埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
〈089〉海水浴場の安全をまもった〝百道の王〟
8月も半ばとなり、相変わらずの暑さですね。
シーサイドももち海浜公園では、マリゾンから東側のエリアのみですが、7月中旬~8月いっぱいはライフセーバーが常駐するため、遊泳が可能となるのをご存知でしょうか?
(ピー・アンド・エル作図に加工)
真ん中の「親水エリア」のみ、夏季には遊泳できます。
そのほかには、ビーチスポーツやボート練習ゾーンなども設定されています。
|
シーサイドももち海浜公園は、かつてあった百道の弓なりの浜辺や白い砂浜、その奥に広がる松林をイメージして埋立地につくられた人工海浜です。
埋立て前にあった海浜には「百道海水浴場」(大正7年~昭和50年)があり、そこには多くの人が訪れていたことから、いまでもシーサイドももちは海水浴場と思われがちです。
しかし実際には「海浜公園」なので、ライフセーバーの皆さんが常駐されている今の時期以外は遊泳は禁止されています。
今年も7月13日(土)~9月1日(日)までは朝9時半~夕方5時半まで、九州産業大学のライフセービング同好会の皆さんが常駐して、海の安全をまもってくださっています。
(福岡市史編さん室撮影)
海浜公園百道浜エリアの中央くらいに見張台があります。
|
(福岡市史編さん室撮影)
見張台のすぐ後ろに控え場所がありました。
ここに何人ものライフセーバーの方が待機されています。
|
九産大ライフセービング同好会の皆さんは、百道浜だけでなく、志賀島海水浴場や新宮海岸でも同様にライフセービング活動を行っておられます。
シーサイドももち海浜公園についてはこちらをご覧ください。
海っぴビーチ紹介・海浜公園マップ | 福岡市海浜公園『海っぴビーチ』〈シーサイドももち・マリナタウン海浜公園〉百道海水浴場の備え
今も昔も、残念ながら海の事故は絶えることはありません。
前回のブログでも修猷館高校のヨット部練習中に起こった遭難事故についてご紹介しました。
これは昭和30年の出来事ですが、百道海水浴場での最初の大きな海難事故といっても過言ではない事故は、大正15(1926)年に起きました。
福岡高等女学校(現在の県立福岡中央高等学校の前身)が行っていた夏期聚楽(林間学校)中に児童28名が溺れ、そのうち5名が亡くなってしまったのです。
この時は、引率の先生や居合わせた海水浴客、また福岡市医師会のスタッフなどが救助を行っています。
※ この事故についてはコチラで詳しくご紹介しています。
百道海水浴場では、このような海難事故に備えて、開場した大正7年の時点からその時々で対策をとっていました。
大正時代には、まず幅30m×長さ90mを区切り、それ以上沖にいかないようにしました。また救護船(警備船)も準備し、浜には専用の電話を引くなどして、もしもの事故に備えています。
さらに大正11(1922)年には福岡県警察によって防犯も含めた海水浴場の取締規則が定められ、水難事故に対しては「救助線、救命具を設備し救護人、及び更衣所に監視人を置くこと(外必要の場合は警察署で指示す)」とされました。
海水浴場の安全をまもった〝百道の王〟
福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社の前身の一つ)が運営していた百道海水浴場ですが、昭和になるとイベントの運営や防犯への取り組みなどは、徐々に百道海水浴場の売店(海の家)による組合も、その役割を担うようになっていました。
戦後になると組合では西警察署とともに防犯も兼ねた見回り活動のほかに、水難救助訓練を実施したり救護班を立ち上げるなど、百道海水浴場の安全をまもる活動を積極的に行っています。
毎年、転覆したボートの救助や人工呼吸の実地練習などの水難救助訓練を警察や海上保安庁の指導を受けて実施しました。
昭和34年には組合員による防犯協力会ができ、「防犯」と大きく書かれた揃いのハッピをつくり、それを着てパトロールを行っていたそうです。
『西日本新聞』昭和34年7月28日記事「【どんたく】海浜の防犯に一役」 を基に作成した防犯ハッピのイメージ。 白地に水色出染め抜いてあったそうですが、書体は完全にイメージです。 |
なかでも、昭和23(1948)年に救護班長に任命された仲尾末次さんという方は有名で、「百道の王」とまで呼ばれました。
仲尾さんは昭和23(1948)年に救護班長となり、昭和37(1962)年に引退。この時は新聞記事にもなり、西日本新聞社からは感謝状と記念品が贈られました。
仲尾さんは百道海水浴場のすぐ裏手の汐入町(現在の西南学院大学博物館の東側あたり)にお住まいで、泳ぎもうまく、百道で生まれ育ったので百道海水浴場のことは隅々まで知っているということから、救護班長に推選されたそうです。
引退を報じた新聞記事には、仲尾さんの救護と警備の日々が次のように紹介されています。
仲尾さんは、海水浴シーズンになると朝から海水パンツひとつになって目を光らせる。この二、三年の夜の浴客が急増してからはからだを休めるのは午前五時ごろ。二時間もすると、またとび起きて救護班の任務についた。『フロなど入るひまはありませんよ』と笑っている。十五年間におぼれた人を助けたのは二百人は下るまいと同海水浴場の入江組合長はいっている。
なんとストイックな救護班人生…!
組合から役割を振られているとはいえ、仕事ではなく基本的にはボランティア。
にもかかわらず、「フロなど入るひまはありませんよ」とは、ものすごい熱意です。
さらに毎年夏になると、仲尾さんに助けられた子供たちから「おじさん、お元気ですか」というお手紙が届いたそう。こうした手紙をもらうのが何より嬉しく「いいことをしたとつくづく思う」と自身の活動を振り返っておられます。
最後に仲尾さんは「わたしは海から離れることはできない。来年も班長でなくてもおぼれている人などをみればとびだしますよ」と語っていたそうです。
引退した昭和37(1962)年は仲尾さんはまだ47歳。
救護&見守り活動以外の本業については記事では紹介されておらず、今となっては謎の多い百道の王ですが、きっとその後も百道海水浴場のそばで、子供たちの安全をライフセーバーとして見守る日々を過ごされたことでしょうね。
#シーサイドももち #百道海水浴場 #ライフセービング #九州産業大学ライフセービング同好会 #海難救助 #百道の王
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]
※ 通番を修正しました(2024.8.20)
0 件のコメント:
コメントを投稿