特設展示「やまいとくらし」、連載ブログにおこしいただきありがとうございます。7回目の今回は考古分野担当の新人学芸員、朝岡がお送りいたします。
さて、唐突ですが当館常設展示の一角にある↓の土器。上段と中段にそれぞれ文様が刻まれているようです。何かの形を表したもののようですが、みなさん、何に見えるでしょうか。
写真では一部しか映らないため、図にしてみましょう。
今回は中期展示「みえないものと生きる」に関連しながら、この図像の謎にも迫っていきたいと思います。
さて、上に載せた土器は福岡市博多区の比恵遺跡群(ひえいせきぐん)でみつかった弥生土器です。約1900年前のもので、当時は中国から多くの文物が流入してくる時期でした。金印「漢委奴国王」を奴国王が中国・後漢の皇帝から贈られた時期にも近い頃です。
通常、土器は使えなくなったものが捨てられて埋まるので、バラバラに割れた状態で出土します。しかし、上記の壺はほぼ完全な形で井戸から出土しました。また、弥生時代の人が井戸を埋める途中で入れたような状況で出土しているため、井戸を使用しているときに不注意で落っことしたものではなく、井戸を廃棄する際の祭りごとに使われたものなのでしょう。壺の形をみると、口が狭くなっているため、固形物を入れたとは思えません。おそらく水、もしくは酒などを入れて井戸の神様に供えたのではないでしょうか。
井戸の信仰については、現代にも通じるものがあります。遺跡の発掘調査では近現代の井戸が見つかることもありますが、調査開始時に、表土の掘削で使うバックホー(ショベルカー)の操縦士にその井戸を掘ってもらうように指示すると「古い井戸に触ると絶対に悪いことが起きる」と言って嫌がられます。調査後に工事に入る建築土木業者さんからも、工事中に井戸を壊したらいろんな悪いことがあったという話をよく聞きます。もしこれを読んでいるあなたがRPGゲーム好きであったなら、何気なしに村を探索していると不意に井戸から魔物が現れてやられてしまったという経験もあるでしょう。日本の神話ではいくつかの世界が上下に重層的に存在しているという世界観が示されることもありますので、井戸は地下の別世界に繋がっており、何か良くないものも上がってくるという思想が生まれたのでしょうか。
また、発掘調査でみつかった近現代の井戸からは、水道管に使われるような塩化ビニル管などの筒状のものが縦に刺さった状態でみつかることが多々あります。これは底にいる井戸の神様が息をできるようにと井戸を埋める際に突き刺すものだそうです。井戸を埋めた場所の地盤が弱くならないようにと、水抜きの意味合いもあるのだとか。遺跡からは中世の井戸に竹が刺さった状態で埋められていた事例が発見されることもあり、こうした風習が古くから行われていたことがわかります。
話は少し変わりますが、「水」に関わる神話として有名なものにスサノオのヤマタノオロチ退治があります。日本書紀(今年は完成1300周年!)などの記述によると、高天原を追放されたスサノオが出雲の国で泣いている老夫婦と娘に出会います。話を聞くと、8人いた娘が次々にヤマタノオロチ(8つの頭がある大蛇)に喰われ、残る一人になってしまったというではありませんか。そこでスサノオはその娘を嫁にすること条件に、オロチ退治を引き受けます。
スサノオはまず老夫婦に強い酒を準備させました。そして、やってきたオロチにそれを飲ませ、酔い潰し、眠ったところに切りかかるという方法で(若干卑怯な気もしますが)倒すわけです。ちなみにこのときにオロチの尾から出てきたという太刀が、三種の神器のひとつである天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)になります。
さて、このヤマタノオロチ。正体は出雲を流れる斐伊川(ひいがわ)というのが有力な説となっています。その根拠としてはオロチ退治にまつわる伝承地が斐伊川流域に集中していることや、オロチの外見は頭と尾が8つずつあり、長さが谷8つ、峰8つに及ぶとされ、多くの支流が合流しながら流れる斐伊川に合致することなどがあります。また斐伊川は暴れ川で、1873年(明治6)の水害の際、場所によっては高さ6mに及ぶ土砂が堆積し、住民が食糧難に陥ったそうです。考古学においても古墳時代に各地で大規模な水利事業が行われるようになることが明らかにされており、オロチ退治の伝承は、古代において地域の有力者が治水灌漑事業によって斐伊川を制御したことがモデルと考えられます。なお、スサノオと結婚した娘はクシナダヒメといい、別名はイナタヒメ(稲田姫)。農耕を象徴する神であるという説もあります。(※参考文献 山陰中央信報社2012『古事記1300年 神話のふるさと~山陰のゆかりの地を訪ねる~』)
今回の「やまいとくらし」中期展示では古墳時代の神マツリの道具を展示しています。手のひらに乗るほど小さなサイズの器などは日用の食器としては使えないため、それらがまとまって出土した折には何らかの祭りごとの痕跡と考えるほかないわけです。当時の川や水路から出土することもあり、農業開発に伴う水辺での祭祀が行われていたのでしょう。あるいは神話のように川を蛇神や龍神に見立て、酒や剣(あるいはその模造品)を用いる祭りごとが行われていたかもしれません。水に関わる龍蛇が登場する古代の神話は多く、少なくとも、水の神に関する信仰が古墳時代まで遡ることは間違いなさそうです。
奥の2つの土器は高さ5cm程度で、日用の食器とは考え難い。
新型コロナウイルスが猛威を振るう昨今。筆者も某博物館でお話しする予定だった歴史講座が中止になってしまいました(実は今回のお話はその内容を一部含みます)。考古遺物からは具体的な祭祀の所作や信仰の内容はわかりませんが、古代の人々が自然などの“みえないもの”を敬い、そして同時に畏れてきたことはわかります。そう、常に私たちは“みえないもの”と共存し、ともに生きてきました。もしかすると、今を乗り切るヒントも身近なところにあるのかもしれません。(学芸課 朝岡)
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