2020年7月29日水曜日

実存主義的ダルマ

博物館では7月21日(火)から企画展示「ダルマさん大集合」を開催しています。

館蔵の達磨図など達磨に関係する作品を紹介する展示ですが、なかなかクセのある作品が並んでいて地味に楽しんでいただけるのではないかと思います。

久留米藩の御用絵師・三谷等哲(みたにとうてつ)が描いた達磨図〔写真〕もそんなクセ者作品。ご覧のとおり、なんだか胡散(うさん)臭いものでも見るような顔の達磨さんです。


賛文は達筆すぎて完全には読めませんが(スミマセン)、どうやら「ダルマさんおつかれさま、頭が寒そうですね、赤い衣をかぶせて差し上げましょうか」というような意味(超意訳)のようです。

作者の三谷は雪舟の画風を継承した雲谷派(うんこくは)の絵師で、同派の祖・雲谷等顔(とうがん)もこんな顔の達磨図を残しています。だから当然といえば当然なのですが、ではなぜ彼らが達磨をこんな風に描いたのかが疑問として残ります。

ジロリとこちらを覗き込むような視線を向けていて、なんだかアヤしげなものを見るような顔だなあ、視線の先には何があるのだろうか?

そんなことを考えながらふと思い出したのは、今では仲良しの同業者と初めて会ったときの彼の眼差しでした。「こいつは仏像学芸員(プロ)として信用できるのか?」と言わんばかりのあの視線―

そのときようやく気が付きました。

自分が達磨を見るのではなく、達磨が自分を見ているのだと。

(達 磨)「あんた誰やねん?」

(学芸員)「えーとボクはですね、モゴモゴ・・」

(達 磨)「ボクって何やねん?」

(学芸員)「え?」

(達 磨)「そんなええかげんな自分なんかドブにでも捨ててしまえー!」

(学芸員)「そんな崖っぷちから手を放すようなことムリですー」

(達 磨)「喝―!」

こんな会話が収蔵庫の中で交わされたかどうかは定かではありません。

でも少し作品に近づけたので〇。

仏像学芸員末吉



【Permanent Exhibition Room】Disease and Our Lives Jul. 21, 2020 (Tue) ~ Nov. 29, 2020 (Sun)




The novel coronavirus pandemic has changed our way of living drastically. Wearing a mask and washing and sanitizing our hands have become requisite. We spend more time at home; work and attend classes online. Under such circumstances, the Fukuoka City Museum is also taking preventive measures against the spread of coronavirus by postponing the exhibition period, or introducing the timed entry reservation system.
In this exhibition, we will introduce exhibition collections related to life and disease in four categories, to explain how people reacted, and more importantly, lived in periods of a pandemic.


#1 Confronting Infectious Diseases


There are times when people confronted infectious diseases. In this section, we’d like to present the Spanish flu in the Taisho Era, Corella in the Meiji Era and smallpox in the Edo Era, to understand how the disease spread and how people reacted to them.

#2 Artifacts that Stayed Home



A lot of exhibitions and events were cancelled all over Japan due to the spread of the novel coronavirus. For this reason, some of our collections scheduled to be lent to other museums had to stay home. In this section, we’d like to introduce the items that had to stay in the museum.

#3 Living with the Unseen -Things that Dwell Inside or Outside-



We have always coexisted with the invisible: disease, disaster, nature, god. People had either deified them or tried to repel them at some point in time. In this section, we’d like to present the way people dealt with the unseen.

#4 Disease and Kabuki Theatrical Play


Kabuki is a traditional theatrical act that has attracted many citizens since its first appearance in the Edo period. In this section, we would like to exhibit some Kabuki related items that have a strong connection with infectious diseases.

2020年7月26日日曜日

鍾馗も逃げ出す達磨かな

博物館では7月21日(火)から特設展示「やまいとくらし~今みておきたいものたち~」を常設展示室内で開催しています。

詳しくはフレッシュな学芸員たちによる連載ブログを見ていただきたいのですが、どうやら今回の展示のイメージキャラクターが「鍾馗(しょうき)」だとされているようです。

鍾馗は中国・唐時代の人物で、熱病に苦しむ玄宗(げんそう)皇帝の夢に現れて悪い鬼を喰ったと伝えられています。こうした説話が日本にも伝えられ、江戸時代には疫病退散のシンボルとなりました。

実は、最近流行りの新型コロナ対策展示という意識はまったくなかったのですが、たまたま博物館では企画展示「ダルマさん大集合」を開催し、その中で鍾馗が登場する刷り物を展示しています。



「疱瘡絵(ほうそうえ)」と題されたこの作品、江戸の人々を悩ました疱瘡(天然痘)を退ける効能があるとされる図柄を赤い絵の具で刷った、いわゆる「赤絵(あかえ)」というやつです。

