2020年11月12日木曜日

【ふくおかの名宝】観賞ガイド⑫ 黒田孝高が戦国時代に終止符を打った証し 北条家から贈られた伝家の宝刀 国宝 太刀  名物「日光一文字」

 

天正18年(1590)、豊臣秀吉の天下統一の総仕上げとなった小田原攻(おだわらぜ)め。黒田孝高(よしたか)(官兵衛(かんびょうえ)・如水)はわずか3百の手勢で参陣し、秀吉の計略を助けました。秀吉の大軍に囲まれ、抗戦か降伏か、なかなか結論が出ない会議を長く続けたことで、後世「小田原評定(ひょうじょう)」なる語句を生んだ戦いに決着をつけたのが孝高でした。孝高は最終局面で小田原城(神奈川県小田原市)に乗り込み、北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)父子に降伏開城を説得しました。秀吉への仲介のお礼として北条氏直から孝高に贈られたものが日光一文字の太刀です。貝原益軒(かいばらえきけん)著『黒田家譜』によると、北条白貝(しろがい)(福岡市美術館蔵)、『吾妻鏡(あづまかがみ)』(国立公文書館蔵)とともに贈られたとします。

太刀「日光一文字」の全体写真、切っ先のアップ、茎(なかご)のアップ
太刀「日光一文字」 左:茎、中:切先、右:全体

北条氏の降伏直後、秀吉が黒田長政に宛てた710日付けの朱印状では、「今度の首尾、勘解由(孝高)淵底候」と、孝高の才覚により合戦に決着がついたことを知らせています。小田原攻めが全国統一の最後の戦いとなりましたので、孝高が百年ほど続いた戦国時代に終止符を打ったといっても過言ではありません。日光一文字はそのことを象徴する記念碑的遺物といえます。

日光一文字は、もともと日光権現社(栃木県・日光二荒山神社)に奉納されていましたが、後北条家初代の早雲が譲り受け、北条家の伝家の宝刀となったものです。無銘ですが、絢爛たる重花丁子(じゅうかちょうじ)の刃文が冴えわたる備前福岡一文字派の最高傑作です。身幅の広いわりに重ねは薄い出来ですが、当初からの姿を保っています。佩表(はきおもて)には腰元から斜めに映りがすっと伸び、乱れ映りが広がっています。

黒田長政が没して約1ヶ月ほどが経過した元和9年(1623)閏8月8日、2代藩主となった黒田忠之(ただゆき)は埋忠明寿(うめただみょうじゅ)に日光一文字の打刀拵(うちがたなこしらえ)を発注しています。この拵注文によると、鎺(はばき)は印子金(いんすきん)の金無垢二重で上貝には桐紋の透かし、小刻み切羽(せっぱ)・鵐目(しとどめ)は印子金、縁(ふち)は赤銅の二面縁、鞘は藍鮫皮、目貫(めぬき)・笄(こうがい)・小柄(こづか)・鐔(つば)は黒田家より支給、栗形・返り角(かえりづの)・柄頭は角製、鐺(こじり)は真鍮の腐らかし手と、細かい仕様で注文しています。ことに文末で「右は、へし切の刀拵に少もちがい申さざる様に仕らるべく候」と、圧切長谷部(へしきりはせべ)の拵(現状の金霰鮫青漆打刀拵は江戸時代後期に安宅切の拵を模したもので、ここに記されたものと別物です)と同じ仕様で作成しようとしたことが分かります。この圧切と日光一文字の拵は残念ながら現在ともに失われていますが、往時の様子をうかがい知ることができます。江戸時代後期の黒田家の刀剣帳『御蔵御櫃現御品入組帳(おくらおひつげんおしないりくみちょう)』(福岡市博物館蔵)では、日光一文字のサヤを「御鞘黒漆、御下緒紫」「御替鞘右同」としていますので、この頃にはすでに藍鮫鞘は失われているようです。また、黒漆の2本の鞘も失われています。


蓋をあけた状態で展示している 葡萄文蒔絵刀箱
葡萄文蒔絵刀箱

『黒田家重宝故実(くろだけじゅうほうこじつ)』によると、葡萄文蒔絵刀箱(ぶどうもんまきえかたなばこ)に日光一文字の太刀を入れて氏直から贈られたとします。金蒔絵(きんまきえ)で箱の表面に葡萄の蔓(つる)が巻き付くように廻る大胆な構図です。印籠蓋(いんろうぶた)がかぶさる身の立ち上がりにも蒔絵が施されています。 見えない部分にも職人技が行き渡り、見事な作品です。

(学芸課 堀本)

国宝 太刀 名物「日光一文字」は、福岡市博物館開館30周年記念展「ふくおかの名宝」で展示中です。ともに国宝に指定されている葡萄文蒔絵刀箱も展示しています。また、「日光一文字」とともに北条家から贈られた ほら貝「北条白貝」と琵琶「青山」(ともに福岡市美術館蔵)もあわせて展示中です。

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