩く達磨さんと出会いました。

宋雲「達磨さんじゃないですか、どこへ行かれるのですか?」

達磨「インドに帰るのだ。そうそう、あんたの主(皇帝)は既に亡くなっているよ・・」

宋雲は不思議に思いながらも帰国してみると、はたして皇帝はこの世を去り、また人々が達磨さんのお墓を開けてみると遺体がなく、もう片方の履だけが残されていたのでした。

これがいわゆる「隻履達磨(せきりだるま)」の逸話です。


今回の展示で紹介した歌川広景の「江戸名所道戯尽廿二 御蔵前の雪(えどめいしょどうけづくしにじゅうに おんくらまえのゆき)」〈写真〉も、この逸話を踏まえた内容となっています。

 


真冬の江戸蔵前(現・東京都台東区)は一面の雪景色となり、一人の男が雪だるまの前で下駄の鼻緒を直しています(江戸時代の雪だるまって結構リアルな顔をしていたんですねー)。

この男が雪だるまを作った本人かどうかは定かではありません。ただ、雪だるまの顔の前には夕食の具材とみられる魚(タラ?)とネギが乗せられていて、鼻緒を直している隙に野良犬がそれを狙っているようです。

一見すると、「ああせっかく今夜はタラ鍋で一杯やろうと思ったのに油断も隙もありゃしねぇ・・」と単なる残念なお話のように見えますが、さにあらず。

禅寺ではよく門前に「不許葷酒入山門(くんしゅさんもんにいるをゆるさず)」と刻んだ標石が立てられているように、ネギなどの臭いのきつい野菜(葷)や酒は建前上禁じられていました。

達磨さんの顔の前に置かれたのはお供えではなく正真正銘の生臭モノ。だから鼻緒が切れて隻履になったあげく楽しみにしていた食材を犬に盗られる、つまり達磨さんの罰(バチ)が当たったというオチなのでしょう。

そういえば男が着ている衣のデザインも仙厓さんの禅画みたいだし、広景さんなかなか芸が細かいですね。 

仏像学芸員