太平洋戦争末期の昭和20年(1945)6月19日。この日の深夜から未明にかけて、福岡市にアメリカ軍の長距離爆撃機B-29の大編隊が飛来し、1300トン以上の大量の焼夷弾を投下しました。天神、中洲、博多など市内の中心地は焼け野原となり、特に博多部の奈良屋、冷泉、大浜校区、福岡部の大名、簀子、警固校区は大きな被害を受けました。
福岡市は6月19日を「福岡大空襲」の日として戦災者、戦没者、引揚死没者の追悼式を行っています。博物館では毎年6月19日を含む会期で企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期の福岡のひとびとのくらしを紹介しています。今年は、新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言にともなって、6月19日に企画展示を見ていただくことはできませんでしたが、6月22日(火)からは皆さまにご覧いただけるようになります。
米軍が撮影した空襲後の福岡市の空撮写真。市街地には大きな建造物が残るだけで、多くの建物が焼失したことがわかります。この写真は常設展示室にパネルとして展示しています。
企画展示「戦争とわたしたちのくらし30」、今回のテーマは「モノ不足」です。戦争の拡大、長期化は、石油や鉄などの資源の輸入停止につながり、国内にある物資を活用することが必要になりました。物資を軍事に優先的に配分するため、直接戦闘に参加しない「銃後」の国民は、不用な金属を回収したり、金属の代わりに木材、竹、陶器などで代用した「代用品」を使用したりするなど、さまざまな困難に直面しました。
上から)缶詰の代用品である陶製の「代用食」容器、陶製ボタン、竹製ヘルメット
展示で要注目なのは、昨年度博物館に寄贈された新規公開資料、米軍兵士が撮影した終戦後の福岡の写真です。縁を結んだのは、SNSでした。昨年の6月19日に展示の様子を投稿したところ、これを見た海外の方からご連絡をいただき、寄贈していただけることになったのです。インターネットで世界とつながるって素敵ですね。さて、展示の話に戻すと、寄贈された写真のうち、今回は昭和20年(1945)から21年の福岡のものを公開します。空き地が多く残る天神地区や、米軍に接収された軍需工場など、これまで知られていなかった終戦後の福岡の姿を知ることができます。
雑餉隈にあった軍需工場。航空機の部品が大量に残っています。昭和20年12月撮影。戦時中、銃後の国民から回収された金属類は、軍需品に使われました。
板付基地から廃材をもらって帰るひとびと。昭和20年12月撮影。戦後もモノ不足が続きました。
これらの写真は、戦争とともに進行した「モノ不足」が、戦争が終わってもすぐに解消しなかったことを教えてくれます。空襲で被害を受けた街の復興と、ひとびとのくらしの復旧には、もうしばらくの時間が必要でした。
今日という日が、福岡大空襲に思いを馳せ、戦争と平和について考える機会になれば幸いです。
ではでは。