9月15日に始まった浄土九州展もようやく最終日を迎えました。
おかげ様で2万人を越えるお客様にご覧いただき、感謝の気持ちでいっぱいです。個人的には奈良から両親が見に来てくれて少しばかり親孝行ができたのがよかったのですが、博多駅から博物館まで来るバスが分からず、よたよたの珍道中だったという話を聞くにつけ、父も母も老いたなあ・・としみじみ感じます。
今回は、人の死と直接関係する浄土教美術がテーマでした。お客様も両親と同じ年代の方が多く、やがてあの世に旅立つことを意識して見に来られた方も少なくなかったのではと思います。ギャラリートークでもそれを前提にいろんな話をしましたが、阿弥陀来迎図(らいごうず)の前では人を飛行機にたとえたこんな話をしていましたので、最後にご紹介しておきます。
人間は生まれたときは自分と他人の区別がつきません。だから世界と自分は一体で幸福なのです。でもやがて「パパ」「ママ」という言葉を覚えた瞬間に、おそらくは自分と他人との区別ができ、成長するとさらに多くの言葉を覚え、世界と自分はどんどん離れていきます。つまり存在として寂しくなるのです。寂しいから家族や恋人や友だちと関係(愛情でも憎しみでも)をつくらないと不安で生きづらいのです。スマホが手放せないのも、スポーツ観戦に熱狂して一体感を味わうのも同じことかもしれません。
生きるということは飛行機が離陸して大地と離れるようなものだから、そもそも不安定でいつ墜ちるかわからないような危険を潜在的に抱えていることになります。そして飛ぶ距離や高さは人それぞれでも、必ずその飛行機は燃料がつきて再び着陸するときがきます。
♪「当機はまもなく高度を下げ、最終の着陸態勢に入ります。いまいちどシートベルトをご確認ください・・」
そのとき暗闇や霧の中でも手動操縦で着陸できるといいのですが、誰もが初めての経験だし普通の人はそんなこと無理でしょう。そこで飛行機を空港に導く誘導灯や管制レーダーが必要になってきます。
念仏によって阿弥陀如来と結ばれるという浄土思想は、結局のところ「阿弥陀空港」の管制にすべてを任せて自動操縦で安全に着陸する、つまり安心して人生を終える一つの方法だと思うのです。もちろん空港は阿弥陀空港だけではなくキリスト国際空港や観音空港、ご先祖様空港などいろいろあるわけですが。
いずれにしても安全に着陸できることが分かっていれば、フライト(人生)も楽しくなりますよね。
てなわけで、5月から続けてきたこのブログもこれで最後です。恥をさらしていろいろ書きましたが、同業者をはじめ多くの方々から応援の声をいただきました。この場を借りてあつくお礼申し上げます。 m(_ _)m
Posted by: 末吉(浄土九州展担当学芸員)