2024年5月12日日曜日

【別冊シーサイドももち】〈078〉修養の殿堂、百道に建つ ~射撃場跡地にできた社会教育会館~



埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラからご覧ください。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回(「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回(「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)
第36回(「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」)
第37回(「開局!よかトピアFM(その8)『今日もリスナーさんからおたよりが届いています』」)
第38回(「西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~」)
第39回(「「地球をころがせ」を踊ってみた ―「よかトピア」オリジナル音頭―」)
第40回(「映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~」)
第41回(「よかトピアでアジア旅 ― 三和みどり・エスニックワールドのスタンプラリー ―」)
第42回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画①〕スリルを楽しむ~百道の飛込台とハイダイビング~」)
第43回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画②〕大海を泳ごう~かつての遠泳、いまはオープンウォータースイミング~」)
第44回(「百道海水浴場はどこにある?」
第45回(「2100年のパナコロニーからPAF522便に乗船したら、こうなった―よかトピアの松下館(1)―」
第46回(「百道テント村100年 大解剖スペシャル!」)
第47回(「トラジャのアランとコーヒーと ―よかトピアのウェルカムゲートはまるで宙に浮かんだ船―」)
第48回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画③〕世界水泳観戦記録 in シーサイドももち」)
第49回(「福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった―よかトピアの松下館(2)―」)
第50回(「百道から始まる物語 ~「水泳王国・福岡」の夜明け前 ~」)
第51回(「よかトピアのトイレと日陰の話」)
第52回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正編~」)
第53回(「リゾートシアターは大忙し ―よかトピアのステージ裏―」)
第54回(「ピオネとピオネ ―百道海水浴場最後の海の家に隠された名前の謎―」)
第55回(「34年前のよかトピアではこれが当たり前の景色でした ―電話やカメラや灰皿の話―」)
第56回(「百道で行われた戦時博覧会「大東亜建設大博覧会」とは」)
第57回(「キャラクターが大集合した「いわたや(岩田屋)こどもかん」と、ついでによかトピアの迷子事情も」)
第58回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編①~」)
第59回(「巨大な鳥かごに入ってみたら、極楽鳥がであいを伝えてくれた ―よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(1)―」)
第60回(「西新町に監獄ができるまでの話」)
第61回(「鳥のグッズを開封、そしてシンガポールからはバードショーもやってきた ―よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(2)―」)
第62回(「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈前編〉
第63回(「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈後編〉
第64回(「よかトピアの海上レストラン ―マリゾン(1)―」)
第65(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編②~」)
第66(「子象のタクシー、初乗り100円でシーサイドももちをご案内 ―よかトピアの象のはなし ―」)
第67(「船で、飛行機で、データで、電波で、人の手で、福岡と世界を結んだよかトピアのパビリオン ―マリゾン(2)―」)
第68(「よかトピアはドームつくりがち」)
第69(「シーサイドももちはMVステージ(その1)」)
第70(「シーサイドももちはMVステージ(その2)」)
第71(「百道松原を買った藤金作(その1)― 西新爆上がりの回 ―」)
第72(「百道松原を買った藤金作(その2)― 元寇防塁発見の回 ―」)
第73(「サザエさん通りの生い立ち  ―「プレ・サザエさん通り」と波瀾万丈の元寇防塁  ―」)
第74(「最初の海の家「設備屋」の行方と西南学院のキャンパス」)
第75(「百道に計画されていた幻の国際飛行場」)
第76(「ガワラッパのネッキ、ミズチと戦う ―よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その1)―」)
第77(「ドラえもんが水のことを教えてくれた日 ―よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その2)―」)








〈078〉修養の殿堂、百道に建つ ~射撃場跡地にできた社会教育会館


シーサイドももちの歴史を振り返る手がかりとして、どうしても話の中心になるのは百道海水浴場です。

大正7(1918)年に開場した百道海水浴場は、それから昭和50(1975)年に事実上の閉鎖となるまで、多くの人で賑わいました。


百道海水浴場は、シーサイドももち地区ができる以前の百道地区を代表する場所ではありましたが、それはこのエリアのほんの一部。面積的にはかなり限られた場所での出来事でした。




では、それ以外の地区には一体何があったのでしょうか…?

というわけで、今回はもっと西側のエリアに目を向けてみたいと思います。


(大正15年測量1/25000地形図「福岡西部」「福岡西南部」
〈大日本帝国陸軍測量部〉を加工)
百道で賑やかなのは東側の一部。では西側は…?


