2022年12月23日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈019〉西新と愛宕の競馬場の話。

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

12(「百道地蔵に込められた祈り」)

第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)

第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)

第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)

第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)

第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)

第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」) 

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。





〈019〉西新と愛宕の競馬場の話。


今年もいよいよ終わりが近づいてきました。1年は早いものですね。


さて年末の風物詩といえば、やっぱり有馬記念

いわずと知れた、日本中央競馬会(JRA)による中央競馬の重賞競走(GI)です。今年も12月25日(日)に千葉県船橋市の中山競馬場で開催が予定されています。暮れの風物詩として毎年楽しみにしている方も多いのではないでしょうか。

とはいうものの、筆者は競馬にはさほど興味があるわけではないのですが、曾祖父がとにかく無類の馬好きだったらしく、そのせいか有馬記念など大きなレースはテレビやラジオでなんとなく気にして見てしまいます。


競馬はご存じのとおり、競輪・競艇・オートレースとともに「公営競技」と呼ばれ、公的賭博を目的に開催されているプロスポーツです。

農林水産省によれば、令和3年の競馬開催は中央競馬で288日、その売り上げは中央競馬で3兆1080億円、地方競馬で9933億円に上りました。すごい!

競馬場への入場者はコロナ禍以降激減したものの、インターネット投票などが好調だったので、売上げ的には右肩上がりのようです。

全国にある競馬場の数は、同じく農林水産省によると、中央競馬で10ヶ所、地方競馬で17ヶ所。場外馬券売場にいたっては177ヶ所も開設されています。

昨年の競馬人口はのべ1億8000万人近くにもなるそうで、競馬は北海道から九州まで、日本全国津々浦々で楽しまれています。


いけぇぇぇぇーー! させぇぇぇぇーー!!


さて現在は賭博がメインの競馬ですが(もちろん賭けずに馬を愛でるのが目的の方も多いでしょうが)、日本競馬は神社とも深く関係しています。

馬が登場する神事としては流鏑馬などが有名ですよね。現在でも全国各地の神社で行われています。福岡では飯盛神社(西区)香椎宮(東区)などが有名です。

同じように競馬も神事として行われていて(奉納競馬)、京都の賀茂別雷神社(上賀茂神社)では「競馬会神事(くらべうまえしんじ)」として、現在も続いています。


こちらは下鴨神社の流鏑馬。カッコイイですね。


またかつての競馬は神社のお祭りの余興としても、各地で行われました。

近いところでは、西区にある愛宕神社の春季大祭の際に余興として競馬が行われ、毎年大勢の人が競馬を楽しんでいたようです。




……え、愛宕神社で競馬? 一体どこで???


愛宕神社は愛宕山に鎮座しています。
さすがに山には競馬場はないと思うけど……?


その場所は、愛宕神社からはちょっと離れた西新の海辺

西南学院大学博物館の近く、今では大型マンションが立ち並ぶ一帯に、かつて競馬場がありました。この辺りはすこし低地になっていて、大正2(1913)年まで紅葉八幡宮があった場所の裏手(北側)に当たります。


大正時代の地図を見ると、なんだか不思議な輪っかが描かれているのが分かります。これが競馬場です。この競馬場で愛宕神社の春季大祭の余興競馬が行われていました。


(福岡県立図書館所蔵「福岡市及近郊實測図」昭和元年、部分)
不自然に楕円形の何かが描かれています。


現在の住所でいうと、早良区西新2丁目付近です。

上の地図は厳密な部分まで正確ではないものの、現在のよかトピア通りが上の地図の海岸線と思って見ていただくと、その位置関係が分かりやすいかもしれません。


コチラからもご覧いただけます。→ Googleマップ



昭和48(1973)年に西新小学校がつくった『西新―福岡市立西新小学校百周年記念誌―という本(すばらしい本です)には、明治や大正時代の思い出話がたくさん掲載されているのですが、その中に「大正時代の風物詩」として、次のような一文がありました。


(略)草競馬、現在百道海水浴場の南、西南中学の東一帯で秋には定期的に催されていました。(略)正月の愛宕さまの祭り奉納競馬は霰降る寒風の中で百道の競馬場で行はれ、大西の肥前屋、松田の馬車馬で騎手は馬ちゃん、万ちゃんが夫々(それぞれ)人気者でした。


「大西」とは西新の古い地名で、現在の早良郵便局の南側(商店街側)あたり。

「肥前屋」とはそこにあった酒造所、「松田」とは恐らく同じ大西にあった醤油屋のようで、そこの馬車馬が出走し、騎手はそれぞれ「馬ちゃん」と「万ちゃん」という人が人気だった、ということでしょう。

西新の皆さんにとっても競馬が身近にあったことがよく分かります。


また、さきほどの引用からも分かるように、この西新の競馬場は愛宕神社の競馬専用ではなく、競馬会による競馬草競馬も頻繁に行われていました。

かつては政府や軍が軍馬の育成や品質の向上を目的に競馬を奨励していたこともあって、さまざまな競馬団体や競馬会社がありました。

これらの団体が主催する競馬が、神事以外でも西新の競馬場で開催されていたのです。

たとえば、明治43年には「西新町競馬会社」なる団体の主催により「獣医左座養貞氏古稀祝賀」として、西新の競馬場で競馬会が行われました(1月9日・10日)。この時の出馬は「百余頭」に達し、当時の連隊の司令官なども来賓として見学したといいます。


このように、西新の競馬場では愛宕神社大祭の余興競馬を中心としてさまざまな競馬が行われ賑わいましたが、大正14年に愛宕神社に程近い室見川左岸に競馬場がつくられたことで会場がそちらに移ってしまい、それ以降は他の競馬についても西新ではほとんど開催されなくなったのだそうです。



……とはいえ、この新設競馬場については新聞報道以外に記録が見当たらず、詳しい事が分かりません。

新聞記事によると、この競馬場は姪浜町の有志が発案、「福博乗馬俱楽部」と提携して話が進み、姪浜町会が賛助して、大正14年1月23日に開場したそうです。

競馬場は室見川左岸につくられ、馬場の延長は半マイル(約804.5m)、審判・観覧席や投票場を擁した立派なもので「愛宕競馬場」と名付けられたといいます。

現在の競馬場の広さは、中央競馬で1600m以上、地方競馬で1000m以上とされていますから、地方競馬場よりもやや小ぶりとはいえ、なかなかの規模です。


というか、そもそもそんな規模の競馬場が愛宕下の一体どこに建てられたのか、気になって調べてみました。

記事には愛宕競馬場は「浦山崎」につくられた、とあるので、現在の愛宕1丁目付近になるはずです。


コチラからもご覧いただけます。→ Googleマップ



該当する部分を、愛宕競馬場ができた後と思われる昭和元年の地図で見てみます。


(福岡県立図書館所蔵「福岡市及近郊實測図」昭和元年、部分)
……ない。なにもない。

残念ながら、地図にそれらしい記述は見当たりません。


現在ではすぐ近くに福岡都市高速道路外環状道路が走り、周辺には家々が建ち並ぶ完全な住宅街になっています。

まったくその形跡も痕跡もない愛宕競馬場。その謎は深まるばかりです。


現在の室見橋西詰交差点。この付近に競馬場が……?



一方、西新の競馬場は昭和になるとかつてのように競馬が開催されることはなくなりますが、敷地はそのまま空き地として残りました。

この場所はその後、昭和17年の「大東亜建設大博覧会」の会場となって利用されることになるのですが、その話はまた次の機会に……。





【参考文献】

農林水産省ホームページ 畜産局>競馬 https://www.maff.go.jp/j/chikusan/keiba/lin/index.html

競馬の概況(PDF) https://www.maff.go.jp/j/chikusan/keiba/lin/attach/pdf/index-9.pdf

JRAの概要 成長推移 https://jra.jp/company/about/outline/growth/pdf/g_22_01.pdf

明治43年1月12日『福岡日日新聞』朝刊5面「西新町競馬会」

大正14年1月10日『福岡日日新聞』朝刊3面「姪浜愛宕下に新競馬場」

『西新―福岡市立西新小学校百周年記念誌―』福岡市立西新小学校創立百周年記念会、1973年



#シーサイドももち #競馬 #西新の競馬場 #愛宕競馬場 #愛宕神社

 

Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル]

2022年12月16日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈018〉天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

12(「百道地蔵に込められた祈り」)

第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)

第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)

第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)

第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)

第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。




〈018〉天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」


アジア太平洋博覧会(よかトピア)の会場には、2つの入り口がありました。


1つは、公共交通機関(福岡市地下鉄や会場バスターミナル発着の路線バスなど)でやってきた入場者が通る南ゲート

今の福岡市博物館(よかトピアのテーマ館)のすぐそばにあって、正面にパンドール(→〈013〉「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)や福岡タワーを望む入り口でした。

ゲートを入ると、モニュメント「ウォーターランド」(菊竹清文さんの作品)が迎えてくれました。

この「ウォーターランド」は今も同じ場所に立っていて、当時の景色を思い出させてくれます。

サザエさん通りで写真を撮るときの定番スポットにもなっていますね。


photo by 加藤淳史


もう1つは、自家用車や観光バスの駐車場から会場に入る東ゲート

当時は今の福岡PayPayドームヒルトン福岡シーホークの一帯が駐車場になっていて、そこからよかトピア橋を歩いて渡り、この東ゲートを通って入場していました。


(市史編さん室作成)

東ゲートから入ると、モニュメント「飛翔」が迎えてくれました。

ただ、こちらは南ゲートとは違って、今ではすっかり景色が変わっています。

東ゲートは今のAIビル富士通九州R&Dセンターがある辺りにあったのですが、もう当時の面影はなく、「飛翔」の姿も見あたりません。


コチラからもご覧いただけます。→ Googleマップ


東ゲートから入場した人は、必ずこのモニュメント「飛翔」を目にしたはずなのですが、実はあまり詳しい記録が残っていないのです。

そのため、『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』を編集したときも、誌面に載せることができないままになってしまいました…。


矢印のところに写っているのが「飛翔」です(この写真じゃ全然見えない…)。

(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)

『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』には、少しだけですが「飛翔」の写真と概要が載っています(181ページ)。

それによると、12メートル四方の波状の植栽のなかに、高さ4.5メートルの石製のモニュメントが立つ作品で、九州産業大学・九州造形短期大学が制作したとのこと。

波状の植栽は太平洋を表していて、アジア太平洋の希望に満ちた将来をイメージしたモニュメントだったそうです。

ただ、設計者などの詳しい記述はありません。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)

ところが、この『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』の別のページを見ていたときに気付きました。

閉会したあとの施設について説明したページ(442ページ)に、「天神中央公園に設置されたモニュメント「飛翔」」「中村産業学園寄贈」と記した写真が載っていたのです。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)

今もまだある! しかも天神に??



これは見に行かなくてはと、さっそく天神中央公園に出かけて行きました。


天神中央公園は福岡市中央区天神のど真ん中、北側にはアクロス福岡、西側には福岡市役所があります。

人気の飲食店が入るハレノガーデンやレトロな旧福岡県公会堂などもあって、いつもたくさんの人で賑わっています。


コチラからもご覧いただけます。→ Googleマップ


もともとは福岡県庁があった場所ですので、その石柱を噴水広場に残していたりはするのですが、「飛翔」には見覚えがなく、頼りはさきほどの移設時の写真のみ…。

この写真の奥の方には、先端の形が特徴的な大同生命福岡ビルが写っていますので、方角からすると公園の北西にあるはずです。


しばらく公園をうろうろしていたら、ありました!


福岡市役所側の道路に面した植え込みのなかに、写真で見た「飛翔」らしき姿を見つけました。


近寄ってみます。



やっぱり間違いなく「飛翔」です!!


興奮しながら、しばらくたくさん写真を撮ってしまいました…(だいぶん怪しい人だったと思います)。





ただ、我に返ってよく見ると、なにか違和感が…。

もう一度よく移設時の写真と比べてみると、太平洋を表した植栽がなくなっていて、モニュメントの方向も変わっています

どうも、のちに場所が少し動いているようです。

まわりを見渡してみましたが、よかトピアのモニュメントであることを示した説明板もありませんでした。


作品の一部である植栽がなく、大きな木に囲まれて当時の姿とはだいぶん様子が変わっていますので、かつてよかトピアで目にされた方であっても、気付かないかもしれないですね。



もっとこの「飛翔」のことが知りたくなってしまい、制作した九州産業大学にダメ元で問い合わせてみました。

そうしたら、なんと造形短期大学部(旧九州造形短期大学)の事務室のみなさまがわざわざ調べてくださいました!(不躾な問い合わせだったのに、ありがたいことです…)


しかも、造形短期大学部の学長室には「飛翔」の模型があるとのこと。


事務室の方が送ってくださった写真がこれです。

九州産業大学造形短期大学部の学長室に飾られている「飛翔」の模型
(撮影は造形短期大学部事務室)

