2023年9月15日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈054〉ピオネとピオネ ―百道海水浴場最後の海の家に隠された名前の謎―

              

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラからご覧ください。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回(「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回(「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)
第36回(「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」)
第37回(「開局!よかトピアFM(その8)『今日もリスナーさんからおたよりが届いています』」)
第38回(「西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~」)
第39回(「「地球をころがせ」を踊ってみた ―「よかトピア」オリジナル音頭―」)
第40回(「映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~」)
第41回(「よかトピアでアジア旅 ― 三和みどり・エスニックワールドのスタンプラリー ―」)
第42回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画①〕スリルを楽しむ~百道の飛込台とハイダイビング~」)
第43回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画②〕大海を泳ごう~かつての遠泳、いまはオープンウォータースイミング~」)
第44回(「百道海水浴場はどこにある?」
第45回(「2100年のパナコロニーからPAF522便に乗船したら、こうなった―よかトピアの松下館(1)―」
第46回(「百道テント村100年 大解剖スペシャル!」)
第47回(「トラジャのアランとコーヒーと ―よかトピアのウェルカムゲートはまるで宙に浮かんだ船―」)
第48回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画③〕世界水泳観戦記録 in シーサイドももち」)
第49回(「福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった―よかトピアの松下館(2)―」)
第50回(「百道から始まる物語 ~「水泳王国・福岡」の夜明け前 ~」)
第51回(「よかトピアのトイレと日陰の話」)
第52回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正編~」)
第53回(「リゾートシアターは大忙し ―よかトピアのステージ裏―」)







〈054〉ピオネとピオネ ―百道海水浴場最後の海の家に隠された名前の謎―


大正から昭和の時代にあった百道海水浴場の近くには、昔からたくさんの海の家や旅館が営業していました。

百道の海岸は、海水浴場が開場する以前は風光明媚といえば聞こえは良いのですが、まだまだ松の原野が広がるだけの場所でした。ところが大正7(1918)年に百道海水浴場が開場すると、どんどん人が集まり始め、西新の開発と共に百道海水浴場は人気スポットになっていきます。

そこに建つ海の家は、当初は夏のみ出現する掘っ立て小屋スタイルのものが多かったのですが、百道の発展とともに徐々に常設の旅館や宴会場設備を備えたものに変わっていき、数も徐々に増えていきました。


そんなたくさんあった海の家の中で、恐らく一番多くの人々の記憶に残っているであろう海の家があります。それが「ピオネ荘」(旅荘ぴおね)です。

ピオネ荘は海が埋立てられた後も平成15(2003)年まであった、百道に最後まで残った海水浴場旅館でした。


(地理院地図をベースに市史編さん室作成)
ピオネ荘があった場所は浜辺のすぐ目の前!


今はマンションが建っています。



ピオネ荘は昭和25(1950)年頃に百道に登場し、百道海水浴場が閉鎖後は福岡の冬の風物詩でもある大相撲九州場所では、花籠部屋や二子山部屋の相撲部屋として毎年利用されました。

かつて花籠部屋に所属していた第54代横綱の輪島大士さん(輪島関)もピオネ荘を利用した力士の一人ですが、九州場所のことを聞かれて「九州場所の宿舎はピオネ荘というんだ。ピはね、パピプペポのペ」と答えたというエピソードは有名です(最初、意味が分からず何度か読み直しました)。


また、西南学院修猷館をはじめとした近隣の学校の学生やOBの皆さんにとっては、クラブやサークルの合宿場所や打ち上げ会場としてもお馴染みの場所で、そういった集まりで利用したことがあるという方も多いのではないでしょうか。


(写真提供:早良区役所「早良区お宝写真今昔物語い~ね!!)
昭和34年のピオネ荘の様子。
場所は百道海水浴場の東端に位置していました。



…さて、ここでふとした疑問が。

筆者をはじめ、百道の近隣に住む者にとって「ピオネ荘」とは何となく昔から耳馴染んだ名前ですが、よく考えたらそもそも「ピオネ」って何なんでしょう…????

一説には、「先駆者」や「開拓者」という意味の「pioneer(パイオニア)」から来ているのでは?という話もありますが、本当でしょうか???

