飯盛山(いいもりやま)が見下ろす早良平野に眠っていた吉武遺跡群の発掘が開始されたのは昭和56(1981)年。
弥生時代中期を中心としたムラや集団墓が次々に見つかりました。
そのなかのひとつに、鏡・剣・玉が副葬され、「日本最古の王墓」として注目された墓(3号木棺墓)があります。
木の板を組み合わせた棺(ひつぎ)に埋葬された人の左右に銅剣・銅戈(どうか)・銅矛(どうほこ)と銅鏡。胸元にはヒスイ製勾玉(まがたま)と碧玉(へきぎょく)製の管玉(くだたま)がありました。残念ながら人骨は残っておらず、性別や年齢を推定するすべはありません。しかし、吉武高木遺跡の多くの墓の中でも中心をなす人物であったことは、この副葬品が物語っています。
吉武高木遺跡3号木棺墓出土遺物(文化庁所蔵) |
通常は、常設展示室「奴国の時代」のコーナーで展示されているこの資料ですが、「ふくおか名宝展」開催期間中は、特別展示室のケースに顔を近づけて、その細部をじっくりとご覧いただきたいと思います。(その間、常設展示室にはレプリカを展示しております。)
まずは、多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)。
展示されている鏡の背面は、細い線で描かれた円や三角形などでびっしりと埋め尽くされています。4か所に2つずつ配置された小さな8つの円は、内部を4分割してあり、その中に細かな縦方向と横方向の線が互い違いに配置されています。大きな三角に見える文様も、よく見ると小さな三角形の集まりであることがわかります。「東アジアの宇宙観が表現されているようだ」(注1)と評した人もいます。
多鈕細文鏡のアップ |
次は、細形銅剣。
細形銅剣の実測図 |
普段は展示されていない面をご覧いただきましょう。
2本のうち小さいほうの1本は、顔を左右上下に動かしてみると、光の当たり具合で表面に細かい縞状の模様が見えてくるはずです。この銅剣には、研磨する際に磨く方向を変える「研ぎ分け」が施されています。縞模様に輝く加工は、実際に武器として使用するためというよりは、権威の象徴や祭りの道具として使用されたのでしょう。実測図(注2)では→のように表現されています。
それから、銅矛(どうほこ)。
今回は、通常の展示では見えない裏面を展示しています。
よく見ると、所々に格子状の付着物があります。分析の結果、これは絹織物であるということがわかりました。副葬品を絹布でくるんだか、絹布を敷いた箱に収めて埋めたのかもしれません。酸性度の強い日本の土壌では、布や木などの有機物が残ることは少なく、貴重な例のひとつです。
※写真にはうまく映らないため、ぜひ展示室でご確認ください!
3号木棺墓から出土した遺物を含む、吉武高木遺跡群出土資料の一部は、昭和62(1987)年、重要文化財に指定され、吉武高木遺跡は平成5(1993)年、国の史跡に指定されました。
*3号木棺墓以外の筑前吉武遺跡出土品(重要文化財)は、常設展示室でご覧いただけます。
*遺跡についてもっと詳しく知りたい方は・・・
最古の王墓-吉武高木遺跡― 福岡市博物館企画展示No.277
注1:常松幹雄2006『シリーズ「遺跡を学ぶ」024 最古の王墓・吉武高木遺跡』株式会社新泉社
注2:福岡市教育委員会1996『吉武遺跡群Ⅷ』福岡市埋蔵文化財調査報告書第461集
(学芸課 福薗)
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