2024年12月6日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈098〉うちの球場は屋根を開けたり閉めたりできるんです ― 福岡ドームをつくる(その1)―

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。









〈098〉うちの球場は屋根を開けたり閉めたりできるんです ─ 福岡ドームをつくる(その1)―


このブログの〈092〉〈096〉では、映画『ガメラ 大怪獣空中決戦』(大映、1995年3月11日公開)の舞台に、福岡ドーム(現在の「みずほPayPayドーム福岡」)が抜擢された話を紹介しました。


撮影当時は、福岡ドームがシーサイドももちにできて間もないころでした。





1989年9月にアジア太平洋博覧会(よかトピア)が閉会し、その駐車場跡地にプロ野球「ダイエーホークス」の本拠地球場(専用球場)、福岡ドームの建設がはじまりました。


設計がはじまったのは1990年8月

工事は翌年4月からで、1993年3月に完成しています。



福岡でとても広いことを表す単位はドーム○個分ですが、これはもちろん東京ドーム(建築面積4万6755㎡)ではなくて、この福岡ドーム(現在の「みずほPayPayドーム福岡」)の面積での計算。

では、実際の数字はどれくらいかというと、敷地面積8万4603㎡(このうち建築面積は6万9130㎡)という巨大さです。


その大きさだけでなく、屋根が動いて開くという超絶メカニカルな福岡ドームの工事が、設計から完成まで33か月、施工はそのうちのわずか24か月(2年)しかかかっていないことには驚くばかりです。




この福岡ドームで初のプロ野球パ・リーグの公式戦(ダイエーホークスvsオリックス・ブレーブス)がおこなわれたのは、1993年の4月17日のことでした。


(福岡市史編さん室撮影)
現在の「みずほPayPayドーム福岡」。




ダイエーが南海からホークスを買収し、フランチャイズを福岡に移したのは1989年のシーズンからです。


当時のダイエーホークスの監督は杉浦忠さんで、専用球場は平和台球場(福岡市中央区/収容人数3万3900人)。

4月15日に開幕したリーグ戦の成績は4位(59勝64敗7分)でした。


このシーズンを最後に主砲の門田博光選手がオリックスに移籍し、「ドカベン」の愛称で人気を集めた香川伸行選手が引退、さらには南海時代からチームを率いてきた杉浦監督が勇退されるなど、移転に続いてチームは大きく変化していきました。


(個人蔵)
三宅一生さんがデザインしたダイエーの初代ユニフォーム(左がホーム、右がビジター)と「ガッチャマン」ヘルメット(のピンバッジ)。写真では右の方が赤みが強いですが、実際のユニフォームはもっと落ち着いたベージュ地です(のちにグレーにマイナーチェンジ)。1989~1992年に使用されたデザインで、縦縞とオレンジの差し色がかっこいいです。なお、グラウンドで着るジャンパーはオレンジ(ホーム)と緑(ビジター)があって、背中の鷹マークが特徴的でした。このジャンパーは今でも福岡のまちでは普段使いで着られている方をお見かけしたり、ソフトバンク公式から復刻販売されたりしていて、ファンの人気アイテムになっています。 




翌1990年は田淵幸一監督の新体制で試合にのぞみましたが、バナザード、アップショーの退団などもあってふるわず、6位(41勝85敗4分)。


つづく1991年・1992年も5位(53勝73敗4分)・4位(57勝72敗1分)とBクラスを抜け出すことはできませんでした。


その一方で、この間に門田選手がホークスへ復帰したり、阪神から移籍した池田親興投手がストッパーに転向し成績を残したり、佐々木誠選手が首位打者・最多安打・最多盗塁を獲得して活躍したり、若田部健一投手・浜名千広選手が初シーズンを迎えたりと明るい話題も多く、福岡に球団が戻ってきたことを感じさせてくれました。




そうして今後の活躍に十分期待をもたせるなかで、新しい本拠地球場の福岡ドームが完成しました。


(地理院地図Vectorに加工)


福岡ドームでの初シーズンにあわせて、ユニフォームもメジャーリーグのシカゴ・ホワイトソックスのようなシンプルでクールなイメージのものに一新されています。


(個人蔵)
白がホーム用、黒がビジター用のユニフォーム(のピンバッジ)。
1993~2004年に使用されました。


(個人蔵)
ダイエーホークスのステッカー(時期は不明)。
デザインには新しいユニフォームと一緒に福岡ドームも描かれています。



1993年4月17日、福岡ドームで迎えたリーグ初戦。

新しい指揮官、根本陸夫監督のもとで戦ったダイエーホークスは、オリックスを1対0でやぶって好発進を遂げました。


ただ、シーズンが終わって見ると、6位(45勝80敗5分)と残念な結果に…。



これには新球場の影響もありました。


平和台球場が本拠地だった前年(1992年)は、シーズンを通してチームのホームランが139本あり、これはリーグ3位の数でした。

なかでもブーマー選手が26本、佐々木誠選手が21本、藤本博史選手が20本、山本和範選手が18本、吉永幸一郎選手が11本と好成績を残しています。


ところが、福岡ドームに本拠地を移したこの年(1993年)のチームのホームランは75本で、リーグ最下位の数となりました。

ブーマー選手が前年で退団したのも要因ですが、藤本選手は13本、吉永選手は12本、山本選手は12本でした。

なかでも佐々木選手は7本にとどまっています。


平和台球場が両翼92m・中堅122mだったのと比べて、当時の福岡ドームは両翼100m・中堅122mと広く、さらには外野フェンスも高いため、ホームランが出にくい球場といわれていたことが数字となってあらわれてしまいました。



それでも、この年のドラフトで小久保裕紀選手(現 ソフトバンクホークス監督)の入団が決まり、オフシーズンには西武ライオンズから秋山幸二選手が移籍して、来シーズンこそはとファンの応援はますます熱いものになりました。


ホークス戦の入場者数を見てみると、1992年には167万7000人だったのが、福岡ドームに移転した1993年は246万2000人に、その翌年は252万5000人に伸びています。(ただ、このあとしばらくは成績があがるまで低迷してしまうのですが…)


(NPBウェブサイトで公開されている統計データをもとに福岡市史編さん室が作成)



戦績も1994年は秋山選手が24本のホームランを放つなど、期待通りに活躍。

懸念されたホームランの数は、吉永幸一郎選手19本、山本和範選手11本、藤本博史選手11本に、新しくチームに加わった秋山選手の24本、ライマー選手の26本、トラックスラー選手の15本などが上乗せされて、リーグ2位の132本となりました。

チームの成績も4位(69勝60敗1分)で、Bクラスながらもシーズンを勝ち越して終わっています。



ガメラが撮影されたのは、まさにこの年のことでした。


劇中、画面に映った『九州スポーツ』には、秋山選手の打球が福岡ドームの天井を直撃し、はねかえってスタンドに入り、この奇跡の1打でホークスが単独首位を奪い取るという記事が載っていました。

これは実際おこったことではありませんでしたが、そうした奇跡が起こるかもという新しい風がチームに吹き込み、首位への希望がわきあがってきたシーズンになりました。(ちなみに山本和範選手が登録名を変えて、「カズ山本」と名乗ったのもこのシーズンです)






さて、ガメラでは秋山選手の「奇跡」をきっかけに、屋根が開け閉めできる福岡ドームをギャオスの鳥かごにして捕獲を試みるという、福岡ドームにしか引き受けられないストーリーが展開されていきました。


この屋根が開くことこそ、福岡ドームをつくるにあたって、ダイエーの中内功社長がもっともこだわった点でした。


(福岡市史編さん室撮影)
全開のドーム。
屋根が3枚の羽根でできていて、開くとそれがぴったり重なる様子がよく分かります。



(個人蔵)
ハリーホークとハーキュリーホークのうちわ(時期不明)。
よく見ると、一緒に描かれた福岡ドームの屋根は開いています。




当時ドーム球場としては、すでに1988年に東京ドームがオープンしていました。

東京ドームが採用したエアドーム構造は、フッ素コーティングされた薄い膜をドーム内外の気圧差を使って持ち上げるものです(白く丸い姿からビッグエッグと呼ばれていました)。



この方式は1989年のよかトピアでもいくつかのパビリオンで採用され、東京ドームと同じ方式であることが売り文句のひとつになるほどでした。





東京ドームは当時、人びとのあこがれの的だったわけですが、それだけに国内2番目となる福岡のドーム球場は、同じではないものが求められました。

そこで開閉式の屋根が絶対条件となったのだそうです。



ただし、開け閉めするとなれば、屋根には軽量の金属を使わなければなりません(その分、建設費は高額に…)。

さらには開閉装置とその維持管理のコストもかかって、エアドームの倍以上の費用が必要になるそうで…とても投資の回収を見込めない事業でした。


だからといって、客席数を倍に増やして収入も倍というわけにはいきませんので、ダイエーがアドバイスを求めたどの世界的なコンサルティング会社も、絶対儲からないからやめた方が良いと反対ばかりだったのだとか。




それでも中内さんにはこだわる根拠がありました。


それが、1989年にオープンしたカナダのスカイドーム(現 ロジャーズ・センター)の存在です。



中内さんは、事業企画を担当した恩地祥光(おんじ よしみつ)さんと中内さんの秘書の宮島和美(みやじま かずよし)さんを、わざわざカナダまで視察に派遣して、スカイドームの事業計画などを聞き取りさせました。


恩地さんはダイエーで中内功CEO秘書役や総合企画室長などを歴任された方です(1998年からは古くよりM&Aを手がけてきた株式会社レコフに入社され、代表取締役社長兼CEOもつとめられました)。

宮島さんはダイエーの常務執行役員秘書室長などののち、退社後はファンケルの社長や会長をつとめられました。



ロジャーズ・センター(旧 スカイドーム)は、メジャーリーグのトロント・ブルージェイズのホーム球場で、カナダのトロントにあります。


(Google Mapより作成)


海のように広大で、水面にはヨットが浮かび、自家用飛行機が舞っているオンタリオ湖に面して建っていて、ホテルも併設

隣には高さ約553mのCNタワーが立っています。


水辺にタワー・球場・ホテルが並ぶ姿は、恩地さんにシーサイドももちを思い起こさせたそうです。


ダイエーの野球場経営には懐疑的だった恩地さんでしたが、施工業者の役員から説明をうけたり、球場やホテルを見学したり、大手企業が使用権を買っている観戦ルームの投資回収額を聞き取ったりするなかで、これは自社でやるべきだと考えを変えるに至ったとのこと。


なかでも圧巻だったと振りかえっておられるのが、屋根の開閉に拍手喝采で大きな歓声をあげる観客の姿でした。

恩地さんは著書のなかでこれを「ショウ」と表現されています。


恩地さんがカナダから帰国し事業計画をつくりプレゼンしたとき、中内さんは「ほれ、みてみい」としたり顔だったそうです。



ちなみにロジャーズ・センターは今年大規模なリニューアル工事を終えたばかりで、ファンがもっといろいろな形で野球観戦を楽しめる空間に生まれ変わっています。



(ロジャーズ・センターの屋根が開く動画を公式サイトで探したのですが、良いものが見つかりませんでした。思った以上に大きな動きで開け閉めされますので、みなさんにもご覧いただきたかったのですが…。検索してくだされば、SNSなどで見ることができるはずですので、ぜひ)




さて、少し時間は戻って1988年9月16日

この日、ダイエーが南海ホークスの買収と開閉式ドーム球場の建設を公表すると、やはり日本初の可動式屋根に注目が集まりました。


たとえば翌日の新聞には、さっそく名乗りをあげた大手建設会社の設計模型というものが載っています(『毎日新聞』1988年9月17日。なお建設会社の名前は書かれていませんでした)、


勝手に新聞の写真を転載することはできませんので、ごくごく単純化したイラストでお伝えすると、こんな感じです。(私の画力の限界により、つぶれた鏡餅みたいになってしまいましたが、実際の模型はもっと高さがあるドーム型です。見方によってはテントっぽい雰囲気もあります。なお、外壁部分にも鉄骨らしきものがあるようなのですが、写真では見えづらかったため省略しています。それが鏡餅度を増した原因かも…)


(『毎日新聞』1988年9月17日の記事をもとに福岡市史編さん室が作画)


記事によれば、この設計案は屋根は鉄骨にテフロン膜を張った構造とのこと。

その膜が開閉することで、屋根の直径の2/3を開けることができるらしいです。


記事の文字からだけでは動きを思い描けなかったのですが、こういうことでしょうか??(違っていたらすみません…)


(『毎日新聞』1988年9月17日の記事をもとに福岡市史編さん室が作画)



なお、開閉時間は約10分、建設費は250~300億だそうです。



ちなみに膜を使った開閉式屋根といえば、カナダのモントリオールオリンピックスタジアムを思い浮べる方もいらっしゃるかもしれないですね。

モントリオールオリンピック(1976年)のメイン会場だった陸上競技場に、のちに吊り下げ式の膜の屋根をつけて、開閉できるようにしたスタジアムです。


ところが、開ける際に屋根にたまった雨水が客席に降ってくるという難点があって、開閉式屋根のデメリット例としてよくあげられています。(ダイエーの中内社長もこのことを気にされていて、恩地さんらをスカイドームに視察に派遣する際、実際はどうなのか確認するよう指示されていたそうです)