ピオネ荘の店主であった柴田さんは残念ながら数年前にお亡くなりになっており、詳しい経緯については確認が取れず…。


そんな素朴な疑問をきっかけに、個人的にもずっと気になっていた「ピオネ」を探す旅に出てみることにしました。

あ、今回はそんな探索の様子を、ややドキュメンタリータッチでお届けしたいと思いますので、よろしくどうぞお付き合いください。

※途中、人名を一部敬称略でお送りしていますので、どうかご了承ください。


* * * * * * *


奇妙な広告

ピオネ荘が百道の新しい施設として最初に新聞に登場したのは、昭和25(1950)年のこと。それは記事として紹介されていたのではなく、西日本鉄道が出した、西鉄沿線の海水浴場を紹介する「海は呼ぶ! 西鉄沿線海水浴場案内」という広告だった。

これは百道のほかにも芦屋や福間、神湊、津屋崎など、当時電車で行くことができた海水浴場を紹介しており、広告の上半分は「海水浴場ぬりえ大会」と書かれている。枠内に描かれた海水浴をする子供の絵(線画)に自由に色を塗り、学校名と自分の住所・氏名を書いて送る。そして入選するとメダルや記念品がもらえるという、小学生や幼児を対象とした楽しい企画のようだ。

下5段ほどを使った大きな広告に、われらが百道海水浴場の広告も載っているのだが、よく見るとその中に「ピオネ」の文字が、若干遠慮がちに書かれていた。


(昭和25年7月27日『西日本新聞』4面掲載広告を再現)


一番左に「ピオネ」の文字がある。1行目は「お家族の御休憩と喫茶」とあるから、ピオネ荘のことで間違いないだろう。

気になるのは2行目。「ニキビ・ソバカス・色白専用 ピオネ特殊クリーム」。


「ピオネ特殊クリーム」…?


「ピオネ荘」と「ピオネ特殊クリーム」が併記してあることからも、この2つが無関係とはとても思えない。「ピオネ」とは、この化粧品のようだが聞き慣れない「特殊クリーム」のことなのだろうか…?


調べてみると、化粧品の成分に「ピオニン」というものがあるそうで、「ピオネ」は恐らくここから来ていると思われる。ピオニンとは化粧品などの原料で、坑ニキビ作用や抗酸化作用があり、また美白作用も期待できるという、比較的安全性の高い成分のことだそうだ。これで先の広告も合点がいく。


残念ながらこの広告のほかには情報がなく、またその後の新聞を見ても「ピオネ特殊クリーム」については謎のままであった。



思わぬ大物の登場

新聞広告からの探索を断念した私は、次にその場所について調べることにした。つまり土地の来歴である。

百道一帯は明治時代までそのほとんどが原野で官有地であった。その後、払下げが行われて所有者がわかれていくため、最大にさかのぼっても明治より昔になることはない。その時代であれば公的な記録が辛うじて残っている。


私はさっそく法務局が管理する土地台帳など、ピオネ荘が建っていた土地の資料を入手した。そしてその中身を見て衝撃を受けた。

そこには所有者として「許斐友次郎」の名前が書かれていたのだ。


許斐友次郞は、福岡市で明治時代に創業した花関酒造の当時の当主である。それだけでなく、博多魚市株式会社博多土居銀行の監査役、さらには釜山で製塩業を営み、また和白ではガラス工場も経営。かと思えば東中洲にあった九州劇場の場主を務めたり、市会議員博多商業会議所の議員にもなった、いわば福岡の名士である。

ちなみに許斐友次郞は著名な古物収集家でもあった。また郷土史にも明るい人物で、いくつかの論文を著し、昭和初期には福岡市の市史編さん嘱託を務めた永島芳郎の元にもよく訪れていた。


明治時代、土地の払下げが行われた当時、百道の原野は二束三文で売られており、許斐はどうやらこの辺りの「原野」を、しかもかなり広範囲の土地を買っていたらしい。記録によれば、明治41(1908)年に売買によって農商務省から許斐友次郞に名義が変更されていた。


その後、土地はいくつかに分筆(土地を分けること)されていくが、そのうちの1つが後にピオネ荘が建つ、あの土地である。

昭和8(1933)年に分筆され、昭和10(1935)年に息子の儀一郎が相続し「宅地」となっている。すでに百道海水浴場は全盛期であったため、居住はしていないにしても夏の間の別荘としてでも使っていたかもしれないが、これは想像の域を出ない。

ピオネ荘の始まりは、許斐家が個人で所有するいくつかの土地の一つに過ぎなかったのだ。



ピオネ荘創業者の正体

昭和26(1951)年、約40年間許斐家が所有していた百道の土地にも動きがあった。「宅地」となっているこの場所を購入する者が現れたのだ。「中村一男」という人物である。

ただしこれは個人ではなく4名の共同名義となっていたのだが、恐らく彼らがピオネ荘の最初の経営者である。

というのも、共同名義のうちの1名が名前を「中村満智枝」さんと言い、この方はその後の名義変更で「柴田満智枝」さんとなっている。柴田家といえば、ピオネ荘の店主である。


さて、ついにピオネ荘の経営者らしき人物が登場したものの、「ピオネ特殊クリーム」との関係については謎が残る。化粧クリームが海の家とタイアップしていたのだろうか? 

