2024年11月16日土曜日

【別冊シーサイドももち】〈097〉百道の海岸はお相撲銀座~百道と相撲にまつわるエトセトラ~

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。










〈097〉百道の海岸はお相撲銀座~百道と相撲にまつわるエトセトラ~


先日、10月20日(日)の午前中、百道浜の海岸ではこのようなイベントが行われました。


\\ どすこいクリーンアップ2024 //


なんて天才的なネーミング!  そして破壊力!!

これは一度聞いたら忘れられませんよね。


こちら、日本財団と湘南・江の島で19年ビーチクリーン活動を続けられているNPO法人 海さくらさんが中心となって進めておられる「海と日本PROJECT」の一環として行われた、砂浜の清掃活動なんです。


当日は大嶽部屋のお相撲さんたちが大勢参加され、一般参加者の方々、そしてゲストのサザエさん・波平さん・海平さんと共に、シーサイドももち海浜公園百道浜エリアの海岸のビーチクリーンを実施。

この日の参加者はなんと400名にものぼったとか!


実はわたしはその日、同時刻に別のところへ取材に行っており(こちらはまた後日…)、気になりながらも残念ながら参加は叶わなかったのでした…むむむ、無念…。

サザエさん×お相撲さんが百道の浜にそろい踏みする…そんな夢のような光景が繰り広げられたこの日の百道海岸。行かれた方は幸運でしたね!(もちろん海のクリーンアップが第一目的!)

ふたたび百道で開催されることを切に祈っています。


ちなみに当日の様子は、海さくらさんのブログでたくさんの写真とともに紹介されていますので、ぜひこの夢の共演をご覧いたければと思います!(奇跡的な写真が満載です)


NPO法人 海さくら 目指せ!日本一楽しいゴミ拾い!





さてさて、ではなぜ「サザエさん×お相撲さん」の組み合わせが百道にとって夢のような組み合わせなのか??


サザエさんは言わずもがな、作者の長谷川町子先生が百道海岸でサザエさんの構想を練ったという話は有名かと思いますが、お相撲さんも百道にとっては忘れてはならない存在です。

それは、百道の海岸沿いに林立していた海の家や旅館は、昭和30年代以降は相撲部屋が毎年11月に福岡市で開催される九州場所のための宿舎として利用していたからなんです。


現在でも10月末頃からまちなかで出会うラフな恰好のお相撲さんたちの姿と鬢付け油の匂いは晩秋の福岡の風物詩ですが、かつては百道がまさにそのメッカともいえる時代があったんですね。

今まさに十一月場所真っ最中のこの時期(明日が折り返しの中日ですね)、百道とお相撲さんにまつわるあれこれをご紹介したいと思います。


* * * * * * *


九州場所のはじまりと宿舎

相撲興行は福岡でも江戸時代から行われていました。

明治時代以降は東京に国技館が建ち、そこを常設小屋として行われる東京相撲、そして大阪相撲などが中心となり、相撲興行は盛んになっていきます。

当時の相撲興行は本場所2回でしたが、本場所以外にも地方巡業が行われており、福岡にも相撲がやって来ていました。


明治時代の福岡での相撲興行は大浜町の浜、大正時代になると博多中島町新地の埋立地などを会場として、そこに仮小屋を建てて行っていたようです。

巡業の時期になると大勢の力士が来福し、この時代は市内の旅館に分宿していたそうです。


(福岡市博物館所蔵)
大正時代の絵葉書。相撲がモチーフになった菊人形です(新柳町)。


昭和になると東京の大相撲団体が統合、福岡でも「地方本場所」としてたびたび興行が行われていました。

福岡での相撲人気は高まり、西日本鉄道をはじめとした地元の有志の尽力によって、昭和30(1955)年にはこれまでの地方本場所ではなく、本場所と同様の取り組みを行う「九州準本場所」の開催が実現。

これは同年に天神に完成した「福岡スポーツ・センター」のこけら落とし興行となりました(現在のソラリアプラザの場所です)。


(福岡市博物館所蔵)
昭和32(1957)年の大相撲九州場所の様子。
中央の建物が福岡スポーツ・センターです。




この流れで、さらに「準本場所を本場所に昇格させよう」という動きが財界を中心に盛り上がり(当初相撲協会は難色を示していたそうですが)、昭和31(1956)年にはついに福岡での相撲興行が大相撲本場所となることが決定しました(実際の興行は昭和32年11月~)。



