2023年3月20日月曜日

博物館出前学習 玄界小学校編 その1

福岡市博物館ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

今回は、福岡市西区玄界島で行った出前学習のお話です。出前学習とは、博物館のスタッフが市内の小中学校を訪れ、授業や体験プログラムを行う取り組みのことです。


令和51月中旬、玄界小学校の先生から、博物館資料を活用した学習ができないだろうかというご相談をいただきました。対象は、小学校3年生。昔の道具や生活の知恵などを調べることを通じて、道具とともにくらしが変化してきたことを学ぶ、という社会科の単元です。

 玄界島は、18年前の今日、平成172005)年320日に起こった福岡県西方沖地震に見舞われ、全島避難を余儀なくされるほどの大きな被害を受けました。島の皆さんの団結力が功を奏し、わずか3年で希望者全員の帰島が実現しましたが、この震災をきっかけに、島の歴史や生活の様子を伝える多くの資料が失われました。現在、玄界小学校に通う生徒さんは震災後に生まれており、先生方は震災後の島の環境や生活の在り様を踏まえつつ、震災前の島の歴史や文化をどのようにして子どもたちに伝えていくのか、という玄界島ならではの地域学習の課題をお持ちでした。

そこで先生と相談しながら、「玄界島の昔のくらし」という授業を計画し、学校への出前学習としては初めて博物館資料を館外に運び出すことになりました。

島の将来を担う子どもたちに本物をみて、触れて、五感で島の歴史文化を学んでもらいたいという先生方の熱意がかたちとなりました。45分の授業ですから、持ち込むのは昔と今の島の生活につながるもの、島のくらしを象徴するもの、安全に運搬が可能な3点に絞り込みました。

これであとは渡船が欠航しないよう天に願うだけです!

 

みんなの願いが通じたのか、授業当日(216日)はとてもいい天気に恵まれ、博多港を出た福岡市営渡船・みどり丸は無事玄界島へ。今回は、初めての取り組みということで学芸員と教育普及担当職員の計6名で伺いました。港から島の中腹にある玄界小学校までは徒歩。ずっと坂道が続いています。私たちは資料を抱え、かつての島の面影を残す急な石段をのぼり小学校へ向かいました。




授業が始まる前に待機した部屋には、学校の古いアルバムや資料が保管されていました。その中に昭和20年代後半の玄界島の航空写真を発見。急遽こちらの写真を使わせていただくことにしました。

授業の会場となった音楽室に博物館から持ち込んだ資料を並べ、それを布で隠して出前学習のスタートです。講師は民俗担当学芸員の河口。

授業ではまず、さきほどお借りした玄界島の航空写真と、昨年夏に撮影した島の写真を見比べながら、何が変化しているか子どもたちに問いかけました。昔は砂浜があったこと、遠見山の頂上付近まで畑があったこと、車が通れる道が今のようにないことなど、子どもたちが次々に気づいたことを発表します。では、「昔はどんな道だったのか」、「荷物はどのように運んでいたのか」を問うと、子どもたちは「手で運んでいた?」と自分なりの考えを発表してくれました。

これを受けて、博物館で準備した昔の玄界島の生活の様子を写した写真を見ながら解説です。震災前までは、雁木段とよばれた石段で島の人びとみんなが上り下りしていたこと。そして荷物は「オイ」(背負い梯子)を使って運んでいたことなど、写真を見ながらかつての島の生活環境について学びました。

「オイ」について紹介すると子どもたちは「小屋にあるやつだよね」と身近に残る「オイ」の存在に気づき、今と昔で道具の大切さに違いがあることを実感したようでした。


後半では、テーブル上に並べた資料にかけた布をひとつずつめくりながら授業を展開します。

まず細長い鉄の棒「カナテコ」という道具。子どもたちに、棒の先端の形を観察したり、実際に手に持って重さを体感してもらい、「どうやって使うものか」、「何に使った道具であるのか」を問いました。

昔の写真を見ると家の周りが石垣になっている、という子どもたちの気づきから、「カナテコ」は、石垣を造際にテコの原理を使って石を動かすための道具であることを導き出しました。今でも島に残る石垣がどのようにして造られていたのか、石垣を造ることがなくなると道具も必要とされなくなることを伝えることができました。


続いて、古い着物を再利用して作られた昭和時代の手袋や、海士が潜水漁の際に使用した「ハチオ」と呼ばれる藁でできたベルトも紹介しました。なかでも手袋については、「分厚い」「あんまり暖かくない」などさまざまな反応がありました。

手袋の素材にも注目し、木綿布のハギレを組み合わせて作られていることや、中には綿がたくさん詰められていることなど、普段使っている手袋との違いを考えてもらいました。



最後に紹介したのは、昔と今の子どもたちとをつなぐものです。手持ちで島へ運ぶことが難しいこの資料については、様々な角度から撮影した写真を使って問いかけ、それが何の道具か当ててもらいます。

いろいろな言葉が挙るなか、途中で「あかり」という発言が出たところで、資料の全体像を映し出します。それは明治時代に島の夜回りで使用されていた「火の要心」を書かれた手持ちの行灯でした。家々が密集するかつての玄界島にとって火災は大きな脅威の一つでした。一人一人の火に対する意識は、今もずっと受け継がれています。このことを伝える一枚の写真を、ここで子どもたちに見てもらいます。それは午後5時の島内放送の写真です。そこに写っているのは5年前の子どもたちの姿。玄界島ではこの時間になると島の子どもたちが当番で拍子木を打ち「火の用心」と島内放送を通じて家々に呼びかけるのが慣例となっています。行灯と島内放送。昔のくらしは途絶えるばかりではなく、かたちが変化しても今なお受け継がれているものがあることを伝えたかったのです。これからも午後5時の島内放送が続くことを願っています。



最後のまとめでは、子どもたちから先生たちと一緒に島内にある昔のくらしの道具を探しに行きたい、もっと島のことについて知りたいという希望が出されました。

ものに直接触れることによって、子どもたちが島の過去と現在が結びついていることについて深く考えるきっかけになったのならば、この出前学習は成功です。

これから先、島の写真などを一緒に整理してはどうだろう、島内のいろいろな場所を子どもや先生たち、博物館スタッフが一緒に歩いてみるのはどうだろうと、アイデアは膨らむばかりです。


玄界小学校へ資料を館外に運び出す取り組みは、これまでの玄界島での調査や里帰り展示の経験を通じて、現地で資料を安全に輸送するための手段や環境を把握できていたことが大きな後押しとなりました。これまでの玄界島と博物館の活動については、ブログの「その2」でお伝えしますので、お楽しみに。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


(文責:河口綾香 補助:松尾奈緒子)

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