当時、海水浴場は全国的に人気の行楽地で、多くの人が集まることから格好の広告の場でもあったので、ない話ではない…。


そこで今度は方向を変え、化粧品業界方面から調べを進めることにしたが、これは結果として大当たりだった。

小間物化粧品年鑑』という、化粧品・小間物の業界の記録を見ると、昭和17年版と18年版に「ピオネ」の広告が掲載されていたのだ。


(『小間物化粧品年鑑 昭和17年版』より、
国立国会図書館所蔵)

(『小間物化粧品年鑑 昭和18年版』より、
国立国会図書館所蔵)

正式には社名を「ピオネ特殊香粧品本舗」といい、本社は東京にあるようだ。


この発見に嬉しくなった私はさらに『小間物化粧品年鑑』の中身を調べていった。すると次は昭和17年版に「ピオネ本舗の帝都進出」という記事が目についた。

ピオネ本舗の帝都進出

ピオネ香粧品本舗では昨年支社を設けて帝都進出を志し、中村和生氏が支社長として新発足に懸命なる努力を払いつつあるが、いよいよその第一着手として婦人雑誌、映画雑誌等を通じての宣伝を開始した。

(『小間物化粧品年鑑 昭和17年版』(昭和16-18)p.170より)

なるほど、ピオネ本舗はどこか地方から東京に進出してきた気鋭の化粧品会社で、その支社長は中村氏というのか。

中村…?


「ピオネ荘」と「ピオネ本舗」。微妙な線でかなり近づいてはきたものの、「これだ!」といえる決定打に欠ける。私は調査を続けることにした。



中村一男と2つのピオネ

このまま化粧品業界誌を追えば何か分かると思ったのだが、残念ながら頼みの綱である『小間物化粧品年鑑』は昭和18年までしか刊行されていなかった。そこで次は、その後継誌となる『日本粧業』という業界誌に目をつけ、閲覧可能な昭和21(1946)年分の頭からしらみつぶしに記事を見ていった。こういう時にインターネットで全部を公開してくれているのは本当にありがたい。


『日本粧業』を見はじめて、最初に「ピオネ」の文字を見つけたのはやはり広告だった。今度は商品広告ではなく、会社の広告である。


(『日本粧業』第18号〈昭和21年5月1日発行〉掲載広告を再現)

戦前の広告よりも規模が大きくなっている様子がうかがえる。そして何より「第三工場」として、「西新町179」の住所が書かれているではないか。


「西新町179」とは、実はかなり重要な住所だった。なぜならそれは、ピオネ荘の土地の名義人である4名のうち中村一男を含む3名の居住地として、台帳に記載されていた住所と同じだったからである。

これはもうほぼ断定してよいのではないかと思ったものの、やはり「ピオネ荘」と「ピオネ本舗」の関係についてはっきりした証拠がほしい…。


その後は「ピオネ」の文字を見ることはなく、きちんと定期刊行されていたらしい週刊誌の画面をひたすら見続けた。目もかすみはじめ、やや諦めかけていたところ、昭和25年の紙面でついに「ピオネ荘」と「ピオネ本舗」をつなぐ、決定的な証拠が目に飛び込んできた。


それは『日本粧業』第197号(昭和25年1月21日発行)の「業界総親和の会出席者芳名」という記事だった。

年始めに行われた化粧品業界総会の出席者が列記されており、そこにはたしかに「ピオネ特殊香粧品本舗社長 中村一男」という名前が書かれていた。

やはり「ピオネ」という名前は、この化粧品会社に由来していたのだ。


さらに記事をめくると、今度はそれほど間を置かず、同年6月の記事にまた「ピオネ」と「中村一男」の文字が、今度は比較的大きな記事の中にあるのを見つけた。

ピオネ福岡でも大宣伝

今春来、クリームで当りをとり全国的に巾の広い活躍ぶりをみせていた中村一男氏のピオネ本舗では、夏来ると共に今度は、重点を同本舗の発祥の地でもあり、有力な地盤の一つでもある福岡県に集中、去る五月初旬から覇気のある宣伝を見せている、即ち西日本鉄道福岡駅にはポマードクリーム、化粧水の大看板を掲げ、亦(また)各店頭には一斉にポスターが貼られ、にぎにぎしい宣伝ぶりをみせたが、流石に成績はズバ抜けてよく売れ行き不振をかこつけていた博多のデパートたちを喜ばせた。