昭和30(1955)年の準本場所は、本場所と同様の取り組みが行われたため、力士たちも地方巡業の時よりも大人数、そして長期間滞在する必要があり、また部屋ごとに稽古ができる広い場所も必要となり、これまでのように旅館に投宿するというわけにはいかなくなります。

そこで、ほとんどの部屋は会場から近い市内の寺社を宿舎とするようになりました。


準本場所開催当初の宿舎

 ・立浪部屋/聖福寺(御供所町)

 ・二所一門/萬行寺(祇園町)

 ・春日野一門/日蓮聖人銅像護持教会(東公園)

 ・花籠一門/香正寺(薬院)




百道の海岸はお相撲銀座

当初は寺などに宿舎を構えていた各部屋ですが、それぞれの事情でその場所を変えていき、百道を宿舎とする部屋も徐々に増えていきました


それでは実際百道のどこに、どのくらいの相撲部屋の宿舎があったのでしょう?


実は相撲部屋の地方宿舎についてはまとまった形での正確な記録がほとんどありません。

それを調べるためには当時をご存知の方々の記憶や、当時発行された新聞や雑誌の記事などに頼るしかないのですが、それでもいつからいつまで、どこにどの部屋が、ということはなかなか全貌を正確に把握することは困難です。

それでも細かい記事をなるべく拾い集めて集積した結果、なんとなくですが当時の様子が分かってきました。



まずは宿舎が集まっていた場所

これは海の家や旅館を拠点にしていたということからも分かるように、各部屋の宿舎は当時の海岸線に沿うような形で並んでいました。


(地理院地図Vectorをベースに作成)
この赤い丸のエリアに宿舎が並んでいたようです。


百道に宿舎を置いたことがある部屋は全部で10部屋。もちろん同時にではありません。

同時期での最大は昭和45(1970)年前後で、この時は5つほどの部屋が百道を宿舎に選んでいて、百道は「お相撲銀座」や「相撲村」とも呼ばれていました。



こちらはそれを分かりやすくするため、地図に落としてみたものです(建物も入れ替わりがあり、やや時代が混在しているものもあります)。

(昭和44年「町会全図」・昭和54年「ゼンリンの住宅地図〈福岡市西区〉」を基に作成)


百道の宿舎としては「ピオネ荘」や「平戸屋」などは名前を聞いたことがある方も多いと思いますが、なかにはかつて前衛美術集団・九州派がアトリエとしていた「百道屋」も相撲部屋の宿舎として利用されたことがあったようです(九州派が使っていたのは1960年代なのでこれより少し前ですね)。


また、片男波部屋が利用していた「設備屋」は、百道海水浴場(大正7年~昭和50年)で最初期にできた古参の海の家なのですが、昭和48(1973)年に売却広告が出ていることが分かっていますので、設備屋としての最後の時期に相撲部屋を受け入れていたことが分かります(その後、西南学院が購入して跡地に研修所を建てました)。


設備屋についてはこちらの過去記事をご覧ください。



こうして見ると、二所一門(二所ノ関・花籠・放駒・二子山・片男波・高田川)と時津風一門(伊勢ノ海・鏡山・立田川)が百道を拠点としていたことがよく分かりますね。




花籠部屋とピオネ荘

百道に相撲部屋がやってきた、その最初の部屋は花籠部屋でした。

花籠部屋は、元大ノ海が二所ノ関部屋から独立する形で創設した部屋です。大ノ海は引退後に8代・芝田山を襲名して正式に芝田山部屋としてスタートしますが、その後昭和28(1953)年に10代花籠と名跡を交換して11代花籠となり、花籠部屋が誕生しました。


さきほどもご紹介したとおり、当初花籠部屋は薬院の香正寺を宿舎としていました。

花籠部屋が香正寺から百道のピオネ荘に移ったのは昭和34(1959)年

これは所属力士が増えて香正寺に入りきれなくなったためだそうですが、そんなとき花籠部屋の幕内力士だった若乃洲(わかのしま)が福岡出身で、そのお兄さんがパン屋さんを経営されており、お兄さんとピオネ荘のご主人が旧知だった関係でピオネ荘を宿舎にと紹介されたのだそうです。


花籠部屋は当時、横綱・若乃花(初代。「若貴」でお馴染み若乃花・貴乃花兄弟は甥に当たる)がおり、また若乃花を入れて当時「花籠七若」といわれた若ノ海・若三杉・若秩父・若ノ国・若駒・若天龍など将来有望な若手が活躍。若乃花引退後(二子山を襲名し二子山部屋を創設)には、大関・魁傑(のちの放駒親方)や横綱・輪島を出すなど、とても活気のある部屋でした。

