2020年9月1日火曜日

〔連載ブログ6〕《WEB限定公開》「避病院」の図面

こんにちは。

特設展示「やまいとくらし」の連載ブログにお越しいただきありがとうございます。

今回は、WEB限定公開という形で、展示に関係する資料のひとつ「避病院」の図面(館蔵)を紹介します。明治時代に寺社建築の図面を数多く手がけた亀田吉郎平(かめだ・きちろうべい)に関する資料群に含まれていた資料です。特設展示で陳列する予定でしたが、スペースの関係で陳列を見送ることになったので、ブログで解説させていただきます!!


「避病院」の平面図。患者の状態に応じて36室の病室を使い分けるしくみを採用。


「避病院」とは、伝染病患者を他と隔離して収容し治療することに特化した病院です。
明治10年(1877)以降、主にコレラの感染対策として、全国に設置されるようになりました。
 

コレラはコレラ菌で汚染された水や食物を摂取することで感染する伝染病で、19世紀に世界的に流行しました。日本にも江戸時代の終わりから断続的に感染者があらわれ、明治10年から13年にかけては全国各地で大流行しました。

 

博物館に残る「避病院」の図面は、筑紫郡八幡村大字高宮(現 福岡市中央区)に建設する予定だったもののようです。実際に高宮に常設の「避病院」が建設されたという記録は、今のところ見つかっていません。院内の部屋は、並列した6つの病室と、両端の看病人の部屋に分かれています。6つの病室は右から順に「快復期患者室」、「軽症患者室」、「病室」(2室)、「重症患者室」(2室)と割り当てられています。患者の状態によって収容される病室が異なる仕組みです。「避病院」が、患者の隔離を徹底した施設であったことがわかります。

 

福岡地方における「避病院」は、明治12年(1879)、コレラ流行の中で那珂郡千代村堅粕東松原(現 福岡市博多区)に病室を設置したことに始まります。その後、コレラや赤痢の流行にともなって施設を増設していきました。しかし、この場所には福岡医科大学(現 九州大学医学部)が建設されることとなり、明治43年(1910)に「避病院」は福岡市内桝木屋に移転しました。これを荒津病院と呼びます。荒津病院は、市内に伝染病患者が発生した場合、自宅療養を許可された人以外、全ての患者を受け入れることになりました。大正時代後半の「スペイン風邪」の大流行の際にも多くの患者を受け入れました。

 

ちなみに、特設展示第1章「伝染する病に向き合う」(721日~830日)では、祝部至善(ほうり・しぜん)が昭和時代戦後に描いた博多の風俗画のうち、「コレラ患者の輸送」を展示しました。

コレラ患者の輸送

この絵の通り、コレラに感染した者が見つかった際は、警察官と市役所の職員が先導して、感染者を担架にのせて運びました。画面の下部には筆書きで「松原の避病院ゆき」と書かれています。「避病院」は、伝染病の感染拡大を防ぐための施設として、人びとの記憶に残っていたのです。
(学芸課 野島)


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