2024年2月23日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈071〉百道松原を買った藤金作(その1)―西新爆上がりの回―

                     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。



過去の記事はコチラからご覧ください。

1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
2(「ダンスフロアでボンダンス」)
3(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回(「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回(「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)
第36回(「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」)
第37回(「開局!よかトピアFM(その8)『今日もリスナーさんからおたよりが届いています』」)
第38回(「西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~」)
第39回(「「地球をころがせ」を踊ってみた ―「よかトピア」オリジナル音頭―」)
第40回(「映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~」)
第41回(「よかトピアでアジア旅 ― 三和みどり・エスニックワールドのスタンプラリー ―」)
第42回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画①〕スリルを楽しむ~百道の飛込台とハイダイビング~」)
第43回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画②〕大海を泳ごう~かつての遠泳、いまはオープンウォータースイミング~」)
第44回(「百道海水浴場はどこにある?」
第45回(「2100年のパナコロニーからPAF522便に乗船したら、こうなった―よかトピアの松下館(1)―」
第46回(「百道テント村100年 大解剖スペシャル!」)
第47回(「トラジャのアランとコーヒーと ―よかトピアのウェルカムゲートはまるで宙に浮かんだ船―」)
第48回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画③〕世界水泳観戦記録 in シーサイドももち」)
第49回(「福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった―よかトピアの松下館(2)―」)
第50回(「百道から始まる物語 ~「水泳王国・福岡」の夜明け前 ~」)
第51回(「よかトピアのトイレと日陰の話」)
第52回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正編~」)
第53回(「リゾートシアターは大忙し ―よかトピアのステージ裏―」)
第54回(「ピオネとピオネ ―百道海水浴場最後の海の家に隠された名前の謎―」)
第55回(「34年前のよかトピアではこれが当たり前の景色でした ―電話やカメラや灰皿の話―」)
第56回(「百道で行われた戦時博覧会「大東亜建設大博覧会」とは」)
第57回(「キャラクターが大集合した「いわたや(岩田屋)こどもかん」と、ついでによかトピアの迷子事情も」)
第58回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編①~」)
第59回(「巨大な鳥かごに入ってみたら、極楽鳥がであいを伝えてくれた─よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(1)─」)
第60回(「西新町に監獄ができるまでの話」)
第61回(「鳥のグッズを開封、そしてシンガポールからはバードショーもやってきた─よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(2)─」)
第62回(「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈前編〉
第63回(「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈後編〉
第64回(「よかトピアの海上レストラン ―マリゾン(1)―」)
第65(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編②~」)
第66(「子象のタクシー、初乗り100円でシーサイドももちをご案内─よかトピアの象のはなし─」)
第67(「船で、飛行機で、データで、電波で、人の手で、福岡と世界を結んだよかトピアのパビリオン─マリゾン(2)─」)
第68(「よかトピアはドームつくりがち」)
第69(「シーサイドももちはMVステージ(その1)」)
第70(「シーサイドももちはMVステージ(その2)」)








〈071〉百道松原を買った藤金作(その1)─西新爆上がりの回─


シーサイドももちはかつての百道海水浴場の景色を読み込んでつくられたまちです。



2つの景色を重ね合わせるためのキービジュアルの1つが海辺の松原


(市史編さん室撮影)


百道海水浴場の松原は江戸時代には海辺だけではなくて、南側の西新・百道にも広がっていました(このあたりの話はぜひ『シーサイドももち』の本をご覧ください)。



この松原が明治時代になってしだいにまちに変わっていくのですが、その具体的な過程を知りたいと思っても情報は断片的なものばかり…。



困ったなぁと思いながら『シーサイドももち』をつくっているとき、手がかりになった人物が明治時代の代議士、藤金作でした。



本のなかでも紹介したのですが、限られたページからこぼれた話もありました。


今回はその「お蔵だし VOL.1」です。




『シーサイドももち』をつくっているとき、藤の生涯を語った清原陀仏郎編著『藤金作翁』(非売品、1935年)という伝記に百道が載っていることを教えてもらいました。


500ページ近くある本なのですが、目次を見ると、「百道の松原」という項目がすぐに見つかりました。



その内容をざっくりまとめると、こんな感じです。



話は明治42(1909)年4月のこと。


早良郡西新町(現在の福岡市早良区西新)の海浜にある政府の土地「百道松原」の一部を、ある人物が政府から払い下げてもらう契約を結んでいました。

面積が10町3反歩もある松林です。


ところがこの人物、政府に払うお金を用意できずに困っていました。

松林の入手はあきらめるにしても、このままでは契約のためにあらかじめ納付していた証拠金(担保)までが没収されてしまいます。


誰か自分の代わりに払い下げを引き受けてくれる人がいないか(そうすれば証拠金は回収できますから)、あちこちと探したのですが見つからず…。


最後の最後に泣きついた先が藤金作でした。


この松原の払い下げ話、藤自身はまったく乗り気ではなかったとのこと。

ただ何度も頼みに来るものですから、一時的に助けてあげるつもりで仕方なく引き受けたのだそうです。


代わりに買った松原の値段は、1坪あたり25銭(0.25円)


これを知った周囲の人びとは、「あんなつまらない松原を1坪25銭も出して払い下げてもらうなんて、藤さんともあろうお方が…」と笑ったそうです。


ところがところが、話はそれから12年後


藤はこのときに払い下げてもらった松原のうち6000坪を売ることになりました。

売った相手は、すでに西新町にキャンパスをかまえていた西南学院


その売値は総額5万5000円でした(1坪あたり9.16円になる計算です)。


「百道松原」はこの12年でとんでもない値段の上がり方をしていたのです…。


しぶしぶ買った松原のうち、今回その5分の1を売っただけで、元をとるどころか大もうけになりました。


しかも藤が買ったのち、この松原からは元寇防塁が見つかって史跡になりました。

それによって、この松原には高貴な人びとがよく訪れるようになったり、そこに護国神社を建てようとする話までもちあがっていました。



さすがの藤もこの予想しなかった展開に、のちに「あれは天が与えてくれたしあわせだった」と語ったのだとか。


(市史編さん室撮影)
西南学院大学の東キャンパス。
かつての学院の正門はこの位置(ただし写真に写る門は
1982年に復元されたもの)。


西南学院の場所やキャンパスマップはこちらをご覧ください。





この『藤金作翁』が語るエピソード、ちょっと整理してみます。



誰かの代わりに藤に払い下げられた松原の面積は、10町3反歩と書いてあります。

これを坪数に換算すると、約3万900坪に相当します(ちなみに平方メートルだと10万3000㎡くらいで、福岡PayPayドームの敷地8万4603㎡よりも広いです)。


藤はこれを1坪25銭で払い下げてもらっていますから、かかった総額は25銭×3万900坪の計算。


つまり藤はこの松林に77万2500銭を払ったことになります。

円になおすと7725円です。



それが12年後に西南学院に売却したときには、1坪あたり9.16円相当になっています。


1坪25銭(0.25円)→ 9.16円


なんと、約36.6倍の爆上がりです(ため息…)。



このときに藤が手にしたお金は5万5000円


しかもまだ手元には2万4900坪もの松原が残っていたはずです。

1坪9.16円で計算すれば、22万8084円もの価値になります。


それどころか、松原のなかで元寇防塁が見つかったことで(←この話は後日あらためて)、まだまだ値上がりしそうな気配なのです…。


もともと、この松原は払い下げを誰も引き受けたがらなかったような場所

それを引き受けた藤のことを、人びとは「あんなつまらない松原」と笑ったような場所なのです。


藤が「天」からの恵みと思ったのは無理もないことですよねー。




ちなみに『藤金作翁』では、1909年に持ちかけられた払い下げから「12年後」に西南学院に売ったとあります。


普通に数えると、1909年の12年後は1921年ですが、『西南学院七十年史』の年表によれば、西南学院は大正9(1920)年に学院隣接地1万9800㎡(約6000坪)を買っています。