また、ほかにも引退後に俳優やコメンテーターとして大活躍した龍虎が所属していたことでも有名です(余談ですが、龍虎といえば『暴れん坊将軍』よりも個人的には『料理天国』の試食係ですね~)。




百道に来た当時、花籠親方や若乃花は新しい宿舎であるピオネ荘と百道を絶賛していたようです。

まず百道という場所は環境がよく空気がきれいで、位置的にも会場(天神)からは大通り1本で繋がるので不便がなく、かといって歓楽街である中洲からは程よく遠いため気軽に「ちょっと一杯…」と出かけられないのが良いのだとか…。


また若乃花はインタビューで「こんないいところはちょっとないな。空気はいいし、景色はすばらしいし、遊ぶところも遠いし、相撲とりにはもってこいだよ。いまにね、この海岸にほかの部屋もずらりと並ぶかもしれませんよ」と、のちの「お相撲銀座」を予言するような事を語っていました(『相撲』昭和34年8月号)。



力士たちも時間が空くと浜辺でボートに乗ったり海釣りを楽しんだり(若ノ海関は自前の高価な釣り竿を持参していたのだとか)、また浜辺をランニングしたりと、百道での滞在を満喫していたようです。


ただ難点もあったようで、ある年には折柄の荒天で大波が打ち寄せたため、海岸に面していた稽古場の土俵が半分近く削り取られてしまったのだとか。

これは海辺ならではの珍事件でしょうね…。




また、百道に相撲部屋ができ始めたのは昭和34(1959)年からですが、同じ年、もう一つ百道にできた施設があります。


それは、西鉄ライオンズ寮です。


それまで唐人町にあった寮がこの年に百道に新築移転。ここは一軍の寮で、雨天練習場なども備えた立派なものだったといいます。


ライオンズ寮は、この「お相撲銀座」のすぐ裏手にありました。


(昭和44年「町会全図」・昭和54年「ゼンリンの住宅地図〈福岡市西区〉」を基に作成)


これだけご近所なのですから、当然力士たちとライオンズ選手との交流も多かったようです。




水不足に苦しんだ昭和53年

昭和53(1978)年は福岡市を大渇水が襲った年でした。

前年の7月以降、雨量が極端に減り、年が明けてもその傾向は変わらず、梅雨も早々に明けてしまい、まとまった降水量がないまま、福岡市はこれまでに例を見ないほどの水不足に陥ります。


これにより、5月からは給水制限も始まりました。

当初5日間だった制限は実施されるたびに7日間、10日間、15日間と徐々に長くなり、9月にはなんと61日間も連続して給水制限を行う事態に至ったのです(第4次給水制限/10月31日まで15時~21時の6時間)。


(『福岡市史』第12巻 昭和編続編四〈1994年、福岡市〉より)
共用栓による緊急給水の様子。


この年の九州場所は11月12日~26日(この時はもう会場が九電記念体育館に移っています/昭和49年~)。

通常、先発隊も含めると2週間ほど前から現地入りするのですが、この水不足によって例年より1週間~10日ほど福岡入りを遅らせたのだそうです。

それでも、いざ福岡入りすると「風呂に入れない」「チャンコが作れない」「洗濯ができない」など、水不足の影響が出はじめます。


九州場所が始まった当初は福岡市に集中していた宿舎ですが、この頃には郊外にその拠点を移している部屋もありました。佐渡ヶ嶽部屋(筑紫野市)と高田川部屋(春日市)の宿舎はそれぞれ市外にあったため、この難を逃れています

また、当時31あった部屋のうち19部屋は宿舎に井戸を掘るなどの策が功を奏し、あまり不自由はなかったようです。


それでももちろん大きな影響を受けた部屋もありました。


二所ノ関部屋と九重部屋はそれまでお互いに経費を負担し合って近くの銭湯と契約して利用していたものの、福岡入りが1週間遅れたのに料金は昨年の2倍近くを請求される始末

仕方ないのでそれぞれに風呂場を新設することになったそうです(でも銭湯のような広さがないので、あまり経済的ではなかった模様)。

これは極端な例ですが、他でも「滞在期間が短いのに風呂屋の料金は据え置き、実質の値上げ」となった部屋は多かったようです。



そんな中、「一番の被害者」と言われたのが、百道に宿舎を構えていた花籠部屋・二子山部屋・立田川部屋の3部屋でした。

他の部屋のように井戸を掘ろうにもそこは海辺。掘っても出てくるのは潮水ばかりで使えません。

そこで考えられた策が貯水槽の設置でした。

花籠部屋では4トンの水が溜められる貯水槽を浜に埋め、さらに1トンの給水タンクを追加、二子山部屋では平戸屋の屋根に1トンの貯水槽を設置しました。

しかし、花籠部屋はまだ真水を貯水していたようですが二子山部屋は貯水した水も海水…。立田川部屋にいたっては貯水槽がなく、120リットルのポリバケツに水を溜めて生活したそうです。



