11月19日、福岡教育大学附属福岡小学校3年生の皆さんが社会科学習のために来館されました。
今回は、【増刊号】としてその時の様子をご紹介したいと思います。
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この日は3年生17名の皆さんと先生方2名が来館されました。
授業のテーマは「ともに描こう! 未来の福岡市~福岡市の移り変わり~」。
まちの移り変わりについて、現在まさに開発真っ只中の「天神地区」と、約35年前に埋立地として新しくつくられた「シーサイドももち」を比較し、交通・公共機関・土地利用の時期による違いを捉え、福岡市や人々の生活の変化について考えるという授業です。
まずは今日の授業の説明から。 |
今回は「シーサイドももち」が題材ということで事前に先生から相談があり、書籍『シーサイドももちー海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来ー』を下敷きに、まちの開発やその後の人々の暮らしに焦点を当てた構成で、座学と見学を行うことになりました。
まずは30分ほどの座学からスタートです。
シーサイドももち地区は埋立地としてつくられたまちですが、時代をさかのぼるとそこには白砂青松の海岸があり、海水浴場として人々が賑わっていた時代がありました。
よかトピア通りには「百道海水浴場の碑」があります。 |
ですが、1970年代になると水質の悪化が進み、ついに海では遊ぶことができなくなってしまいます。
「当時は海に直接下水などを流していたこともあった」というお話をした際には「信じられない!」といった悲鳴にも似たリアクションが。
現在の常識からはとても考えられないことですよね。
さらにはこの時期、博多湾内では少しずつ埋め立てが進んでおり、その影響で潮の流れが変わったことで百道の海岸は浸食で削られ、逆にガレキや岩が流れ着く有様。
かつての美しい砂浜は面影もなくなってしまいます。
また、そこには海岸線で生計を立てていた人々も存在していました。
海浜にあった旅館や休憩所で組織された海水浴場組合や、百道の沖合で養殖を行うノリ漁師の方々です。
問題が山積み…どうしよう?? |
そこで福岡市は1976年の「福岡市総合計画」の中で、次のことを決めました。
・新しい住宅地をつくる
・場所は百道・地行など
・海を埋めて場所をつくる
・緑をたくさん植える
・元の海辺のようにする
※百道を埋め立てて住宅地にすることは1960年の「福岡市総合計画」でも触れられています。
こうして計画された埋め立て工事が進む中、1984年には当時の進藤一馬市長が市制100年を記念した事業として、この埋立地を会場として博覧会を開催することを明言しました。
当時はまだ名称がなく「福岡国際博覧会」と仮称が付けられていましたが、これがのちの「よかトピア」です(正式名称は「アジア太平洋博覧会―福岡’89」)。
また博覧会開催にあわせて都市高速道路などの整備も進みました。
(福岡市博物館所蔵) お祭りが集まったような賑やかさ! |
一方で、総合計画にもあった「元の海辺のようにする」という目標については、単なる埋め立てではなく、そこに人工海浜をつくり美しい砂浜を再現することに。
さらには百道の代名詞でもあった美しい緑の松原を再現するため、有志の方々によって海浜沿いに松原が植えられました(はかた夢松原の会)。
これを記念した碑がシーサイドももち海浜公園の一番西側の一角に建てられており、松原は現在でも青々とした美しさを保っています。
海岸沿いに建つ「夢松原」の碑。 近くには協賛された方々のお名前を記した陶板も。 |
こうして新しいまち「シーサイドももち」が誕生しました。
当初は住宅地として計画されていましたが、最終的にはそれだけでなく、人々が働く場所や学ぶ場所、文化施設や病院、救急センターなどが集まる場所となっています。
…といったところで座学は終了。
質問や意見も飛び出し、皆さんメモを取りながら真剣に聴いてくれました。
次は常設展示室に移動です。
常設展示室では、先ほど学んだ「よかトピア」について、その会場の模型を見ながら内容をおさらい。
