2023年4月7日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈032〉聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~


埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。




〈032〉聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~


シーサイドももちのことを知るために忘れてはいけないのは、「西新」というまちの存在です。

西新といえば多くの学校があり、商店街があって飲食店なども充実していて、地下鉄やバスが通り天神や博多などへのアクセスも良く、福岡で人気のまちとして必ず名前が挙がる場所です。

そして西新は昨年、福岡市に編入して100周年という節目を迎えました。

とはいえ、「福岡市の西新」としては100年ですが、西新にある「市立西新小学校」の歴史はもっと古く、その創立は明治6(1873)年にまでさかのぼります。



西新小学校についてはコチラ。



そんな西新小学校は、今から50年前、ちょうど創立100周年を迎えた1973(昭和48)年に、100周年事業の一環として1冊の記念誌を作りました。

それが今回紹介する『西新―福岡市立西新小学校創立百周年記念誌―』という本です。






この本が本っっっっ当にスバラシイ!!!(声を大にして言いたい)


まず注目すべきはこの表紙

この松原と海を描いた絵。実はこの絵を描いたのは、画家の伊藤研之(いとう・けんし)です。

伊藤研之は1907(明治40)年、福岡市大名町生まれ。中学修猷館(現 県立修猷館高等学校)の出身です。のちに早稲田大学に進学しますが、卒業後は福岡に戻り活動します。二科会の福岡支部長福岡文化連盟の初代理事長を務めた人物です。

1978年に亡くなっていますので、この絵は晩年期の作品ということになります。

修猷館出身ということからの縁なのか、実際のところはよく分かりませんが、巨匠の作品がこんなにさらっと使われているのも何だか良いですよね。





さて、このスバラシイ本を作ったのは、当時の校長で安河内和好先生という方です。

安河内和好先生


安河内先生は当時西新小学校に在籍して6年目。たまたま100周年の節目に校長職だっただけ(と言ってしまえばそれまでなのですが)にもかかわらず、この『西新』制作に多大な労力と情熱をそそぎ、並々ならぬ気合でこの事業を遂行されました。

内容も、単に西新小学校の歴史をまとめるだけではなく、西新町全体の歴史をまるごと詰め込んだ構成となっています。


まず西新の歴史については、『早良郡誌』や『筑前国続風土記拾遺』、あるいは『西新町教育便覧』や福岡県史資料などから西新に関する記述を細かいところまでとにかく集めているようです。

コピーなどなく、また執筆も手書きであったであろう当時、これは相当な労力だったろうと、本当に頭が下がります。


そして何よりこの本がスバラシイのは、その多くが「卒業生や教職員からの聞き書き」により構成されているところです。

1970年代といえば、まだまだ明治生まれの方が多くご存命であった時代(明治40年生まれとして60代後半)。安河内先生はそんな明治・大正・昭和それぞれの時代を知る方々から丹念に思い出話を聞き、それを時代順(あるいはトピック別)に並べることで、西新小学校、そして西新というまちの100年を見事に形にしたのです。

さらにはお話だけではなく、「思い出地図」とでも言うような、話者の記憶の中の町並み地図や、各所から提供された貴重な写真類も多く掲載されているので、明治時代以降の西新の風景を復原する大変大きな手がかりにもなります。



明治33~35年頃の記憶の地図。
縮尺なんか関係ねえ!


もちろんこれら聞き書きは人の記憶が頼りですから、時には間違っていることもあります。裏付けできる資料などがなく事実と確認できないことも多々あるので、お話をそのまま鵜呑みにはできないこともあり、注意が必要でもあります。

ですが逆に言えば、資料には残らない細かい話話者の感情までもがそのまま綴られているので、そこには資料集にはない迫力が生まれます。

これはもうまさにこのタイミングでしか成し得なかったことだと思います。


そんな貴重な聞き書きの中から、時代順にいくつか紹介します。まちや生活が変わっていく様子を思い浮かべながら読んでいただければと思います。


※以下、すべて『西新』より引用。文末の( )は掲載ページ数。



* * * * * *


◎明治時代◎

「杉山稲荷さまのこと」 明治三十四年卒業 西嶋スギノ

 私が七才の頃、明治三十年頃のことで古い話です。紅葉八幡の松原に松葉カキに夕方行きますと、杉山さまの大きな松の木の根っこの下に穴がありまして、そこから大きな狐がのっそりのっそり競馬場の方に歩いていくのをみていました。(p.46)


※ 紅葉八幡宮は大正2年まで現在の明治通り沿いにありました。
※ 競馬場についてはコチラ → 〈019〉西新と愛宕の競馬場の話。


「明治の頃の新地」 明治三十四年卒 西嶋スギノ

 わたしの生いたちは、新地でした。当時の新地は、東は樋井川河口(昔は金龍寺川と呼んでいました)から、西の方は、今のパレスの処に祭られてあった紅葉八幡宮境内まででした。南は旧通り片原町の裏側から百道の海岸まででした。当時は電車通りはなく、お屋敷原といって、田中どん、小野どん、西村どん、倉塚どんなど、十五軒くらいの士族の広い屋敷があり、周囲は一面の桑畑でした。また煉瓦工場がありました。金龍寺川の向岸は浄満寺のお墓のところから、こちらは、記念病院の前くらいの川幅で大変広い川で石垣等はなく、地行方面へ遊びに行くのに、潮が引いているときは裸足で渡りました。(p.79)

※ 現在の明治通り。


「西新小学校奉職の思い出」 旧職員 松原伍勝

私が奉職した頃の西新小学校は、紅葉八幡宮(その頃は既に現在の処に移転していました。その西隣りにありまして、木造の平家建の校舎でした。周辺は一面の青松白砂で、所謂百道松原で、その名残の松が今幾本か西南学院の校庭あたりに見えるのみです。(p.68)

※ 大正6~7年。その後本人は上京し、関東大震災の時には麹町高等女学校に勤務。昭和48年時点で83歳とある。


明治のころの小学校生活 ※記名なし

(略)私は明治三十九年の頃の卒業生です。その頃の服装ですが式のときは紋付袴で普段は和装下駄草履で男子は学校帽をかぶっていました。風呂敷包みで教科書、石板石筆をもって通っていました。(略)運動会は百道松原昔の紅葉八幡さまの裏か浜であっていました。体操、棍棒、亜鈴、綱引き、玉入れ、徒歩競争、お遊戯などがあっていました。(略)(p.116)



明治10年代の卒業生。



◎大正時代◎

「藤崎の風物詩」 大正十四年卒業 富永八郎

地蔵尊※1の裏は 乾繭所※2があり 春は生繭が山と積まれていた、刑務所官舎※3と県道の境に高さ二米程の土手があり、少年達の草スキーの場であった。(p.83)

※1 千眼寺境内。
※2「かんけんじょ」。繭を乾かすところ。
※3 現在の早良区役所一帯にあった福岡刑務所の一部にあった刑務官の官舎のこと。


「嗟・百道原頭」 大正七年卒業 萱島弥平

われは海の子』の唱歌は正にわがものと思い込み白砂青松の百道の浜を高唱して歩き廻った。(略)この松原と浜丈けは後輩の児童生徒に残して置き度かったものと嘆かれる。(p.84)


「福岡市西新尋常高等小学校の思い出」 旧校長 松熊孫三郎

校舎は、平屋建四棟で、四棟目の裏の道を挟んで、西南学院中学部の赤煉瓦の校舎が建って居ました。(略)全児童数が、約一千一百人余でありました。(略)新校舎が現在の校地に新築されるように成りましたのは、大正十一年に西新町が、早良郡から福岡市に合併する条件の一つに約束されて居たと聞いて居ました。(略)
 いよいよ最後に屋内体操場が建ちましたが、これは大濠公園で開催されました、東亜勧業博覧会の陳列館を、西新、当仁、草ヶ江、警固、春吉の五校に持って来たものと覚えて居ます。(略)(p.88~89)



今川橋を通る北筑軌道(大正5年)



◎昭和時代(戦前~戦中)◎

「西新小学校の思い出」 昭和五年卒 金堀一男

確か三年の時だったと思うが、以前の西福岡警察署の隣にあった古い木造のぼろ校舎から、現在の百道松原の中に聳える鉄筋の新しい校舎―「当時としては市内に確か大名小学校と二校」―に机や椅子を担いで、一日掛りで移転したが、文字通り白砂青松の濃い緑の中に真白い校舎が、浮んで見えて、吾々の自慢であったこと。そして新校舎は波打際から確か四、五十米位しか離れてゐないので、夏には昼休みの時間に、吾々悪童共が、先生の眼を盗んでは真裸で水泳に夢中になり、昼からの始業の鐘が鳴ると、大あわてで教室にかけこんで先生に叱られたことが昨日の様に懐しく思い浮んで来る。そして今日では想像も出来ないが、当時は室見川の河口まで、一面の松原続きで、体操の時間や、放課后先生と一緒に松露探しに出かけ〝俺のが一番大きい〟と級友達と自慢し合ったものだ。
 それから夜ともなると、悪童連が、誰云うとなく校庭に集まって来て、〝肝だめし〟と称して、西新小の先輩が発掘した元寇防塁の辺りから、人家もまばらで、薄や藪の生い茂った新屋敷を通って、刑務所の隣にあった千眼寺の新しい墓標に、自分の名前を書いた名札を、卑怯者と云われたくない一心でこわごわと置いて、逃げる様に飛んで帰って来たこと。(p.89~90)


「私のおもいで」 旧代校長 清水競

 昭和十五年から十九年九月まで四年半の在職中は世間は戦時色一色と言うところ学校教育も例外ではありません。学校の位置が丁度扇の要どころで運動場は広いし百道海岸とあって色々の行事を引きうけたりしたものです。
七月の下旬には市内小学校の連合夏季聚落の会場となりました。大名、警固、住吉、奈良屋、春日、それに西新が常連でした。県立高女の有志の脱衣所、遠く基山小学校の要請で一教室を提供しました。近くに県の社会教育会館がありますので海洋少年団幹部講習があると五六年の団員の実地指導の映画撮影等に出ました。また福日新聞社が文化映画「軍国童謡集」を製作した時その一場面の撮影に協力したこともあります。(p.94~95)


小学校正門前での連合夏季聚楽開会式の様子(昭和17年)



* * * * * *


いかがだったでしょう?

話者の言葉をそのままを書き留めたような記述も多く、そのため話が前後することもあるのですが、読んでみるとそれがまたリアルです。

また、お話の軸はあくまでも思い出話ですが、その中には「え、当時そんなことが?」といった出来事や、失われた地名、そして場所が当たり前のようにさらっと現れます。これもまた今となっては貴重な記録資料の一つと言えると思います。


これらの「証言」を読んでいると、わたしたちがいま何気なく過ごしている日常も、いずれは「歴史」になるのだなあと、何だか感慨深い思いがします。

そう考えると、違うの世代の方々のお話を聞いてみる、あるいは自身の体験を記録しておくというのがいかに大事かということがよく分かります。

この本がスバラシイと感じるのは、編者の安河内先生がそうした小さなことを丹念に広い上げながら、証言の一つ一つを大事にしてこの本を作られたからなのでしょう。


この『西新』は、福岡市総合図書館の2階にある「郷土部門」で閲覧が可能です。

細かいところまではとてもここではお伝えできませんので、つづきはぜひ直接お手にとって、100年にわたる西新の人々の生の声に触れていただければと思います。






※ 引用、写真はすべて『西新―福岡市立西新小学校創立百周年記念誌―』(福岡市立西新小学校創立百周年記念会、1973年)より。


#シーサイドももち #西新町 #西新小学校 #聞き書き大事


Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル

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