(『日本粧業』第216号〈昭和25年6月10日発行〉p.8 より)

そう、ピオネ本舗はもともと福岡の会社だったのだ。これらを総合すると、さかのぼって昭和17(1942)年の『小間物化粧品年鑑』の記事に登場した「中村和生」とは、ピオネ荘の土地の名義人の一人である「中村一男」と同一人物と考えてよいだろう。どちらも「ナカムラ・カズオ」と読める。


こうしてようやくつながった「ピオネ荘」と「ピオネ特殊クリーム」。冷静に考えればこんな変わった名前なのだから、関係ないわけがないと思うだろう。ただ、当時の関係者から話を聞けない以上、現時点ではこれ以上のことは分からず、もしかしたらピオネ特殊クリームなんてまったく無関係で、本当に「パイオニア」から取ったものかもしれない。

とはいえ、あらゆる方面から事実をつなぎ合わせて最終的に一つの結論にたどり着いたことで、私の心は達成感でいっぱいになった。



その後―それぞれのピオネ

それからのピオネ荘は毎年訪れる海水浴客で繁盛し、また百道海水浴場にはピオネ荘のほかにも多くの海の家や旅館ができ始めた。開業当初、昭和25(1950)年時点の広告にあった「喫茶」から、宴会も開けるほどの旅館として人々に愛され、成功していった。

一方のピオネ本舗は、昭和26(1951)年に本店を上野から目黒へ移したことで規模も拡大したようである(『日本粧業』第262号、昭和26年5月5日発行)。その後、いつまで会社が存続していたかは不明だが、本業は本業で順調だったのだろう。


「中村一男」という人物を接点として、最終的には「ピオネ」という名前だけを残しまったく別の道を歩んだ「ピオネ荘」と「ピオネ本舗」。その名前から謎を追っていったことで、想定外の過去が垣間見えた。どちらのピオネも新しい土地で新しい道を切り開き成功していった、まさに「開拓者」と呼ぶに相応しい存在だったようだ。

ピオネ本舗がその後いつまで存続したのか、果たして中村一男氏は化粧品開発業と海の家の経営にどのくらい関与していたのかという謎は残るが、中村一男という開拓者に敬意を表しつつ、今回の「ピオネ」の謎解きはこれで一旦幕としたい。


* * * * * * *


…いかがだったでしょうか?

無理してドラマチックにした結果、最後は相当ムリヤリに幕引きとにしましたが、最後にも書いたようにまだ土地のことだったり中村さんの動向だったり、微妙に謎を残したままとなっているので、個人的にも気になるところです…。

というわけで、機会があれば引き続き次の「百道の謎解き」にチャレンジしていきたいと思います!




【参考文献】

・『小間物化粧品年鑑 昭和17年』『小間物化粧品年鑑 昭和十八年版』(東京小間物化粧品商報社)

・日本粧業会『日本粧業』第47号(昭和22年2月1日発行)

・『日本粧業』第197号(昭和25年1月21日発行)

・『日本粧業』第216号(昭和25年6月10日発行)

・『新評』第24巻第8号(昭和52年8月、新評社)

・新聞記事
 ・昭和25年7月27日『西日本新聞』4面掲載広告

・ウェブサイト
 ・日本化粧品工業界資料館http://www.tga-j.org/documents/


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Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル

1 件のコメント:

  1. よくぞ調べてくれました!
    西南学院大学を1979(昭和54)年に卒業しました。わたしも、部活の打ち上げコンパでピオネ荘をたびたび利用したひとりです。まだ埋め立て前のことです。肉や野菜、酒を持ち込んで、自分たちでなにやら鍋のようなものをこしらえて、酒飲んで酔っ払って、前の浜辺で走り回っていました。その頃は、博多湾が一番汚い時代で、海水浴ができるような海ではありませんでした。
    実は、先日、大学の同窓会があり、ピオネ荘のことが話題にのぼりました。みんなその存在はきっちり覚えていましたよ。懐かしい名前を聞いて、ネットで検索したら、このページがヒットしました。
    なるほど・・・記事にあるような秘史があったんですね。
    いいものを読ませていただきました。

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