後日、この模型を見せていただいたのですが、手に持てる大きさながら、石製なのでかなり重くて、持つのがやっとなほどでした(ちなみに3分割できるようになっていました)。


そして造形短期大学部の小田部黃太(こたべこうた)学長が、みずから当時「飛翔」を制作された先生方にご連絡してくださいました(ご厚意に感謝するばかりです。ありがとうございました)。


制作されたのは、当時の九州産業大学・九州造形短期大学の先生で、彫刻をご専門とされるお二方。

木戸龍一(きどりゅういち)先生河原美比古(かわはらよしひこ)先生とのことでした。

お二人とも今は大学を退職されていたため、木戸先生には小田部学長がお電話で当時のことを聞いてくださり、河原先生には学長のお取り計らいで直接お会いする機会に恵まれました。



河原先生は、ご退職後は福岡市内で「LENTEMENT(ラントマン)一級建築事務所」を経営されています。

2022年11月30日、先生の事務所にお邪魔して当時のお話をうかがいました(とてもおしゃれな空間で、1つ1つの雑貨もかわいく、つい長居をしてしまいました…)。


河原先生のお話によると、制作は木戸先生からのお声かけによって、お二方のみで進められたそうです。

大学として出展する作品だったため、当時お二人の名前はあまり表に出さなかったのだとか。


テーマ「飛翔」を決めるにあたっては、博覧会が九州・福岡やアジア太平洋地域の未来に向けて開催されるものであること、大学からの出展なのでみんなが希望を持てるテーマであることなどを考慮されたそうです。

この作品がなぜ石を素材としているのかが気になっていたのですが、それについては、屋外展示をふまえて耐久性を重視したためで、お二方で設計したうえで、市内の國松石材株式会社に制作をお願いしたとのことでした。


ちなみに、造形短期大学部事務室が送ってくださった学内の記録によれば、この石は黒みかげ石(南アフリカ産)白みかげ石(韓国産)で、重さは14トンもあるそうです。

木戸先生のお話では、当初はもう少し高くつくるつもりだったそうですが、入手できた石材の大きさの関係で、現在の高さになったとのこと。


河原先生は、制作時には國松石材に足を運び、一部は自分で石を削ったりもしたと当時をふり返ってお話ししてくださいました。

博覧会場への設置にも立ち会われ、作品の向きや植栽についても指示をして、会期中は何度か足を運ばれたそうです。


実は木戸先生も河原先生も西新にある修猷館高校のご出身で、先輩・後輩の間柄。

河原先生はかつて西新・百道で過ごされており、百道の海は学生時代に彫刻の道に進むことを決意した思い出の場所なのだそうです(先生には西新・百道の楽しい思い出話もうかがいましたので、また別の機会にご紹介したいと思います)。


ただ、河原先生は「飛翔」を天神へ移転した経緯についてはご存知ないとのことでした。

移転については、引き続き市史編さん室でも調べていきたいと思います(どなたかご存知でしたら、ぜひお聞かせください)。



それにしても、天神に引っ越して以来、30年以上もここで福岡の変化を見続けてきた「飛翔」ですが、今「天神ビッグバン」によって急ピッチで進むまちの変貌ぶりには、さぞかしびっくりしていることでしょうね。

これからも、百道では「ウォーターランド」が、天神では「飛翔」が、それぞれよかトピア以後の福岡のまちの変化をずっと見守ってくれるものと思います。



今回はみなさまのご厚意によって、ずっと気になっていた「飛翔」の制作にまつわるお話を聞くことができました。

よかトピアのテーマ「であい」の通り、「飛翔」がいろいろな方と出会う機会をつくってくれたことがとてもうれしかったです。

ご協力くださった、木戸龍一先生、河原美比古先生、九州産業大学造形短期大学部の小田部黃太学長と事務室のみなさまにあらためて感謝申し上げます。



【参考文献】

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)


※クレジットのない写真は市史編さん室撮影。


#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #飛翔 #九州産業大学 #九州造形短期大学 #天神中央公園

 

Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル]

2022年12月9日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈017〉百道にできた「村」(村の生活編)

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

12(「百道地蔵に込められた祈り」)

第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)

第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)

第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)

第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。





〈017〉百道にできた「村」(村の生活編)


前回は、百道海水浴場が参考にしたという、大阪の「浜寺海水浴場」のテント村について紹介しました(→〈016〉「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)。

詳しく見てみると、海水浴場の一施設にも、生活改善運動や「むだせぬ会」など、当時流行していた社会運動などの影響が、色濃く反映していたことが分かりました。


さて、ではそんな浜寺テント村を下敷きにつくられた百道テント村とは、一体どのようなものだったのでしょう?



百道テント村の思想

百道では浜寺のように「むだせぬ会」の思想を直接語ることはありませんでしたが、負けじと次のような宣言をしています。

 

・テント生活とは世界の富豪やインテリ層などのセレブも「文明生活」から遁れ「原始生活」を送るためにテントで生活するキャンプ・ライフを送るのがトレンドである

・このテント生活では大自然の中で簡素な生活を送るので、そこには労使闘争も貧富の差もなく、参加者はみな平等に自由な生活を送ることができる

・親にとっては絶好の静養となり、また子どもにとっては自然の「大教壇」となり多くを学ぶことができる

・家族全員で「精神と肉体の改造」ができて、再び日常生活に戻ることができる

(大正12年6月18日『福岡日日新聞』5面「夏を忘れる天幕村生る 白砂青松に創設さるゝ理想郷」より要約)


これは、前回紹介した大阪毎日新聞社社長・本山彦一の思いと合致します。 


福岡日日新聞社は、テント村が〝開村〟する前からこのような理想を連日紙面に掲載し、時にはこの企画のすばらしさについて、九州帝国大学(現在の九州大学)教授の久保猪之吉中山平次郎(山好き)などの有識者からもコメントを取り、掲載していました。

また、テント村では〝村長〟の福岡日日新聞社社員・斎田氏による「テント村の制服は裸体である」という言葉を標語としており、こちらも大阪浜寺での本山社長の話と重なります。


そして大正12年7月21日、満を持して百道テント村は〝開村式〟を迎えます。


……と、大々的な宣伝をして始まった百道テント村でしたが、最初の〝入村者〟(紙面では「九州初」を強調)はなんと4人……。

とはいえ、その内訳は九州大学の関係者、鞍手からの申込者、佐世保海軍水交社からの参加者、また当日は船の都合で遅れたものの、もう一人は大連からの申し込みと、意外と遠方からの申し込みの方が多かったようです。4人だけど……。


 

百道テント村での生活

具体的な村での生活はどんなものだったのか、開村した大正12年の記録を追ってみたいと思います。


* * * * * *


〈期間〉
1期 7月21日 ~ 28日
2期 7月28日 ~ 8月4日
3期 8月4日 ~ 11日
4期 8月11日 ~ 18日
5期 8月18日 ~ 25日
6期 8月25日 ~ 9月1日

〈設備〉
8人用テント23棟(蚊帳付き)、村役場、食堂(200人収容可)、コック場、娯楽室(将棋盤・闘球盤・蓄音機・輪投げ台等)、応接室、洗面所、便所、売店、専属テニスコート、ピンポン台、清水浴場(男女別)、図書部、相撲場

(『福岡日日新聞』記事を基に作成)
宿泊テントの内部はこんな構造だったようです。
かなりスペースを必要としそうですが……。

〈料金〉
寝台料 1期4円
食費 朝食40銭、昼食50銭、夕食60銭(昼食は随意)

〈持参するもの〉
毛布・枕等の簡易寝具
※ なるべく軽装な方が良いが、大きな荷物や貴重品は村役場にて預かることも可能

〈その他〉
・海水浴場エリアから電気を引いているので、夜通し電灯あり
・1週間1期だが、2期3期と長期滞在する方は「長老」として歓迎
・子ども用寝台あり
・昼夜ともに3~4人の警備員を配備
・たまに地曳網の漁船が鮮魚を持って売りに来る
・朝は5時ごろから起きる人もあれば、朝寝してくつろぐ人もあるが、朝ご飯は村民全員で食べる
・日中は、テント村から出勤したり町に買い物に行ったり海で泳いだり、あるいは日影で読書をしたりと、好きに過ごす
・夜は娯楽室での遊びや音楽鑑賞などもでき、時には講演会も開催
・共有スペースには裸で参加しても良い

〈できごと〉
7月5日
百道海水浴場開場(水神式)

7月8日
新聞紙面にてテント村役場の女性事務員を募集(2名)

7月21日
テント村開村、晩餐会(主客十数名)

7月25日
医務顧問の九州帝大の小野教授が視察、その場で家族4人で2期の入村を申し込む

7月27日
第1期告別晩餐会(松林内テント村食堂)

7月28日
第2期スタート
澤田知事、藤金作前代議士、原田内務部長、山川刑務所長ほか参列
・澤田知事、リクエストに応えてピンポンを体験
・2期は能楽シテ方金春流の家元である櫻間弓川氏が東京から入村

7月29日
第2期開村式

8月4日
第3期スタート、入村晩餐会開催。村民が100名を超す

8月7日
午前9時~ 第3期運動競技会開催
・競技はテニス、走り幅跳び、走り高跳び、少年・少女マラソン競走
午後8時~ 筑前琵琶会(高野旭嵐女史、的野中外氏)

8月10日
第1回志賀島遠遊会(午前7時・9時・12時に出発、毎週開催)
・モーターボートに分乗して百道から志賀島まで遊覧、志賀海神社参拝ほか

8月15日
第4期スタート

8月17日
午前8時~ レクリエーション・地曳網(姪浜より)
・雑魚を漁獲しお昼ごはんに
午後1時~ 講演会(山梨県教育功労受勲者・一木義三郎氏)
午後3時~ ピンポン大会

8月18日
第5期スタート

8月22日
午前8時~ 宝探し大会

8月25日
第6期スタート

9月1日
閉村

(絵葉書「(福日主催)百道海水浴場テント村」)
宿泊テントはティピー型(三角形)ではなく大人数が収容できるタイプのようですが
はたしてベッドを8台も収容できるのか……。疑問が残りますね。

* * * * * *


さまざまな催しとともに好評だった百道テント村は、最終的にこの年は100名を超える〝入村者〟を迎え、大成功を収めました。


しかし、当初掲げていたような理想はあまり長くは続かず、テント村の募集は昭和7(1932)年まで見られるものの、昭和に入るとほとんど通常のキャンプ施設になっていたようです。


 

余談。「村」に対するあこがれ

「むだせぬ会」のような社会運動と連動した活動で、このような理想を求めた共同生活といって大正時代に思い出されるのは、「新しき村」です。

「新しき村」は、大正7(1918)年に作家・武者小路実篤によって提唱された運動で、調和的で階級による争いがない理想郷の実現を目指して、実篤は宮崎県児湯郡木城村に共同体としての村落「新しき村」を建設しました(昭和14〈1939〉年には埼玉県入間郡毛呂山町にも一部移転)

※「新しき村」についてはコチラをご覧ください。→ 一般財団法人 新しき村

ここでも「村」というキーワードが出てきました。

いまでもよく見かける「○○村」というネーミングは、現実の村とは別の意味を持ち、ごく狭い範囲での理想郷を「村」という言葉で表しているのですが、このお話はさらに長くなりそうなので、また別の機会に……。




【参考文献】

大正12年『福岡日日新聞』記事

・7月3日 朝刊7面「愉快な文化生活 百道のテント村 現代の要求に適した企て 翠緑滴る松林と白砂碧波の間に 今月廿一日から開催」
・7月6日 朝刊7面「文化的設備を以て現るる 本社の百道テント村 諸名士は此企てを如何に観る? 久保猪之吉博士の談」
・7月8日 朝刊7面「百道の天幕村は時節柄誠に結構です 私の経験は重に山嶽生活 九大医学部中山平次郎博士語る」
・7月19日 夕刊2面「九州に一名所が出来た 百道テント村 老松の翠緑を点綴する四十余棟の純白テント お隣は日本一の海水浴場」
・7月23日 朝刊3面「百道テント村開村第一の清餐会 九州に於ける天幕生活の開祖は四人 天幕生活最初の一夜」
・7月27日 夕刊2面「テント村の誇り 小野寺博士が顧問 入村者の希望で身体検査 家族と助手第二期から入村」
・7月29日 朝刊7面「楽しい第二期を迎へた百道天幕村の生活 海水浴場の人では益加はり」
・7月30日 朝刊3面「涼風の松間にテント村開き 簡易生活に相応しい来賓 大童となった課長連の土俵開き」
・8月4日 夕刊2面「期毎に栄え行く百道テント村 明日から第三期に入る 一村水入らずの娯楽室」
・8月5日 朝刊7面「百道テント村の村人百名を超ゆ 第三期満員の盛況 テント村競技団成る」
・8月6日 朝刊11面「テント村第三期の晩餐会 裸体の制服で大賑合」
・8月8日 朝刊7面「百道テント村昨日の賑ひ 涼しい松陰の運動競技 人気を呼んだ少年少女の競走 村の男女総出で応援」
・8月9日 朝刊7面「満員の百道テント村 驟雨の後の弾奏会 涼しい松風に和する筑前琵琶 一家団欒の家族続来」
・8月11日 朝刊7面「百道テント村々民 涼風を趁ふて志賀島へ 志賀島神社に参拝して観光 半日の清遊に苦熱を忘る」
・8月13日 ■刊■面「テント村の二十四時間」
・8月19日 朝刊7面「百道テント村の地曳網 新鮮な鮮魚七貫の漁獲 午餐の膳上に珍味を喜び お伽講演ピンポン大会に賑ふ」
・8月23日 朝刊7面「百道テント村の宝探し 朝涼の松林にて」
・9月2日 朝刊7面「百道テント村 愈閉村 非常に好成績裡に 昨一日限り」

※ 絵葉書はすべて福岡市史編集委員会所蔵。



#シーサイドももち #百道海水浴場 #テント村 #新しき村

 

Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル]

2022年12月2日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈016〉百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。


過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)

2(「ダンスフロアでボンダンス」)

3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)

4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)

5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)

6(「最も危険な〝遊具〟」)

7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)

8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)

9(「グルメワールド よかトピア」)

10(「元寇防塁と幻の護国神社」)

11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)

12(「百道地蔵に込められた祈り」)

第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)

第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)

第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)

※ 2023.4.28 一部タイトルを変更しました。




〈016〉百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)


近年、キャンプはすっかり定着して、いまもっともメジャーで人気のある趣味といっても過言ではありません。

福岡市の周辺にもたくさんのキャンプ場があり、家族連れやソロキャンパーなど、老若男女問わず多くの人が集まり、賑わいを見せています。

キャンプ場の多くは山や川のそばですが、能古島唐泊など、海辺にもステキなキャンプ場がたくさんあり、どこも人気です。

また、すべての設備がホテル並みに備わった、グランピングなども人気となって、各地に施設がつくられています。


海でのキャンプっていいよね!(やったことはない)


百道のキャンプ場「テント村」

かつて百道にも、夏季限定のキャンプ施設がありました。

海水浴場につくられた施設は、その名も「テント村」といいます。

百道のテント村は、百道海水浴場の裏手の松林の中にありました(場所は年毎に若干違ったようです)。

初めて百道にテント村が登場したのは、大正12(1923)年のことです。

この少し前、1910年代は欧米からキャンプという新しい文化が入ってきて、一般にも普及し始めた頃でもありました。
 
※ キャンプの歴史についてはコチラを参照ください → 日本キャンプ協会
 
しかしこのテント村、いまわたしたちが思い描くような、オシャレなレジャーとしてのキャンプ施設ではありません。

一番大きな違いは、名前に〝〟とある通り、「そこで生活をする」ということを目的の一つに掲げていたことでした。


ではなぜ百道のキャンプ場は、このような一風変わった形態だったのでしょうか?


お手本となった大阪浜寺海水浴場 

百道のテント村は、百道海水浴場を主催した福岡日日新聞社(現在の西日本新聞社の前身)による企画ですが、これは完全なオリジナルではなく、実はお手本がありました。

それは、大阪毎日新聞社が主催した、浜寺海水浴場のテント村です。


浜寺海水浴場は、大阪府泉北郡浜寺村(現 堺市)にあった浜寺公園に明治39(1906)年に開場した、歴史のある海水浴場です。

大阪毎日社は海水浴場を開場した当初から、花火や相撲、また餅撒きや演芸、活動写真や仮装行列、盆踊り、戦国時代武者行列や空中飛行船など、海水浴客のために連日さまざまな催しを行いました(『浜寺海水浴場二十年史』大阪毎日新聞社、1926年)。

テント村もそのような、海水浴とのセット企画の一つとして、いまからちょうど100年前の大正11(1922)年に始まったものでした。

ですがこのテント村、実は花火や演芸など他のイベントとは一線を画す、壮大なコンセプトがあったのです。


(絵葉書「(濱寺名勝)海水浴場」、個人蔵)
浜寺海水浴場は海浜公園内にあり広大で、立派な設備が整っていました。


「むだせぬ会」とは

大正デモクラシーとともに起こった生活改善運動の流れから、大正9(1920)年ごろから各地で「むだせぬ会」または「節約会」といった組織がつくられるようになりました。

この運動は、ムダな飾りのない簡易的生活を目指し、消費の節約や産業合理化の実行を呼びかけたもので、大阪でも商業会議所会頭の今西林三郎によって「むだせぬ会」が組織されていました。


大阪の「むだせぬ会」では以下のような会則を設けています。


会則第5条(抜粋)

会員ハ次ノ事項ヲ堅ク実行スルモノトス

(イ)時間ヲ勵行スルコト

(ロ)献酬ヲ廃止スルコト

(ハ)瓦斯、電灯及上水ヲ濫費セサルコト

(二)山菓子ヲ廃止及辭退スルコト

(ホ)香奠返ヲ廃止及辭退スルコト

(『金融と経済』第36号、朝鮮経済協会、1922年より)

 

そして当時、大阪毎日新聞社の社長だった本山彦一も、この「むだせぬ会」理事の一人でした。

 

本山彦一(1853-1932)
(国立国会図書館「近代日本人の肖像」
https://www.ndl.go.jp/portrait/)

※ 生活改善運動……消費生活や社会生活の合理化を目指す社会運動の一つ。

※ むだせぬ会(節約会)は、大正11年時点で大阪・福井・神戸・金沢・函館・尾道・名古屋・台湾・朝鮮などで設立されていました。



浜寺のテント村 

大正11年7月16日~8月27日に設置された浜寺テント村では、なるべく荷物を持ち込まず、無駄や見栄を省き、多少不便なくらいの生活を送ることを掲げています。

このように浜寺テント村は「むだせぬ会」の思想を実践する場として企画されたものでした。


浜寺テント村では55張のテントが置かれ、1テント1家族(4~6坪、4~5人)が1週間を1期としてテント生活を送ることになっていました(継続も可)。

また、これらテントの集まりを「」という一つの共同体と捉え、各テント(家族)からの代表者で「村会」を組織し、明確な規則はつくらない代わりに、参加者の常識に訴える簡単な規約だけを決めていました。

結果、6週間の間いさかいもなく、平和に過ごすことができ、「規則のない事が、規則のある事よりも却て秩序正しく治つて行く事を知らしめた、テント村はこんなに自由の国である」と総括しています(『浜寺海水浴場二十年史』より)。


テント村には各「家」のほかにも、村役場テントや食堂テント、娯楽室テントなどを設置、村民はそこに裸で参加してもよく(裸こそ村のユニフォームという考え)、普段の身分や地位など一切関係ない、平等で対等な立場での共同生活を送ったのです。

また娯楽室では懇談会、かくし芸会、活動写真会、レコード大会、落語会、奇術会、手踊り会なども行われました。

さらに村民の間では「テントニュース」という謄写版の新聞まで発行され、村民は自由に意見を載せることができたといいます。


(絵葉書「大阪毎日新聞社主催 濱寺海水浴場」、個人蔵)
右下に写っているのがテント村の村役場。なんと2階建て!!


「テント村は決して贅沢な避暑地を皆さんに紹介するつもりで建設したのではありませぬ、簡単な不自由な原始的の生活を営んで皆さんの健康を増進したいといふ趣旨から計画されたのです」

「一般が非常に贅沢になつて避暑するにも殊更便利な土地を選んでのらりくらりと致してをります

「テント村であれば大阪の近くでこの村から日々通勤することが出来ます」

「こういう土地で簡易生活を営むことはどんなに多くの人々を利益することか

(『浜寺海水浴場二十年史』より) 


浜寺テント村について、主催者である本山彦一はこのような熱い思いを語っています。

このテント村は大変話題となり、その後全国へと広まっていきました。


* * * * * *


百道のテント村も、この浜寺テント村を参考にしてつくられました。

今回はあまり福岡の話ではありませんでしたが、次回は百道テント村での生活を実際に覗いてみたいと思います。


(つづく)



【参考文献】

『金融と経済』第36号(朝鮮経済協会、1922年)

『浜寺海水浴場二十年史』(大阪毎日新聞社、1926年)

大浦一郎「図書館資料に見る浜寺」(『大阪春秋』令和3年冬号〈通巻№181〉、2021年)






#シーサイドももち #百道海水浴場 #テント村 #浜寺海水浴場 #むだせぬ会 #キャンプ生活

 

Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル]