釣道楽の世界展の見どころなどをご紹介するシリーズ。
第5回は「名竿は刀より得難し」と書かれた江戸時代の日記がある、です。
前回の記事では、武士が娯楽としての釣りを楽しむにあたってどのように理論武装(正当化)していたのかというお話をさせていただきました。
今回は、そうした「武士の釣り」というジャンルにおいて、江戸時代に最先端を突っ走っていた庄内藩の事例をご紹介致します。
冒頭の「名竿は刀より得難し」というメッセージについてですが、これを書いた人物は、秋保親友(あきほちかとも、1800~1871)という庄内藩主酒井家に仕えた軍学者です。武士なのにこんなこと言って大丈夫なのでしょうか。
しかし、そこはご心配なく。庄内藩において釣りは武道と同じような扱いをされており、むしろ奨励されていました。早朝の暗い中、道具を担いで長距離を歩き、磯で獲物がかかるのを忍耐強く待つ行為は、心身の鍛練にも良く、武用の助けになると考えられていました。そのため、庄内藩士は、自分たちで竿を作るほどに釣りにのめり込み、良い竹を探して藪にわけいりました。この「名竿は刀より得難し」という言葉も、酒田から鶴岡への道中で20本余りの竹を得た際に発せられた言葉で、庄内藩士の釣りに対する思いを象徴的に示しています。
ちなみにこの前後は下記のような記述になっています。
「扨々(さてさて)いつもいふ事なから、名竿は刀より得難し、子孫是を麁末(そまつ)ニ取扱ふへからす、誠執心ニして得難きものといふへし」(鶴岡市郷土資料館蔵「野合日記」より)
いつも言っていたのですね。
庄内藩士は国元にいる時だけでなく、参勤交代で江戸に行った際も、時間があれば郊外に竹を求めて出かけていっています。19世紀の江戸勤番武士の日記には深大寺(東京都調布市)、滝野川(東京都北区)、池袋(東京都豊島区)まで竹を切りに出かけていった記事が出てきます(岩淵令治「庄内藩江戸勤番武士の行動と表象」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第155集、2010年3月))
実は今回、この秋保親友が自作した釣り竿や庄内地方で使われた道具類も多数展示しています。「第Ⅱ章 釣りに宿る気風」の「2 釣りの土地柄」に展示していますので、どうぞお見逃しなく。
※本日9月26日(月)は休館日ですので、また、明日以降、皆さまのご来館をお待ちしております。
※本日9月26日(月)は休館日ですので、また、明日以降、皆さまのご来館をお待ちしております。
学芸課 宮野
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