この年の九州場所担当理事だった時津風親方はこの「水不足場所」を終えてのインタビューに、

「使い捨て時代といわれるように、最近の日本人は物を粗末にしてきた。水道の水にしても当然出るものと思うようになっている。だが、今回このような深刻な水飢饉を経験して、いかに物を大切にしなければならなかったかが、わかった。若い力士達に節約、倹約の美徳、重要性を教えてくれた。」

とコメント。さらに、

「それにこれほど水に困っているところに大所帯で乗り込んだのに悪感状を抱くどころか〝もっと早く来てけいこを見せてくれ〟とおっしゃって下さる市民の方が多かった。この点大相撲に対する温いご支援の気持ちがわかりうれしかった」

という談話を残して福岡を後にしました(『相撲』昭和53年12月号)。




力士たちに愛された百道

百道は力士たちにとても愛され、絆も大変深かったようです。

その証拠に、かつて花籠部屋に所属した力士が、のちに親方となって独立・創設した二子山部屋放駒部屋引き続き百道の旅館を宿舎としていて、両部屋とも百道とは長い付き合いとなっています(二子山部屋は平戸屋、放駒部屋は花籠部屋消滅後にピオネ荘を利用)。


百道で一番有名だったであろう宿舎・ピオネ荘の主人である柴田さんは、なかでも相撲界とは深い付き合いがありました。

百道で最初に宿舎として相撲部屋に宿を提供したのはもちろんですが、花籠部屋に所属していた大関・魁傑が引退を決め行われた断髪式では柴田さんも会場に招待され、マゲにハサミを入れたのだそうです。

魁傑はのちに17代・放駒を襲名し放駒部屋を創設。花籠部屋のあと、ピオネ荘を宿舎として利用しています。

そんな柴田さんは新人をスカウトして放駒部屋に紹介したこともあったのだとか。昭和59(1984)年に初土俵を踏んだ鶴ノ里(最高位は三段目13)は、中学3年生のときに親方に会わせると柴田さんが口説き落としたのだそうです。


また、昭和37(1962)年の部屋創設当初から平戸屋を宿舎としてきた二子山部屋は、ずっと懇意にしてきた平戸屋のご主人が昭和53(1978)年9月に亡くなると、秋場所中にもかかわらず二子山親方(初代・若乃花)が飛行機で急きょ来福。なんと葬儀委員長を務められたのだそうです。

その後、九州場所で力士たちが来福した11月6日には別途法要が営まれ、また若乃花(二代目)は横綱になって初めての九州場所でもあったことから「オヤジさん楽しみにしてたのにな…」と故人を偲んだといいます。


いずれも長い時間をかけて築いたであろう深い信頼関係が分かるエピソードです。


* * * * * * *


いかがだったでしょうか。

シーサイドももちの前史としての百道海岸はやはり百道海水浴場が中心になりがちですが、その海水浴場が下火になってからは海とお相撲さんの姿が新たな百道の風物詩となっていきました。


最初に言い訳したとおり、相撲の地方場所はまとまった形では詳細な記録がないため、とくに宿舎の話などは採集するのはなかなか骨が折れる作業でした。

まだまだ分からないことや調査しきれなかった部分の方が多いのですが、とはいえ昭和30年・40年代以降の事ですので、きっとご記憶にある方、事情にお詳しい方も大勢おられると思います。

調査は継続していますので、百道と相撲部屋についてご存知の方がおられましたら、どんな小さなエピソードでも結構ですので、ぜひ情報をお寄せいただければ幸いです!



錦絵「式守伊之助・不知火・鏡岩・浦風」
出典:国立国会図書館「NDLイメージバンク」)



【参考資料】

『相撲』(ベースボール・マガジン社)
・昭和34年12月号(126号) p.60「特集第三話 精魂つきた?若乃花」 p.109「[相撲部屋聞き書き帖 二所・花籠部屋]ピオネ荘はいいところ」 グラビア「海のある部屋(花籠)」
・昭和36年12月号(153号) p.109「[相撲部屋聞き書き帖]二所ノ関 花籠 佐渡ヶ嶽」 p.151「[宿舎訪問]博多の宿かけある記 花籠」
・昭和43年12月号(244号) p.116「ルポルタージュ ボクはピオネ荘」
・昭和46年5月号(275号) p.138「全国相撲場案内 あなたも相撲が見られる!/福岡場所(十一月) 九州は相撲王国 十一月場所の熱狂/百道の海岸はお相撲銀座」
・昭和50年1月号(326号) p.84「[いつ どこで だれが なにを]花籠部屋」
・昭和52年10月号(364号) p.72「十一月場所宿舎割表」
・昭和53年12月号(380号) p.74「窮水(九州)場所 水を相手に大相撲」 p.102「[いつ どこで だれが なにを 相撲部屋聞き書き帖]花籠部屋・二子山部屋・立田川部屋」
・昭和54年7月号(388号) p.140「魁傑がマゲと別れた日…」
・昭和54年11月号(392号) p.107「[相撲部屋聞き書き帖]立田川部屋」
・昭和54年12月号(393号) p.117「[相撲部屋聞き書き帖]立田川部屋」
・昭和55年12月号(406号) p.124「[相撲部屋聞き書き帖]花籠部屋」
・平成2年12月号(534号) p.145「[相撲部屋聞き書き帖]放駒部屋
・平成6年3月号(576号) p.70「[幕下以下各段報告 平成6年初~6年春場所」
・平成6年11月号(584号) p.61「水がない?! 九州場所を目前に断水続く福岡」

・『西日本新聞』(西日本新聞社)
・昭和34年10月26日 朝刊7面「若乃花が一番乗り 九州本場所入りの大相撲一行」
・昭和34年10月29日 夕刊3面「力いっぱい猛げいこ 大相撲九州場所まであと10日」
・昭和34年11月3日 朝刊8面「大相撲けいこ場拝見 九州場所/花籠部屋」
・昭和34年11月6日 夕刊6面「土俵の王者と陸上のチャンピオン」
・昭和34年11月14日 朝刊7面「[大相撲九州場所から―六日目―]横綱には13日の金曜日 花籠部屋は魚釣りの大流行」
・昭和35年11月1日 朝刊7面「[どんたく]園児と若乃国関」
・昭和35年11月6日 朝刊12面「[九州場所けいこ場めぐり2]花籠部屋」
・昭和36年11月6日 朝刊9面「[九州場所けいこ場めぐり1]二所ノ関、佐渡ヶ嶽、花籠」
・昭和36年11月8日 夕刊3面「[花時計]」
・昭和37年11月2日 朝刊8面「博多の秋楽しむ関取り 高まる相撲気分」
・昭和37年11月5日 朝刊8面「[九州場所けいこ場めぐり1]二所ノ関部屋/花籠部屋]」
・昭和37年11月7日 朝刊13面「[九州場所けいこ場めぐり3]伊勢ノ海部屋」
・昭和38年11月4日 朝刊10面「[九州場所けいこ場めぐり1]二所一門」
・昭和38年11月10日 朝刊5面「おすもうさんの一日」
・昭和39年11月2日 朝刊9面「[九州場所けいこ場めぐり1]二所一門」
・昭和42年11月8日 朝刊7面「[話題の力士]横綱陣」

・『西日本スポーツ』(西日本新聞社)
・昭和45年11月10日 3面「[九州場所に燃える4]」
・昭和47年11月4日 3面「[博多の貴・輪]土俵の鬼も愛児にゃコロリ」
・昭和47年11月5日 3面「[博多の貴・輪]輪島 タブーなんか破っちゃえ 一石二鳥?の早朝ランニング」
・昭和49年11月5日 3面「[九州場所 話題の力士1]若三杉・荒瀬 筋金入りの小結」
・昭和52年11月5日 2面「[けいこ場往来]」
・昭和52年11月6日 2面「[けいこ場往来]〝辛抱〟してまーす 外人力士」

・「大相撲十一月場所」(福岡市史編集委員会編『新修 福岡市史 民俗編一 春夏秋冬・起居往来』2012年、福岡市)

・『福岡市史』第十二巻 昭和編続編(四)(1994年、福岡市)

・福岡市水道百年史編纂委員会編『福岡市水道百年史』(2024年、福岡市水道局)

・ウェブサイト
 ・日本相撲協会公式サイト https://www.sumo.or.jp/
 ・相撲部屋興亡史(大相撲パラサイト) https://sumopara.jimdofree.com/
 ・どすこいビーチクリーン2024 https://umisakura.com/doskoi/f2024/


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Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル 

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