2020年7月13日月曜日

【企画展示室1】戦国時代の博多展9 “筑前表錯乱” ~一五五〇年代の動乱 7月14日(火)~9月13日(日)


信長、桶狭間で勝利。その頃、博多は?

永禄三年(一五六〇)、織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、隣国を平定し京都に進出していく大きなきっかけとなりました。この頃、九州においても戦国時代の大きな転換期を迎えます。
応仁・文明の乱(一四六七~一四七七)以降の約百年間を戦国時代と呼びますが、九州では室町幕府の威令が及びにくく、南北朝の動乱から断続的に戦乱が続きました。幕府が九州を治めるために設置した九州探題は十五世紀初頭に少弐氏との対立で力を失い、探題渋川氏を支援する形で周防山口を本拠とする大内氏が九州に進出し、筑前・豊前両国を治め、肥前国にも影響を及ぼしました。これより北部九州の政情は、大内・渋川氏と、大友・少弐氏との二つの勢力が対立する状況で推移します。
長らく続いた両勢力が相争う状況は、一五五〇年代のおよそ十年間を経て新たな体制へと変化を遂げます。最大の要因は、一方の雄であった大内氏が滅ぶことです。天文二十年(一五五〇)、大内義隆が重臣陶晴賢の謀反により自害、後継者として大友義鎮(宗麟)の実弟義長が迎えられますが、天文二十四年(一五五五)の厳島の戦いで晴賢が敗死、二年後の弘治三年(一五五七)、義長も毛利元就に攻められ、大内氏は名実ともに滅びました。この過程で大友氏は次第に勢力を伸ばします。大内氏滅亡後、筑前・豊前・肥前三ヶ国において戦乱が激化し、少弐・渋川両氏は歴史の表舞台から姿を消し、永禄二年(一五五九)には大友氏に敵対する肥前の筑紫惟門により博多は襲撃され、焼き打ちに見舞われます。大友氏は同年末までに敵対する勢力を圧倒し、以前から治めていた豊後・筑後・肥後に加え北部九州六ヶ国を支配下に収めます。戦後、大友氏による博多復興が行われ、御笠川の流路を変更し南側に房州堀を築き、博多は周囲を水で囲まれた防御性を高めた都市に変貌しました。本展では、館蔵の古文書を紐解きながら、戦国時代の転換期となった時代のうねりを紹介します。

解説リーフレット

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