達磨といえば禅を伝えた尊い祖師、だからその像に不埒なことをするとバチがあたる・・というのが普通の感覚かもしれません。それは前回のブログでもふれたように、たとえ「雪だるま」であったとしても、です。
ところが人間というものはなかなか一筋縄ではいかないようで、江戸時代になると達磨を面白おかしく描いた作品が登場します。河鍋暁斎(かわなべきょうさい:1831~89)が、様々な有名絵師の画風によって描いた絵手本集「暁斎画談」にもそんな達磨さんの姿がいくつか見られます。
涼しげな美女の横に、あろうことかニタ~と嫌らしい笑みを浮かべた毛むくじゃらの達磨さんが立っています。まさに「美女と野獣」ですね。江戸中期の浮世絵師・奥村政信のタッチで描いた絵では、達磨さんと遊女がお互いの衣を取り替えて、しかも達磨さんが三味線を弾いて遊女をもてなしたりしています。
この達磨と遊女という何とも場違いな組み合わせの背景には、10年の年季奉公を終えないと自由の身になれなかった遊女が「面壁九年(めんぺきくねん)」の達磨さんより偉いのだという、洒落(しゃれ)に似た考え方があったと言われています。また、不特定のオジサマたちを相手にせねばならなかった遊女にとって、せめて客を達磨さんに見立てるという「笑えない笑い」の産物であったのかもしれません。
とはいえ、そこでは聖と俗、醜と美という本来最も遠いはずの概念が交錯(こうさく)していて、何だかもっと深い意味が込められているような気もします。
実は、こうした対立概念の交錯や反転は古くから文芸の世界で取り上げられていて、淀川で春をひさいでいた遊女・江口の君(えぐちのきみ)が実は普賢菩薩の化身であったという謡曲「江口」の話や、一休禅師とのからみで有名な地獄太夫(じごくたゆう)の話がよく知られています。
地獄太夫は地獄の様子を描いた衣を着ていたという泉州・堺の遊女でした。一休さんが地獄太夫に会いに行き「聞きしより見て恐ろしき地獄かな(聞きしに勝る、恐ろしいほど美しい地獄太夫だな)」と最大級の賛辞を贈ったところ、太夫は「し(死)にくる人の落ちざるはなし(私を買いに来る男で私の魅力にオチない奴はいない、だから一休さんアンタも地獄行きだ、覚悟しな)」と返したとか。〔以上、超意訳〕
江口の君にしても地獄太夫にしても、一流の坊さんを向こうに回す相当に肝の据わったインテリ遊女だったわけです。しかも、両者の間で交わされる「性」や「遊芸(ゆうげい)」の世界の中では、聖なるものが尊く俗なるものが下劣、というような二項対立式の価値観は、まったく意味をなさないことがわかります。
もちろん、それは客がたとえ本物の達磨さんであったとしても同じこと・・・遊芸恐るべし。
仏像学芸員