現在の姿を思い浮かべながら、博覧会会場の様子をみんなで想像します。
みんな真剣です。 |
博物館内での学習はここまで。
最後に実際にシーサイドももちのまちの中にある「よかトピア遺産」を探しに、福岡タワー周辺に向かいました(余談ですがこの「よかトピア遺産」というワードは、以前発行した広報誌『市史だよりFukuoka』22号〈2016年〉でシーサイドももちを特集した際に市史編さん室が提唱したと言っても過言ではない!…と思っています ^^; )。
お話と模型の内容を頭に入れて、実際にまちへ。 |
途中、ついでに博物館敷地の工事も少し見学。 |
タワーが見えてきましたよ。 |
まず見つけたのは巨大な「よかトピアマーク」。
これには皆さんも興味津々です。
足下にあるよかトピアマークを確認。 |
経年でちょっと一部欠けていますが、こんな感じです。 |
そしてその周りに立つ「インドの神像」。
こちらは元々あった場所から移動しているものの、よかトピアの際に実際にインドからやってきた神様たちです。
周囲に居並ぶ神様を見学。 ちなみにみんなが見ているのは「ガネーシャ」ですよ。 |
最後はちょっとニッチなよかトピア遺産として、福岡タワー前にある時計もご紹介。
これはちょっと言われないと気付かないかもしれませんね。
実はこれも立派な「よかトピア遺産」です。 |
以上、約1時間半ほどの授業を終え、最後はタワー前で質問タイム。
次々と質問の手が挙がります。 |
皆さんからは続々と質問が飛び出し、中には「なぜ新しいまちを作ったからといって博覧会をやる必要があるの?」といった質問も。
考えてみると、これまで福岡市は明治時代からまちの開発と博覧会は切っても切れない関係でした。
明治になり、まず東中洲(岡新地)の開発後に開催された「第5回九州沖縄八県連合共進会」(1887/明治20年)と、その後に福岡城の外堀の一部を埋め立てた広大な土地(天神周辺)を使って行われた「第13回九州沖縄八県連合共進会」(1910/明治43年)で天神・東中洲という、福岡の中心地の開発が進みました。
第13回共進会を契機に市内路面電車が整備された明治通りは、現在でも福岡市の大動脈となっていますよね。
その後も須崎裏(現在の須崎公園付近)と西公園下の整備とともに行われた「福岡工業博覧会」(1920/大正9年)、大濠公園の整備後に開催された「東亜勧業博覧会」(1927/昭和2年)、博多港の築港工事完成を記念して沿岸の埋立地(現在の中央区長浜・舞鶴周辺)で開催された「博多築港記念大博覧会」(1936/昭和11年)など、枚挙に暇がありません。
余談ですが、西新でもかつて「大東亜建設大博覧会」(1942/昭和17年)が開催され、西新町の発展に勢いを付けました。
シーサイドももちでの博覧会開催もそのような流れの一つだったとも言えそうですが、現代を生きる子供たちには「わざわざ? なぜ??」という感想をもった子たちも多かったようです。
博覧会「よかトピア」が開催されてもう35年が経ちました。
今回学んだ3年生の皆さんのお父さん・お母さん世代でも、その記憶はあまり…というか全然知らない…という方が多いかもしれません(ということはおじいちゃん・おばあちゃん世代の思い出なんですね…)。
そんな皆さんからすると、この場所がかつては海だったというだけでも驚きの事実でしょう。
この学習から皆さんが何を感じてもらえたか、われわれとしても気になるところですが、皆さんの新鮮な反応を見ながら何も数百年、数千年とさかのぼるだけがまちの歴史ではないということを改めて実感した機会となりました。
※ クレジットのない写真はすべて福岡市史編さん室撮影。
福岡市史編さん室では福岡市域の歴史をより身近に感じてもらうために、『新修福岡市史ブックレット・シリーズ』を刊行しています。
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[Written by かみね]
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