この新聞記事の建設案でも、そのあたりがどう工夫されているのか気になりますね。(福岡ドームでもこうした雨水への対策が工夫されているのですが、この話はまた今度に)




さて、ダイエーではこの可動式屋根をもつ球場の設計コンセプトを、世界的建築家である磯崎新さんにつくってもらい、それにもとづいて大手のゼネコン各社に建築費用を入札してもらおうとしていました。


磯崎さんが示したコンセプトは、球場の形は古代のコロシアムのような円筒形というもの。

そして、注目されている屋根は羽根が2枚

その羽根が野球の時は扇形に、アメフトなどのときは並行にスライドすることで開け閉めできる、「デュアル開閉式」というものだったそうです。



恩地さんのご著書にはこのように書いてあるのみで、屋根の形が具体的にイメージしづらかったのですが、想像を膨らませばこんな感じなのでしょうか。


2枚の羽根が扇型に開くとこう?


(福岡市史編さん室が想像して作画)


そして、羽根が並行にスライドして開くとこう??


(福岡市史編さん室が想像して作画)




ただ、このコンセプトにもとづいて入札を表明したゼネコンは、どこも1000億円オーバーの見積もり額…

予定の倍です(ちなみにエアドームの東京ドームは280億円とのこと)。


唯一470億円という予定内の額を示したのは、これまでダイエーにとっては店舗建設などでなじみがない前田建設工業だったそうです。



そこで中内さんは、ダイエーの店舗建設に実績をもち、東京ドームをつくった会社でもある竹中工務店に相談の電話を入れられたのだとか。


これを受けて、コンセプト通りではないものの、470億円の見積もりとともに提示された竹中工務店の独自案は、のちに完成する福岡ドームそのもの。

そして、デザイン性・話題性は磯崎さんのコンセプトには及びませんが、日陰や圧迫感など野球場としての問題点は、むしろすぐれてクリアしているという説明だったそうです。




結果、福岡ドームの建設は竹中工務店と前田建設工業の共同企業体(JV)に発注されることになりました。


コンセプトを採用できなくなったため、恩地さんは磯崎さんに説明に出向かれたところ、「泰然自若」として受け入れてくださったそうです。


磯崎さんのコンセプトだとどういう球場になっていたのか、それによってシーサイドももちの景色がどう変わったのか、こちらも見てみたかったですね。




こうして建設に入った福岡ドームは、冒頭のように短期間での工事かつはじめてのことで、大変ご苦労があったようです。

また、それにもかかわらず、時代を先取りするエコな仕組みが盛り込まれ、さらには一見シンプルに見えるその概観にも、実は細かな配慮が加えられていました。


そして福岡のみなさんや野球好きの方なら覚えていらっしゃると思いますが、このダイエーのドーム球場って「ツインドームシティ」と呼ばれた計画のなかの1つで、ドームに続けてつくられたホテル(シーホーク)と、もう1つドーム(ファンタジードーム)をつくることになっていたのですよね。(もう1つのドームは幻となりましたが…)

このツインドームシティ計画も「別冊シーサイドももち」としては気になるところ。



というわけで、しばらくドームのことを調べて、まとまりましたら少しずつアップしていこうと思います。





【参考資料】

・書籍等
日経アーキテクチャ編『日経アーキテクチャブックス 福岡ドーム』(日経BP社発行、1993年)
『福岡はなぜ元気か 聞き書き 桑原敬一前市長の街づくり』(毎日新聞福岡総局編、葦書房有限会社発行、2000年)
桑原敬一『一隅を照らす─資料記録からみる桑原敬一の軌跡』(梓書院発行、2002年)
『西日本鉄道百年史』(西日本鉄道株式会社100年史編纂委員会編、西日本鉄道株式会社発行、2008年)
恩地祥光『昭和のカリスマと呼ばれた男 中内功のかばん持ち』(株式会社プレジデント社発行、2013年)
山室寛之『1988年のパ・リーグ』(新潮社発行、2019年)
・新聞
 ・『毎日新聞』1988年9月17日
・ウェブサイト
 ・NPB 日本野球機構 https://npb.jp/
 ・ソフトバンクホークス https://www.softbankhawks.co.jp/
 ・東京ドームシティ https://www.tokyo-dome.co.jp/
 ・ブルージェイズ https://www.mlb.com/bluejays



シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #平和台球場 #福岡ドーム #ダイエー #ソフトバンク #ホークス #中内功 #ロジャーズ・センター #スカイドーム 



Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル 

0 件のコメント:

コメントを投稿