2020年11月4日水曜日

【ふくおかの名宝】鑑賞ガイド⑩ ある博多人形伝説

 小島與一(こじまよいち:1886~1970)は大正~昭和期を代表する博多人形師で、「名人」といえばこの人、というほど有名でした。

14歳で白水六三郎(しろうずろくさぶろう)に入門して近代的な人形制作技術を身につけ、1925年(大正14)にフランス・パリで開かれた国際博覧会では「三人舞妓(さんにんまいこ)」が銀牌に輝くなど、博多人形が郷土玩具から美術工芸品へと生まれ変わる動きを牽引しました。

その人柄は天真爛漫で多くの人々に愛されるいっぽう、浪費癖や遊興癖など破天荒なエピソードに富み、火野葦平(ひのあしへい)の小説「馬賊芸者(ばぞくげいしゃ)」のモデルにもなりました。

そんな與一が人形「初袷(はつあわせ)」を制作したのは1914年(大正3)のこと(以下は原田種夫著『人形と共に六十五年―小島与一伝―』にもとづく逸話です)。

当時與一は博多券番の芸妓(げいこ)であったひろ子に惚れ込み、駆け落ち未遂事件まで起こしたほどでした。その後も稼いだ金はすべてひろ子のためにつぎ込む始末で、仕事も手につかない日々が続いていました。

駆け出しの人形師であった與一には、ひろ子を身請(みうけ)するだけの経済力がなかったのです。

23歳当時の小島與一の写真
小島與一(23歳当時)

ひろ子の写真
ひろ子

そんな折、與一は福岡市役所で開かれた品評会に出品するよう師匠から勧められ、ひろ子をモデルにすることを思いつきます。彼はこのとき料亭の2階にひろ子を連れ出し、3日間かけて制作に打ち込んだといいます。 ちなみに、「初袷」という名は、この人形が縞模様の袷(あわせ)の着物を着ているからですが、袷は冬用の裏地のある着物なので、表地と裏地が合うという意味で二人の逢瀬のことをかけたネーミングかもしれません。

小島與一作 博多人形「初袷」
小島與一作「初袷」


こうして会心の作品をモノにした與一は品評会場に向かいますが、あまりにも急いでいたため中島橋の欄干にぶつけて人形の手を折ってしまい、何とか修理をして出品に間に合わせました。

「初袷」の出来は素晴らしく、審査員たちは皆これを一等に推しましたが、審査員の一人であった師匠の白水だけは修理の痕跡を見破り、あえて2等に落としたといいます。それは與一が女色に溺れ、人形師としての研鑽を怠っていたのを戒める厳しい愛の鞭でした。

こうして與一は再び気持ちを入れ替えて人形作りに打ち込み、2年後には周囲の人々の手助けもあって與一とひろ子はめでたく結婚することが出来たということです。

♪~博多へ来るときゃ一人で来たが 帰りゃ人形と二人連れ~ 
〔正調博多節〕より

 (学芸課 末吉)

小島與一作の博多人形「初袷」は、福岡市博物館開館30周年記念展「ふくおかの名宝」で展示中です。 
「ふくおかの名宝」では、原田嘉作平の博多人形「夕映え」を石膏型と一緒に展示しています。また、企画展示室で開催中の新収蔵品展では、白水八郎作の博多人形「熊野」を展示していますので、あわせてご覧ください。 


 

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