2023年5月26日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈038〉西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~

  

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回(「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回(「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)
第36回(「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」)
第37回(「開局!よかトピアFM(その8)『今日もリスナーさんからおたよりが届いています』」)







〈038〉西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~


前々回のブログで紹介した「百道女子学院」。

それは調須磨(しらべ・すま)という、当時26歳の女性によって西新町につくられた、福岡における女子高等教育の礎となったかもしれないという「幻」の学校でした(036〉(「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」))。


(『調須磨遺稿集』より、国立国会図書館所蔵)
創立者の調須磨さん。
いつ見てもその精悍なまなざしにホレボレします。



さて、その百道女子学院。大正15(1926)年にできた当時の場所を、もう一度おさらいしておきましょう。


(昭和2年「地図報知第73号 大福岡市の市街」、松源寺所蔵)
「百道女学 文」とありますね。ココです。いい立地です。


西隣は中学修猷館(現 修猷館高等学校)、東隣は移転前の西新尋常小学校、そして北側は西南学院といった各種の学校に囲まれた、今でいうとまさに文教地区のど真ん中(西新小は昭和2年に現在地へ完全移転)。

ちなみに西南学院のさらに北にある不自然なだ円形は競馬場です(詳しくはコチラ→〈019〉西新と愛宕の競馬場の話。)。


現在の地図で言いますと、この辺り。脇山口交差点と西新交差点のちょうど中間辺りですね。

(国土地理院/地理院地図を加工)
現在ドン.キホーテ西新店(紙与西新ビル)のある辺り。
西新のど真ん中ですね。


『調須磨遺稿集』に収録された須磨さんの書簡によれば、学院は「赤煉瓦の建物」だったといいます。

そして同じく『調須磨遺稿集』には、昭和3(1928)年の第2回卒業式の際の記念写真が残されています。


(『調須磨遺稿集』より、国立国会図書館所蔵)
建物の造りからみて、かなり立派な建物のようです。


人々の後ろにはたしかにレンガの建物が写っており、これが須磨さんのいう「赤煉瓦の建物」、つまり校舎のようです。確認できるのはほんの一部ですが、その大きさや造りから、かなり立派な建物だということが容易に想像できます。


ところでこの建物を見ていると、一つの疑問が湧いてきます。


こんな立派な建物、いくら各所から支援を受けていたとはいえ、本当に須磨ちゃんたちが建てたのだろうか??


いくら彼女にカリスマ性と才覚があったとはいえ、それはあまりにも現実的ではないように思われます。

そこで、このレンガの建物は一体何なのか、今回はその謎を追ってみることにしました。


【ご注意】ここから長い旅が始まりますが、がんばって行きましょう!٩( ''ω'' )و



* * * * * * *



本当はこうした場所の変遷を調べるには地図から見ていくのが一番分かりやすいのですが、百道女子学院ができる以前(大正15年より前)の地図を確認しようにも、大正12(1923)年に福岡市になったばかりの西新町では、当時の詳細な住宅地図はほとんど見つかりません。


そこで、逆にもっと新しい時代はどうかと調べてみると、この場所は昭和46(1971)年まで西日本鉄道の営業所としてレンガの建物が建っていたことが分かりました(その後も数年間は建物が存在)。


西鉄! レンガの建物

まず最初のヒントが出てきました。



『西日本鉄道百年史』によれば、この場所を指す「西新町209-2」には、昭和11(1936)年に同社の前身の一つである「福博電車」が本社を置いていたとのこと。

仮にこの時に福博電車が本社としてビルを新築したのであれば、われらが探す百道女子学院があったビルとはまた別の建物ということになります。

まずはここから検証が必要です。


(福岡市博物館所蔵)
昭和11年の頃の福博電車本社ビル。オッシャレ~!!
というか、記念写真に写っているビルにやっぱり似てる…。



そこでさっそく西鉄さんに尋ねてみたところ、「福博電車が建てたものではなく、それ以前は〝福岡炭鉱〟という会社の本社建物だったようですよ」との回答が。


福岡炭鉱!!

次のヒントをゲットです。



福岡炭鉱とはもともと「福岡鉱業」という会社で、調べてみると大正3(1914)年に創業した炭鉱会社でした(本社の名義はなんと東京)。

この頃、西新町には「西新町炭坑」や「祖原炭坑」、また姪浜町には「姪浜炭坑」などの炭坑が稼働しており、福岡鉱業はこれらを取り仕切っていた会社だったようです。

創業を報じた新聞記事では同社を次のように紹介しています。


「高津亀太郎、大倉久米馬諸氏を発起に係る福岡鉱業株式会社は(略)採掘鉱区六、試掘鉱区六を買収し(略)目下稼働中の西新町炭坑をも包含し(略)近々西新町炭坑を中心として事業の一大拡張を試みる予定なるが同炭坑の鉱区は東は今川橋、西は姪浜付近に亘り従来の西新町、姪浜炭層以外発見の福岡炭層を開掘せんとするもの(略)」

(大正3年3月13日『福岡日日新聞』朝刊5面より)


これを手がかりに、さらにここから新聞記事を丹念に追っていったところ、ついに重要証拠を発見



なんとこの福岡鉱業が大正7(1918)年に「西新町に新築の事務所落成」したという記事にたどり着いたのです!


来たーーーーー!!!!!





まずは当たりです。

記事は、大正7(1918)年10月末に開かれた新築祝賀会の様子を次のように伝えています。


「福岡鉱業株式会社にては福岡市外西新町に新築の事務所落成し敷設中の運炭軌道今般竣工せしを以て此を兼ね祝賀会を新築事務所にて開催したり(略)井手福岡市長来賓総代祝辞を述べ川端早良郡長の発声にて万歳を三唱し立食の饗応ありて閉式(略)代賓は三井福岡鉱務署長、君嶋九大教授、高崎鉱政課長、松本三井支店長、川津九鉄重役、古川同技師長、井手市長、川端早良、井手糸島両郡長福岡市内各銀行支店長町村長等五百名に達し盛会なりき」

(大正7年11月1日『福岡日日新聞』朝刊5面)


お、ここで川端早良郡長が登場しましたよ。

こちらは前回もご紹介しましたが、須磨ちゃんの伯父さんに当たり、百道女子学院の経営など須磨ちゃんをいろいろとサポートしていた人物です。


(『早良郡誌』より)
ふたたびの川端久五郎。


さて、これでレンガビルの建設年が判明しました。

あとはここから百道女子学院が創立するまで約8年の間に、須磨ちゃんたちの学校をこの新築ピカピカのモダンなレンガビルに入居できるよう斡旋した人物がいるはず…。

現時点では一番怪しいのは川端郡長です。町の偉い人ですし、発言力もありそう。でも決め手には欠けます。


(福岡市博物館所蔵)
ふたたびのレンガビル。
何度見てもモダンで立派な建物ですね。





…さて皆さん。

前回からこれまでに紹介してきたいくつかの新聞記事の中に、実は重大なヒントがすでに登場していたことにお気付きでしょうか…?