* * * * * * *



大正~昭和初期の百道松原開発

百道海水浴場ができた大正時代~昭和初期、路面電車が走っていた道(現在の明治通り)から北側にはまだまだ松が生い茂り、開発もほとんどされていない状態でした。


海水浴場が開かれる少し前には福岡監獄ができましたが(大正5〈1916〉年)、周辺の松林や近隣にあった墓地の影響もあり、東側とはうってかわって鬱蒼として薄暗く、何となく近寄りがたいような場所だったようです。


福岡監獄については、以前も何度かご紹介してきました。




西新町の人々は、そんな広大な〝空き地〟である百道の松原にさまざまなものを誘致しようと奮闘しますが、残念ながらいずれも実現はしませんでした…。





西側にあった射撃場のその後の活用

大正時代~昭和初期のこの一帯は、私有地ももちろんありましたが、そのほとんどが国有地か県有地

なぜならその理由は、この場所にかつて軍の射撃演習場があったから


この射撃演習場は、明治から大正にかけて百道に存在したのですが、大正5(1916)年には鴻巣山に新しい射撃場ができたため移転、その後大正10(1921)年頃には設備を撤収し、また〝空き地〟に戻っていました。


元射撃場は軍用地だったので、一部は国から県や市へと所有権が変わっていても、そのほとんどは官有地のままだったんですね。

一例としては、昭和2(1927)年には射撃場跡地の一部に西新小学校が新築・移転しています。




さて、この残された県有地をどうするか?となった時、県はそこに地方の青少会や処女会のための教育の場として、社会教育会館を建てることを考えました。

社会教育会館は昭和末期までこの場所にあったので、もしかしたらご記憶の方もおられるかもしれません。



ここでちょっとお詫び…。

ちなみに書籍『シーサイドももち』の中に戦前の百道地区MAPを掲載していて、そこにも「社会教育会館」の場所を示しているのですが、実は誤植がありまして…。

本来は「社会教育会館」なのですが、「教育会館」となっていて、これは誤りですので、この場を借りてお詫びして訂正いたします…。


※ 書籍『シーサイドももち』の正誤表はコチラをクリックするとご覧いただけます。





県がつくった社会教育会館の姿

さて、この場所に社会教育会館があったことは、昭和初期の地図を見ても分かります。


(『最新調査福岡市地図』昭和11年、福岡市博物館所蔵)
ありました、「社會教育會館」。周辺には「縣營住宅」の文字も。
一帯が官有地だったことが分かります。


このように地図にもちゃんと載っている社会教育会館なのですが、その実態はいまいちよく分からず…


ですが「宿泊もできるような研修施設」ということなので、漠然と堅牢な学校のような、あるいは宿泊施設のような建物があったんだろうなーと想像していました。




そんなある日、昭和初期の新聞記事を調べていると、衝撃の写真が目に飛び込んできました。


それがコチラ。


(『福岡日日新聞』昭和4年4月9日朝刊10面より)



ええええーーーーΣ(゚Д゚)!!!!

超和風ーーーーー!!!



まるで神社かお寺の本堂のような立派な和風建築…。

まさかこのような建物だったとは想像もしなかったので、とても驚きました。




ちなみに現在の県立社会教育総合センターは篠栗町にあるのですが、そちらの全体図はこんな感じです。


百道に建てられた社会教育会館は昭和一桁のころの話ですから、さすがにここまでハイカラでないことはわたしでも分かりますが、それにしても想像以上の和風建築。

ちょっと衝撃でした。



現在の社会教育総合センターについてはコチラをご覧ください。





そして先日ついに、この社会教育会館の様子が分かる資料を見つけました。

開館記念につくられた絵はがきです。


(個人蔵)
福岡県社会教育会館開館記念として昭和4年につくられた絵はがき。


ご覧のとおり、絵はがきの表紙(袋)には堂々と「修養の殿堂」という文字が。

たしかにその名に恥じぬ立派な、というか立派すぎる建物です。



社会教育会館建設へ

調べてみたところ、この社会教育会館の建設については、昭和2(1927)年の県議会で実際に議論されていました。

その内容をちょっと引用してみます。



(略)これは主として社会教育の殿堂にしよう、社会教育は環境を要しますから、その環境が無いと言うと教化の成績があがらないので、社会教育の殿堂と致したいと言う考で、この予算に計上した次第であります。これは青年教育または処女教育その他少年教育・青年教育…、かくのごとき社会教育と言う方面の仕事を専ら致したいと考えておるのであります。

今日の実情はわずかに学校の講堂とか或はお寺とかを使用しておりますけれども、地方から申しまして充分な場所がないのであります。県でやりたいと言う場合においてもやむを得ず地方を分けて、お寺等を使用しておりますので非常に苦しい立場にある訳であります。(略)

(『詳説福岡県議会史』古川静夫参与員の回答より)


なるほど、青少年に対する社会教育の重要性と、それを実施する場所の必要性がよく分かりますし、その切実さも伝わってきます。


また、「これまではやむを得ずお寺などを利用していた」ということから考えると、なんとなくこういった本堂のような建物になるのも分かるような分からないような…。



このような議論を経て、社会教育会館建設は了承されました。

古川参与員が訴えた設置目的については、最終的には次のようにまとめられています。



現下の社会状態に鑑み、青年男女の修養訓練について一層の指導奨励を加える必要から、これら青年男女に国民精神の涵養・思想指導の殿堂たらしむべく、同時に市町村吏員の自治講習所に充てる(略)

(『詳説福岡県議会史』より)


ここでも「殿堂」という言葉が使われています。

建設にかかった費用は、計画が議決された昭和2(1927)年の時点で4万9928円、さらに翌年には補助金として1万円の予算が認められています。

そのうち、講堂部分は新築として約2万円の予算を使い建てられました。



数奇な運命をたどった宿舎棟

さらにこちらの社会教育会館には、大人数での講演や研修の場である講堂と別に、食事や宿泊、あるいは少人数での研修にも使える講義室を備えた宿舎棟がつくられました。


(福岡県立社会教育会館絵葉書/封筒〈昭和4年〉、個人蔵)


平面図の左側に描かれているのがそれです。

ちなみにこれは2棟あるわけではなくて、講堂と廊下でつながった1棟があり、そこが2階建てになっている構造です。


『県議会史』に書かれた建築の内訳を見ると、講堂は新築として建てられましたが、この寄宿棟はちょっと違っていて、別の場所で使われていた建物を移築してきたものだったようなのです。


それはなんと、西新町の中学修猷館にあった寄宿舎「報国寮」


(福岡県立社会教育会館絵葉書〈昭和4年〉、個人蔵)

(福岡県立社会教育会館絵葉書/拡大〈昭和4年〉、個人蔵)


中学修猷館は、明治33(1900)年に大名町堀端(現在の中央区赤坂)から西新町に移転して来たのですが、その2年後の明治35(1902)年に寄宿舎が完成しました。


『修猷館二百年史』によれば、この寄宿舎(のちに「報国館」と命名)は「大名町から西新町に移転して二十五年、歴代の名舎監(※寄宿舎を監督する人)を擁し、独自の舎風を築き上げた寄宿舎」だったといいますが、大正11(1922)年ごろから「中学の増設と通学区域の縮小、交通事情の好転」などを理由に、県は廃止の方針を出していたそうです。


結局、大正15(1926)年の3月末をもって廃止されてしまったのですが、この思い出の寄宿舎はその後解体され、県の社会教育会館の宿舎として生まれ変わり、第二の人生を歩み始めたのでした。

ちょっと感動的…!





…ところが、です。


一度は命拾い(?)した修猷館の寄宿舎でしたが、それからわずか1年後、昭和5(1930)年に思わぬ試練が待っていました。


この年の7月18日、九州を大型台風が襲いました(イヤな予感…)。


この台風によって九州・山口の各地では列車は脱線、建物の倒壊、街路樹は倒れ、桟橋は真っ二つ…と、大きな被害を受けたそうです。



そしてそれは百道も例外ではなく、やはりこの未曾有の暴風雨に襲われて、なんと社会教育会館の寄宿舎は完全に倒壊してしまったというのです…嗚呼、なんということでしょう…。



これを報じた新聞記事にはその様子が次のように書かれていました。



(略)百道松原の福岡県社会教育会館の寄宿舎は木葉微塵に倒潰して見る影もなく、本館の銅板葺の屋根は全部吹き取られて恰もまる坊主のやうな残骸を晒らし松原の大樹が幾本となく根こそぎに吹き飛ばされて居る(略)

(『福岡日日新聞』昭和5年7月19日 特別号外1面
「惨害地を突破して 社会教育館と歴史館ぺしゃんことなる」より)


これはヒドイ…というか記事のタイトルからしてヒドイ…。

本館も銅板葺きの屋根が飛ばされるなどの被害を受けたものの、寄宿舎の惨憺たる有様にくらべれば…。



その後、どのように修築されたかは分かりませんでしたが、昭和14(1939)年の空中写真を見ると建物は残っているので、会館自体は存在していたと思われます。

しかし、昭和20(1945)年6月の福岡大空襲によって全焼したのだそうです。



戦後に復活した社会教育会館

戦災からしばらく経った昭和28(1953)年、社会教育会館は同じ場所に再建され、1月28日に落成式を迎えました。

落成式では知事をはじめ関係者約100名あまりが参加し、華々しい再スタートを切ったということです。


この建設には前年の昭和27(1952)年1月に発行された「教育施設宝くじ」の収益金が充てられました。

建設費は500万円。かつての純和風建築とはうってかわって、木造二階建て、モルタル赤瓦の近代建築として生まれ変わりました。



(『教育福岡』第5巻第2号〈福岡県教育委員会、1953年〉より作成)
生まれ変わった福岡県立社会教育会館の平面図。



それから昭和59(1984)年に現在の社会教育総合センター(篠栗町)ができるまでの約30年間、この場所は引き続き「社会教育の殿堂」としてさまざまな人々に利用されたということです。

めでたし、めでたし。



現在のその場所は?

かつては海のすぐそばに建っていた社会教育会館ですが、その後はご存知のとおり北側が埋め立てられ、その場所は完全に内陸地となりました。

社会教育会館が移転したあとは県有地ではなくなっており、現在では大きなマンションが建っています。


(国土地理院地図より作成)
赤で囲まれた場所が、かつて社会教育会館があった所です。


(福岡市史編さん室撮影)
ここが現在のその場所。南側の道から撮った写真です。


これではかつての姿は想像もできません(当たり前ですが…)。



ところで、初代の和風建築の全景写真と同じ角度で写真が撮れないかなと思ったのですが、平面図などには方位が書かれておらず、元々がどの向きに建てられたのか分からず…。


(福岡県立社会教育会館絵葉書〈昭和4年〉、個人蔵)
この写真は南から? それとも北から??


絵葉書の全体像を見ると手前に松があり、また建物と建物の間にも松?が見えます。

しかしこれだけではあまりヒントにはならず…。


利便性から考えると、手前の正門が西新町の中心部に近い方がいいような気がするのですが、結局断定はできませんでした。




ただ一つ気になったのは、写真の手前側が少し下っているように見えますよね。

かつて会館があった周辺を見てみると、南側の一部が同じようにちょっとだけ下っているところがありました。


(地図:地理院地図より作成/写真:福岡市史編さん室撮影)
写真は○の場所を北から南に向いて撮ったところです。
ちょっとだけ下がっているのがお分りいただけるでしょうか…?


これだけではなんとも言えませんが、今のところの結論としては、このような構図だったのかなーと思っています。


(上:社会教育会館絵葉書〈昭和4年〉、個人蔵、
下:市史編さん室撮影)
道が狭いので、同じ構図では撮れませんでした…。
写真は、南側から北西方向を見ています。



* * * * * * *


今回は、射撃場がなくなった後につくられた県の社会教育会館について調べてみました。

調べて見ると建物自体にも思わぬドラマがあって、意外なつながりを見つけることができました。



…さて、これまでも当たり前のように登場していましたが、百道の西側にあったという「射撃場」。

これは一体どのようなものだったのでしょう…?



次回はこの射撃場自体にスポットを当ててみたいと思います。



(福岡市史編さん室撮影)
これは逆に北から見たところ。
もしかしたらこちら側なのかもしれない…。





【参考文献】
・『教育福岡』第五巻第二号、通巻№42(福岡県教育委員会、1953年)
・福岡県議会事務局『詳細福岡県議会史 昭和編第一巻』(福岡県議会、1957年)
・福岡県教育百年史編さん委員会編『福岡県教育百年史 第六巻 通史編(Ⅱ)』(福岡県教育委員会、1981年)
・福岡県教育百年史編さん委員会編『福岡県教育百年史 第七巻 年表・統計編』(福岡県教育委員会、1980年)
・修猷館二百年史編集委員会編『修猷館二百年史』(修猷館二〇〇年記念事業委員会、1985年)
・福岡県議会事務局『福岡県議会史 第十巻』(福岡県議会、2004年)

・新聞記事
 ・『福岡日日新聞』昭和4年9月10日 朝刊5面「今日落成式を挙ぐる福岡県教育社会会館(写真)」
 ・『福岡日日新聞』昭和5年7月19日 特別号外1面「惨害地を突破して 社会教育館と歴史館ぺしゃんことなる」

・ウェブサイト
 ・福岡県立社会教育総合センターの公式サイト https://www.fsg.pref.fukuoka.jp/center/riyou/anai.html
 ・篠栗町合併60周年記念誌(篠栗町ウェブサイト/町勢要覧) https://www.town.sasaguri.fukuoka.jp/chosei/shokai/1549.html
 


シーサイドももち #西新町の歴史 #社会教育会館 #修猷館 #意外な来歴




Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル

2024年5月9日木曜日

新総館長のご挨拶

総館長就任にあたって 

 有馬学前総館長の跡をうけ、今年4月1日付で福岡市博物館総館長に就任いたしました。専門は戦国時代から江戸時代の日本史で、特に豊臣政権を中心に研究をおこなってきました。現在の福岡市域に関する研究成果として、戦国時代の末期に立花山城に拠って島津氏と戦った立花宗茂や、福岡藩黒田家の家祖黒田孝高(官兵衛・如水)の伝記などを著しています。また、九州大学の定年退職を機に、豊臣秀吉による九州平定の過程を単著にまとめ、薩摩から凱旋した秀吉が博多・箱崎で様々な重要政策を打ち出したことを論じました(『関白秀吉の九州一統』)。

 私が研究している秀吉の時代に限らず、原始・古代から現代に至るまで、現在の福岡市域は日本列島の歴史上とても大きな役割を果たしてきました。このような地に設けられた福岡市博物館の総館長という仕事はとても魅力的なものです。しかし、同時に大きな責任を感じざるを得ません。さまざまなデジタルコンテンツが開発され、加速度的に普及していったことで、我が国はいうまでもなく世界中のおそらくすべての博物館(美術館や動植物園、水族館などを含む)が大きな岐路に立たされています。コロナ禍という未曾有の事態は、これに拍車をかけるものでした。さまざまな技術革新を伴いつつ驚異的なスピードで変化していく現実を前に、未来志向の博物館像を模索し、提示していくことは相当にハードな営みとなります。

 加えて、福岡市博物館は開館から三十余年を経た、リニューアル事業という喫緊の課題も抱えております。もちろん、これは老朽化した設備の改修などにとどまるものではありません。上記の課題を踏まえた、より根本的・本質的な構造改革が求められているといってよいと思います。

 このように、「やるべきこと」「やらなければないないこと」は山積ですが、であるが故に「文化都市」福岡にふさわしい博物館という原点に立ち帰ることも必要ではないでしょうか。就任して間もないこともあり、不案内なことばかりですが、しばらくはこの原点に視座を据えつつ、楽しみながら福岡市博物館の近未来像を模索したいと考えております。以上、簡単ではありますが、総館長就任の挨拶に代えさせていただいます。

                     令和6(2024)年4月
                   福岡市博物館総館長 中野 等


2024年4月26日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈077〉ドラえもんが水のことを教えてくれた日―よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その2)―

 


埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラからご覧ください。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回(「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回(「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)
第36回(「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」)
第37回(「開局!よかトピアFM(その8)『今日もリスナーさんからおたよりが届いています』」)
第38回(「西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~」)
第39回(「「地球をころがせ」を踊ってみた ―「よかトピア」オリジナル音頭―」)
第40回(「映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~」)
第41回(「よかトピアでアジア旅 ― 三和みどり・エスニックワールドのスタンプラリー ―」)
第42回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画①〕スリルを楽しむ~百道の飛込台とハイダイビング~」)
第43回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画②〕大海を泳ごう~かつての遠泳、いまはオープンウォータースイミング~」)
第44回(「百道海水浴場はどこにある?」
第45回(「2100年のパナコロニーからPAF522便に乗船したら、こうなった―よかトピアの松下館(1)―」
第46回(「百道テント村100年 大解剖スペシャル!」)
第47回(「トラジャのアランとコーヒーと ―よかトピアのウェルカムゲートはまるで宙に浮かんだ船―」)
第48回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画③〕世界水泳観戦記録 in シーサイドももち」)
第49回(「福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった―よかトピアの松下館(2)―」)
第50回(「百道から始まる物語 ~「水泳王国・福岡」の夜明け前 ~」)
第51回(「よかトピアのトイレと日陰の話」)
第52回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正編~」)
第53回(「リゾートシアターは大忙し ―よかトピアのステージ裏―」)
第54回(「ピオネとピオネ ―百道海水浴場最後の海の家に隠された名前の謎―」)
第55回(「34年前のよかトピアではこれが当たり前の景色でした ―電話やカメラや灰皿の話―」)
第56回(「百道で行われた戦時博覧会「大東亜建設大博覧会」とは」)
第57回(「キャラクターが大集合した「いわたや(岩田屋)こどもかん」と、ついでによかトピアの迷子事情も」)
第58回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編①~」)
第59回(「巨大な鳥かごに入ってみたら、極楽鳥がであいを伝えてくれた ―よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(1)―」)
第60回(「西新町に監獄ができるまでの話」)
第61回(「鳥のグッズを開封、そしてシンガポールからはバードショーもやってきた ―よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(2)―」)
第62回(「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈前編〉
第63回(「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈後編〉
第64回(「よかトピアの海上レストラン ―マリゾン(1)―」)
第65(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編②~」)
第66(「子象のタクシー、初乗り100円でシーサイドももちをご案内 ―よかトピアの象のはなし ―」)
第67(「船で、飛行機で、データで、電波で、人の手で、福岡と世界を結んだよかトピアのパビリオン ―マリゾン(2)―」)
第68(「よかトピアはドームつくりがち」)
第69(「シーサイドももちはMVステージ(その1)」)
第70(「シーサイドももちはMVステージ(その2)」)
第71(「百道松原を買った藤金作(その1)― 西新爆上がりの回 ―」)
第72(「百道松原を買った藤金作(その2)― 元寇防塁発見の回 ―」)
第73(「サザエさん通りの生い立ち  ―「プレ・サザエさん通り」と波瀾万丈の元寇防塁  ―」)
第74(「最初の海の家「設備屋」の行方と西南学院のキャンパス」)
第75(「百道に計画されていた幻の国際飛行場」)
第76(「ガワラッパのネッキ、ミズチと戦う ―よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その1)―」)







〈077〉ドラえもんが水のことを教えてくれた日─よかトピアの「河童館」は福岡市の弱点「水」を大特集したウォーターパビリオンだった(その2)─


〈076〉で取り上げたよかトピアの水大特集パビリオン、「ウォーターランドパビリオン 河童館」の続きです。




パビリオンの建物は2つの部屋に分かれていたのですが、〈076〉で紹介したシアターの隣は「水の展示ゾーン」になっていました。


(福岡市史編さん室作成)


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)


人工衛星から撮影した地球の姿や九州の川・水を載せた大きなパネル、筑後川の方から福岡市を見ることができるジオラマなどが展示されていて、福岡の水環境を知ることができるコーナーです。

1/500のダム模型や、貯水量をリアルタイムで伝える河川情報システムなどを使って、福岡市に送水するダムの仕組みもよく分かるように工夫されていました(ちなみに河童伝説の展示もあったそうです)。



この部屋の一角には「水のふるさと産品コーナー」があって、甘木市(現朝倉市)の黄金川でとれる天然の淡水のり「川茸のり」(スイゼンジノリ)や、このノリを使った佃煮(700円)・川茸こんにゃく(600円)を販売していました。


甘木と福岡市とでは距離が離れているように思えるのですが、当時からすでに甘木にある江川ダム・寺内ダムが福岡市に送水していましたから、実は水を介して密接な関係なのですよね。


そのほかにも、葛湯(6個入り500円)・葛きりそうめん(4人前700円)・本葛きり(4人前700円)・そば粉豆(350円)・ラムネ(150円)などなど、水を使った特産品を買うこともできました。




シアターと展示ゾーンを見てパビリオンの外に出ると、別棟の「海水淡水化コーナー」がありました。


(福岡市博物館所蔵)
海水の淡水化について解説したパンフレット


ここでは博多湾の海水を淡水化するデモンストレーションをおこなっていました。


その仕組みなのですが、半透膜の装置をさかいにして、圧力をかけ塩水を真水側に移動させると塩分と水が分解されるのだそうです。

そうして分解された真水だけを集める「逆浸透法」という方法が使われていました(難しい…。なのでだいぶん説明を端折っています…)。



この仕組みは分からなくても(私のように…)、飲んでもらえばちゃんと真水になっていることが分かるだろうというわけで、試飲コーナーもありました。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)


このよかトピア会場にあった海水淡水化装置は、改良を加えて1991年に福岡市の小呂島に移されました

2004年に老朽化で施設を新しくするまで、現役で使われていたそうです。


海水淡水化施設や小呂島の水道のことは、こちらのサイトが詳しいです(淡水化の仕組みも図入りで詳しく説明してあります。福岡市東区奈多の海水淡水化センター「まみずピア」は見学もできるそうですよ!)





来場者へのプレゼントもたくさんありました。



まずはやっぱり


曲淵ダム(福岡市早良区)の水を浄水したアルミ缶ボトル「博多の水 鴻臚館」を4月8日(土)から毎日、先着500名に無料で配りました。


このために用意したボトルは全部で10万本



曲淵ダムは1922年末に完成して、1923年に上水道の全面給水を福岡市に実現させた、市の水道事業の記念碑的な存在です。


このときから数えると、昨年2023年は福岡市の水道事業100周年

水道局では『福岡市水道百年史』を刊行し(すごく詳しい!)、福岡市史編さん室でも市史講演会「福岡市水道100年 水と福岡」を開催したところでした。


(福岡市史編さん室作成)



河童館で配られた「博多の水 鴻臚館」は、この曲渕ダムに流れ込む原水を活性炭・加熱処理したものでした。


なので、塩素のにおいもしないのだとか。


「博多の水」、どんな味だったのか気になりますね。


ちなみに、当時のインタビューによると、「う~ん、おいしいような“気”がします」とのことでした(福岡市南区から来られたKさんのお答え)。


利き水はなかなか難しいですものね…。



そのほか、小学生以下のこどもたちにカッペイ君のサンバイザーをプレゼントしたり、6月の「水道週間」(6月1~7日)、8月の「水の週間」(8月1~7日)には、来場者に花の種を配布したりもしています。


(福岡市博物館所蔵)
よかトピア会場で配られた花の種




ところで、河童館で配られたものがほかにないかと福岡市博物館の収蔵品を探していましたら、のしに「粗品」と書かれた包みを見つけました。



これです。


(福岡市博物館所蔵)


どういう方に配られたものかは分からなかったのですが(もし持ってる!という方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください)、開けて広げてみると、こういうタオルでした。


(福岡市博物館所蔵)


河童館のキャラクター「カッペイ君」とも、アニメの「ネッキ」とも違うカッパのイラスト


赤い手拭い(あかてのごい)を巻いていますので、これは博多のお祭り、山笠ですよね。


よく見ると、イラストの下の方には山笠の舁き棒も描かれています。




イラストの横に据えられたサインによると、これは博多人形師の二代西頭哲三郎さんが描かれたものでした。


西頭さんは多数の受賞歴を持つ伝統工芸士です。


「粗品」というにはあまりにも贅沢なタオル…。



西頭さんはよかトピアの「福岡鴻臚館」というパビリオンで、700体もの博多人形をつくられて福岡の歴史と四季を表現し、話題になりました。




実はそのときの博多人形、今も福岡市博物館のグランドホールで見ることができます。

(これもよかトピア遺産ですよね)


時期によって人形を入れかえていますので、来館されるたびに今回は何かなとぜひご覧になってみてください。


こちらの動画では、早送り(60秒!)でその展示がえの様子を一気に見ることができます(人形の入れかえが大変…)。






河童館ではいろいろなイベントも開かれました。


たとえば、父の日だった6月18日(日)には「父の日さかなつかみどり大会」。


お父さんたちがこどもに応援されながら、びしょ濡れでがんばる姿が目に浮かびますよね…(お父さんたち、ご苦労さまでした…)。



規模が大きなイベントには、「水の週間」に開かれた「水のコンサートとドラえもんショー」があります。


福岡市内に住む小学生とその保護者あわせて2000人を招待したもので、事前にハガキで申し込む抽選制になっていました(ご招待と言っても、博覧会の入場料は別途必要だったのですけど…)。



日時は8月2日(水)13~15時、場所はよかトピアのメインステージ「リゾートシアター」。


主催は、福岡市水道局・建設省九州地方建設局・福岡市水道サービスセンター・筑後川水源地域対策基金でした。



会場のリゾートシアターについてはこちらをどうぞ。



このときの演目は2本立て


まずは、鳥塚しげきさんの「ファミリー水のコンサート」です。



鳥塚さんはバンド「ワイルドワンズ」のギターリスト。


想い出の渚』(1966年発売)がヒットし、のちには『とんねるずのみなさんのおかげです』(フジテレビ)のコント「サンバーダード」にパーカー役で出演されるなど、テレビでもお馴染みのお顔です。



もう1つの演目は、ぬいぐるみ人形劇「ドラえもん」と大山のぶ代さんのショー


アニメ「ドラえもん」(テレビ朝日)のドラえもんやのび太たちの着ぐるみが登場して、劇を披露しました。



なぜ急に「ドラえもん」かとも思うのですが、ドラえもんは当時水道関係のキャラクターにも採用されていましたので、おそらくはそういう大人のキャスティングだったのだろうと思います。



大山のぶ代さんは、そのドラえもんの声優を26年間(1979~2005年)もつとめられた方。


実はご自身も水への関心が高く、当時は厚生省(現在の厚労省)の「おいしい水研究会」のメンバーでもいらっしゃいました。



この日のステージでは、そんな大山さんを迎えて水についてのトークショーやクイズ大会が開かれました。



入場者の募集案内には、「お楽しみラッキープレゼント」もあったようなのですが、何が贈られたのかは分かりませんでした…(「珍しいアジアの品々」とは書いてあるのですが…)。



この日、河童館では75万人目の入館者も迎えています。


75万人目の入場者は、大山さんから認定メダルと記念品が手渡され、二重の喜びになったそうです。




ドラえもんと水道といえば、ドラえもんのひみつ道具には「水道ジュース変換アダプター」がありましたよね(コミックにはないアニメ版だけの話でしょうか??)。

一見うらやましい道具なのですが、けっこう風刺がきいている教訓めいた展開でファンが多い回なのだそうです。


そうか、「ま水ストロー」という道具もありました。

このストローで海水を飲むと真水に変わるというもの。


これって海水淡水化装置ですよね。



これらのひみつ道具は、こちらのサイトで検索すると見ることができます。





よかトピアには福岡市が夢見るキラキラした未来がつまっていました。


そういうなかで河童館は福岡市の水問題という、あえて直近の現実的なテーマを選んだパビリオンでした。



福岡市は、1978(昭和53)年に少雨による大渇水を経験しています。


このとき、5月20日から翌年3月24日までの287日間にもわたって、給水制限を余儀なくされました。


なかでも、6月1日から6月10日は1日5時間の給水(のこり19時間は断水)、9月1日から10月31日は1日6時間しか給水されない日が続きました…。



この経験をふまえて、よかトピア開催時の福岡市は節水型都市づくりに取り組んでいました。


福岡市がキラキラとした未来に向かうために必ず乗り越えなくてはならない、差し迫った課題として水問題が横たわっていて、そのときに開催されたのがよかトピアだったことになります。


(実際、大渇水後の1983年から筑後川からの送水が始まっていたにもかかわらず、1994〈平成6〉年にはふたたび渇水による給水制限を強いられ、あらためて水の大切さを知ることになりました…)


さらに当時は、蓄積された技術をもとに、水道局がアジア諸国に向けて長期にわたる専門家派遣を始めたころでもありました(1987年から現在も続いています)。



「シーサイドももち」は、福岡市がその時々に抱えていた都市としての課題の解決策や未来像を盛り込んでつくられたまちです。

(このあたりの話はぜひ『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』をご覧ください)


その「シーサイドももち」でおこなわれる博覧会としては、水はむしろふさわしいテーマだったといえそうです。







【参考文献】
・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)
・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)
・『水道局だより』No4(福岡市水道局)
・『福岡市水道百年史』(福岡市水道局、2024年)
・『福岡地区水道企業団 50年の歩み』(福岡地区水道企業団、2024年)

・ウェブサイト
 ・福岡市水道局の公式サイト https://www.city.fukuoka.lg.jp/mizu/somu/index.html
 ・福岡地区水道企業団の公式サイト https://www.f-suiki.or.jp/
 ・博多人形にしとうのサイト https://hakatadolls-nishito.com/
 ・テレビ朝日のドラえもんのサイト https://www.tv-asahi.co.jp/doraemon/


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Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル