2022年11月25日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈015〉よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

12(「百道地蔵に込められた祈り」)

第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)

第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。




〈015〉よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた


アジア太平洋博覧会(よかトピア)が1989年9月3日に閉会すると、さっそくパビリオンが解体されて、シーサイドももちのまちづくりが本格的に始まりました。

よかトピア会場の建物で残ったのは、マリゾン・福岡タワー・西部ガスミュージアム・福岡市博物館くらいです。


ところが、この閉会直後のシーサイドももちが、キングギドラに襲われました


もちろん映画の話なのですが……。



この映画は『ゴジラVSキングギドラ』(東宝)。

脚本・監督を大森一樹さん、特技監督を川北紘一さん、音楽を伊福部昭さんが担当して、1991年12月14日に公開されました(観客動員約270万人)。




まずはあらすじを。


1992年7月1日、東京にUFOが現れます。同じ日、福岡の「シーサイド公園」では、展覧会「恐竜ワールド」がオープン。ティラノサウルスの模型の前で「自分は本物の恐竜を見た」と演説する男が取り押さえられました。男は長浜の屋台「らごす」の店主、池畑益吉(上田耕一さん)。


雑誌『ムー』などで超常現象について執筆するノンフィクションライターの寺沢健一郎(豊原功補さん)は、池畑に会うために福岡へ向かいます。屋台「らごす」で寺沢に自分の過去を話す池畑。その内容は、1944(昭和19)年2月、太平洋戦争中のラゴス島(マーシャル諸島)で、自分は恐竜に守られたというものでした。この話を聞いて、寺沢はラゴス島の恐竜「ゴジラザウルス」が、1954年の核実験によってゴジラへ変異したと考えます。


「恐竜ワールド」は巨大企業「帝洋グループ」が主催したものでしたが、その総帥、新堂靖明(土屋嘉男さん)は恐竜マニアで知られた男。実は新堂もラゴス島で恐竜に守られた1人だったのです。この事実を掴んだ寺沢に、新堂は恐竜「ゴジラザウルス」の写真を見せます。


その一方、例のUFOは富士山麓に着陸。乗っていたのは、2204年の未来からタイムワープしてきたウィルソン(チャック・ウィルソンさん)・グレンチコ(リチャード・バーガーさん)・エミー(中川安奈さん)の3人。ウィルソンたちは地球連邦機関の一員だと名乗ります。首相官邸にテレポートした彼らは、23世紀では日本がゴジラによって致命的な破壊をうけていると説明。この未来を変えるために、恐竜「ゴジラザウルス」がゴジラに変異する前に、別の場所にワープさせることを提案します。その根拠として示したのが、寺沢がこれから書こうとしている著書『ゴジラ誕生』でした。


政府に呼び出された寺沢は、エミーとともにタイムマシンに乗り、1992年7月6日(14:30)から1944年2月6日(21:00)にタイムワープします。恐竜「ゴジラザウルス」をマーシャル諸島からベーリング海にテレポートすることに成功する一行。そのかげで密かにエミーは、タイムマシンで連れてきたドラット(遺伝子操作でつくられたペットで、羽があり飛ぶことができる)3匹を1944年のラゴス島に置いていくのでした。


ところが、ゴジラが歴史から消えると同時に、キングギドラが太平洋に出現。日本を目指して飛んできたキングギドラが現れたのは福岡上空でした。福岡に甚大な被害をもたらしたキングギドラ。これはゴジラの代わりに核実験の放射能をあびた3匹のドラットが合体した姿でした。ウィルソンたちは、本当は地球均等環境会議(国家間の極端な力の差をなくそうという運動グループ)のメンバーで、21世紀以降強力になりすぎた日本の国力を弱めるために、過去を変えようとやってきたのでした。彼らの目的は、ゴジラ以上の怪獣キングギドラを生み出して操作することで、日本の国力を消耗させ、自分たちが指導する新しい日本をつくることだったのです。


このあと、時空間を超えて現代人・未来人の思惑が錯綜。さて、暴れ回るキングギドラを倒すことはできるのか、ゴジラはもう現れないのか、そして日本の未来は……。(というお話)


* * * * * * *


キングギドラに福岡が襲われるシーンでは、よかトピアが終わった頃の実際の景色と特撮が組み合わされています。この作品のDVDに収録されている大森監督・川北特技監督のオーディオコメンタリーや特典映像も参考にしながら、福岡が舞台になっている場面をふり返ってみます。


池畑が演説する「恐竜ワールド」は架空の展覧会ですが、その会場の外観は、シーサイドももちにあった西部ガスミュージアムです(2003年に閉館し、今は建物も残っていません)。

このシーンでは、西部ガスミュージアムが面しているサザエさん通りに、よかトピアで使ったシェルター(日よけのテント)がまだ並んでいて、博覧会の雰囲気を残しています。ただ、わずかに映ったパビリオンゾーンにもう建物は見えず、整地のための重機が映っていて、まちづくりが始まっている様子が分かります。

このシーサイドももちのシーンは、大森監督が3~4人でロケハンに行った際に撮ったものも使っているのだとか。ちなみに「恐竜ワールド」の建物内のシーンは、宇都宮市で開催されていた恐竜展で撮影されたものだそうです。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
よかトピアのときの西部ガスミュージアム。

池畑が寺沢に自分の過去を語る屋台「らごす」でのシーンには、今では景色が変わっている長浜の屋台街が遠景で映っています(これも大森監督のロケハン時の映像とのこと)。

屋台での大森監督の一推しポイントは、屋台の壁に貼った映画『連合艦隊』(東宝・1981年公開)のポスターなのだとか。これは東宝の会長室にあった貴重なポスターの原画なのだそうです(探しても東宝にポスターが残ってなかったらしいです……)。ちらりとしか映りませんが、店主の人物像をよく表したシーンでした。


そして、いよいよキングギドラが現れます。


DVDの特典映像で見られる川北特技監督の絵コンテでは、キングギドラの目線で福岡の風景が描かれています。

博多港から荒戸大橋を超えて福岡に進入するキングギドラ。その絵コンテでは、荒戸大橋を越えた後、わざわざ南東側から福岡タワーとシーサイドももちに向かうように、大きく矢印が描かれています。直接福岡タワーには行かず、一度旋回して、ちゃんと福岡タワーの正面に向かってきてくれるところが良いですね。

この福岡タワーのシーンについて、川北特技監督は、ここはよかトピアをやっていた場所と紹介したうえで、キングギドラと合成するために空撮をおこなったので、だいぶんお金がかかったと話されています(そのおかげで、当時の福岡の様子を空から見ることができます、ありがとうございます……)。


キングギドラは、そのまま福岡タワーに一撃を食らわしますが、幸い一部の破損だけで済みました。

このとき福岡タワーには、ウォーターフロントの会議で福岡を訪れていた、「帝洋グループ」総帥の新堂らがいました。新堂のうしろには、「SEASIDE MOMOCHI VERDE CORT 海と文化の深呼吸」というパネルが貼られていて、よかトピア後のシーサイドももちの将来図が描かれています。

このシーンで、開発中の福岡を破壊された新堂は「許さんぞ、あの怪獣め」と憤っています(これが伏線になって物語は展開していきます)。


キングギドラは福岡タワーへの一撃のみで、シーサイドももちを破壊することはありませんでした(もっとも、当時はまだほとんどが更地だったのですが……)。

それでもわざわざキングギドラをここに立ち寄らせたのは、これから福岡のランドマークになる福岡タワーを最初に見せることと、実際にウォーターフロントのまちづくりが進んでいて当時福岡のもっとも熱い場所だったからなのでしょうね。全国的には、この映画で福岡タワーを知ったという人も多かったのではないでしょうか。

ちなみに、福岡タワーのガラスに小さく映るキングギドラが飛び去る姿は、このシーンの密かな推しポイントになっています。


(撮影:加藤淳史)
現在の福岡タワー。

さて、キングギドラはシーサイドももちから天神へと向かいます。

映画のなかの実景では、天神コアや開業したばかりのイムズ(1989年4月開業)・ソラリアプラザ(1989年4月開業)が見えます。一方で、イムズに隣接する愛眼ビルは旧建物のまま、福岡市役所西側ふれあい広場は工事中、ソラリアステージ(1999年開業)や三越が入るソラリアターミナルビル(1997年竣工)はまだありません。


このシーンの絵コンテでは、天神コアの屋上看板やイムズの三角の屋根が描かれていて、ここがキングギドラの攻撃ポイントとして当初から想定されていたことが分かります。キングギドラが口から吐く引力光線でイムズは大破し、現在三越がある辺りも破壊されてしまいました。

川北特技監督によると、キングギドラの天神襲撃は、映画『空の大怪獣 ラドン』(東宝・1956年公開)で、ラドンが岩田屋(現在のパルコの場所)を襲ったシーンをオマージュしたものだったそうです。


天神を破壊したラドンについては
『市史だよりFukuoka』第12号をご覧ください。
→ 第12号「ひとくちコラム/天神壊滅の日?!」(P.4)

その後、キングギドラは中洲方向へ。これにより、中洲から現キャナルシティ方面が甚大な被害を受けました(ただキャナルの開業は1996年なので、まだこのときは映っていません)。

福岡市には避難警報が発令され、最寄りの地下街・地下道への避難が呼びかけられます(もちろんフィクションですが……)。キングギドラが飛び回るなか、西中島橋や福博であい橋などを逃げる人びとが映し出され、緊迫したシーンになっています。この西中島橋などで逃げている人びとは、東宝九州支社のスタッフを総動員したとのこと。大森監督もこの撮影には同行されていて、大変楽しかったのだそうです。


中洲襲撃のシーンは、特撮風景がDVDに特典映像として収録されていて、ミニチュア模型の中洲のまちを見ることができます。

天井から吊られて、ミニチュア福岡の上空を飛びまわるキングギドラが、思っていたよりも大きくて驚きです。このキングギドラの着ぐるみは、4万枚以上のうろこでおおわれていて、70日で制作する予定だったところを、時間の都合で40日間に短縮してつくられたのだとか(あの迫力のあるシーンの裏には、大変なご苦労があったのですね……)。

川北特技監督は、中洲のシーンはミニチュアと実景を使いわけて、うまく撮ることができたと自負されています。



こうしてみると、怪獣の襲撃という形で、シーサイドももちが天神・博多にならぶ福岡の顔としてお披露目されたことが分かります。

これにより、よかトピアが終わったあと、今度は映画館で全国に福岡タワーやシーサイドももちを知ってもらう機会になりました。


先日、この『ゴジラVSキングギドラ』の監督、大森一樹さんの訃報に接しました。

『ゴジラVSキングギドラ』から30年を超えて、今福岡はまた大きく姿を変えようとしています。怪獣映画に限らず、新しい福岡を大森さんならどういう物語のなかで撮られるのか、それをもう観られなくなったことが大変残念な思いです。

心よりご冥福をお祈り致します。




【参考文献】

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・DVD『ゴジラVSキングギドラ』(東宝株式会社)

・東宝映画資料データベース https://www.toho.co.jp/movie


#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #ゴジラ #キングギドラ #大森一樹

 

Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル]

2022年11月18日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈014〉あゝ、あこがれの旧制高校

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

12(「百道地蔵に込められた祈り」)

第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。



〈014〉あゝ、あこがれの旧制高校


以前このブログで、百道の元寇防塁跡に護国神社を誘致したいという動きがあった、というお話を紹介しました(→〈010〉「元寇防塁と幻の護国神社」)。


実はこの手の誘致話、まだほかにもあったんです。


* * * * * * * 


大正時代の初め、福岡には旧制高等学校なく、これを誘致しようという話が持ち上がっていました。

旧制高等学校とは、帝国大学への進学などのための予備教育的な機関であり、福岡県にとってもその誘致は悲願でした。


そこで問題となったのは「どこに建てるか」です。

学校となると、ある程度の広さが必要になりますし、旧制高校となれば環境も大切です。


この当時、まだ福岡市ではなかった西新町は、明治33(1900)年に中学修猷館ができ(現在の県立修猷館高校、大名町から移転)、その後道路の拡張や軌道(電車)の敷設など、新しい町としてのスタートを切ったばかりとも言える時期でした。

そこで大正8(1919)年3月、当時の西新町長岸原佳哉をはじめ町会議員一同ら有志は、この機運に乗り遅れまいと西新町に旧制高等学校を誘致するため、活動を開始します。

候補として選ばれた場所は、中学修猷館の北、百道海水浴場西側の百道松原一帯でした。


(「福岡博多及郊外地図」福岡県立図書館所蔵)
大正9年の地図を見ると、中学修猷館の北側は広大な松林。
これはたしかに何かを誘致したくなりますね。
ちなみに西新小学校も移転前(大正15年に現在地へ移転)。


現在の地図で見るとこの辺り……?


西新町がアピールしたポイントはこうです。

・近隣に福博電車や北筑軌道が走り、今川橋終点からも5丁(約550m)ほどと近く、九州帝国大学にもそこから電車1本で行けるほど交通の便がいい

・中学修猷館や西南学院中学に隣接しているので、教育上も文教地区としての利便性が高い

・なにより白砂青松の景勝地を控え、環境がいい

(大正8年3月18日『福岡日日新聞』朝刊7面記事「高等学校の新候補地 西新町百道松原地内 有志の運動開始』より要約)


さらにこの時、彼らは修猷館正門側の道路を拡張、並木通りに改造して、それを隔てた東側に寄宿舎を設けるといった計画(夢)にまで言及しています。

これはまるで現在のサザエさん通りの姿そのものです。

また、この誘致活動には地元の有志に加え、一時は眞野九州帝大総長や元衆議院議員の藤金作も賛同したと伝えられました。


道路拡張……並木通り……。

その後、誘致合戦は報道も二転三転する中、5月の報道では候補地が第8候補まで増えています。

 ① 早良郡鳥飼村

 ② 同郡鳥飼村・樋井川村区内

 ③ 同郡鳥飼村・樋井川村区内

 ④ 同郡西新町

 ⑤ 同郡西新町

 ⑥ 筑紫郡八幡村

 ⑦ 糟屋郡大川村・仲原村区内

 ⑧ 糟屋郡大川村

(大正8年5月14日『福岡日日新聞』朝刊2面記事「高等学校敷地」より要約)


②・③と④・⑤は重複なのか、はたまた複数候補があったのか分かりませんが、いずれにしても県は西新町を鳥飼に次ぐ候補地として、文部省との交渉に当たったようです。


そんな中、渦中の安河内福岡県知事は各候補地について、次のように述べました。

・平尾の候補地からは遊郭が見えるのでよくない

・鳥飼村谷は埋め立てなどの工事に費用がかかりそうだ

・交通の便を考えなければ、環境は粕屋方面がよい

・大川村は高地、仲原は田地だが、早良郡方面に比べて土地代が安い

・教授の通勤は車というわけにはいかず、交通の便は重要となるため、結局福岡市の近くがよいか

・百道松原は保安林なので、高等学校のような大きな建物であれば防風の面から見ても良いし、同所は地質が建築に適しているので工費も省けそうだ

(大正8年6月13日『福岡日日新聞』朝刊3面記事「高等学校敷地 安河内知事談」より要約)


この談話からは、西新町もなかなか好感触なのでは?!と思ってしまいますが、結局は鳥飼村に決定したため、西新町に高等学校がつくられることはありませんでした(大正11年開校)。


ちなみに福岡旧制高等学校は戦後、新制九州大学の発足とともに「九州大学福岡高等学校」となりますが、その後廃校となり、その跡地には九州大学分校、そして教養学部が建ち、現在では六本松の中心地として、「六本松421」が建っています。

すっかり福岡の新名所となった六本松421。
大学があった頃の風景とはすっかり変わってしまいました。


六本松の九州大学跡地に建つ「青陵乱舞の像」。
旧制福岡高等学校を偲び、同窓会によって建てられました。
上の写真の左隅のあたりに建ってます。

高等学校誘致という大事な局面で、西新町が百道を候補地に選んだ背景には、西新町という新しいまちの中で交通の便が良い上に開発の余地があり、なにより白砂青松の景勝地を控えている素晴らしい環境という事が大きなポイントになっていたようです。


* * * * * * * 


もちろんこれは「たられば」の話です。

でも誘致活動が成功し、旧制福岡高校が西新町にできて、そしてそのまま九州大学の一部が建っていたら……。

もしそんな世界線があったなら、西新は一体どんなまちになっていたのでしょうね?



#シーサイドももち #西新町 #幻の旧制高等学校 #あったかもしれない歴史

 

Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル]

2022年11月16日水曜日

The 34th Annual Exhibition of New Acquisitions

Feature Exhibition Room

October 25th, 2022 ~ January 15th, 2023


Fukuoka City Museum has continued to collect materials in the fields of archaeology, history, folklore and art since the establishment of the Fukuoka City Museum's Preparatory Office in 1893, seven years before the museum opened. The museum has collected more than 180,000 items through donations, deposits and purchases.

In order to ensure that the collected items are passed on to future generations properly and securely, and that they are effectively used for exhibitions and study, the museum researches and organizes all newly collected materials and annually publishes a list of them in the "Collection Catalog." In conjunction with the publication of the catalog, the Museum also holds the “Annual Exhibition of New Acquisitions” to provide Fukuoka citizens with an opportunity to learn about the Museum's activities.

This year's exhibition, the 34th edition of this series, showcases approximately 80 items related to the history and daily life of the people in Fukuoka City. The exhibits are carefully selected from 3,793 items collected in 2019, as listed under No.37 in the "Collection Catalog."

This exhibition is divided into four chapters: Admiring, Believing, Thinking and Learning, which evoke emotions and thoughts in the viewer.

1. Admiring

This chapter focuses on arts and crafts. You will see not only their beauty, but also their production techniques.

Hakata Doll, Bodhidharma by Harada Kahei.


Armor of Kiriyama Tanba.
The helmet is luxurious, decorated with the shapes of
a gold-lacquered bottle gourd on its top and crab claws on both sides.
   

2. Believing

This chapter displays a selection of items related to faith. Each of these materials conveys not only inner strength but also people’s feelings, and provides us a clear window into the emotional and spiritual bond they felt with these objects.

Line-engraved stone with the Buddhas image enshrined in Kanetake, Nishi ward, Fukuoka city.
The flat, smooth stone is engraved with the image of Nyorai Buddha,and the back of the stone
 says that it was dedicated in 1179 by Ryoshin, a Buddhist priest.


Former sacred, wooden statue from Kamiakizuki Shrine in Asakura City,
dedicated to Sakata Echigo-no-kami, who served the Akizuki clan during the Warring States period.

3. Thinking

In this section, we exhibit materials that trigger our remembrance of the past and of people of the past. Items that show what people in the past were thinking and feeling are also important to the museum collection.

Hakata-chanpon, a glass toy, generally called a "vidro,"makes a sound when you blow into the tube.
The tip of a regular Hakata-chanpon is bell-shaped, but these are shaped like a drum and a raccoon dog.

Imperial Japanese navy hat used by the contributor's father,
who became a petty officer in the Navy during the war.

4. Learning

In this chapter, we showcase a variety of records and tools from the past. They are strong reminders that we should learn more about Fukuoka's people and culture, and preserve its history and memory for the future.

Potter’s kick-wheel for the production of Noma ware, which was produced until around 1975.
It is literally a potter’s wheel that is turned by people with their feet.

Daimaku, a curtain used in Hakata Gion Yamakasa, a famous summer festival in Hakata. The pattern depicts a samurai wearing a braided hat and dancing in imitation of a sparrow, a popular "sparrow dance" in the Edo period. During the festival, the curtain was draped around the town's station for the festival participants, and became a familiar symbol of the town.



2022年11月14日月曜日

博物館オンラインツアーを行いました!

 

福岡市博物館では先日、市内の院内学級の児童さんに向けて

「博物館オンラインツアー」を行いました。

これまで、封泥体験や民族楽器づくりをオンラインで行ったことはありましたが、館内や展示室のツアーは初めて。

たくさんの展示資料のなかから、授業で習ったことなど、参加する皆さんに興味をもってもらえそうな資料、ポイントを、事前に教育普及チームと先生とで話し合いました。

当日、実際にご紹介したものの一例はこちら↓

・グランドホールにあるユニバーサルなもの(車いすや多目的トイレ、エレベーターなど)

・博物館の壁に隠された化石(階段の壁の所にあります。知らない方も多いのでは?)

・アジア各国を中心に収集してきた多彩なモノが並ぶ「みたいけんラボ」

・常設展示室で皆さんを最初にお迎えする国宝 金印「漢委奴国王」

・野多目遺跡で発掘された縄文時代のどんぐり(当時は大切なエネルギー源でした)

籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる細い木の棒(ツアーでは、この棒の使われ方がクイズになりました。答えは、なんと、トイレットペーパー!)

・様々な種類の江戸時代の小判

・展示室の最後を飾る、博多祇園山笠の「舁き山」 などなど


盛りだくさんの内容で、30分を少し超えるツアーとなりましたが、先生によると、児童さんそれぞれのペースで楽しんでくださったとのこと。

授業で学んだことも、実際の資料や、当時の人たちの暮らしを伝える展示を見ることで、歴史をより身近に感じたり、何か新たな発見につながったりするかもしれません。

会話やミニクイズに答えながら、楽しく学べるところもいいですね!

「舁き山」の大きさを体で表現する教育普及担当(楽しそうですね)

参加してくださった皆さん、ありがとうございました。


外出が難しい方にも博物館を楽しんでいただけるよう、福岡市博物館の教育普及チームは、それぞれのニーズに合わせたオンライン出前授業をご提案いたします。

ご興味のある方は、ぜひお気軽にご相談ください。

 博物館ではそのほか、

「おうちDE!展示室観覧

「おうちDE!よんでみよう

「おうちDE!ワークショップ

など様々なコンテンツをホームページで紹介しています。

こちらも、ぜひご覧ください。

◆「おうちDE福岡市博物館!」詳細はコチラ↓

http://museum.city.fukuoka.jp/topics/ouchi-museum/


2022年11月11日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈013〉よかトピアのパンドールはアジアへの入り口

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

12(「百道地蔵に込められた祈り」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。




〈013〉よかトピアのパンドールはアジアへの入り口


アジア太平洋博覧会(よかトピア)が、同時期のほかの地方博覧会と大きく違っていたのは、アジアの景色や人びとの生活をそのまま再現したことでした。


会場では、南ゲートから入って、テーマ館(福岡市博物館)を右に見ながら、福岡タワーに向かってメーンストリート(今のサザエさん通りです)を歩いていくと、まずは企業のパビリオンが並んでいます。

さらに進むと川が現れて、その向こうには、アジアの植物・動物・建物・暮らしが広がる「アジア太平洋ゾーン」がありました(ゾーン内の詳しい様子は書籍『シーサイドももち』P100~106でご紹介しています)。

入場者は、突然福岡に集結したアジア各地の景色に囲まれ、まるで海外旅行に行った気分になれました。


このアジア太平洋ゾーンの入り口になっていたのが「パンドール」。

(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)

この写真の下の方に写っているのが、パンドール(正面)です。

その向こうには丸い「であいの広場」(→〈011)があって、福岡タワーも見切れていますね。


ちなみに裏はこんな感じ。

(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)


写真を見ても、とても大きなものだったことが分かりますが、高さが約20メートル幅が約16メートルもあります。


全体の位置からすると、このあたりでした。

(市史編さん室作成)

今のシーサイドももちだと、ちょうど2つの放送局(RKB・TNC)に挟まれた広場あたりですね。

よかトピアを訪れた人は、アジア太平洋ゾーンと企業パビリオンのゾーンを行き来するために、1度は必ずこのパンドールを通ったはずです。


本来、パンドールはスリランカのお祭りで飾られるものです。

スリランカでは、5月の満月の日(ポーヤ・デー、ポヤ・デー/Poya day)に、お釈迦さまの人生(誕生・成道・涅槃)を記念するベサック(ヴェサック、ウェサック/Vesak)というお祭りが開かれます。

街中にランタンや灯籠が並んで、とても華やかなのだそうですが、パンドールもそのときにまちに飾られるのだとか。


なので、よかトピアのパンドールもお釈迦さまの絵が描いてある訳ですね。なるほど。

確かによく見ると、お釈迦さまのいろいろな場面が描かれています。


このよかトピアのパンドールについては、当時アジア太平洋ゾーンの野外展示を担当した貞刈厚仁さんの本に詳しくその経緯が載っています。


それによると、アジア太平洋ゾーンの展示物を探しにアジア各国を訪れるなか、スリランカでこのパンドールをご覧になって、展示を決めたとのこと。

現地のパンドールは竹製のやぐらに絵を貼り付け、シンプルな電極装置で電飾をつけるものらしいのですが、博覧会では安全面を考慮して鉄骨でつくり、電飾もコンピューター制御にしたそうです(これだけ大きなものを会期中の約半年間、野外に置いておくのですから、その実現には大変なご苦労があったわけですね……)。

制作にあたっては、1989年1月下旬、スリランカの都市コロンボから3人の職人さんが来福して、日本の業者さんと共同で52日間かけてつくりあげました。

スリランカの方々はパンドールが福岡の博覧会に展示されることをとても喜ばれたそうです。


貞刈さんの回想からは、その制作過程で現地の方々とのふれあい・信頼・協力が生まれて行く様子がよく分かります。

よかトピアのテーマの1つ「であい」は、博覧会の準備段階からすでに始まっていたのですね。


このパンドール、昼もとても目立ったのですが、日が落ちて電飾がともりその姿が浮かび上がると、さらに迫力があって、福岡タワーとならぶよかトピアの夜景の名物でした。


夜はこんな様子です。

(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)




この電飾は会期中にクイズにもなっています。


このクイズへの応募は、官製ハガキ(郵便事業が民営化された今となっては懐かしい言い方ですね……)で、6月18日を締め切りにアジア太平洋博覧会協会「パンドール係」で受け付けられました。

正解者には抽選で、ペア1組にスリランカ賞(スリランカ1週間の旅)、99人にパンドール賞(セイロンティー)がプレゼントされました。


さて、その正解は…













【正解】2万個


応募総数は526通、そのうち正解は445通でした。

ちなみにスリランカ旅行は、7歳のお子さんに当たりました。


それにしても、2万個も電球がついていたら、メンテナンスも大変だったことでしょう……。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)






【参考文献】

・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・草場隆『よかトピアから始まったFUKUOKA』(海鳥社、2010年)

・貞刈厚仁『Ambitious City―福岡市政での42年―』(松影出版、2020年)

 

#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #パンドール #スリランカ

 

Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル]

2022年11月4日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈012〉百道地蔵に込められた祈り

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。





〈012〉百道地蔵に込められた祈り


かつて百道の浜の近くに「百道地蔵」というお地蔵さんがあった事をご存知でしょうか?

場所はよかトピア通りの裏手、現在ではマンションが建ち、その面影はありません。



西新公民館横、地下鉄西新駅7番出口から地蔵跡地まではこんな感じです。
(地蔵の場所は最後の電柱の場所あたりです)


10年ほど前までは地蔵跡地の碑がありましたが、こちらもマンションの建設によってなくなってしまいました。

(2007年撮影)
移転後、しばらくは碑が建てられていました。

この百道地蔵建立の背景には、百道海水浴場にまつわる悲しい出来事がありました。

※ 藤崎にある百道地蔵は「藤崎百道地蔵」といって、また別のお地蔵さんですので、あしからず……。



海水浴場の水難事故

百道海水浴場は、大正7(1918)年の開場から昭和40年代に閉鎖されるまでの約50年間、福岡市内のみならず遠方からも海水浴客が訪れる、大変人気の高い海水浴場でした。

(絵葉書「(福日主催)百々道海水浴場」より)
戦前の百道海水浴場の様子。
ここはたくさんの人が集まる人気の場所でした。

とはいえ、水のレジャーにつきものの水難事故が多く起こっていた事も事実です。

戦前の百道海水浴場での最大の水難事故は、大正15(1926)年7月28日に起きました。

しかもこの事故は、福岡女子高等小学校の夏季聚楽(林間学校)で起こったのです。


(絵葉書「福岡女子高等臨海学校 学習」)
福岡女子高等小学校の夏季聚楽(林間学校)の様子です。
水泳だけでなく、松林のテントでの学習の時間もありました。

その年の林間学校は7月17日から28日まで。全生徒160名ほどが参加し、28日はその最終日の納会として、競泳や浅瀬での宝探しなど楽しい余興が行われていました。


(絵葉書「福岡女子高等臨海学校 寶探し」)
宝探しは海の中に桃や玉を撒いてそれを探すというもの。
当時はよく行われていました。


事故のあらまし

納会の最中、多くの人に揉まれて30名近くの児童が溺れてしまいます。

同行した教員や居合わせた福岡市医師会のスタッフ、あるいは遊泳中だった海水浴客らが協力して救助を行いましたが、そのうちの児童5名が命を落としてしまったのです。

また助かった他の児童も蘇生処置を必要としたほどの重大事故でした。


事故の一報は、その日開かれていた市会(市議会)にも報され、当時の時實市長や久世市会議長らは議会閉会後に現場へ弔問に急行。後日市として弔慰金を贈るなどの対応を取っています。

市会はその他にも、救助に尽力したとして、市医師会と海水浴場を主催する福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社の前身)に対し、市会の決議をもって感謝の意を表明しました。


一方、同行していた校長は涙ながらに「教育者としての私の生命も亡(ほろ)びました」と新聞に語り、後日辞表を提出。ほかの全職員も責任を取り1ヶ月分の減給と、遺族に対して弔慰金を贈った事などが報じられました。



盛大な葬儀と慰霊祭

学校ではこの事故を受け、犠牲となった児童の葬儀を「学校葬」として校庭で執り行いました。

葬儀には、職員・児童のほか市内の他の高等女学校代表や、市長代理として助役や市会議員、また一般の人もあわせると約3000人が参列したといいます。

時實市長、久世市議会長もそれぞれ弔辞を出し、市長弔辞は全文が新聞に掲載されました(大正15年8月1日『福岡日日新聞』朝刊3面)。


一方で、海水浴場を主催する福岡日日新聞社でも、この事故で犠牲になった児童と、これまで水難事故にあった人たちの霊を慰めるため、8月7日から3日間にわたり、盛大な慰霊祭を行いました。

慰霊祭は、百道海水浴場の浜辺約100坪を使い、大テントを張って祭壇を設け、そこには海の幸や山の幸、あるいは福岡市が寄贈した御神酒や篤志家による供物や花輪が供えられました。

その様子を伝えた新聞記事によると、式は住吉神社と香椎宮の宮司が執り行い、さらには竈門神社、筥崎宮、太宰府天満宮からも宮司や関係者が参集した、とても大がかりなものだったようです。



百道地蔵の建立

その後もこの痛ましい事故は人々の記憶に残り、海で亡くなった人たちを弔うため、昭和18年に「中村屋」という海の家の中村与八郎さんによって「百道地蔵」が建てられました。

百道地蔵について地元の人は、「此処のお地蔵様は日によって顔の表情が変わられる」といい、いつも誰かがお花を供えるなど、とても大事にされていたそうです。


* * * * * * *


現在、百道地蔵は博多区にある崇福寺の心宗庵に移され、大切に祀られています。

その表情は優しく、隣には松の木が植えられていて、まるで水難事故で亡くなった人たちの霊を慰め、また海で楽しむ人々を見守ってきた往時の姿を思い起こさせるようでもあります。


崇福寺に移された百道地蔵。隣には松の木が。


【交通案内】

崇福寺/福岡市博多区千代4丁目7番79号

[西鉄バス]西鉄バス「千代町」より、徒歩約5分

[福岡市地下鉄]千代県庁口駅[H03]7番出口から徒歩約5分


【参考資料】

『福岡日日新聞』

・大正15年7月28日夕刊2面「福岡高等女学校 女生徒廿八名溺る 内五名は哀れ絶息 百道夏期聚落納会の惨事 医師会救護班の大活動」

・大正15年7月30日夕刊2面「哀れな五少女の遺族へ 福岡市から弔慰金を贈る」

・大正15年8月1日3面「真夏の陽も光鈍く 痛ましき五少女の校葬 三千の会葬者涙に暮る」

・大正15年8月6日3面「慰霊祭の準備を急ぐ」

・大正15年8月8日3面「厳かな百道慰霊祭―昨夕より― 五少女のみ霊安らかに眠れと 山の幸海の幸くさぐさ供えへ」

・大正15年8月10日夕刊2面「百道慰霊祭 厳かに終る 昨朝の納祭最終行事 稀に見る大仕掛の大祭無事済む」

西新公民館歴史研究会『西新町の歴史(1)歴史物語散歩』(西新公民館、1986年)


※ 絵葉書はすべて福岡市史編集委員会所蔵。




 

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Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル]