博多湾(はかたわん)一帯は、古来、日本における外国との交渉や外来文化受容の窓口として栄え、様々な文化や文物がもたらされてきました。平時における対外交流の拠点という性格は、戦時においては、一転して国防の最前線となりました。その最たる例の一つが蒙古(もうこ)襲来(しゅうらい)です。
アジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築いたモンゴルの大軍が押し寄せた文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)、両度の蒙古襲来に際し、博多湾沿岸は主要な舞台となりました。九州に所領を持つ御家人(ごけにん)が全国から博多湾沿岸に参集し、蒙古軍と激戦を繰り広げたのです。文永の役において日本は箱崎(はこざき)や博多の守りを固めモンゴル軍を迎撃しようとしたため、モンゴル軍は百道原(ももちばる)あたりから上陸し、祖原山(そはらやま)や赤坂山(あかさかやま)に陣を構えて戦いました。祖原山にいたる最も近い海岸が福岡市博物館があるあたりです。当時の海岸線は博物館から250mほど南にあり、モンゴル軍は沖合に停泊した大船から上陸用の小船に乗り換え、砂浜に乗り付けて上陸したのです。
文永の役後、鎌倉幕府は次の襲来に備え、モンゴル軍の上陸を阻むために博多湾沿岸の砂丘上に総延長約20kmにおよぶ元寇防塁(げんこうぼうるい)を築きました。弘安の役ではこの防塁によってモンゴル軍の上陸を阻み、防塁のない志賀島や海の中道が戦場となりました。大風の助けもあり、モンゴル軍を撃退することができましたが、モンゴルの脅威は消えず、3度目の襲来に備え、博多湾沿岸の警固や元寇防塁の修理は、弘安の役後60年にわたり、室町幕府の時代になっても続けられました。
鎌倉幕府による軍事力の動員が、蒙古襲来に対する実効的な異国防御の最たるものであったことはいうまでありません。他方、当時の人々にとってもう一つ重要な防御策がありました。それは、神仏への祈祷(きとう)による防御です。現代的な感覚からすれば、無益な「神頼み」と一笑に付されるかもしれませんが、当時、異国降伏(ごうぶく)の祈祷は、武士が実際に戦闘することと同様に認識されていたのです。両者は表裏一体の関係にあったといえます。
例えば、永仁元年(1293)8月15日付けの他宝坊願文案から、その具体的様子が分かります。肥後国の元寇防塁築造・警固番役の分担地域である生の松原(いきのまつばら)(福岡市西区)に鎮座する生松原十二所権現(壱岐神社)に熊野権現をはじめ諸神が勧請されました。熊野神が他宝坊の夢に現れ、日本を傾けようとする他国の調伏を跳ね返すため、自らを生の松原に祝い据えよ、諏訪大明神ほか10神の神もろともに他国の調伏を返すべしと語りました。このことは鎌倉幕府に報告され、肥後守護を通じ熊野十二神が勧請され、この時、生の松原の警固番役を務める肥後国御家人が軍装束(いくさしょうぞく)で参列したと記されています。異国防御の現場において、現実の防御を担う武士と一体となって戦う神々がいたのです。このような異国降伏の祈祷は、朝廷・幕府を問わず各地の主要社寺において盛んに行われました。
重要文化財「金光最勝王経」の冒頭 |
ここに紹介する重要文化財「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」10帖(個人蔵、当館寄託)は、当時行われた異国降伏の祈祷を端的に示す経典です。この経典は、弘安の役後9年を経た正応3年(1290)9月下旬に、伏見天皇(1265~1317、在位1287~1298)が天下泰平・海内静謐(かいだいせいひつ)を祈念して石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に奉納したものです。伏見天皇は近臣とともに金光明最勝王経を書写し、第一帖は天皇の宸筆となります。第十帖に記された石清水八幡宮別当(べっとう)新善法寺(しんぜんぽうじ)良清(りょうせい)法印の奥書によると、祈祷の眼目の一つに「異国の賊の名を聞かず」とあり、この書写奉納がモンゴル軍の再々襲を警戒し、これがないことを祈ったものであることが分かります。金光明最勝王経は、この経を聞いて受容すれば、四天王などの諸天善神の加護を得られ国難を除災するといわれ、仁王経(にんのうきょう)・法華経(ほけきょう)とともに国家鎮護の三部経に挙げられる経典です。また、伏見天皇は当時から能書家として知られ、伏見院流と呼ばれる書風の創始者となりました。本経典は鎌倉時代後期の名筆としても貴重な典籍です。
このように、当時の人々にとって、異国降伏の祈祷は武士が実際に戦闘するのと同様に認識されていました。言うなれば、日本の神々とモンゴルの神々との戦いです。したがって、戦後、異国降伏の祈祷を行った社寺は、武士と同じく恩賞を幕府に請求することになるのです。
(学芸課 堀本)
第十帖 奥書 |
【釈文】
(第十帖 奥書)
最勝王経書写供養之旨趣者、為天下泰平・海内静謐也、被染宸筆之条、尊神定御納受歟、華洛安穏、皇業長久、柳営繁昌、武功無衰、異国賊不聞名、当社神弥施徳、祈祷之趣、蓋在此而已、
正応三年季秋下旬 法印良清
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