図柄を見てみると、鍾馗と達磨、源為朝(みなもとのためとも:平安時代末期に活躍した豪傑)、富士山が描かれているのがわかります。なぜ、この図柄なのか?その答えは賛文の中に隠されていました。

「ほうそうの、みをふじほどに山をあげ、しょうきも寄らずだるま為とも」
読んだだけでは何のことかわかりませんが、超意訳すると「疱瘡の身を封じ(富士)る間に、山(やまい)を上げて、しょうき(鍾馗)を寄せつけない達磨と為朝」というふうに解釈できます。

絵柄をよく見ると、一番手前にいる〝元祖ウイルスバスター〟こと鍾馗が達磨と為朝の剣幕を恐れて、すごすごと退散しているようにも見えます。

このへんがいかにも江戸っぽいのですが、おそらく鍾馗を「瘴気(疫病)」にかけて、達磨と為朝がこれまでのスタンダードだった鍾馗よりも強いのだという、一種の洒落(しゃれ)なのでしょう。

疫病を退けるはずの鍾馗が疫病扱いされているのは何だか可哀そうですが、裏を返せばそれだけ江戸の人々は疫病の流行に手を焼き、苛立ちを覚えていたということかもしれません。

鍾馗も逃げ出す達磨かな・・

ということで特設展示のあとはぜひ、「ダルマさん大集合」もご覧ください。

仏像学芸員末吉


2020年7月23日木曜日

〔連載ブログ5〕外出自粛「しなかった」モノ

こんにちは

今年の夏はなかなか旅行や帰省の計画が立てられないですね。
当館でも、今年度はお出かけだ!と準備を進めていたのに、計画変更になってしまったモノが色々と出てきてしまいました。(これについてはぜひ連載ブログ4をご覧ください。)
一方で、この状況でも無事に出張をして、お仕事(展示)中の資料もあります。今回は特設展示「やまいとくらし」の中の第2部「『外出自粛』したモノたち」番外編!ということで、外出自粛「しなかった」モノについて書いてみたいと思います。

臨時休館中のある日、机の上に「常設展でタイムリーな顔、展示してなかったっけ?」というような伝言が先輩(在宅勤務期間ですれ違い出勤中)から残されていました。その「顔」、というのが、まさに外出中のモノ2点、人形(ひとがた)と人面墨書土器です。

人形(ひとがた)と人面墨書土器は、古代の出土品として奈良や京都を中心に全国的に発掘されるもので、漫画のようなタッチで描かれる顔は1点1点がとても個性的です。先の伝言で出てきた「顔」も、しかめ顔や目尻が下がったちょっと困ったような顔、

土器に描かれた顔。眉をぐっと寄せて、への字の口……にらみ顔にもみえます。

一方で表情が読み取れない朴訥(ぼくとつ)な雰囲気の顔となかなかに親しみが持てる表情をしています。

こちらは人形のお顔。顔に対して遠慮がちな鼻と口。

さて、タイムリーというのも、これらは奈良・平安時代に災厄を除けるために使われたものだからです。悪いことをこの人形(ひとがた)や土器に移して川に流し、捨てることで、お祓いするという使われた方がされたと考えられています。このふたつも高畑遺跡(博多区)の、奈良時代の歴史書に使われた大きな溝の跡から見つかっていますので、何かの災厄除けとして役目を果たしたものでしょう。
また同じく奈良時代、『続日本紀』の天平7年(735)、同9年(737)の記録には、九州で疫病が蔓延し、それが全国的に広がっていった様子が残されています。

「この頃、大宰府では疫病で亡くなる人が多い」「大宰府が管轄する国々に疫瘡(天然痘)が大流行して、(人々が多く病床についた)」と書かれています。(『続日本紀』天平七年八月の記事より)


福岡の古代に関する病とお祓い、それに関係するモノにスポットをあてるチャンスだと先輩はメモを残してくれたわけです。

とある日の常設展示室。コレとコレのことですよね……!
「そうなんですよ、でも……!」このふたつは「タイムリーな(のに今だけ常設展示室にいない)顔」なのです。

さて、当館から電車で1時間と少し、九州国立博物館で8月30日まで開催中の特集展示「筑紫の神と仏」には、この顔たちが出張しています。

チラシには見たことのある顔が……!(画像は上記HPよりお借りしました。)

資料を出張させるのは、多くの人にそのモノを知ってもらい、興味を持ってもらうチャンスにもなります。昨年の段階から、「古代の人々が祈りを捧げた痕跡」としてこのふたつのモノに着目をしていただいて、この春、展示の準備にあわせて当館の常設展示室から姿を消していたところでした。なんとタイムリー……。

というわけで、タイミングを逃してきていましたが、今回の特設展示「やまいとくらし」につながっているぞということで、思い切ってご紹介してみました。いつもはお出かけするモノはそっと見送り、そっと注目するのが常ですので、このように紹介させてもらうというのはちょっとした冒険です。きゅーはくさん、どうもありがとうございます。

ところで、日々見慣れている資料が違うところで展示されている姿は、とても新鮮に映るものです。どのような展示内容の中でどのようなモノたちに囲まれて展示されているのか、という点はもちろんのこと、置かれている向き、高さ、ライトの当て方が、次に自身で展示するときのイメージに組み込まれていきます。
このブログで、外出中のモノたちにちょっとでも興味を持っていただけましたら、そして展示中の九州国立博物館へ、秋以降は常設展示室で(きっとアップデートして)展示されている当館へ本物を見に足を運んでみようかなと、ちょっとでも思っていただけましたら嬉しいです。

現在の展示室。外出中の「顔」は秋になると、ここに戻ってくる予定です。
(学芸課 佐藤)

〔連載ブログ3〕山笠に願いを込めて

特設展示「やまいとくらし~今みておきたいモノたち~」連載ブログの第3回目。今回は江戸時代担当の髙山が、第1章「伝染する病に向き合う」で展示している「博多祇園山笠番付」を紹介します。

博多祇園山笠は、毎年71日から15日にかけて行われる櫛田神社(福岡市博多区)の祭礼です。今年は、新型コロナウイルス感染症拡大の影響で延期となってしまいましたが、例年、祭りの期間中には歴史上の逸話などを題材に、煌びやかに飾り付けられた山笠を街の各所で見ることができます。

今回紹介する「博多祇園山笠番付」は、天明元年(1781)から文久3年(1863)までの82年間、山笠の標題(飾りの題材)を書き継いだものです。筆者は、江戸時代、山笠の人形制作に携わっていた土居町(博多区)の人形師・小堀家の人物と考えられています。

同じように山笠の標題を記録した番付は、他にも数点存在することが知られていますが、この番付の特徴的な点は、山笠の標題に加え、福岡藩の政治向きや藩主の動静、米の価格、地震や台風などの天災、町中で起きた出来事などの情報を、ほぼ毎年簡潔にまとめて記述している点です。

今回の特設展示の準備で番付を見ていますと、天明3年(1783)と文化元年(1804)に疱瘡(天然痘)が流行、享和3年(1803)と万延元年(1860)に麻疹(はしか)が流行、文久2年には麻疹とコレラが流行したという疫病(伝染病)に関する記述がありました。麻疹については「小児大人迄致申候」(享和3年)、「男女若物ハ残す病気仕候」(万延元年)、「大はやり申候」(文久2年)と記され、流行状況も詳しく知ることができます。

「博多祇園山笠番付」の寛政元年(1789)の部分
疱瘡山が立てられたと記されている。

また、疱瘡の流行に関わる「疱瘡山」の記述もありました。疱瘡山とは、例年立てられる6本の山笠とは別に、疱瘡の終息を願って立てる山笠のことです。番付によれば、寛政元年に土居町下・行之町・片土居町・鰯町下・川端町(いずれも博多区)で、文化元年(1804)に薬院町(中央区)で、文化2年には福岡新大工町(中央区)で、弘化4年(1847)に対馬小路(博多区)で疱瘡山が仕立てられたことが分かります。疱瘡山が仕立てられていることから、いずれの年にも疱瘡が流行していたことがうかがえます。また、福岡の町方(薬院町、新大工町)でも疱瘡山が仕立てられていることは注目に値する点です。

去る7月1日、今年唯一の山笠となる飾り山が櫛田神社に奉納されました。博多祇園山笠は、仁治2年(1241)、疫病退散のため承天寺(博多区)の聖一国師が施餓鬼棚に乗って甘露水をまいたことを起源とされる祭礼です。私も、江戸時代の人々と同じように神社に奉納された飾り山に疫病退散の願いを込めたいと思います。

※「博多祇園山笠番付」の全文翻刻や詳しい内容については、宮野弘樹「資料紹介 博多瓦町中村家伝来博多祇園山笠番付」(『福岡市博物館研究紀要』第28、福岡市博物館、2019年)をご参照ください。
(学芸課 髙山)

〔連載ブログ4〕「外出自粛」したモノとは・・・

こんにちは。

特設展示「やまいとくらし」の連載ブログにお越しいただきありがとうございます。今回は、第2章「『外出自粛』したモノ」から、昭和39年(1964)の東京オリンピックに関する資料を紹介します。

そもそも、「外出自粛」したモノって何ぞや、という話だと思いますので、まずはここから説明します。
新型コロナウイルス感染症の影響で、当館は2月27日から3月20日、4月4日から5月18日にわたり休館しました。全国の博物館でも展示の計画が再検討され、延期や中止になる展覧会がありました。当館から貸し出され他館で展示される予定だった資料も、展覧会の延期や中止の影響で、「外出自粛」を余儀なくされました。

色んな場所にお出かけする予定だった「我が子」たち(愛情を込めた館蔵資料の呼び方)、お出かけがキャンセルになった彼らを当館で披露しちゃおうというのが第2章「『外出自粛』したモノ」の主旨なのです!!

さて、話を資料に戻しますね。昭和39年(1964)に東京で開催された第18回オリンピック競技大会、通称東京オリンピックは、アジア地域で開催された初めてのオリンピックです。日本は、バレーボールや体操男子団体総合、レスリングや柔道など、さまざまな種目で金メダルを獲得しました。オリンピックの盛り上がりは、テレビの普及率を高めたと言われています。一方で、オリンピックを目途に東海道新幹線が開通し、東京国際空港(羽田空港)が滑走路を拡張するなど、インフラの整備も行われました。東京オリンピックは、当時の人びとの生活を変化させる一大イベントとなりました。

オリンピックの盛り上がりを支えたものの一つが、グラフィックデザイナー亀倉雄策の手によるオリンピック公式ポスターでした。シンプルで力強いエンブレム、各種競技の躍動感が伝わるポスターデザインは、今見てもある種の新鮮さを感じさせてくれます。これらのポスターは、絵葉書としても印刷され、さらに多くの人の手に渡ったようです。小学校や中学校で購入が受け付けられたという話を聞いたことがあります。

今年、東京で2回目のオリンピックが開催されるということで、昭和39年の東京オリンピックへの注目が高まっていて、当館にもオリンピック関係資料に貸し出しの打診が来ていました。しかしながら、オリンピックの開催が延期となったことで、今年度の貸し出しはキャンセルになってしまいました。来年度には他館に「外出」しているかもしれませんが、今回の特設展示でご覧いただけましたら幸いです。

昭和39年(1964)の東京オリンピック開催記念絵葉書
ポスターと同じデザイン

(学芸課 野島)


〔連載ブログ2〕イメージキャラクター「鍾馗」について

7月21日(火)から特設展示「やまいとくらし~今みておきたいものたち~」が当館常設展示室内で行われています。



皆様は、タイトルの右側にいる “ゆるかわ”な髭を生やした人物が誰だか分かりますか。これは『人物略画式図』(鍬形蕙(くわがたけい)斎(さい)画)に描かれた「鍾馗(しょうき)」です。

鍾馗は中国の民間信仰に伝わる道教系の神様で、本来は眼光鋭く、豊かな髭を持ち、黒衣を纏(まと)い、冠を身に着け、剣を抜いた、“ゆるかわ”とは無縁な厳(いか)つい姿をしています。その鍾馗について次のような伝説があります。

唐の玄宗皇帝が、激しい熱病を患った際に不思議な夢を見ました。夢の中で突然現れた大鬼が、皇帝をからかう虚耗(きょこう)という小鬼の体を引き裂いて食べてしまったのです。皇帝が大鬼の正体について尋ねると、科挙(中国で行われた官吏登用試験)に落第し、自害した鍾馗であることが分かりました。その後、夢から醒めた皇帝は熱病がすっかり治っていることに気が付き、夢の中の大鬼の姿を悪霊や邪気を払う守り神として画家に描かせ、宮中に掲げました。そして、これが一般に伝わり、年末には鍾馗の絵を家の中へ掲げて魔除(まよ)けにするようになりました。※タイトルの左側にある赤みがかった生き物は、夢の中で鍾馗に追われた小鬼です。

このように中国で疫病(えきびょう)を払う神として信仰されていたものが、室町時代以降、日本でも信仰されるようになりました。日本では端午の節供に飾る幟(のぼり)に描かれ、武者人形が作られるなどしました。
天保9(1838)年の『東都歳事記』には江戸の市中を描いた「端午市井(しせい)図」(長谷川雪旦画)が収録され、そこには鍾馗の幟が描かれています。他にも、明治31(1898)年の『風俗画報』第159号には「十軒店(じっけんだな)幟店の図」(山本松谷画)が収録され、五月人形店の景況を記録しています。十軒店はかつて現在の東京都中央区日本橋にあった地名です。(分かりにくいかもしれませんが、店内に鍾馗の幟と掛軸、人形があります。)

「端午市井図」(長谷川雪旦画)『東都歳事記』
「十軒店幟店の図」(山本松谷画)『風俗画報』第159号


また、疱瘡(ほうそう)(天然痘(てんねんとう))除けの呪(まじな)いとして用いる疱瘡絵にも鍾馗が描かれました。治療法が確立していなかった時代は疱瘡をもたらす疫(えき)神(しん)が近づかないように、疫病や厄除けに効果があるとされていた赤一色で鍾馗などを描きました。当館所蔵資料には、天保年間(1830-43)に制作された「疱瘡絵(為朝 達磨 鍾馗)」(歌川国安画)があります。(達磨の方が目立っていますが・・・手前にいるのが鍾馗です・・・。)

「疱瘡絵(為朝 達磨 鍾馗)」(歌川国安画)当館蔵

この他にも、新潟県東蒲原郡地方では、一年間の集落の安全や無病息災を願って村境に鍾馗像を象(かたど)った大きな藁(わら)人形を奉納する行事が残されています。また、京都では、向かいの家の鬼瓦から睨まれることを嫌い、その防御策として小屋根に瓦製の鍾馗像を飾る町家も見られます。
 このように鍾馗に関係する魔除けの民間信仰は全国各地に分布し、日本人に馴染みの深いものとなっています。

ぜひ皆様、この“ゆるかわ”鍾馗様を目印に、常設展示室へお越しください。
ご来館お待ちしております。

(学芸課 石井)

〔連載ブログ1〕100年前のパンデミック その時福岡では・・・

こんにちは。

特設展示「やまいとくらし」の連載ブログにお越しいただきありがとうございます。この企画は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の予防・対策が大きな課題となっている今、当館で見ていただきたい資料を紹介するものです。

このブログでは、企画に合わせて展示室に展示している資料や、展示ケースにおさまりきれなかったモノ・コトを紹介します。

連載第1回目である今回は、第1章「伝染する病に向き合う」から、大正7年(1918)の新聞記事を紹介します。

さて、今からざっと100年前、スペインで大流行したインフルエンザウイルスがまたたく間に全世界に広がりました。いわゆる「スペイン風邪」です。スペインでの流行の印象が強くこのような名前になっていますが、発生源はアメリカ合衆国とされています。少しスペインがかわいそうですね。

それはさておき、「スペイン風邪」は大正7年に初の感染者が確認され、第一次世界大戦という大きな人の移動によって爆発的に感染者を増やしていきます。日本でも、同年から軍隊を中心に感染者が増えました。当時は、「流行性感冒」(りゅうこうせいかんぼう、かんぼうは風邪を指す言葉)、「悪性感冒」と呼ばれていました。

福岡での「スペイン風邪」の流行は、大正7年10月から12月にかけてのことでした。当時の県内シェアトップの新聞『福岡日日新聞』には、「スペイン風邪」の流行が、まさに文字通り報道されています。感染者の増加をあらわす表現は、「暴風の如き」(10月30日)、「魔の如く」(11月3日)、「魔風の如き」(11月4日)といった過激なもので、ものすごい勢いで広がった様子がうかがえます。小学校や中学校は休校に、公共機関や会社も休みになるなど、現代と同じような対応がとられました。郵便局員に感染者が多く出た結果、近隣の学校の生徒に配達をまかせたというような記事も見られます。

11月8日の記事には、谷口留五郎福岡県知事から予防に関する告知が出されています。これによれば、「スペイン風邪」は飛沫を介して感染するため、人と話す際には4尺(約121cm)以上間隔をあけるか「マスケ」(マスク)を着用すること、患者は速やかに隔離して静養させること、回復後の患者も数日間は健康な者との接触をさけることなどが必要とされました。ウイルスへの対処法は、100年前と現在で、ほとんど同じだったことがわかります。ちなみに、東京に出張した谷口知事は、福岡に戻った後の11月6日に「スペイン風邪」に感染していたことが判明しました。

知事の告知が役に立ったのかは不明ですが、12月に入ると流行は下火になり、終息に向かいます。『福岡市史』第2巻大正編(福岡市役所、1963年)によると、福岡警察署の調査による大正7年12月末までの患者数は36,265人、死者は252人にのぼりました。

大正7年11月4日の『福岡日日新聞』
スペイン風邪の流行を「魔風の如き」とたとえて報じる
大正7118日の『福岡日日新聞』
県知事からの告知として「マスケ」(マスク)の着用がすすめられる。

(学芸課 野島)

2020年7月21日火曜日

【企画展示室2】ダルマさん大集合 7月21日(火)~9月13日(日)




誰じゃ「こわカワ」なんていう奴は!

 達(だる)磨(ま)(ボーディダルマ/菩提(ぼだい)達磨(だるま))は6世紀頃のインド出身の仏教僧で、中国に来て禅(ぜん)の教えを伝えたとされる人物です。達磨を祖とする中国禅はやがて日本にもたらされ、臨(りん)済(ざい)宗(しゅう)や曹(そう)洞(とう)宗(しゅう)などの禅宗寺院では、開祖として達磨の像がまつられました。また江戸時代以降は、縁起物の起き上がり小(こ)法(ぼ)師(し)が全国各地で作られたほか、玩具や子どもの遊びにも取り入れられるなど、庶民にも広く親しまれました。
 ところで、このように達磨が私たち日本人の文化や生活に広く浸透した理由は、もちろん尊い教えを広めた偉大な人物だからということもありますが、そのイメージには他の人物にはないインパクトや魅力があったからとも言えます。伝説によると、木で鼻をくくったような問答をして中国の皇帝を怒らせたとか、9年も壁に向かって座(ざ)禅(ぜん)をして手足を失ったとか、なかなか強烈な個性の持ち主だったようです。
確かに、描かれた達磨像を見ると、髭を生やしてぎょろりと目をむいた、いかにも厳しそうなオジサンという印象を受けます。しかしよく見てみると、どこかユーモラスで愛嬌もあり、「ダルマさん」と親しみを込めて呼びたくなるものもあります。
こわいけどカワいい―本展示ではこうした「こわカワ」とでも言うべき達磨像の特徴に注目し、その魅力を探りたいと思います。

【Feature Exhibition 2】Mass Gathering of "Mr.Daruma" Jul. 21, 2020 (Tue) ~ Sep. 13, 2020 (Sun)


Don’t call me “Kowakawa”(Scary but Cute)! 

Daruma (bodhidharma) was an Indian Buddhist monk in the 6th century who brought Zen Buddhist teachings to China. Chinese Zen Buddhism, which was founded by Daruma, was later introduced to Japan. Temples of Japan’s Zen Buddhism sects such as the Rinzai and Soutou Sects deified and enshrined the Daruma figure as their founder. After the Edo period, the image of Daruma was introduced in the design of the auspicious self-righting doll called “Koboshi” and several other children’s toys and games. In time, the image of Daruma became widely accepted by ordinary people all around Japan.

The image of Daruma had been predominantly instilled in our everyday life and culture not only because he was a great man who spread the valuable teachings of the Buddha, but also because his facial features were unique and impactful. His anecdotes also tell us that he was an extraordinary person indeed. For example, he infuriated the Chinese Emperor by conversing with him in a blunt manner and, in another story, he lost both his arms and legs for sitting in meditation while facing the wall for 9 long years.

As a matter of fact, his portrait was depicted as a very strict bearded old man with eyes wide open. However when you look closer, his facial expression appears to be somehow humorous and adorable. That is why he is often addressed as “Daruma san” in the friendliest manner. Scary, but cute!
This exhibition focuses on the uniqueness of Daruma, who is often described as “kowa-kawa" (scary but cute!), and to find out why people are attracted to him.

exhibition leaflet


【기획전시실 2】다루마상ダルマさん 대집합 2020년 7월 21일(화)~ 9월 13일(일)



누가 무서우면서도 귀엽다고 그래!

달마(보제달마/다루마)는 6세기 경 인도 출신의 불교승으로, 중국에 와서 선의 가르침을 전했다고 하는 인물입니다. 달마를 시조로 하는 중국의 선은 곧 일본으로 전해져 임제종과 조동종 등의 선종 사원에서는 그 개조로 달마상을 모셨습니다. 또 에도시대 이후는 길조를 상징하는 오뚜기가 전국 각지에서 제작됨과 동시에 어린이들의 장난감으로써 쓰이는 등 서민들에게도 널리 친숙하게 다가갔습니다.

그런데 이와 같이 달마가 일본인의 문화와 생활에 널리 침투하게 된 이유는, 물론 높은 가르침을 전한 위대한 인물이라는 점도 있으나 그 이미지에는 다른 인물들에게는 없는 인상과 매력이 있었기에라고도 할 수 있습니다. 전설에 의하면 냉담한 태도로 문답을 하여 중국의 황제를 화나게 하였다거나 9년 씩이나 벽을 보며 좌선을 하여 손발을 잃었다는 등 꽤 강렬한 개성의 소유자였던 모양입니다.

확실히 그림으로 그려진 달마상을 보면 수염을 기르고 눈을 희번득거리는 모습이 엄한 아저씨와 같은 인상입니다. 그러나 자세히 보면 어딘가 유머러스하며 애교도 있는, “달마씨(다루마상)”라 친근감있게 부르고 싶은 느낌도 있습니다.

무섭지만 귀여운, 이 전시에서는 이러한 달마상의 특징에 주목하여 그 매력을 파헤치고자 합니다.


2020年7月13日月曜日

【企画展示室1】戦国時代の博多展9 “筑前表錯乱” ~一五五〇年代の動乱 7月14日(火)~9月13日(日)


信長、桶狭間で勝利。その頃、博多は?

永禄三年(一五六〇)、織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、隣国を平定し京都に進出していく大きなきっかけとなりました。この頃、九州においても戦国時代の大きな転換期を迎えます。
応仁・文明の乱(一四六七~一四七七)以降の約百年間を戦国時代と呼びますが、九州では室町幕府の威令が及びにくく、南北朝の動乱から断続的に戦乱が続きました。幕府が九州を治めるために設置した九州探題は十五世紀初頭に少弐氏との対立で力を失い、探題渋川氏を支援する形で周防山口を本拠とする大内氏が九州に進出し、筑前・豊前両国を治め、肥前国にも影響を及ぼしました。これより北部九州の政情は、大内・渋川氏と、大友・少弐氏との二つの勢力が対立する状況で推移します。
長らく続いた両勢力が相争う状況は、一五五〇年代のおよそ十年間を経て新たな体制へと変化を遂げます。最大の要因は、一方の雄であった大内氏が滅ぶことです。天文二十年(一五五〇)、大内義隆が重臣陶晴賢の謀反により自害、後継者として大友義鎮(宗麟)の実弟義長が迎えられますが、天文二十四年(一五五五)の厳島の戦いで晴賢が敗死、二年後の弘治三年(一五五七)、義長も毛利元就に攻められ、大内氏は名実ともに滅びました。この過程で大友氏は次第に勢力を伸ばします。大内氏滅亡後、筑前・豊前・肥前三ヶ国において戦乱が激化し、少弐・渋川両氏は歴史の表舞台から姿を消し、永禄二年(一五五九)には大友氏に敵対する肥前の筑紫惟門により博多は襲撃され、焼き打ちに見舞われます。大友氏は同年末までに敵対する勢力を圧倒し、以前から治めていた豊後・筑後・肥後に加え北部九州六ヶ国を支配下に収めます。戦後、大友氏による博多復興が行われ、御笠川の流路を変更し南側に房州堀を築き、博多は周囲を水で囲まれた防御性を高めた都市に変貌しました。本展では、館蔵の古文書を紐解きながら、戦国時代の転換期となった時代のうねりを紹介します。

解説リーフレット

【Feature Exhibition 1】Hakata in the Warring States Period 9 Jul. 14, 2020 (Tue) ~ Sep. 13. 2020(Sun)




Oda Nobunaga won the battle of Okehazama. What happened in Hakata then?

In 1560, Oda Nobunaga defeated Imagawa Yoshimoto in the battle of Okehazama and conquered the neighboring states. It gave him a big chance to further advance his army to the Kyoto region. During that time, the Kyushu region also saw a big transition during the warring states period.

In Japanese history, A hundred of years after the Onin-Bunmei Wars (1467-1477) is called the warring states period. In the Kyushu region, wars happened intermittently after the Nanbokucho period (1336- 1392) for the governmental power hadn’t reached the area because the capital of the Muromachi government was distantly situated from the area. The government placed a local commissioner called Kyushu Tandai in the Kyushu region. However, it lost its power in the early 15th century due to the battle with a general Shoni. To help Sibukawa, who was in charge of the Tandai office, Ouchi, who was based in the Suou region of Yamaguchi prefecture moved his force to the Kyushu region. He governed both Chikuzen and Buzen states and posed an influence on Hizen state. Due to this incident, the government’s situation in the Northern Kyushu area became unstable due to the two conflicting forces: the joint force of Shibukawa and Ouchi fighting with the joint force of Otomo and Shoni.

This severe situation continued for 10 years in the 1550s and it later changed into a new system. The main factor of the change is the downfall of Ouchi.

In 1550, Ouchi killed himself due to the betrayal of Sue Harutaka, one of his main vassals. Otomo Yoshishige (Sorin)’s brother, Otomo Yoshinaga had succeeded the Ouchi family. However, the Ouchi family was perished both in name and reality after Harutaka died in 1555 in the battle of Itsukushima and Yoshinaga himself was conquered by Mori Motonari two years after (1557). Throughout the years, Otomo family expanded their influence over the region. After the disappearance of Ouchi family, battle among three regions (Chikuzen, Buzen and Hizen) got even fiercer. Shoni and Shibukawa were no longer active and both of them vanished from the center stage of history. In 1559, Hakata was attacked by Tsukui Korekado, a rivaling force of Otomo family, and this battle, caused Hakata region to be caught on fire.  Otomo family overpowered their antagonizing forces by the end of the same year and governed six states in Northern Kyushu area in addition to his conventional territory of Buzen, Chikugo and Higo. After the war, Otomo family tried to revitalizing Hakata region. They dug a Boshu moat at the southern part of the Hakata region by changing the tide of Mikasagawa River. It made Hakata a region where was surrounded by water and well secured.
In this exhibition, we will introduce this transition period in the warring state period through unwinding some ancient documents from our museum’s collection.

exhibition leaflet

【기획전시실 4】전쟁과 우리들의 삶29 2020년 6월 16일(화)~ 8월 10일(월)




오다 노부나가, 오케하자마桶狭間 전투에서 승리. 당시의 하카타는?

1560년 오다 노부나가는 오케하자마 전투에서 이마가와 요시모토今川義元를 토벌하고 주변 국가를 평정하여 교토로 진출하게 되는 큰 계기가 되었습니다. 이 때 규슈 또한 전국시대의 큰 전환기를 맞이합니다.
오닌, 분메이의 난(1467~1477) 이후 약 100년 간을 전국시대라 합니다만 규슈에서는 무로마치 막부의 영향이 닿기 어려워 남북조의 동란으로부터 계속해서 전란이 이어졌습니다. 막부가 규슈를 통치하기 위해 마련한 규슈탄다이(九州探題, 규슈와 이키, 쓰시마 두 섬의 방위와 외국 사신의 응접을 맡았던 벼슬)는 15세기 초엽에 쇼니 씨와의 대립에서 힘을 잃어 탄다이 시부카와渋川 씨를 지원하는 형태로 스오 야마구치周防山口를 본거지로 하는 오우치大内 씨가 규슈로 진출하여 지쿠젠筑前, 부젠豊前 양국을 통치, 히젠肥前까지도 그 영향이 미쳤습니다. 이로부터 북부 규슈의 정세는 오우치, 시부카와 씨와 오토모大友, 쇼니少弐 씨의 두 세력이 대립하는 상황으로 바뀝니다.
계속되는 두 세력의 대립은 약 10년에 걸쳐 새로운 체제로의 변화를 가져옵니다. 가장 큰 원인은 강력한 세력이었던 오우치 씨가 멸망한 것이었습니다. 1550년 오우치 요시타카大内義隆가 중신 스에 하루카타陶晴賢의 모반으로 인해 자살을 하게 되고 후계자로서 오토모 요시시게(大友義鎮, 소린宗麟)의 친동생인 요시나가義長가 받아들여지게 되나 1555년 이쓰쿠시마厳島 전투에서 하루카타가 패배하여 죽고, 2년 후인 1557년 요시나가 또한 모리 모토나리毛利元就에게 공격을 당함으로써 사실상 멸망하고 말았습니다. 이 과정에서 오토모 씨는 서서히 세력을 넓힙니다. 오우치 씨 멸망 후 지쿠젠, 부젠, 히젠 세 나라에서 전란이 격화되어 쇼니, 시부카와 씨는 역사의 뒤안길로 사라지게 되며 1559년에는 오토모 씨와 적대시하던 히젠의 쓰쿠시 고레카도筑紫惟門가 하카타를 습격하여 불바다가 되고 맙니다. 오토모 씨는 같은 해 말까지 그 세력들을 압도, 이전부터 통치하던 분고豊後, 지쿠고筑後, 히고肥後와 더불어 북부 규슈 6개국을 지배하게 됩니다. 전쟁 후 오토모 씨는 하카타 부흥의 일환으로 미카사御笠 강의 흐름을 변경하여 남쪽으로 보슈보리房州堀(해자)를 만들었습니다. 이로써 하카타는 주위가 물로 둘러싸여 방어성이 높은 도시로 변모하였습니다. 이 전시에서는 저희 박물관 소장의 고문서를 파헤치며 전국시대에 전환기를 맞이한 하카타의 역동적인 변화를 소개합니다.


2020年7月11日土曜日

福岡市博物館は開館30周年を迎えます

福岡市博物館は、1990年(平成2)10月18日に開館しました。
この秋、開館30周年を迎えます。

福岡市博物館のロゴマーク
2013年11月の常設展示室のリニューアルオープンに際して、福岡市博物館ではロゴマークをつくりました。
博物館を南側正面から見たときに印象的な3つのアーチ、代表的な収蔵資料である国宝 金印「漢委奴国王」のかたちを基にしたデザインです。
マークのアーチの部分には、歴史と未来を結び、くらしと風土をつなぐ架け橋としての意味も込めています。
また、マーク右下の長方形は、この地に流れてきた時間の堆積が地域の将来像を育む土壌となるという意味を込めています。




開館30周年記念のロゴマーク
今年は、開館30周年を迎えるにあたり、30周年記念ロゴマークをつくりました。
博物館のロゴマークの要素をいかしつつ、開館30周年(30th)を表現したデザインです。

開館記念日の100日前の7月10日から、
福岡市博物館の公式ツイッターで、開館記念日の10月18日に向けてカウントダウンを始めました。
博物館や福岡の歴史など、さまざまな過去の出来事を振り返るツイートを続けていきますので、お読みいただけると幸いです。




「新しい生活様式」が提唱されている今、福岡市博物館も「お家DE福岡市博物館!」など少しずつ新しい取り組みを始めています。
福岡市博物館のこれまでの周年記念とは少しちがう試みをお届けする30周年になりそうですが、どうぞよろしくお願いします。

(by おーた)