その名のとおり「洛中と洛外」、すなわち「京の市中と郊外」を描いた、小ぶりの屏風です。
豪華絢爛かつ細部まで活き活きとした画面は、いくら眺めても驚きと発見に満ちています。また、かつては徳川家康(とくがわいえやす)の所有だった可能性が高く(※1)、その豊かな歴史的背景にも興味は尽きません。
【※1】徳川家康の遺品目録『駿府御分物道具帳』に、孝信筆の「洛中画の金小屏風」が記されている。尾張徳川家へ譲られた品のひとつで、本作との関連が指摘されている。
毎年、全国から貸出依頼が舞い込みますが、重要文化財なので1年間の公開日数や輸送回数が限られており、残念ながらご希望に副えないことも多々あります。
洛中洛外図屏風 右隻 |
洛中洛外図屏風 左隻 |
まさに、名も実も兼ね備えた福岡市の「名宝」です。
まずは、活気あふれる絵のなかをご紹介しましょう。
向かって右側、右隻(うせき)をおおまかにエリア分けすると、このようになります。
1⃣ 五条大橋(ごじょうおおはし)附近概ね、向かって右手が南、左手が北となっていることがわかります。画面上部は、水平に流れる鴨川(かもがわ)の向こう、つまり東にあたります。
1⃣五条大橋(ごじょうおおはし)附近
五条大橋付近では、勧進相撲(かんじんずもう)が催されています。 |
その近くには茶屋があり、接客する女性のほか千鳥足の酔客まで描かれています。 わずか数センチの描写から、ゴキゲン具合がみてとれますね。 |
橋の西詰にあるお店は、看板や道具から床屋だとわかります。 武士が髷(まげ)を結ってもらっているようです。 |
実は他の洛中洛外図屏風でも、五条大橋西詰にはよく似た床屋が描かれています。もしかすると、当時本当にあった床屋なのかもしれません。
②寺町通(てらまちどおり)附近
寺町通には、たくさんの店が軒を連ねています。
刃物を手にした物騒な客は、強盗ではなく刀を研ぎにきたようです。 店主の周囲に、砥石や水桶がみえます。 左の店は武具屋、それも槍の専門店でしょうか。 壁一面にさまざまな槍が架けられています。 |
一体何があったのだろうと、あたりを見回すと、
お店の白い壺がひとつ、倒れて、割れています…。もしかすると、左の黒い壺も、か? |
そして、笑いながら逃げる悪童。
先ほどの転んだ子どもは、逃げおくれたか、あるいは身に覚えのない罪をきせられたのでしょう。可哀そうに今にもぶたれそうでしたが、果たして…
眺めていると、いくらでも想像が膨らみます。
ここでは、子どもたちの悪戯も、庶民の商いも、武士のくらしの一コマも、すべて等しく、まちの一風景として扱われています。しかし1~2センチの人間にも暮らしの物語が垣間見えるよう神経が行き届いており、どれを主役にするわけでもないのに、どこをとっても主役級――そんな印象です。本作が描こうとしているのは、貴賤を問わず人々が生きて暮らす、その集積としての「みやこ」の姿であり、太平の世をよろこぶ絵だといえるでしょう。
現在「洛中洛外図屏風」と呼ばれる作品は100点余り確認されていますが、文献上の初出は16世紀初頭、多くがそれ以降18世紀半ば頃までに制作されたものです。これらと比較すると(※2)、本作は桃山末~江戸初期の作例と位置づけられます。また無落款(むらっかん)ですが、作風から狩野孝信(かのうたかのぶ)(1571~1618)の筆とみられます。孝信は、狩野永徳の次男にして狩野探幽3兄弟の父であり、桃山時代から江戸時代への過渡期に大集団・狩野派を率いた功労者です。
【※2】これらの図様には、時代ごとの権力構造が反映されている。例えば、室町時代の初期作例では、将軍邸と御所が大きく描かれ公武の関係を強調するが、豊臣政権、徳川政権と時代がすすむにつれて、秀吉の建立した方広寺大仏殿や、家康の建造した二条城が大きく描かれはじめる。次第に、権力者の邸宅や寺社よりも、人々の日常の動きが取り上げられるようになってゆき、風俗画へと展開する。
ここではご紹介しきれませんでしたが、右隻(うせき)にも見どころがたくさんあります。
南蛮人あり、大原女(おはらめ)あり、茶人、猿曳(さるひき)、野良犬親子、それから御所(ごしょ)・紫宸殿(ししんでん)の雅な花見…
人々の息遣いがきこえる「洛中洛外図屏風」、着物や建物に着目した論考もあり、見どころは尽きません。もしお持ちであれば単眼鏡で、じっくりのぞいてみてください。きっと、タイムスリップが楽しめるはず。
5⃣ 誓願寺(せいがんじ)
6⃣ 職人の店々で賑わう通り
7⃣ 御所(ごしょ)
(学芸課 佐々木)
重要文化財 洛中洛外図屏風は、資料保護のため、年間の公開日数が限られており、「ふくおかの名宝」展では前期(10/10~11/1)のみの展示です。お見逃しなく!!
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