それは百道女子学院の開校式の様子を報じた大正15(1926)年の記事でした。再掲します。


福岡市西新町に新設した百道女子学院では、十日午前十時から同校にて同院開校式並に新入生入学式を挙行したが、同学院理事川端久五郎氏の開会の辞に次ぎ勅語奉読設立者調道太郎氏の挨拶学院長調須磨子女史の告辞あり。川端理事から帝大女高師等出身の同校職員十数名を紹介し、顧問西川虎次郎中将、白坂修猷館長、高崎烏城氏、西新小学校長其他の祝辞演説あり。閉会後来賓父兄に茶菓の饗があつて来賓は右の外西新町有志其他十数名に達し盛会であつた。尚ほ今回は学年中途の募集にも拘らず新入学生廿数名福岡県を最多とし熊本宮崎等に及んで居る。

(大正15年9月11日『福岡日日新聞』朝刊7面より、句読点の一部は筆者)



ここに「高崎烏城」という人物が登場します。

西川虎次郎や白坂修猷館長、西新小学校長など地元関係者に混じるこの人物、一体何者???


だ、誰だっけ…??


高崎烏城(たかさき・うじょう)は、大正~昭和初期の俳人で、本名を高崎勝文といいます。

明治17(1884)年生まれ、岡山中学校出身で東大法学科に入り、卒業後には鉱務署の官吏(役人)となりました。全国を転々としたのち大正4(1915)年に福岡に落ち着き、大正7(1918)年には役所を辞めて福岡鉱業株式会社の取締役となった人物です。


あ! 福岡鉱業!!


そうです、あのレンガの建物を最初に建てた福岡鉱業の取締役なのでした。


そしてお気付きでしょうか、レンガビル新築祝賀会を報じた大正7年の新聞記事にしれっと登場している「高崎鉱政課長」とは、この高崎勝文のことだったのです。

彼は大正7年12月27日付で役所を退職しているので、恐らくこの祝賀会に参加した10月末の時点ではもう福岡鉱業に転職することが決まっていたのではないかと思います。勝文、なかなかやり手のようです。



さらにこの高崎氏、東大→役人→炭鉱会社の役員とキャリアを積む中で俳句に目覚め、さらには40歳を過ぎて大正14(1925)年に九州帝国大学文科に入学したという、異色の経歴を持っています。



大正14年…九州帝国大学…。



あっ、もしかして…!


そう、なんと高崎氏は福岡鉱業の役員でもありながら、須磨ちゃんと九大の同期生でもあったのです!


やったーーーーーー!!!!!




これでようやく点と点が繋がりました。

ここから先は明確な資料が見つからなかったので筆者の推理になりますが、九大に入学した烏城は同期の須磨ちゃんの熱い情熱と高い理想を知り、あるいは相談され、自分が関わる会社のビルの一部が使えるよう、手助けをしたのではないでしょうか?


昭和7(1932)年に出版された高崎氏のエッセイ集とでもいうべき著作『身辺細事記』には、九大入学当時に出会った須磨ちゃんについて触れている(と思われる…名前がないので推測ですが)部分があります。新入生と教授陣との茶話会で順番に自己紹介をしている時の一幕です。


「(略)新に入学を許されて、光栄と希望に満ちた女学生の一人が、次に立ち上つた、そして女子大学生の抱負と、希望とを述べて着席した。その人は数年間地方の中等学校の教諭をして居たので、論旨、態度共に堂々たるものであつた。(略)」


希望に満ちあふれた須磨ちゃんそれを見守る烏城の姿が目に浮かぶようです。

烏城は当時の福岡の俳句界の中心的人物だった吉岡禅寺洞清原拐童らの指導を受けており、大正14(1925)年頃に結成された九大俳句会では指導にも当たるほどだったといいます。

一方の須磨ちゃんは短歌も嗜みましたので、その辺りの文学的才能からも、もしかしたらお互い通じるところもあったのかもしれません(もはや妄想です)。



ちょっと疲れてきたのでカワイイ猫ちゃんをどうぞ。
もう少し続きます…。



さて一方で肝心のレンガビルや福岡鉱業を取り巻く環境は刻一刻と変化していました。



…と、この辺りの経緯はちょっとややこしいため、ここからは箇条書きで失礼します。


大正10(1921)年
福岡鉱業は資金難に陥り、同じレンガビルに入っていた九州海運株式会社(石炭等の物資輸送会社)などと一緒に帝国炭業株式会社に合併され、帝国炭業福岡鉱業所が西新町のレンガビルに置かれる。この時、高崎勝文は帝国炭業の常務取締役として残留して福岡鉱業所長となり、周辺の炭坑の責任者となる。

大正13(1924)年
福岡鉱業が持っていた姪浜町の炭坑について突然休業を宣言。

大正14(1925)年
帝国炭業福岡鉱業所は所有していた採掘権を高崎個人に譲渡し、福岡周辺の炭坑経営から撤退。

大正15(1926)年
9月、高崎は譲渡された採掘権を持って「福岡炭鉱株式会社」を設立。

昭和2(1927)年
高崎の持つ採掘権を福岡炭鉱株式会社に譲渡。

昭和3(1928)年
福岡炭鉱株式会社は所有している鉱区を姪浜鉱業に売却(実質的な企業活動停止?)。
※姪浜鉱業は翌年「早良鉱業株式会社」と改称。

昭和4(1929)年
2月、前年6月に設立した「矢岳炭鉱株式会社」に高崎など福岡炭鉱の一部役員が合流、本社を西新町のレンガビルに置く(3月5日登記)。
※矢岳炭鉱の炭坑は長崎県北松浦郡。



ここまでの数年の間でレンガビルの所有者(入居者)が頻繁に変わっているのが分かります。




ここでちょっと思い出してみましょう。

百道女子学院は大正15(1926)年に西新のモダンなレンガビルの中に創立しましたが、それからわずか3年後の昭和4(1929)年10月1日には西新町の中心部から離れた祖原に移転を余儀なくされています。

なぜこのような年度の中途半端な時期に移転することになったのか? その理由は、これまで見てきた須磨ちゃんの書簡からは分からないままでした。

いずれにしてもこの辺りで何かより大きな変化が起きたのではないか??



そこで、昭和4(1929)年時点での所有者であろう矢岳炭鉱の方を追ってみると、なんとこの年の10月20日、本社がレンガビルのある「西新町209-2」から少し離れた「西新町239」に移転していたのです!


(国土地理院/地理院地図を加工)
現在の地図で示すとだいたいこの辺。上が旧本社、城南線沿いが新本社。


これでようやく最後の謎が解けました。

詳しい事情は分かりませんが、当初からレンガビルに関わっていた高崎勝文の会社は紆余曲折を経ながらも(そして会社自体が変わりながらも)西新町のレンガビルを本社として使い続けてきました。

しかしついにこの昭和4(1929)年10月の時点で、レンガビルを手放したようなのです。

直後ではありませんが、昭和7(1932)年には「野上鉱業合資会社」という直方の炭鉱会社名義西新町の2階建てレンガビルの売却広告が出されています。


すると当然、その縁故で入居していた(であろう)須磨ちゃんの百道女子学院も、このまま居続けることができるはずはありません。

そして翌5(1930)年、須磨ちゃんは志半ばで他界。

百道女子学院とレンガビルを繋いでいた糸はすっかり消えてしまったというわけでした。



* * * * * * *



…ハイ皆さん、ここまでお疲れさまでした!

2回にわたってお送りした百道女子学院の謎も、これでかなりの部分が解明できました。


とはいえ、須磨ちゃんと烏城の関係や百道女学院が入居していた当時の状況、あるいは他にも入居するテナントがあったのか(文具商や衣類商が入っていた記録もあるようです)、また本体である福岡鉱業(福岡炭鉱)の経営状況など、まだまだ謎は残されています。

これらについては、今後の課題として引き続き調べていきたいと思います。




ところで、このレンガビルがあった「西新町209」という場所、現在は紙与西新ビルとなってテナントにはドン.キホーテ西新店が入っているわけですが(正確には西新町209-2で、敷地の一部)、西鉄が去ってから紙与西新ビルになるまでの変遷も一応調べておきました。

最後にこの「西新町209」に限定した変遷を年表にまとめてみましたので、いつか誰かの何かのお役に立てれば幸いです。



余談ですが筆者は学生時代、平成8(1996)年に紙与西新ビルが建った時にテナントとして入っていた「福岡金文堂西新本店」のオープニングスタッフとして、数年間この場所で働いていたことがあります(ちなみに「本店」とあるが別に本店ではないです)。

まあ当時は「近所だから」という理由以外に応募した動機はなかったのですが、二十歳前後の一番濃い時期を過ごした思い出の場所でもあり、こうして振り返ってみると憧れの須磨ちゃんや川端氏、また意外とやり手だった烏城とのご縁を感じて、なんだか嬉しい限りです。



 * * * * * * *



【オマケ】「西新町209」の変遷 

大正7年/1918年
・福岡鉱業株式会社が事務所として西新町209にレンガビルを落成。
 ※以下、「西新町レンガビル」

大正15年/1926年
・7月、百道女子学院が創立。西新町レンガビルの一部を校舎として利用。
・9月、高崎勝文が福岡炭鉱株式会社を創業。西新町レンガビルを本社とする。

昭和4年/1929年
・前年に福岡炭鉱をやめた高崎が矢岳炭鉱株式会社の取締役となり、2月には西新町レンガビルを本社とする。
・10月1日、百道女子学院が西新町レンガビルから祖原へ移転。
・10月20日付で矢岳炭鉱が本社を西新町239に移転。

昭和7年/1932年
・3月、「野上鉱業合資会社」名義で西新町レンガビルの売却広告が出される。

昭和11年/1936年
・3月、福博電車(昭和9年設立)が本社として西新町レンガビルの使用を開始。

昭和17年/1942年
・9月、鉄道5社合併(九州電気軌道が九州鐵道・博多湾鉄道汽船・福博電車・筑前参宮鉄道を吸収合併)した九州電気軌道が本社を西新町レンガビルに置き、商号を「西日本鉄道(株)」へ変更。

昭和20年/1945年
・1月、西鉄の本社が西新町レンガビルから大名町に移転。跡地は西電車営業所として使用。

昭和46年/1971年
・西電車営業所が西新町レンガビルから今川橋(福岡貸切自動車営業所跡地)に移転。

昭和49~50年/1974~1975年
西新町レンガビル取り壊し。

昭和52年/1977年
・4月、西新町209はRKB毎日放送主催の「RKBモダン住宅展」の西新会場として住宅展示場になり、東側隣接地は西鉄所有の駐車場となる。

昭和55年/1980年
・駐車場敷地内に「うどん一番」がオープン。

平成3年/1991年
・3月末、RKBモダン住宅展、西新会場を終了。跡地はその後しばらく「うどん一番」と駐車場として利用される。

平成8年/1996年
・3月、紙与西新ビル竣工(紙与不動産株式会社所有、西日本不動産開発株式会社運営)。1階はテナントとして「福岡金文堂西新本店」「フレッシュネスバーガー西新店」が入り、2階から5階は駐車場という、西新としては巨大ビルが誕生。

平成12年ごろ/2000年ごろ
・1階テナント「福岡金文堂西新本店」閉店。

平成13年/2001年
・12月、1階テナント「ドン.キホーテ西新店」がオープン。現在に至る。





【参考文献】

・調須磨『調須磨遺稿集』(百道女子学院、1931年)

高崎烏城『身辺細事記』(天の川発行所、1932年)

福岡市文学館企画展『季節の歯車をまわせ 吉岡禅寺洞と「天の川」』(福岡市文学館、2007年)

・『本邦鉱業ノ趨勢』(大正3年版~大正8年版、商工省鉱山局)

・『帝国銀行会社要録』(大正3年版~大正10年版、昭和2年、4年、5年版、帝国興信所)

・『日本工業要鑑』大正9 〔下〕年度用(工業之日本社、1913ー1926年)

・『海事年鑑』昭和3・4年(海事彙報社、1928年)

福岡県早良郡役所編『早良郡誌』(名著出版、1973年)

・『RKB30~40年ー多メディア時代への挑戦ー』(RKB毎日放送株式会社、1991年)

・西日本鉄道株式会社100年史編纂委員会編『西日本鉄道百年史』(西日本鉄道株式会社、2008年)


・官報
 1918年12月27日
 1929年5月16日

・住宅地図
 「福岡市地番入実査図」(春吉土地建物合名会社、昭和2年)
 「福岡地典 市内版」(片山技研制作、積文館書店発行)
  ・昭和42年、48年、49年、50年、51年版
 「全航空住宅地図 福岡市・西区東部版」(公共施設地図航空株式会社)
  ・昭和52年、54年、55年、56年版
 「ゼンリン住宅地図 早良区版」
  ・1991年、1992年

・新聞記事
 「福岡鉱業会社成立」(大正3年3月13日『福岡日日新聞』朝刊5面)
 「福岡鉱業祝賀会」(大正7年11月1日『福岡日日新聞』朝刊5面)
 「百道女子学院きのふ開校式」(大正15年9月11日『福岡日日新聞』朝刊7面)
 「広告」(昭和7年3月23日『福岡日日新聞』夕刊3面)

・ウェブサイト
 「日炭・山田炭鉱の記憶」
  http://nittan1971.web.fc2.com/nittan5/Yamada-tankou.htm(2023年5月24日閲覧)
 「紙与産業株式会社/貸しビル」
  https://kamiyosangyo.jp/building/#b08(2023年5月25日閲覧)
 「株式会社ドン.キホーテ第22期事業報告書(2001年7月1日~2002年6月30日)
  https://www.donki.com/ir/pdf/7532_0206jh.pdf(2023年5月25日閲覧)
 「株式会社ドン.キホーテ第24期事業報告書(2003年7月1日~2004年6月30日)
  https://www.donki.com/ir/pdf/7532_0406jh.pdf(2023年5月25日閲覧)


【ご協力ありがとうございました】
 ・松源寺
 ・西日本鉄道株式会社
 (五十音順、敬称略)



#シーサイドももち #百道女子学院 #調須磨 #高崎烏城 #謎解き #福岡鉱業 #福博電車 #西鉄 #西新町209の歴史 #達成感すごい #お疲れさまでした


Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル

2023年5月24日水曜日

【Discover the Feature Exhibition】The Kawari-Kabuto (“Exotic Helmets”) Exhibition 5

- Armor and weapons from the New Collection

March 14th (Tue.) ~ May 28th (Sun.), 2023

Feature Exhibition Room 1

Hoshi-Kabuto helmet with seventy-four riveted plates with cirrus / tornado ornamentation (17th century)


This exhibition displays armor, weapons, helmets with unusual decorations (Kawari-Kabuto) and related items collected by the Fukuoka City Museum over a 10-year period until 2021, and explores the changes in the history and culture of the samurai families.

First, we introduce old Kawari-Kabuto with traditional bowls, such as Hoshi-kabuto (helmets with standing rivets) and Suji-kabuto (helmets with ridged bowls) among the ones owned by vassals of the Fukuoka domain. Some helmets have the fantastic shapes of Maedachi (front crests), while others, such as the gorgeous Hoshi-kabuto helmet are decorated with the shape of a gold-lacquered bottle on the top and crab claws on both sides. This helmet was owned by Kiriyama Nobuyuki, also known as Kiriyama Tanba, one of the Twenty four major samurai warriors supporting the Kuroda clan, feudal lord of the Fukuoka domain.

Some Kawari-Kabuto have bowls made in a simple and sturdy way. Among these, Momonari- kabuto (helmets with peach-shaped bowls) were especially favored by the warriors of the Fukuoka clan. They also devised front and side ornaments to give them individuality.

Samurai warriors active during the period of upheaval from the closing days of the Tokugawa shogunate to the Meiji Restoration (c.1850s - early 1870s) fought with new armor or repaired ancestors' armor for a heroic appearance. They also wore Jingasa (soldier’s helmet) or Jinbaori (surcoat). In addition, this exhibition displays guns, spears with handles and other practical weapons, as well as artillery and secrets of the art of gunnery, such as the Japanese hand culverins.


Exhibition view

2023年5月19日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈037〉開局!よかトピアFM(その8)「今日もリスナーさんからおたよりが届いています」

 

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



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第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回(「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回(「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)
第36回(「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」)





〈037開局!よかトピアFM(その7)「今日もリスナーさんからおたよりが届いています」


音楽を中心としたプログラムが人気だった「よかトピアFM」(愛称はRADIO MOMO)。

アジア太平洋博覧会のために開局したFMラジオでしたが、番組自体の魅力でラジオファン、音楽ファンを増やしていきました。


今だとリスナーは、番組独自のハッシュタグをつけてツイッターにつぶやいたり、メールでメッセージを放送局に寄せますが、当時はインターネットすら一般的ではない時代。リスナーはハガキや電話・ファックスでメッセージを届けました。


「よかトピアFM」にも、毎日そうしたメッセージがたくさん届きました。メッセージと言うより「おたより」と呼ぶのがぴったりな感じです。

この「おたより」を介して、生放送のラジオならではの、リスナーとパーソナリティーとの双方向のコミュニケーションが連日かわされていました。


このブログの元ネタ、『radio MOMO よかトピアFMの記録』には、ほんの一部ですが、そういうリスナーさんのおたよりが残っていました。

当時の「よかトピアFM」の雰囲気がとてもよく伝わってきますので、ここでいくつか紹介します(一部省略したりしますが、言葉遣いなどは当時のままにお届けします。お名前はラジオネーム以外はイニシャルで掲載されていましたので、そのまま失礼します)。


せっかくリスナーさんのおたよりを紹介しますので、ラジオのパーソナリティーになった気分で、やってみても良いでしょうか…。

30年以上経ったおたよりを、2023年の素人パーソナリティーが読んでみます。


(そんな訳で、ここからはどうぞ脳内で滑舌が良くて素敵な声に変換して、お好みの音楽を思い浮かべながらお読みください…)


(福岡市博物館所蔵)
「よかトピアFM」の番組表(7~9月)

ではスタートです。




今日最初のおたよりは…、福岡市中央区のIさんからです


「いろんな音楽が次から次に展開されて、テンポがあり、そのうえちゃんと特集コーナーもあり、なかなかグッドです。とにかくエキサイティングなものを感じます。音楽バンサイ。FM-MOMOバンザイです。いつも会社で聞いていますが、みんな気にいっています。」


Iさん、メッセージありがとうございます!

当時、会社のみなさんで聴いてくださっていたのですね。福岡の会社のなかにはそういうところも多かったのでしょうか。みなさんが「よかトピアFM」の音楽を聴きながら、楽しくお仕事されていた姿が目に浮かびます。



続いては、宗像郡福間町(現在の福津市)のUさんです。


「福間町でもバッチリ、クリアに受信できます。けっこう選曲がよいので1日中聞いても飽きませんよかトピアFMのジングルってやつですか、とてもしゃれていて、いいと思います。」


番組の節目に流れるジングルって、それ自体は短いですが、ラジオ局や番組の雰囲気を一気につくってくれますよねー。ジングルと思い出が結びついていて、それを聴くだけで、一瞬にしてそれぞれの「あの頃」の気持ちに戻るから不思議です。

ちなみに記録によると、「よかトピアFM」のスタジオができて、放送機器が設置されはじめたのが1989年1月26日から。発注していたジングル用のサンプラーが届いて搬入されたのは2月1日だったそうです。このサンプラーから、Uさんお気に入りのジングルも流されていたのでしょうね。

その後、スタッフさんが現場の機材で研修をはじめたのが2月6日、サービス放送開始が26日、開局が3月1日だそうですから、ほんと慌ただしいスケジュールで開局の準備が進んだようです。



「よかトピアFM」の選曲の良さは、福岡市東区香椎のHさんもほめてくださっていますのでご紹介しましょう。


「さすがに日本のリバプールといわれる博多のFM局。特に運営局が独自のライブ番組や選曲をもつKBCだけあって貴局の選曲は素晴らしい。」


福岡を「日本のリバプール」に育てたお一人、KBCの岸川均さん仕込みの放送局ですから、毎日さすがの選曲だったのでしょうね!(→ 004

当時はレコードからCDへの過渡期。今みたいに曲をハードディスクに取り込んでデータベース化して、クリック一つで曲を出したりはしていないはずですから、1曲を選んでかけるのもセンスと記憶だより、そして手動でレコードやCDを次々と入れかえていたはずです。

このラジオのために集められ、いちから研修を受けて放送をはじめられたスタッフ・パーソナリティーのみなさん。かっこいい1曲の裏にあった大変なご苦労を、今さらながら想像してしまいます。



同じく東区箱崎のTさんからは、こんなメッセージも届いています。


しゃべりが少なくてとてもいい。バラエティに富んだ選曲もいいですね。なつかしい曲がかかったりするとなぜかホッとしたりして…。けっこう「よかトピアFM」もあちこちに浸透しはじめているようです。車の中、ガソリンスタンド、ブティック、美容室etc。よく耳にするようになりました。」


今はおしゃべりが楽しいFM番組がたくさんあったり、AM局がワイドFMの高音質で音楽を届けていたりして、FM局とAM局の違いをそんなに感じないことも多いのですよね。でも以前はおしゃべりのAM音楽のFMのようにイメージすることが多かったように思います。

当時、お店で聴いてくださることで、お客さんが「よかトピアFM」にたまたま出会って聞きはじめるなんてことも多かったのかもしれませんね。ちょっと良い服のお店を「ブティック」と呼んでいたことを思い出しました。懐かしい!



では、福岡市東区原田のKさんのおたより。


「朝8時前にセットして待ってて、“グッドモ~ニン”からバイトに行く2時まで聞いています。知らない曲いっぱい聞けて気持ちが良い。10時から11時頃「こーんなのラジオで流してて聞く人いるのかな」と思うようなのかけてくださってますねぇ。デッド・ケネディーズとかスペシャル・デューティーズとかパンクがかかって感激しています。好きな曲とかは家でレコード聞くより、ラジオや街の中でふとかかっている方が感じが数倍違いますよネェ(いい気持ち)。私はよかトピアFMで毎日それを味わせて頂いてます。ああ私って生きているんだなぁ…とか感じるんです。」


「よかトピアFM」の放送開始は朝8時(博覧会は9時半会場)。Kさんは毎日最初の放送から聴かれていたのですね。

デッド・ケネディーズはアメリカのハードコア、スペシャル・デューティーズはUKパンクですよねー、確かにこれが午前中のラジオから流れてきたら、刺激的だったでしょう!

まちで偶然出会った音楽って、確かに特別に感じます。今、コンビニでたまたま好きな曲がかかっていたら、スマホでいつでも聴けるのに、わざわざ店内で最後まで聴いてしまう感覚と同じかも。聴いたときの場所や気持ちなんかも一緒に思い出になるから不思議です。音楽愛「よかトピアFM」愛が伝わってくる、すてきなおたよりでした。


当時の番組なら、ここで「じゃぁ、せっかくだからKさんの好きなスペシャル・デューティーズを1曲かけましょうか」となりそうですが、このブログではそれができずに残念(みなさんそれぞれでぜひ…)。


(福岡市博物館所蔵)
『radio MOMO よかトピアFMの記録』。このブログの元ネタです。
わずか26ページの一見そっけない冊子ですが、読んでみると、
当時の「よかトピアFM」の魅力がつまっていました。



ラジオはリスナーとの距離感が近いのも良いところ。こんなこともリスナーさんが聞かせてくれていました。



まずはMOMOさんです。


「私のニックネームもMOMOです。彼だけが呼ぶ私のニックネームです。彼はいつも車の中でRadio Momoを聞いています。グーゼンだけど同じ呼び名で彼もちょっとくすぐったいねって言っています。」


短いおたよりなのに、MOMOさんとお相手の表情が見えてくるようなメッセージですね。



次は福岡市早良区原のMさん


Bonjour リスナーの私、6月の終わりからラジオのフランス語講座で勉強をはじめました。そのきっかけは実はラジオMOMOにあるのです。時たま流れるフランス語の短い放送アムパモケとか、ハウパートウトウと言っているのを口真似しているうちに面白くなっちゃったというわけ。ラジオMOMOが私の身に思わぬ変化をもたらしてくれました。」


「よかトピアFM」をきっかけに、語学や海外のことに興味を持つ方も当時多かったのでしょうね。博覧会ではパビリオン「国際館」のフランスコーナーが、博覧会オリジナルのワインを販売したりして大人気でしたけど(『シーサイドももち』P.107・126)、Mさんも行かれたのでしょうか。



つづいては会場のすぐそばから。早良区百道のTさん中学生のリスナーさんです。


「暑中お見舞い申し上げます! 私たち百道中の夏休みプール開放でもRadio MOMOが活躍中ですが、この前はじめて中央市民プールに行ったんです。そしたらMOMOが流れていました! よかトピアが終わるとMOMOがなくなるのですか? さみしい~。夏休みの方がジュク多くて録音したりしています。これからもず~とガンバッテ!」


1989年の夏休み、百道中学校のプールでは「よかトピアFM」が流れていたのですねー。さすが、よかトピアの地元!

塾で忙しいのに、録音までして聴いてくださっていたなんて…。若いリスナーさんが多いという、聴取状況調査(→035)どおりのメッセージでした。




なかには、海外から福岡に来られている方から英語でおたよりが届いたこともありました。おたよりの雰囲気を重視して、やや意訳ぎみにお届けします。


「1989.7.5. Dear DJs Rockatopia 楽しいエンタメと新しい情報がいいですね! 番組に夢中なリスナーの一人です。私はフィリピンからの研修生で、音楽が大好きです。番組を聴いているときは、いつもとても幸せ。間違いなくスーパー・ミュージック・ステーションです! 夜の9時~10時の番組の間は、ラジオをそばに置いて、番組から流れる音楽にとても心地よく癒やされて、眠りについています。日曜日のお休みには、MOMOを聴いて週末を始めるのが最高。すばらしい音楽放送局を聴けて良かったです。これからもがんばってください! ずっと聴いてます。 Your avid listener」


Rockatopia(ロッカトピア)は「よかトピアFM」の多国籍パーソナリティーグループ。母国語まじりのにぎやかな番組が大人気でした(→007)。先ほどのおたよりにあった、午前中にデッド・ケネディーズやスペシャル・デューティーズをかけていたのも、ロッカトピアの番組『Music Channel』(平日10~13時)です。

「よかトピアFM」の番組が、海外から福岡に来られている方にとって気持ちが安らぐ時間になっていたことは、こういうメッセージが残っていてはじめて知ることができました。当時福岡を好きになって帰国されていたらいいなーと思います。




こうして、各方面でファンを増やしていった「よかトピアFM」。博覧会終了とともに閉局するのを惜しむ声も多かったようです。



福岡市早良区有田にお住まい、24歳のMさんです。


「私はRadio MOMOの放つ音楽シャワーを頭からつま先までたっぷり浴びて、実に心地よい中毒になってしまいました。(どうしてくれる?)」



続いては、春日市のKさん


「いつも聞かせてもらっています。はっきり言ってこれまでの福岡のライフスタイルを変えたと言っても過言でないほど新鮮さをもった局だと思います。試験放送の時から期待していましたが、今は大変感動しています。というのも単にヒット曲でなく、トークも楽しく、それでしつっこくなく、日ごろ聞けない変わった音楽がたくさん聞けるからです。春先は知らなかった人も多かったようでしたが、今では「絶対いいから」というコマーシャルが広がったのかどうか、すっかり定着した感があります電波法か何か知りませんが、なくなったらこまりますよ。」



糟屋郡宇美町のNさんからも、放送を続けてほしいというメッセージです。


「このラジオMOMO、よかトピアの間だけとか? FMの少ない福岡なのでこのまま残しておくことはできないのでしょうか? いっつもごきげんなミュージックがかかっているので気に入っています。ガンバッテ下さいネ!。」


よかトピアの会期中、わずか半年間の放送でしたけど、すでに「よかトピアFM」が生活の一部になっている方もいらっしゃったみたいですね。

当時の福岡は民放FMはエフエム福岡だけでした。こういうおたよりを読むと、単なるイベントFM局の枠をこえて、自分好みの番組・パーソナリティー・音楽を求めるラジオファンや音楽ファンに、チャンネルの選択肢が増えたことを喜んでもらっていたようです。




では、もう最後のおたよりになりました。福岡市東区香椎のラジオネーム「耳のこえたリスナー」さんからです。


「連休にはじめてRADIO MOMOを聞いた。私が待ち望んでいたものに近くてうれしい。長い間、関東に住んでいたので音楽に対しても不満をもっていた。東京には何といってもFENが24時間の放送をしていた。九州ではラジオから聞こえてくるのはいつも同じ。CDレンタル屋に行ってもどこも同じ音楽ソース。もううんざりしていた。福岡のリスナーを一味違うジャンルの広いリスナーに育てあげようではないか。そしたら後から新しい文化も育つし、九州のためにも大変いいことだと思うのだが。あまりおおげさかな。」


かつては福岡でもFENを聴くことができました。先日惜しまれながら他界されたシーナ&ロケッツ鮎川誠さんが、FENで海外の音楽に親しんだ話をインタビューなどでたびたび語られていたことを思い出します。

かつてのFENのように、「よかトピアFM」で自分の大好きな1曲にめぐりあった人もいたかもしれないですね。






さてここまで、30年以上経って当時のおたよりを読む、素人パーソナリティーのコーナーでした。お付き合いくださってありがとうございました。


リスナーさんのおたよりにもあった通り、「よかトピアFM」に寄せられた期待と、その後の影響は大きかったようで、当時は新聞に「好評よかトピアFM 第二FMの期待生む」という記事が載ったほどでした。

この新聞記事では、既存局にない番組がリスナーの心をとらえたこと、音楽局の可能性を提示して福岡の第二FM局への期待を生んだこと、地元企業をスポンサーにして文化行事に参加する機会を広げたこと、そうした点でよかトピアFMの波及効果は十分評価できることなどを書いています(『日本経済新聞』1989年7月6日夕刊)。


実際、よかトピアが終わって90年代になると、現在につながる「CROSS FM」が1993年に、現在の「LOVE FM」につながる「FREE WAVE」「LOVE FM」が1996年・1997年に、すでに閉局した「FM MiMi」(のち「StyleFM」)が2000年に、それぞれ開局して福岡にFM局が増えていきました。


似たような例だと、よかトピアと同じ年に開催された名古屋市の「世界デザイン博覧会」(1989年7月15日~11月26日)のイベント放送局「FM DEPO」(1989年7月1日~11月26日)があります。運営はCBC(中部日本放送)が担当しました。洗練されたプログラムを300W出力で愛知県内に放送して、愛知県2番目のFM局「ZIP-FM」の開局(1993年)をうながしました。




「よかトピアFM」では、博覧会情報を来場者に届けることをこえて、このために集った国際的なパーソナリティーが楽しいトークを繰り広げ、一日中新鮮な音楽を流して、連日訪れる豪華なゲストからは福岡だけでしか聴けないことを語ってもらうことで、福岡都市圏はもちろん、広く県外にまでファンを増やしました。


今回こうして当時のリスナーさんからのおたよりを読んでみると、半年間の短い放送でしたが、「よかトピアFM」のパーソナリティーさんや音楽との「であい」(←よかトピアのテーマです)が、音楽のまち「福岡」にふれ、「福岡」そのものまでも感じるきっかけになっていたようです。


よかトピアが現在の福岡を特徴付ける起点になったことはよく知られていますが、福岡タワーやアジア太平洋の個性的なパビリオンやイベントのなかにあって、音楽のパビリオン「よかトピアFM」がはたした役割はあまり語られてきませんでした。


でもその番組は、博覧会の会場を訪れていない人にまでも〝「福岡」ブランド〟を広める、オリジナルなメディアとして機能していたように見えます。


その方法が音楽だったというのが、実に福岡らしくて楽しいです。

こうしてふり返ってみると、「よかトピアFM」は現在のイベント「Fukuoka Music Month」に道をつないでいった、「音楽都市・福岡」の先輩と言っても良いのではないでしょうか。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)




【参考文献】

・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・『radio MOMO よかトピアFMの記録』(FMよかトピア事務局、1989年)

・『よかトピアFMタイムテーブル』VOL1~3((財)アジア太平洋博覧会協会)

・『日本経済新聞』1989年7月6日夕刊

・塚田修一「米軍基地文化としての米軍ラジオ放送FEN─音楽関係者の聴取経験と実践を中心に─」(『三田社会学』26、2021年)


#シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #よかトピアFM #リスナーさん #「アンテナを揺さぶる、新鮮さ。」(タイムテーブル(3~4月)のキャッチフレーズ)


Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル

2023年5月16日火曜日

【Discover the Feature Exhibition】 Gifts from the Lords

March 21st (Tue.) ~ May 21st (Sun.), 2023

Feature Exhibition Room 2

Military baton gifted to Noguchi Kazunari from Kuroda Nagamasa (16 -17th centuries)


Many of the items in the Fukuoka City Museum's permanent collection have beendonated by the people of Fukuoka City and other regions. We would like to once again thank everyone who donated valuable objects to the museum.

All collected items are first organized and researched to ensure that they are passed on to future generations properly and securely and that they are effectively used for exhibitions, study and other purposes.

While organizing and researching artifacts from families that were clansmen, families that ran businesses and families that served as village officials in the Fukuoka domain, we occasionally come across things that are said to have been gifted by feudal lords of the Fukuoka domain.

On such occasions, we often ask ourselves, "Why this item? Why this person? When and why was it given?” We try to find answers to these questions from related materials and sources.

In this exhibition, we display the actual items gifted by the feudal lords and introduce the real picture that we have gained through our research.

  

Saddle with mother-of-pearl inlay and designs of comma-shapes and arabesques (16th century)

2023年5月12日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈036〉幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢

 

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では「別冊 シーサイドももち」と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラ。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回(「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回(「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)






〈036〉幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢


ある日、昭和初期の西新の地図を眺めていると、あまり見慣れない文字が目に飛び込んできました。

それがコチラ。


(昭和2年「地図報知第73号 大福岡市の市街」、松源寺所蔵)
この地図の…。


(昭和2年「地図報知第73号 大福岡市の市街」、松源寺所蔵)
ココ!!


よく見ると、「百道女学」と書かれています。


(昭和2年「地図報知第73号 大福岡市の市街」、松源寺所蔵)
隣は大正15年まで当地にあった移転前の西新小学校。


そういえば新聞広告にも似た名前の学校の学生募集広告がありました。


(昭和3年1月12日『福岡日日新聞』夕刊2面)


百道女子学院」…???


聞き慣れない名前です。まるで2000年代の深夜番組に出てくるアイドルグループみたいなネーミング(多方向にスミマセン)。

とても気になったので、さらに詳しく追ってみたところ、そこには意外なドラマがありました。


* * * * * * *


「百道女子学院」とは、昭和初期に西新にあった学校で、この学校をつくったのは「調須磨(しらべ・すま)」(あるいは「須磨子」)という人物でした。

この須磨さん、実は「ただもの」ではなく(学校をつくった時点で「ただもの」ではありませんが)、なんと九州帝国大学法文学部に初めて入学した女子学生2名のうちの1人なのです。


(『調須磨遺稿集』より、国立国会図書館所蔵)
調須磨さん。凜々しいまなざしですね。


調須磨さんは、明治33(1900)年に嘉穂郡飯塚町(現 飯塚市)で生まれました。

明治45(1912)年、当時開校したばかりだった直方高等女学校(現 直方高等学校、明治42年開校)に入学しますが、須磨さんは当時から大変優秀だったようで、卒業に際して黒田奨学会から「学業優等品行端正生徒の模範」として賞を受けたほどでした。

大正5(1916)年には奈良女子高等師範学校(現 奈良女子大学)に入学。卒業後に宮崎県立都城高等女学校(現 県立都城泉ヶ丘高等学校)の教諭となった須磨さんですが、「もっと学びたい!」という意欲は強く、2年後の大正11(1922)年には東京帝国大学文学部の聴講生となっています。

その後、1年間の遊学期間を経て翌年には熊本の大江高等女学校(のちの熊本フェイス学院高等学校、現在は開新高等学校と合併して廃校)の教諭となりますが、大正14(1925)年に九州帝国大学法文学部が女子にも門戸を開いたことでさっそく願書を出し、ついに初めての女子学生として九州帝国大学への入学が許されたのです。

このことは、当時の新聞でも大きく報じられています。


(大正14年2月5日『福岡日日新聞』朝刊3面、福岡市博物館所蔵)
願書を提出した時点で受けた取材の記事。
熊本の自宅に記者がアポ無しで押しかけたようです。


こうして九州帝大の初の女子学生の一人として勉学の道をひたすらまい進した須磨さんですが、やはり教育者という仕事は彼女の天職だったようで、九州帝国大学在学中、ついに自分で学校をつくることを決意。

それが百道女子学院でした。


須磨さんが九州帝国大学に入学した翌年、大正15(1926)年に百道女子学院は誕生しています。

9月10日に行われた開校式の様子は、当時の新聞で次のように報じられました。


福岡市西新町に新設した百道女子学院では、十日午前十時から同校にて同院開校式並に新入生入学式を挙行したが、同学院理事川端久五郎氏の開会の辞に次ぎ勅語奉読設立者調道太郎氏の挨拶学院長調須磨子女史の告辞あり。川端理事から帝大女高師等出身の同校職員十数名を紹介し、顧問西川虎次郎中将、白坂修猷館長、高崎烏城氏、西新小学校長其他の祝辞演説あり。閉会後来賓父兄に茶菓の饗があつて来賓は右の外西新町有志其他十数名に達し盛会であつた。尚ほ今回は学年中途の募集にも拘らず新入学生廿数名福岡県を最多とし熊本宮崎等に及んで居る。

(大正15年9月11日『福岡日日新聞』朝刊7面より、句読点の一部は筆者)



記事からも分かるように、開校式には西川虎次郎白坂修猷館館長など、西新町の関係者がこぞって参列しています。

学校は西新町中東、旧西新小学校横のレンガ造りのビルにありました(現在の明治通り沿い、ドン・キホーテ西新店がある辺りです)。

なぜ学校の場所を西新町にしたのかなど、その設立経緯については資料がなく、詳しいことは分かりませんが、そこには彼女の支援者であった川端久五郎(記事中では理事)という人物が大きく関係していたようです。


川端久五郎は須磨さんの伯父に当たる人物で、大正7(1918)年~12(1923)年まで早良郡長を務めていました。


(『早良郡誌』より)
川端久五郎。

川端久五郎は金銭面でも須磨さんの活動を支えていたようです。

また記事の中に川端久五郎とともに設立者として名前がある「調道太郎」とは、おそらく須磨さんの父と考えられます。道太郎は飯塚や直方で医師をしていた人物と思われます。

彼らの理解と支援によって、須磨さんは自身が理想とする女子教育の道を進んでいったのです。


百道女子学院については正式な記録が少なく、設立や運営に関することはほとんど分からないのですが、新聞に百道女子学院の設立申請の内容が報じられていて、そこには開校当時のカリキュラムが載っていました。

それによると学習課程は下記のようなものでした。


【研修科】
[入学資格]高等女学校卒業またはそれと同等以上の者
[目的]女子高等師範学校、女子大学、女子専門学校等へ入学するための学科を習得する
[修業年限]1年間
[定員]50名
[学科]修身・国語・数学(代数幾何・算術)・地理・歴史・物理・化学・動物・植物・鉱物・生理・衛生・裁縫・図書・英語

【技芸科】
[入学資格]技芸科高等部は高等女学校卒業またはそれと同等以上の者
      技芸科普通部は高等女学校・小学校卒業またはそれと同等以上の者
[目的]将来家事に従事するための必須の学科や技芸を習得する
[修業年限]高等部 1年間/普通部 2年間
[定員]100名
[学科]
 ●高等部 修身・国語・数学・英語・家事・裁縫・手芸・図書
 ●普通部 修身・国語・算術・家事・裁縫・手芸

(大正15年7月20日『福岡日日新聞』朝刊7面より作成)



これを見ると、とくに研修科ではかなり高い教育を行おうとしていたようです。須磨さんの女子教育に対する高い理想が伺えます。

須磨さん自身、九州帝大では哲学を専攻し、卒業論文では「フッサール哲学に於ける内在及超越の問題に附いて」、大学院の研究論文では「志向性に就いて」「現象学的時間に就いて」等、いくつもの論文を著しています。


自身は九州帝大で哲学を学び、理想とする女子教育のための学校も立ち上げ、一見順風満帆のように見える須磨さんですが、実は身体に大きな問題を抱えていました。

奈良女子高等師範に入学した後、大正10(1921)年ごろから呼吸器を病み、それからたびたび療養を余儀なくされていたのです。



百道女子学院を設立してからは、ますます病魔に蝕まれていった須磨さん。そんな中で自身の研究と学院経営を両立することは、とても困難を極めたようです。学院設立後、担当教授や川端氏、また学校関係者に宛てた書簡には、その苦悩が綴られています(『調須磨遺稿集』)。

そして昭和4(1929)年4月からはついに福岡を離れ、大阪での本格的な療養生活を送ることになりました。この時には学業も学校経営もすべてを「一切放擲」しての療養だったようです。


そんな中でも、なんとか昭和5(1930)年3月に大学院へ研究論文を提出し大学院での学業を終えることができた須磨さんでしたが、ついに力尽き、同年8月22日に30歳の若さで亡くなってしまいました。


百道女子学院も、さまざまな困難に見舞われます。

須磨さんの体調が優れず、なかなか学校経営に参画できなくなっていたこともあった中、昭和4年には開校から校舎として使っていた西新町のビルからの退去を余儀なくされ、祖原に移転します。

さらには須磨さんの死から2年後、最大の支援者であった川端久五郎も昭和7(1932)年1月22日に亡くなってしまいます。


須磨さんと川端氏いう大きな柱を失った百道女子学院のその後は昭和6(1931)年までは学生の募集を行っているものの、在学生の修業年数からおそらく昭和8(1933)年ごろまでは存続していたでしょうが、その後はまったく不明です。



大きな理想とそれを実現できるだけの能力を持ちながら、志半ばにしてついえてしまった須磨さんの夢。須磨さんの人生はまるで朝ドラにでもなりそうな激動の30年でした。

もし須磨さんが健康で、その後も元気に福岡の女子教育向上のために力を尽くしていたら、九州帝大初の女子学生であり学生起業家でもあった須磨さんは、福岡の女子教育のパイオニアとして、もっと世に知られた存在になったかもしれません。

また、このブログでも何度か「あったかもしれない歴史」として、百道の開発史をご紹介してきましたが、須磨さんがもし健在だったら、百道女子学院は福岡でも有数の女子大学(あるいは高校)に成長して、西新で修猷館や西南学院と肩を並べる名門校になっていたかもしれませんね。


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ところで、百道女子学院は設立時に西新町中東のレンガ造りのビルにあったという話をしました。それは須磨さんの書簡などからも伺えるのですが、昭和3(1928)年の卒業写真が残されており、そこに往時の姿を垣間見ることができます。


(『調須磨遺稿集』より、国立国会図書館所蔵)
第2回卒業式の日の記念写真。
後列の一番左は弟の守正氏。その隣は久五郎さん?

ところがこの校舎、どうやら須磨さんたちが建てたものではなく、それにはまた別のドラマがあるようですので、そちらはまた次回にご紹介したいと思います。






【参考文献】

・調須磨『調須磨遺稿集』(百道女子学院、1931年)

・冨士原雅弘「旧制大学における女性受講者の受容とその展開―戦前大学教育の一側面―」(『教育学雑誌』第32号、1998年)

・嘉穂郡役所『嘉穂郡誌』(名著出版、1972年)

福岡県早良郡役所編『早良郡誌』(名著出版、1973年)

・八女市史編さん委員会編『八女市史 年表編』(八女市、1992年)

・新聞記事
 「九大最初の女学生」(大正14年2月5日『福岡日日新聞』朝刊3面)
 「百道女子学院設立認可申請」(大正15年7月20日『福岡日日新聞』朝刊7面)
 「百道女子学院きのふ開校式」(大正15年9月11日『福岡日日新聞』朝刊7面)
 「(広告)生徒募集」(大正15年8月6日『福岡日日新聞』夕刊3面)
 「(雑件)生徒募集」(昭和2年2月11日『福岡日日新聞』夕刊3面ほか)
 「百道女子音楽会」(昭和2年11月12日『福岡日日新聞』朝刊3面)
 「百道の音楽会 非常なる盛会」(昭和2年11月14日『福岡日日新聞』朝刊3面)
 「(広告)家政科・文科 生徒募集」(昭和3年1月12日『福岡日日新聞』夕刊2面ほか)
 「(広告)受験準備 女子夏期講習会」(昭和4年7月21日『福岡日日新聞』朝刊4面ほか)
 「(広告)生徒募集」(昭和5年3月15日『福岡日日新聞』夕刊3面ほか)
 「(広告)生徒募集」(昭和6年3月22日『福岡日日新聞』朝刊5面ほか)
 「(訃報)川端久五郎氏」(昭和7年1月24日『福岡日日新聞』朝刊3面)
 「川端福島町長町葬」(昭和7年1月28日『福岡日日新聞』朝刊7面)



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Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル