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2025年6月27日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈105〉百道に監獄を建てた人々の話~福岡監獄移転60年備忘録~

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。







〈105〉百道に監獄を建てた人々の話~福岡監獄移転60年備忘録~


 今年2025年は、かつて百道にあった福岡刑務所が糟屋郡宇美町に移転して60年の節目の年に当たります(誰一人気にしてないアニバーサリーかもしれませんが…)。


 跡地は現在、早良区役所や早良市民センター、SAWARAPIA(旧 ももちパレス)などの公共機関が集まる場所となっていますが、ここにはかつて、高い赤レンガの塀に覆われた、巨大な監獄(刑務所)が建っていました。


(地理院地図を基に作成)



 地図の中の赤く囲われた部分が、かつて福岡監獄(福岡刑務所)があった場所です。監獄は堅牢な赤レンガの塀に囲まれていて、その南側には看守たちの官舎エリアがありました。塀の南側中央にあった正門は赤レンガの中の監獄に入るための門ですが、そこから官舎エリアに向かってまっすぐ進んだ先には全体の表門があり、実際の敷地の入口となっていました。



(『紀念写真帖』より)
竣工当時、表門付近からみた監獄の様子。
中央に写っているのが監獄の正門です。

かつて表門があったと思われるのはこの辺。
だいたい福岡市地下鉄藤崎駅の2番出口があるあたりです。
写真は、ちょうど猿田彦神社の前から北向きに撮っています。




 福岡刑務所は大正5(1916)年、当時は松林以外何もなかった百道の地に建てられました。
 ですがそんな百道にも徐々に人家や人の往来が増えていき、戦後になると周辺は一気に都市化します。戦後の開発によって西新周辺が副都心化する中で、約50年間そこに立ち続けた赤レンガの刑務所はまちに馴染まない存在となり、昭和40(1965)年、ついに解体されて糟屋郡宇美町の現在地に移されました。


(宿久晃氏撮影/個人蔵)
(宿久晃氏撮影/個人蔵)
解体中の福岡刑務所の様子を捉えた貴重な写真。
塀以外もレンガだったことがよく分かります。


 福岡監獄(刑務所)については百道の歴史の一つとして、こちらのブログでも過去4回(!)にわたって紹介してきました。


 まずは、福岡監獄が西新町に移ってくる前のお話(第60回)。次は完成した福岡監獄の建物を「建築見学ツアー」としてご紹介したお話(前後編/第62・63回)、それから時代がぐっと下って、戦中の福岡刑務所に収監された韓国の詩人・尹東柱(ユン・ドンジュ)の没後80年にあわせて行われた、追悼式や記念講演会の様子、そして来日された尹東柱のご遺族と一緒に福岡刑務所跡地を歩いたというお話でした(第102回)。




 第5弾となる今回は、刑務所移転60年記念ということで、明治~大正初期にかけてのビックプロジェクトだった福岡監獄の建設について、建設当時の状況をもう少し細かく深掘りしてみたいと思います。



* * * * * * *



明治に起こった近代監獄建設プロジェクト

 福岡監獄は、明治41(1908)年に工事が始まり、大正5(1916)年に完成しました。この時期は、監獄や拘置所などが全国でつくられており、それらは当然国の事業として行われました。


 明治時代、政府は司法制度の再整備を行いますが、これには外交に際して「日本は欧米諸国と対等な文明国であり、近代的な法治国家である」と諸外国にアピールするといった目的もあったといいます。

 そこで政府が取り組んだのが、近代監獄の設置です。近代監獄は、西洋の監獄建築を参考にしてつくられており、堅牢で美しいレンガ造りが特徴です。


 なかでも明治33(1900)に監獄法が施行され、最初の監獄改築計画としてつくられた長崎監獄(明治40年竣工)、千葉監獄(明治40年竣工)、金沢監獄(明治40年竣工)、奈良監獄(明治41年竣工)、鹿児島監獄(明治41年竣工)は、「明治五大監獄」と呼ばれます。


 これらの監獄は象徴的な正門や一部の建物が現在でも残されていますが、とくに旧奈良監獄は現在でも唯一原形を保った形で保存されています。現在は耐震改修工事のため見学はできませんが、2026年春には星野リゾートによってホテル・ミュージアムとして生まれ変わる予定だそうです。




 これら「明治五大監獄」を設計したのは、当時司法省営繕課にいた司法技師の山下啓次郎太田毅でした。山下も太田も帝国大学造家学科(現在の東京大学建築学科)を卒業して司法省に入庁したエリート技師です。


 2人は8歳ほど年の差がありますが(山下の方が年上)、どちらも日本銀行本店や東京駅の建築などで知られ「日本近代建築の父」と呼ばれた辰野金吾の弟子でした。また、山下はジャズピアニストとして活躍されている山下洋輔さんの祖父に当たります。


 一方の福岡監獄は、先ほどの明治五大監獄の後、第2期の監獄改築計画としてつくられた監獄です。ちなみに同じ第2期として建設が計画された監獄は、甲府監獄(山梨県/明治45年竣工)、秋田監獄(秋田県/明治45年竣工)、安濃津監獄(三重県/大正4年竣工)、豊多摩監獄(東京都/大正4年竣工)がありました。



福岡監獄の設計者は?

 先ほど「明治五大監獄」の設計は山下・太田が手がけたと言いましたが、では福岡監獄を設計した人物は一体誰なのでしょうか?
 これは現在のところ正確には分かっていません。


 というのも、福岡監獄に関しては設計図面などの詳細な資料が見つかっておらず、具体的な設計者名の特定には至っていないのです。



 ですが、まったくヒントがないわけではありません。当時、監獄や裁判所などの司法に関する建築物の設計は、司法省内にあった「営繕課」が担っていました。営繕課には司法技師と呼ばれた高等専門技術者が在籍しており、司法施設の設計や建築監督などの業務を行いました。


 福岡監獄の建設に当たっては、建築現場で実際に指揮を執っていたのは山下ではなく、その部下の金刺森太郎という人物だったことがわかっています。


 金刺は、上司である山下や太田など名だたるエリート官僚たちとは違い、静岡の旧制韮山中学校を卒業後、各地の建築現場で地道に修業し、30歳を超えてようやく技手として司法省に入庁(明治29〈1896〉年)した、言わば「たたき上げ」の人物です。その金刺が入庁からさらに十数年という長い下積みを経てようやく技師に昇進し、初めて担当したのが福岡監獄の設計監督でした。


 それでは金刺が福岡監獄を設計したのかといえば、そうとも言えないようです。
 福岡監獄の建設が始まった明治41(1908)年前後、司法省営繕課にいた技師は、山下と太田の2名のみでした(太田は明治39年まで)。この頃の金刺の役職はまだ「技手」で、あくまでも技師の補佐役です。


 金刺は技手から技師への昇進と同時に、福岡監獄建設現場への在勤を命じられています。福岡監獄は同年6月には建設が始まっていますので、金刺が技師として着任する前から補佐的に設計に関わった可能性もありますが、その場合でも主な設計者は上司であった山下や太田と考える方が自然でしょう。



苦労人・金刺森太郎のその後…

 実は金刺が福岡にいたのはほんの短い期間だったようなのです。金刺は福岡監獄の現場に着任してそれほど経たないうちに、今度は大阪控訴院大阪地方裁判所管区の大阪区裁判所の現場への勤務を命じられています。記録によれば明治43(1910)年6月にその辞令が出ていますので、わずか1年半ほどで福岡を離れたであろうということがわかりました。


 金刺はこの後も数年ごとに大阪→神戸→名古屋→京都→東京→大阪・名古屋(兼務)とくり返し異動を命じられ、各地の監獄や地方裁判所などの建築に従事しています。


 とりわけ有名なのは、2024年に放送されたNHKの朝ドラ「虎に翼」のロケ地としても有名になった「旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」。これも金刺と山下の設計による建築物です。この建物は現在でも名古屋市市政資料館として使われており、建物だけでなく図面資料なども保存され、一般に公開されています。


 名古屋控訴院地方裁判所の建物は、金刺にとって苦労を重ねた建築技師人生の集大成ともいえる建築物であり、苦労のすべてが詰まった最高傑作ともいえるでしょう。
 金刺がこの大仕事を手がける前に福岡監獄建設の任に就いていたと思うと、なんとも感慨深いものがあります。






レポ・福岡監獄の建設現場から

 さて話を福岡監獄に戻しましょう。


 福岡監獄の工事が始まった頃は他の監獄建設も同時に計画が進んでいたため、営繕課でも明治42(1909)年からはそれまで5名だった技手が16名に増員されました。
 増員された技手たちのうち、16名中9名が金刺と同じように全国各地の建設現場への勤務を命じられています。福岡監獄にも中村善兵衛重松勘之助という2名の技手が、金刺と同じタイミングで福岡の現場へ配属されたようです。



 一方、金刺が福岡を去ってすぐ後、本格的な工事が始まっていた明治43(1910)年8月に、福岡監獄の建設現場を取材した記者がいました。


 それは、福岡日日新聞社にいた斎田耕陽という記者です。


 斎田は、御笠村阿志岐(現在の筑紫野市阿志岐)の出身で、群馬や静岡の学校で教員を勤めた後、明治39(1906)年に福岡日日新聞社に入社し記者となりますが、その後昭和2(1927)年には同社の初代事業部長となった人物です。
 そんな後には出世する斎田ですが、福岡監獄建設現場の潜入記事を書いた当時はまだ入社4年目。「多加羅」という筆名で、文教担当として記事を書いていました。


 記事ではそんな多加羅こと斎田耕陽が建築中の福岡監獄に潜入し、その様子を3回にわたって細かくレポートしています。


 さすが新聞記者、前々から看守長とはすでに「顔馴染」になっていたようで、その看守長に先導され、さっそく「工務室」で「重松主任技手」と「森技手」という2人の担当者を紹介されています。この「重松主任技手」とはおそらく金刺とともに福岡に赴任していた重松勘之助で、「森技手」とは同じく司法省営繕課にいた森兵作という技手だったようです。


 斎田が取材した時点での建設状況は、正門前の看守長官舎6戸と、西側看守官舎2棟11戸、さらに受刑者が作業するための工場1棟が完成し、中央見張所を含む監獄の中央部分はまだ建設中といった状況でした。
 また、記事には看守官舎の予定地に仮設した監房9棟のうち7棟は移転前の須崎裏本監から移築している、と書いています。受刑者のうち約700名をそこに収監し、残りは建設途中の中央見張所付近の廊下を仮監房として、そこに収監していたようなのです。


 斎田はさらにこの取材で当時の建設予定平面図も見せてもらっています。しかし、福岡監獄の建設は途中何度か計画が変更されているため、この時の取材で斎田が見せてもらった図面と最終的な出来上がりとは少し違っています。


 細かい部分の違いはもちろんありますが、大きく違うのは次の2点です。


 こちらが実際に完成した配置図

(『紀念写真帖』掲載の平面図を基に作成)





 そしてこちらが斎田が取材した当時計画されていた配置図です。

(『紀念写真帖』掲載の平面図に記事の内容を反映)


 このように、中央見張所より手前の部分には本来「拘置監」と「女監」という施設ができるはずでした。拘置監とは、刑事被告人や死刑の言い渡しを受けた者を拘禁する場所で、女監とはその字の通り女性受刑者のための監獄です。


 ところが建設途中で青年監(一般の受刑者よりも若い受刑者を収容)と、幼年監(少年犯罪者を収容)を併設しなければならなくなり、計画は変更に…。


 結果、拘置監は土手町にあった福岡区裁判所敷地内に「福岡監獄土手町出張所」(現在は中央区役所がある場所)を建て、女監に収容予定の女性受刑者たちは、久留米にあった分監(現在は福岡刑務所久留米拘置支所)に移されることになりました。こうした計画変更は、最終的に工期が延びることになった一因でもありました。



 斎田はさらに実際の建設現場の様子も細かく見聞きし、レポートしています。こちらは、斎田が取材した福岡監獄の建設に携わっていた作業者の内訳です。

 木工(大工) 106名

 木挽き 49名

 鍛冶  42名

 石工  52名

 畳製造  5名

 レンガ製造 111名

 レンガ積み 35名

 左官  13名

 その他人夫 330名

 雑役  32名

 合計  775名

※「その他人夫」のうち、約100名は砂取り、その他は各所手伝い、運搬、地均しなど。
※「雑役」は、炊事・掃除等も含む。

※「新築中の福岡監獄(一)」(明治43年8月20日『福岡日日新聞』朝刊2面)を基に作成 


 しかもこれらの作業を担ったのは、実際そこに収監されている受刑者たち…そう、この775名の作業者は、全員が受刑者というわけです。


 とはいえ、そう都合よく大工仕事に経験がある受刑者がいるわけでもありません。それはそうですよね、大工仕事のために監獄に入ったわけではなく、たまたま囚人が大工だっただけで…。


 そこで当初は、なんとこの工事のためにわざわざ長崎監獄から大工の専門知識がある受刑者を福岡監獄に移して作業に当たっていたのだそうです。


 そこまでして…という気もしなくはないですが、このように監獄建設の際に刑務作業の一環として受刑者に建設作業を担わせるというのは、当時営繕課長だった山下啓次郎の意向だったといいます。何も福岡監獄に限った話ではなく、当時多くの監獄はこうしてつくられていました。


 斎田が取材した時点では、もうすべて福岡監獄の受刑者で仕事を回していたようですが、大工仕事担当の106名のうち、元から大工として仕事をしていた者(あるいはその知識があった者)はわずか10名程度。残りはみな先輩受刑者が指導して「全くの素人を漸次監内で養成した」のだとか…。


 この記事を読んで「大工はともかく、それは…」と思ったのは、職人の中の「鍛冶」は、監獄で使う金物の一切をつくっていたそうで、当然監獄の錠前も作っていたそうなのです。斎田もさすがに「"自縄自縛"の語も思ひ出されて変に感した」と率直な感想を書いています。そりゃそうだ…。


 とはいえ、作業をする受刑者たちは思いのほか(などと言ってはいけませんが…)真面目に監獄建設に取り組んでいたようです。斎田の取材に同行した記者は「娑婆におってこれぐらいに勉強すれば、悪事をなさなくとも立派な生活が出来ますのに」とつぶやいています(といっても脱走騒ぎがないわけではなかったようです…くわしくはコチラでご紹介しています)。



 もちろん彼らを指導・管理するのは看守たちです。当時福岡監獄に配属されていた職員の内訳は下記のとおりでした。

 典獄 1名(毎週3日勤務)

 第2課長 1名(毎日出勤)

 看守長 2名

 部長  6名

 看守  60名

 主任技手(看守長兼務) 1名

 第三課分遣看守長 1名

 技手  2名

 工手  1名

 看守  1名

 雇書記 1名

 第一課・第三課事務看守 3名

 合計 80名

※ 典獄とは現在の刑務所長を指す。
※ その他の役職は記事に記載された通り。
※ 主任技手(看守長兼務)は重松のことと思われる。

※「新築中の福岡監獄(一)」(明治43年8月20日『福岡日日新聞』朝刊2面)を基に作成


 現在の刑務所の看守職員数は正式には公表されていませんので比較はできませんが、800人近くの受刑者に対して80人の看守というのは、さすがにちょっと心許ない気もしますよね(しかもほとんどが外で建築作業をしているという…)。



 こうして監獄建設の様子を隅々まで見学した斎田は、最後に工事中の建物の2階に上がらせてもらい、次のような感想で記事を締めくくっています。


工事中の第二監の二階の棟に登臨した時は新に一種の感が浮んだ。見渡せば海の中道、志賀、残の島(注:能古島)、袖浦の碧水を隔てて皆一望の中に入る。更に南に向き反れば、門前近く猿田彦大神の社に対し、やや距れて稲荷山の涼し相な風景も呼応の間に見えて居る。東は緑滴るばかりの松の梢を天上から眼下して脚下に千眼寺の瓦を看(み)、西は室見の清流を隔てて愛宕の山を仰ぎ見る。知らず愛宕山の頂辺に立ち、福岡新監獄の壮観を下瞰しつつ「大丈夫当(ま)さに此に居るべし」と壮語して居る新将門的快男児ありや否や。

※(注)は引用者、( )内のひらがなは記事中にあるフリガナ。
「新築中の福岡監獄(三)」より(明治43年8月23日『福岡日日新聞』朝刊3面



* * * * * * *



 いかがだったでしょうか。
 今回は福岡監獄の建設当時の様子についてご紹介しました。


 …さて、賢明な読者の皆さんはすでにお気付きでしょうが、来年は福岡監獄竣工110年の節目に当たりますね!


 まだまだ分からないことが多い福岡監獄建設史ですが、来年のアニバーサリーイヤーに向けて、今後もこうした細かい情報を拾い集め、百道の歴史の1ページとして福岡監獄建設の謎について引き続き追いかけてみたいと思います! がんばります!



(『紀念写真帖』より)
竣工した大正5年の時の看守や職員たちの集合写真。




【参考資料】

・『司法省沿革略誌』明治41年1月−明治45年7月・大正1年7月−大正5年12月・大正6年1月−大正10年12月・大正6年1月−大正10年12月

・『紀念写真帖』(阿部写真館謹製、柴藤活版所、1916年)

・筑紫野市史編さん委員会編『筑紫野市史 下巻 近世・近現代』(筑紫野市、1999年)

・瀬口哲夫「再見 東海地方の名建築家③ 建築人生の花道となった名古屋控訴院/設計監督工事者・金刺森太郎」(『ARCHITECT』2005年6月号、JIA公益社団法人日本建築家協会)/http://www.jia-tokai.org/archive/sibu/architect/2005/06/seguchi.htm

・石田潤一郎「赤れんがの監獄が物語る明治の近代化」(重要文化財旧奈良監獄見学会講演会資料、2017年7月16日開催)

・新聞記事
   ・明治43年8月20日『福岡日日新聞』朝刊2面「新築中の福岡監獄(一)」
・明治43年8月21日『福岡日日新聞』朝刊3面「新築中の福岡監獄(二)」
・明治43年8月23日『福岡日日新聞』朝刊3面「新築中の福岡監獄(三)」

・資料
   ・「臨時司法省ニ技師技手ヲ置ク」(公文類聚・第三十二編・明治四十一年・第三巻・官職二・官制二・(大蔵省・陸軍省・海軍省・司法省))/アジア歴史資料センター
   ・「職員録」明治29年~大正13年

・ウェブサイト
 ・旧奈良監獄(https://former-nara-prison.com/index.html)
  ・「[歴史]近代監獄の夜明け」(旧奈良監獄)(https://former-nara-prison.com/history/modernized-judicature/)
  ・「[歴史]明治五大監獄」(旧奈良監獄)(https://former-nara-prison.com/history/meiji-five-prison/)」
 ・「旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎」(文化遺産オンラインhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/189023) 
 ・「名古屋市市政資料館」(愛知県の公式観光ガイド Aichi Now/https://aichinow.pref.aichi.jp/spots/detail/190/)
 ・「福岡県内編線図」(矯正図書館/情報資源/https://jca-library.jp/chart_Fukuoka_1.pdf)
 ・「刑務所.net」(http://keimusho.net/59fukuoka.html)




Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル 

※「参考資料」を追加しました。(2025.6.27)

2025年4月11日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈104〉第1次西新元寇ブームの熱狂 ー元寇防塁今昔③ー

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。








〈104〉第1次西新元寇ブームの熱狂 ー元寇防塁今昔③ー


百道を語る上で欠かせない要素の一つである「元寇防塁」。

13世紀に日本は元軍(モンゴル帝国)による二度の襲来を受けました。これがいわゆる「元寇(蒙古襲来)」です。


こちらの連載でも何度も登場していて恐縮ですが、元寇防塁とは文永11(1274)年の蒙古襲来を受けて幕府が博多湾の海岸線に築いた「石築地(いしついじ)」のことで、「元寇防塁」という名前は、明治後期から昭和前期にかけて活躍した病理学者で考古学者でもあった中山平次郎氏が名付けたものです。


また、この様子を描いた竹﨑季長の絵巻「蒙古襲来絵詞」はとても有名なので、元寇といえば「あの絵」を思い出す方も多いでしょう。




こちらのブログでも「元寇防塁今昔」と題して、これまで2度ほど元寇防塁とその周辺にまつわるお話をご紹介してきました。


1回目は大正9(1920)年に西新の元寇防塁が発見され注目度が一気に上がってからのこと。昭和6(1931)年に国史跡に指定されてからは元寇防塁が福岡市の重要な「観光コンテンツ」の1つとなり、観光絵図に描かれたり、元寇防塁の地を走る「元寇マラソン大会」が開催されたというお話でした。





2回目は、昨年2024年が弘安の役(1724年)から750年に当たる年だったことから、西新周辺で行われたさまざまな元寇関連の記念行事について取材したレポをお届けしました。






元寇防塁が最初に発見されてから今年で112年(大正2〈1913〉年/今津)。

この史実はよほど日本人の心に刺さるのか、この100年の間に幾度かの「元寇ブーム」が起こっています。

その波は現代も続いていて、数々の小説やマンガ、そしてゲームの題材になり、年齢を問わず人気を博しています。


最近では脚本家で演出家、映画監督でもある三谷幸喜さんが主宰する伝説の劇団「東京サンシャインボーイズ」30年ぶりの復活公演が「元寇」を題材としたものと発表され、個人的にはひっくり返るほど驚きました(ちなみに舞台は壱岐だそうです)。



そんな、いつの時代も日本人の心を捉えて放さない(?)「元寇」ですから、防塁が発見された当初は西新町の一大トピックとして盛り上がりを見せていたようです。




西新と元寇とミヤ女史

百道(百道原)など西新に関する地名は絵巻「蒙古襲来絵詞」にも登場しますので、昔から西新の人々は元寇とのつながりを感じていたようです。

実は元寇防塁が発見される前から、すでに西新には「元寇神社」が建立していました。


(福岡市史編さん室撮影)
西新にのこる史跡・元寇防塁。


(福岡市史編さん室撮影)
西新の元寇防塁の隣に建つ元寇神社。



現在も元寇防塁史跡の隣に建つ元寇神社ですが、同社を管理する紅葉八幡宮によれば、その始まりは大正7(1918)年といいます。

そこには西新出身の超有名人であった頭山満も関係していたそうで、元寇神社の建立はその頭山を筆頭に、西新町神道婦人会会長だった藤井ミヤさんら有志による発案と言われています。


国立国会図書館「近代日本人の肖像」より
 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
40代のころの頭山満。




さらにこの藤井ミヤ女史、なんとその翌年の大正8(1919)年には、時期は不明ですが、自身の夢枕に「白馬に跨がり修羅の姿で霊が現れ」たことから、現在の防塁跡がある北側の松林で慰霊祭を行うことにしたのだそうです(『西新―福岡市立西新小学校創立百周年記念誌―』)。

※ この年の6月には西南学院の敷地内で西新町の元寇防塁発見第1号となる防塁の痕跡が見つかっているので、ミヤ女史の夢枕の話はこの発見を受けてのことかもしれませんが、その辺をあまり突っ込むのは野暮というものかも…。



こうして持ち上がった慰霊祭の実現に向け、ミヤ女史たちは西新町の全戸を当たって寄付金を集め、また一部の篤志家から出資を募り、同年の10月20日には盛大な慰霊祭を成功させたのだそうです。

ちなみに大正8(1919)年の西新町の戸数は、『早良郡誌』の記述によれば1484戸だったそうなので、それを1戸1戸まわったと考えると、それだけでも相当な労力だったことが伺えます。


そして翌年の大正9(1920)年10月30日、のちに国史跡指定となる西新町の元寇防塁が発見されることになります。



突然の元寇神社建立から1~2年の間に防塁が発見される…。

しかも大正9年に見つかった防塁は、弘安の役が起こった10月に発見され、さらにその発掘事業は教育勅語下賜三十年を記念して行われた西新尋常高等小学校(現・西新小学校)の式典の一環で、実際に掘り出したのは西新小の児童たちだったというのですから、ここまで来ると、何とも出来すぎたお話のようにも感じてしまいます(心の目が曇っているので)。

この発掘を指揮したのは、当時筑前史談会のメンバーでもあり、今津史跡保存顕彰会会長として今津に元寇の碑を建てた郷土史家の木下讃太郎氏(かつて西新高等小学校の准訓導だったこともある)だったので、発掘自体は「たまたま」の発見ではなく、ある程度計画的なものだったのかもしれませんが。


とはいえ、西新町と元寇にとってこの時期は、まさに劇的な2年間だったということは間違いなさそうです。




元寇記念会による招魂祭

さて、こうして西新でもめでたく元寇防塁が発見されたわけですから、それを地元の皆さんが黙って見ているわけはありません。

実はこの掘り出された元寇防塁は私有地にあったため、当時からその保存について危惧する声が上がっていました。

そこで大正10(1921)年3月には当時の早良郡長である川端久五郎を会長として、早良郡の有志が集まり「元寇記念会」が発足しています。

記念会は主に西新町役場を会場として、その保存方法などについて協議が行われたそうです。





ちょっと話は逸れますが、この元寇防塁が見つかった「私有地」を所有していたのは、明治時代から百道松原の土地をいくつか所有していた代議士の藤金作です。

(『藤金作翁』より)
実は西新と関わりが深い藤金作(88歳の頃)。


藤金作と百道についてはこのブログでもさまざまなところで紹介していますが(それだけ西新町と藤金作は深い関わりがあるわけでして…)、中でも元寇防塁の土地にまつわるお話はこちらで紹介しました。




さらにさらに、ここで登場する郡長の「川端久五郎」の名を覚えている方がもしおられたとしたら、それは相当の【別冊シーサイドももち】フリークですね(いるのか、そんな人)。

川端久五郎は以前こちらで紹介した「百道女子学院」を創設した調須磨(しらべ・すま)さんの伯父で、須磨さんを何かと支援していた人物でした(覚えてます??)。


(『早良郡誌』より)
早良郡長だった川端久五郎。


こちらの話はまだ分からない事も多いのですがとても興味深いので、ぜひコチラをご覧いただければと思います。






閑話休題。

完全に話が逸れました。話は元寇記念会に戻ります。


こうして発足した元寇記念会は、史跡保存のほかにも、大規模な招魂祭の開催を計画しました。

招魂祭は会が発足した翌月に開催されているのですが、これがなかなか大規模なもので、百道松原を会場に、4月20日・21日の2日間にわたって開催されています。




元寇招魂祭の全貌

4月20日の招魂祭の様子は当時の新聞に詳しく紹介されています。

まず、冒頭からいきなり太刀洗飛行場より航空隊の飛行機2機が飛来、3千メートルの高さからの急降下や旋回飛行を繰り広げ祝意を表しました。

来賓は川端郡長のほか、当時の安河内県知事町村長総代、軍からは旅団長や師団長などが臨席。

招魂祭の祭式は鳥飼八幡宮の宮司が執り行っています。


そして注目すべきは壱岐村の村会議員だった土斐崎三右衛門が「文永の役の〝遺族代表〟」(「筑前高祖城主原田種輝二十七代の末裔」とある)として臨席し、謝辞を述べていることです…!


「文永の役の〝遺族代表〟」とはなかなかのパワーワードですが、ここから昭和10年代に行われた元寇にまつわる慰霊祭や招魂祭ではたびたびこうした「遺族」という立場で式に参列する例が見られます。

いまではとても想像できませんが、かつては元寇ももっと地続きなものだったのかもしれませんね。


(『早良郡誌』より)
文永の役の遺族・土斐崎三右衛門。




そして式典に多くの集まった一般参拝者以外に、多くの児童・生徒たちが動員されました。

福岡師範学校のほか、近隣の中学修猷館(現・修猷館高校)や西南学院をはじめ、早良郡内の小学生らなんと約3千人が学校単位で参拝したといいます。


さらに午後からは福岡聯隊第一大隊による大規模な攻防演習が百道松原を舞台に行われ、2日間は大熱狂のうちに幕を閉じたということです。

元寇殉難者のための言わば慰霊祭なのでしょうが、まるでお祭りのようですね。




また「招魂祭」ということから、西新町では各地区ごとに「曳台」と呼ばれる飾り物を用意し、町内を練り歩きました。


新聞記事に残る各地区の曳台は次のようなものが紹介されています。

皿山

亀山上皇の宇佐八幡宮祈願


大西

力士に見立てた日本と蒙古(日本山と蒙古山)が相撲を取り、日本山から蒙古山が投げられる場面


新地

将軍北条時宗凱旋の光景


中西

鎧武者が牛の子を突き殺す場面(牛の子=モウ子=蒙古)


皿山 現・高取2丁目、紅葉八幡宮の西側あたり
大西 現・西新5丁目西側、中西商店街の西側あたり
新地 現・西新2丁目北東側、樋井川と旧西新パレスの間くらい
中西 現・西新5丁目東側、中西商店街の西側あたり



なぜ「招魂祭といえば曳台」?

またまた話はわき道に逸れますが、福岡で「招魂祭」と言えば、もともとは明治28(1895)年11月に行われた、日露戦争の戦病死者のための鎮魂祭がその始まりと言われています。

当時の鎮魂祭は福岡城跡を主会場に歩兵第二十四聯隊主導で行われ、儀式だけでなく競馬や花火、さらには舞台や見世物興行が行われたのですが、そこに町の人々による「曳台」が登場します。

曳台は主に軍事や故事、また武将や合戦などに題材をとり、その場面を人形や背景の書き割りで表現した飾り物です。

町ごとに趣向を凝らした曳台は町々を練り歩き、以後鎮魂祭には欠かせないものとなりました。


この鎮魂祭は明治34(1901)年からは「招魂祭」と名前を変え、また日程も年々変わって、西新の元寇招魂祭が行われた大正10(1921)年には、靖国神社の春季大祭日である4月30日・5月1日の実施となっていました。


こうしたことからも、当時は「招魂祭といえば曳台」ということで、元寇招魂祭でも西新町の人々が曳台を作ったのだと思われます。


また、この年に元寇招魂祭が行われたのが4月というのもちょっと気になります。

元寇に関係する日付と考えると10月や11月に行いそうなものですが(実際に現在の元寇神社の祭礼日は10月20日に設定されています)、この頃はもしかしたら招魂祭にあわせて4月に実施したのかも…と思ったのですが、実際のところはよく分かりませんでした

(後で出てきますが、今津の招魂祭は逆に10月から4月に日程を変えていますし…謎です)




いったん整理しましょう

ここまで見て来た元寇発見とそれにともなう元寇ブームですが、時系列で見ると次のようになっています(国史跡指定まで)。

ここでいったん整理しておきましょう。


大正2年/1913年
7月 
今津の元寇防塁と蒙古塚が発掘される

10月
今津の元寇防塁等の史跡を保存・顕彰する目的で記念碑建設の話が持ち上がり、費用提供の呼びかけが始まる
大正3年/1914年
10月20日
今津で元寇記念招魂祭を開始
※大正15年からは4月20日に改め「元寇記念祭」として実施
大正4年/1915年
4月
今津の記念碑建設工事開始

11月
記念碑「元寇殲滅之処」が完成
大正5年/1916年
4月
今津の記念碑建設工事開始

7月1日
記念碑除幕式典開催
大正7年/1918年
元寇神社が建立(頭山満や藤井ミヤ女史をはじめとする有志の発案)
大正8年/1919年
(日時不明)
藤井ミヤさん(紅葉八幡宮宮司宅/西新町神道婦人会会長)の「枕上に或夜白馬に跨がり修羅の姿で霊が現れ」る

6月
西南学院の敷地内で元寇防塁と思われる遺構が見つかる

10月20・21日
西新町で「元寇殉難者招魂祭」を執行、以後毎年祭典を行うようになる

10月26日
元寇をテーマにした活動写真の制作が「護国活動写真育成会本部」(東京)によって企画され、福岡でもロケーションが行われるとの新聞報道が出る
大正9年/1920年
10月30日
西新町で元寇防塁発見(教育勅語下賜三十周年記念/西新尋常高等小学校高等科男子児童による発掘)

11月20日
元寇をテーマにした活動写真『国難』封切
大正10年/1921年
3月
元寇防塁保存のため早良郡有志により元寇記念会が発足(会長:川端郡長、西新町役場楼上に仮事務所を設置)

4月20・21日
元寇防塁前で元寇殉難者招魂祭を開催(こちらを第1回とカウント)、以後祭日を10月に移して毎年実施
大正15年/1926年
西新町に元寇殉難者を祀る「護国神社」の建設案が持ち上がる
昭和6年/1931年
西新町の元寇防塁が国史跡に指定される



非常にざっくりですが、こんな感じでしょうか。


…おや? まだこれまでにご紹介していない話がいくつか出て来ましたね。

ご紹介したように、西新町では(比較的)平和に盛り上がった元寇ブームなのですが、その一方で、元寇論争はさまざまな騒動(ケンカ)を巻き起こしていたようなのです。



そのお話については、またいずれ「元寇防塁今昔④」としてご紹介できればと思います。





(福岡市史編さん室撮影)



【参考資料】

・清原陀仏郎『藤金作翁』(非売品、1935年)
・福岡県早良郡役所編『早良郡誌』(名著出版、1973年)
・『西新―福岡市立西新小学校創立百周年記念誌―』(福岡市立西新小学校創立百周年記念会、1973年)
・福岡市史編集委員会編『新修 福岡市史 民俗編一 春夏秋冬・起居往来』(福岡市、2012年)
・新聞記事
・大正8年6月25日『福岡日日新聞』朝刊4面「福岡百道松原に元寇防塁発掘 西南学院敷地内の史跡 高四尺五寸幅一丈二尺五寸の石塁」
・大正8年10月26日『福岡日日新聞』朝刊7面「元寇襲来活動撮影」
・大正9年10月31日『九州日報』朝刊5面「元寇防塁を掘出した 昨日の記念式挙式の記念に昨日見事なものを発掘」
・大正10年3月17日『福岡日日新聞』朝刊3面「元寇防塁保存の為記念館(会ヵ)を組織」
・大正10年4月19日『福岡日日新聞』朝刊7面「元寇殉難者招魂祭 明日百道浜にて執行 二機の弔魂飛行」
・大正10年4月20日『九州日報』朝刊4面「元寇招魂祭の造り物の意匠 各町の肝煎り 中々に素晴らし」
・大正10年4月21日『福岡日日新聞』夕刊2面「百道の元寇祭 防塁前に殉難招魂祭式 早良全郡の賑ひ」

・ウェブサイト
・文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/
PARCO STAGE https://stage.parco.jp/
国立国会図書館「近代日本人の肖像」  https://www.ndl.go.jp/portrait/

・その他
・「元寇殲滅之處」碑文(福岡市西区今津)
・「元寇神社由緒」(元寇神社御朱印)





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Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル 

※誤記を修正しました(2025.4.12)