1909年を1年目と数えれば、12年目は1920年になりますので、両方を整合的に考えると、藤が西南学院に売却した年は大正9(1920)年なのでしょうね。


(市史編さん室撮影)
西南学院大学の中央キャンパス。
東キャンパスとは道1本を隔てて西側に位置する。
この中央キャンパスに藤金作が売った土地が含まれる。



江戸時代から明治時代になると、かつて藩が管理していた山林はいったん国有になりました。

そのうえで、これまでの利用の仕方によって利用者に戻されたり、のちには民間に払い下げられたりしていきました。


百道松原の藤金作への払い下げはその1例。


そしてその1部がのちに西南学院に売却されていますから、松原がまちに展開していく貴重な具体例にもなります。




ただ、担保まで入れていたのに資金を工面できなかったのは誰なのでしょうね…。


残念ながら今のところは分からずじまいなのですが(知りたい…。引き続き調査して参ります)、みんなに笑われるような価値がない土地をいったい何に使うつもりだったのか、気になります。


もしかしたら、この人物こそが先見の明があったのかもしれません(もしくは一攫千金狙い?どちらにせよ、いざというときのお金は大事ですね…)。




さて、この爆上がりすることになった松原を手にした藤金作とはどういう人なのでしょう?


『藤金作翁』によって、その生涯を簡単に振り返ってみます(年表がついていて便利!)。



生まれは江戸時代の弘化1(1844)年です。


家は糟屋郡の篠栗宿問屋(宿場の責任者)で、そこの長男として生まれました(幼名は菊太郎。のちにその名を金兵衛を経て、金作に改めました)。


父は亦太郎(明治10〈1877〉年没)、母はタネ(実家は糟屋郡箱崎町の矢野家。明治20〈1887〉年没)。

兄弟姉妹には姉のヤナと弟の藤吉(糟屋郡上須恵村の安河内家へ養子)・金重・卯兵衛(箱崎町の矢野家へ養子)がいました。



子どものころから漢籍や算術などを学んで、成長すると各地で庄屋を、明治になると戸長などをつとめています。


戸長時代には、地元の5つ山林(蛇谷・萱ヵ倉・冷水・米山・谷口)の国有化に反対して、民有を勝ち取ってますので、山林には早くから関心を寄せていたようです。



その後、明治13(1880)年に福岡県会議員になりました。

37歳のときです。


衆議院議員(自由党)になったのは明治27(1894)年。


明治37(1904)年の総選挙で当選(立憲政友会)したのを最後に、次の選挙では立候補を辞退して(明治41〈1908〉年)、議員生活を終えました。

これが65歳のとき。



県会議員時代には九州鉄道の設立を請願し、その九州鉄道が篠栗線を開通するにあたっては篠栗駅・原町駅の構内に桜を植え、維持費を寄付したそうです。


国会では、たびたび国有山林を処分して民間で活用すべきと建議し、林野行政にも引き続き関心を持ち続けていました。


なお、晩年の1921年には元寇記念会顧問も引き受けています。



米寿を迎えた記念に、篠栗駅前の所有地2230坪が親族によって町に寄付されましたが、その翌年の昭和7(1932)年に亡くなりました(篠栗小学校講堂にて町葬で送られたとのこと)。



生涯、妻を2度亡くし、3回の結婚を経験しました。

長男の一雄はのちに渡辺鉄工所取締役や筑前銀行監査役などをつとめた人物です。




振り返れば、そんな藤のもとに百道松原の払い下げ話が持ち込まれたのは、1909年のことでした。

ちょうど藤が議員生活を引退したころになりますね。


藤の略歴をふまえると、最後の頼みの綱として、当選を重ねてきた福岡県選出の元代議士で、山林行政に関心が高く、資産家でもあった藤のもとにこの話が持ち込まれたのは納得できます。




藤は九州電灯鉄道(九電鉄)の株主でもありました。


九電鉄は福岡市内で路面電車(福博電車)を運営していた会社で、現在の西鉄の前身会社の1つです。



九電鉄が九州水力電気と合併しようとした際には、戸川直(筑陽社副社長、福岡県会議員)らと株主総会で反対の声をあげるなどしています。


その様子が『福岡日日新聞』(大正2〈1913〉年12月19日)に載っていました。

見出しは「九鉄株主総会 合併問題の紛議」。


要約すると、こんな感じです。


九州電灯鉄道株式会社の定時総会が昨日の午後2時半から開会した(場所は博多商業会議所)。


当期の利益金処分案のほかに、懸案の九州水力電気株式会社との合併の件もあるので、委任状をあわせれば321名(株数8万8821株)が集まり、出席者で会場はいっぱいになった。(中略)


つづいて議題は合併に関する申合書のことになった。最初に議長が合併について説明するやいなや、戸川直・牟田万次郎・許斐儀七・藤金作・西島達・立石善平諸氏がさまざまな理由があげて、絶対反対、議案撤回、流会を希望した。


議長は一つ一つ熱心に説明したうえで、重要な問題なので協議会に持ち込もうと動議を提出したが賛成者がなく、質問が続出した。


新聞の入稿締め切りまで押し問答が続くのみで何も決まらなかったので、詳細は次号に報道する。


議場の混乱が目に浮かびますよね…。

最後の一文からは、この混乱ぶりにこれでは記事が間に合わないと新聞記者が気をもんだことが伝わってきます。


この中心にいた1人が藤だったわけです。



結局、この合併は実現することはありませんでした。



大正11(1922)年になると、九電鉄は関西電気と合併して東邦電力になっています。



(『東邦電力史』『西日本鉄道百年史』を基に市史編さん室作成)


福岡市史編さん室が調査した史料によると、大正12(1923)年ごろ、藤と戸川は一緒にこの東邦電力に対して要望を出しています。


それは同社が九州に持つ土地を、九州の株主があらたに設立する会社に時価以下で譲渡してほしいというものでした。


ただこれは、同社の社長・副社長(伊丹弥太郎・松永安左エ門)の名を記した書簡(大正12年7月7日付)で、株主平等の原理に背くとして拒否されています(以上、九州歴史資料館所蔵「戸川(博)文書」)。




実は東邦電力(前身の九電鉄)も不動産事業をおこなっていました。



『早良郡志』によると、江戸時代の寛文6(1666)年から百道松原に鎮座してきた紅葉八幡宮が(それ以前は現福岡市西区に含まれる橋本にあったそうです)、大正2(1913)年に移転することになり、社地は九電鉄に譲り渡したとあります。


紅葉八幡宮はその後、西新の南の高台、現在の早良区高取に遷座しました。


現在の紅葉八幡宮はこちらをご覧ください(御朱印ARのアプリがすごい!)。


『早良郡志』によれば、その社領は田地100石山林3万2000余坪あったといいます。

移転にともなって、そのすべてか1部が九電鉄の所有になったのでしょう。




『九電鉄二十六年史』には当時九電鉄が持っていた土地の坪数や地価が載っています。



紅葉八幡宮から社地を譲り受けた大正2年についてはなぜか記載がないのですが、翌年の大正3年の数字が分かりました。


坪数はこんな感じです。

(上半期)
家屋建坪(44軒) 1529.990坪
土地(198筆)   4万866.880坪

(下半期)
家屋建坪(49軒) 1522.190坪
土地(235筆)   4万6684.880坪


上半期・下半期でかなり数字が動いていますので、売り買いがけっこうあったことがうかがえます。



このうち百道松原を含む西新町に所在したのは次の通り。

 宅地 415坪

 宅地以外 2万3575.17坪(このうち松原を含む山林は8120坪)

 (全部で2万3990.17坪)



そのお隣の地行西町だとこのような面積です。

 宅地 3988.63坪

 宅地以外 1万2649.45坪(山林は136坪)

 (全部で1万6638.08坪)


西新町・地行西町を足してみると、宅地が4403.63坪、宅地以外が3万6224.62坪(全部で4万628.25坪)になります。



大正3年と2年で年が違いますし、上半期・下半期の違いだけでも数字が動くとなると、比べてみても参考程度にしかなりませんが、それでもこの数字からは大正2~3年ごろの九電鉄の所有地の大部分は西新町・地行西町にあって、なかでも宅地になっていない西新町が面積の多くを占めていたことは見えてきます。



そしてこの西新町の所有地に、紅葉八幡宮から譲り受けた土地がかなり含まれていたはずです。




実はこの九電鉄の土地、やっぱり10年で爆上がりしました。



『九電鉄二十六年史』には坪単価でこのように記されています(宅地・宅地以外の平均の数字です)。


西新町の場合

(大正2)3.53円 → (大正12)24.68円


ちなみに地行西町の場合

(大正2)5.73円 → (大正12)25.15円



西新町だと7倍くらいになっていますね。



ところが松原は山林扱いなのですが、西新町の山林だけの推移をみると、こう書いてあります。


西新町の山林だけの場合

(大正2)2.37円 → (大正12)26.00円



11倍!!



松原の価値が平均を超えて上がっていることが分かります。



さすがに明治42(1909)年に買った藤のように36倍とまではいきませんが、それでも『藤金作翁』がいう通り、松原の価値は順調に上がっていったようなのです。



そして大正9(1920)年に西南学院に松原を売却した藤はこのことを当然知っています



知ったうえで大正12(1923)年に、西新町に松原を含む多くの土地を持っている東邦電力(九電鉄の後身)から土地を時価以下で譲り受けようとしていたわけですね(やるね!)。


そしてまた、不動産業もやっていた東邦電力がきっぱりと断ったのも当然のことでした。




ところで、藤金作が買った松原はまた別のエピソードを生んで、西新・百道、そしてのちの埋め立て地、シーサイドももちにまで影響を与えていきました。


ずいぶん長くなりましたので、この続きは次回に…。







【参考文献】

・清原陀仏郎『藤金作翁』(非売品、1935年)

・『早良郡志』(名著出版、1923年)

・西南学院学院史企画委員会編『西南学院七十年史』(西南学院、1986年)

・西南学院百年史編纂委員会編『西南学院百年史』(西南学院、2019年)

・『九電鉄二十六年史』(東邦電力株式会社、1923年)

・九州電力株式会社編・財団法人日本経営史研究所『九州地方電気事業史』(九州電力株式会社、2007年)

・西日本鉄道株式会社100年史編纂委員会『西日本鉄道百年史』(西日本鉄道株式会社、2008年)

・東邦電力史編纂委員会編『東邦電力史』(東邦電力史刊行会、1962年)

・ウェブサイト
 ・紅葉八幡宮の公式サイト https://momijihachimangu.or.jp/
 ・PayPayドーム情報 https://www.softbankhawks.co.jp/stadium/


シーサイドももち #百道 #西新 #百道松原 #藤金作 #西南学院大学 #九州電灯鉄道 #東邦電力 #戸川直 




Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル


※ 誤字を修正しました(2024.2.24)
※ 誤字を修正しました(2024.2.25)

2024年2月9日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈070〉シーサイドももちはMVステージ(その2)

                    

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


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本についてはコチラ


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1(「よかトピアに男闘呼組がやってきた!」)
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4(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
5(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
6(「最も危険な〝遊具〟」)
7(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
8(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
9(「グルメワールド よかトピア」)
10(「元寇防塁と幻の護国神社」)
11(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
12(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
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第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
第30回(「百道の浜に舞いあがれ! 九州初の伝書鳩大会」)
第31回(「開局! よかトピアFM(その5)今日のゲスト 7月」)
第32回(「聞き書きの迫力~西新小学校100周年記念誌を読む~」)
第33回(「開局!よかトピアFM(その6)今日のゲスト 8~9月」)
第34回(「百道を駆け抜けていった夢の水上飛行機」)
第35回(「開局!よかトピアFM(その7)ここでも聴けたよかトピア」)
第36回(「幻の「百道女子学院」と須磨さんの夢」)
第37回(「開局!よかトピアFM(その8)『今日もリスナーさんからおたよりが届いています』」)
第38回(「西新町209の謎を解け!~建物からたどるまちの歴史~」)
第39回(「「地球をころがせ」を踊ってみた ―「よかトピア」オリジナル音頭―」)
第40回(「映える写真が撮りたい!~百道とカメラとモデルの雑史~」)
第41回(「よかトピアでアジア旅 ― 三和みどり・エスニックワールドのスタンプラリー ―」)
第42回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画①〕スリルを楽しむ~百道の飛込台とハイダイビング~」)
第43回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画②〕大海を泳ごう~かつての遠泳、いまはオープンウォータースイミング~」)
第44回(「百道海水浴場はどこにある?」
第45回(「2100年のパナコロニーからPAF522便に乗船したら、こうなった―よかトピアの松下館(1)―」
第46回(「百道テント村100年 大解剖スペシャル!」)
第47回(「トラジャのアランとコーヒーと ―よかトピアのウェルカムゲートはまるで宙に浮かんだ船―」)
第48回(「〔世界水泳2023福岡大会応援企画③〕世界水泳観戦記録 in シーサイドももち」)
第49回(「福岡市の工業を支えた九州松下電器は世界のヒットメーカーだった―よかトピアの松下館(2)―」)
第50回(「百道から始まる物語 ~「水泳王国・福岡」の夜明け前 ~」)
第51回(「よかトピアのトイレと日陰の話」)
第52回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正編~」)
第53回(「リゾートシアターは大忙し ―よかトピアのステージ裏―」)
第54回(「ピオネとピオネ ―百道海水浴場最後の海の家に隠された名前の謎―」)
第55回(「34年前のよかトピアではこれが当たり前の景色でした ―電話やカメラや灰皿の話―」)
第56回(「百道で行われた戦時博覧会「大東亜建設大博覧会」とは」)
第57回(「キャラクターが大集合した「いわたや(岩田屋)こどもかん」と、ついでによかトピアの迷子事情も」)
第58回(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編①~」)
第59回(「巨大な鳥かごに入ってみたら、極楽鳥がであいを伝えてくれた─よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(1)─」)
第60回(「西新町に監獄ができるまでの話」)
第61回(「鳥のグッズを開封、そしてシンガポールからはバードショーもやってきた─よかトピアの「芙蓉グループ・バードカントリー」(2)─」)
第62回(「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈前編〉
第63回(「西新町の福岡監獄 建築見学ツアー〈後編〉
第64回(「よかトピアの海上レストラン ―マリゾン(1)―」)
第65(「「百道海水浴場年表」を読む!~大正後編②~」)
第66(「子象のタクシー、初乗り100円でシーサイドももちをご案内─よかトピアの象のはなし─」)
第67(「船で、飛行機で、データで、電波で、人の手で、福岡と世界を結んだよかトピアのパビリオン─マリゾン(2)─」)
第68(「よかトピアはドームつくりがち」)
第69(「シーサイドももちはMVステージ(その1)」)







〈070〉シーサイドももちはMVステージ(その2)


前回は「シーサイドももちで撮影されたアイドルMVを集めてみた」特集の前半戦でした。



『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』をつくったときに集めたリストからのお蔵出しでしたが、1回では全然終わらず…。


シーサイドももちの非日常感が、2010年代に増えたアイドル、なかでも福岡を拠点にするグループのMVにはよく合うのでしょうね、けっこう数があるのです。



というわけで、今回はその続きです。




これまで紹介したのは女性グループでしたが、男性グループだと10神ACTOR(テンジンアクター)のMVにシーサイドももちが登場しています。



10神ACTORはFBS福岡放送のオーディション番組『10神アクター』から生まれたグループ。

このオーディションはドラマ出演者を選ぶもので、その活動はテレビドラマ『もう一度、クリスマス・イブ』(FBS福岡放送、2014年)への出演からはじまりました。


その後、主にFBSのバラエティー番組、九州各局のラジオ番組、舞台などに出演して、2021年にグループとしての活動を終えています。



歌での活動は、初出演した『もう一度、クリスマス・イブ』の主題歌『Chase Your Dream』(2014年)から。


たくさんある楽曲のなかで、シーサイドももちでMVが撮影された曲には『Petit Petit Lady ~めんたい子、福きたる~』(2017年)があります。


軽快なラップとポップなサビにのせて展開する、スキャンダラスで「めんたいこ」なドラマ仕立て。

大人っぽいシーンやワードが繰り返されたり、福岡色濃いめのパロディやゲストが現れたり、急にケンカがはじまったりして、女性アイドルのキラキラした雰囲気とは違った映像の面白さがありますね。


最後のオチに向かう直前の3:49あたりから、マリゾンを背景にしたビーチの風景が登場しています。


『Petit Petit Lady ~めんたい子、福きたる~』のMVはコチラからご覧いただけます。





ちなみに2016年に発売した『君の笑顔に すいとうと!』では、那珂川の水上タクシー福博であい橋天神中央公園など定番の福岡の景色のなかに、シーサイドももちのお隣、唐人町商店街の姿も映っています。




次は女性アイドルに戻って、HR(エイチアール)。


グループ名のHRは「HakataReboot」(博多を再起動する)の頭文字で、福岡発のアイドルです。


公式サイトによると、イメージカラーは明太子色(色指定は「RGB:#ea606f」)。

サイトもこの色をベースにつくられています。


2010年から福岡市東区の「BOX TOWN 箱崎」の専用劇場で公演をおこなっていましたが、劇場を閉鎖したのち、2018年に活動を停止しています。


オープニングメンバーの上原あさみさんは、デビュー翌年にHRを卒業し、前回紹介したLinQ(リンク)の創設メンバーとしても活躍されました。


HRを卒業後に「ふくおか官兵衛Girls」など、ほかのグループで活動された方もいらっしゃいますね。



シーサイドももちが映っているMVは、2016年の『待っとうよ!』


全編福岡のことが歌われていて、アイドルらしいポップなご当地ソングです。


歌詞には現在はもうおこなわれていない大濠公園の花火大会も歌われていて、まだ楽曲発表から10年も経っていませんが、すでに福岡のまちの変化を感じます。



MVは「サザエさん通り」でメンバーがお神輿をかつぐシーンからはじまります。


ただ、ビーチでのダンスシーンはシーサイドももちではなくて、隣の愛宕浜(シーサイドももちと同時期につくられた埋め立て地。こちらも白砂の人工海浜がきれいな場所です)。


愛宕浜に立つメンバーの後ろには、シーサイドももちの西側からの遠景が映っています。

ちょっとお天気が曇りなのが残念なのですけど、直接シーサイドももちで撮るのではなくて、まるでステージのセットのように背景にももち全体を取り込んで画角がつくられているのが印象的です。




福岡のなかでも、特にシーサイドももちに拠点を置いているグループがHKT48


それだけに、シーサイドももちを舞台にしたMVも多いです。



HKT48は、シングル選抜総選挙や握手会などの社会現象を巻き起こしたAKB48が全国展開していくなかで、2011年に福岡で結成されました。


長らくAKBと同じ会社によって運営されていましたが、2020年からは新しく設立されたMercuryに所属しています。



現在は自身で「=LOVE」(イコールラブ)などのアイドルグループのプロデュースもおこなう指原莉乃さん、バラエティー番組で活躍中の村重杏奈さん、韓国のグループ「IZ*ONE」(アイズワン、아이즈원)でも活動され世界的に人気となった宮脇咲良さんと矢吹奈子さん、昨年日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞した「FRUITS ZIPPER」の月足天音さんなどがHKTのご出身です。



結成当初から専用のHKT48劇場で公演を続けていて、初代の劇場はシーサイドももちのホークスタウンモールのなかにありました。


「AKB48 32ndシングル 選抜総選挙」で指原さんが1位になってセンターをつとめた『恋するフォーチュンクッキー』のMVが、この劇場の横で撮影されたことは前回ご紹介した通りです。



ステージに回転式のせりがあるのが珍しく、演出の名物になっていた劇場でしたが、2016年のホークスタウンモールの閉館により、惜しまれながらいったん終了。


(いずれも福岡市史編さん室撮影)
2016年に閉館したホークスタウンモール(閉館直前の撮影)。
ハードロックカフェや初代のZepp Fukuokaが懐かしいですね。
(ハードロックカフェは博多のJRJP博多ビルに移転後、2020年に閉店。
Zeppは「MARK IS 福岡ももち」内に再オープンしています)



そのあとはしばらく、福岡市内のソラリアステージ西鉄ホール(中央区天神)、パピヨン24ガスホール(博多区千代)、スカラエスパシオ(中央区渡辺通)で公演を続けました(そうそう、ソラリアステージにあったメトロ書店がグッズ売り場を兼ねていました)。



2020年、かつてのホークスタウンモールのすぐ横に「BOSS E・ZO FUKUOKA」ができると、その1階に「西日本シティ銀行 HKT48劇場」をオープンし、HKT48劇場がふたたびシーサイドももちに戻ってきました。


ちなみに「BOSS E・ZO FUKUOKA」には、「王貞治ベースボールミュージアム」(「89パーク」併設)、「チームラボフォレスト–SBI証券」「よしもと福岡 ダイワファンドラップ劇場」「サンリオキャラクターDream!ng Park」などもあって、シーサイドももちの新しいエンタメ空間になっています。


(福岡市史編さん室撮影)
PayPayドームのすぐ横にある「BOSS E・ZO FUKUOKA」。
お隣に写る目立つ建物は福岡市保険環境学習室「まもるーむ福岡」です。





まずは2018年に発売された11枚目のシングル『早送りカレンダー』。


公式YouTubeの説明欄によると、MVではこれが最初の福岡ロケだったそうです。



矢吹奈子さんと田中美久さんのWセンター曲で、前列にこのお二人と指原さん・宮脇さんの4人が並ぶフォーメーション。

この曲の後、宮脇さん・矢吹さんはHKTを休止し、IZ*ONEで活動されました(~2021年4月)。


ギターやドラムの4つ打ちでノリの良さを感じさせながら、サビの分厚いサウンドがかっこいい曲で、それにあわせてMVでは福岡市内の各地をメンバーが走り回っています。


単に福岡の各所を映すだけではなくて、カラフルにCGを加え、いろいろ描き込まれたアルバムや絵本のような展開です。



なかでも、冒頭はシーサイドももちの東側からの空撮ではじまっていて、メインの舞台にはマリゾンのウェディング施設の中庭が使われています。


前回紹介したLinQの『ハレハレ☆パレード』(2015年)と同じ場所ですが、こちらはセットを持ち込んで、ファンタジーな空間をつくっています。


両方をあらためて見比べてみると、それぞれの違う魅力が出ていますね。

比べやすいようにもう一度リンクを貼っておきます。





次は指原さんが最後に参加したシングル『意志』のカップリング曲、『いつだってそばにいる』(2019年)。


指原さんの卒業ソングで、メンバーに贈る言葉をつづったバラードです。



MVはメンバーと一緒に福岡の思い出の場所をめぐる構成。


すでにご紹介した『恋するフォーチュンクッキー』や『早送りカレンダー』のロケ地も涙とともに訪れています。

加入した時期ごとにメンバーとのシーンが用意されていることで、きっとファンもいろいろと思い出す出来事が多いのではないでしょうか。



指原さんが『恋するフォーチュンクッキー』の撮影場所を訪れるシーンでは、『恋チュン』のMVをカットバックして今の景色と重ね合わせる演出もおこなっていて、『シーサイドももち』の本を編集した者にとっては胸熱です。


途中に映るドームの看板はPayPayドームになる前の「ヤフオク!ドーム」、旧ホークスタウンエリアの工事もまだすべては完成していない時期ですね。



MVの最後はナイトシーン。


メンバーと別れた指原さんが、日が落ちたシーサイドももちの浜辺を一人で歩く姿を、ピンスポットで浮かび上がらせて空撮する大がかりなものになっています。




IZ*ONEでの活動を終えた宮脇咲良さんがHKTを卒業するにあたって発表したバラード曲が『思い出にするにはまだ早すぎる』(2021年)。


HKT初の配信限定シングルでした。



こちらのMVも宮脇さんの懐かしい映像をふり返りながら、福岡をめぐる構成になっています。


西鉄バスに乗って、JR博多駅・福博であい橋などを訪れ、最後はシーサイドももちへ。

※なお途中の1期生とのシーンは福岡市植物園で撮影されたと思われます(最後のスペシャルサンクスのテロップより)。



ドームへの大階段をのぼる宮脇さんの向こうに、新しいHKT48劇場がある「BOSS E・ZO FUKUOKA」が映し出され、MVは宮脇さんが劇場の扉を開くシーンへと移っていきます。


宮脇さんは現在は韓国の多国籍グループ、LE SSERAFIM(ル・セラフィム、르세라핌)で活動されています。




2022年に発売された『ビーサンはなぜなくなるのか?』は、宮脇さんと同じくIZ*ONEでの活動を終え、HKTに復帰した矢吹奈子さんが単独センターをつとめたシングルです。


夏に向けた明るく元気な曲。



MVは2種類つくられていて、先行公開された方はVFXによる撮影で仮想空間を演出したものでした。




次々とステージをクリアしていく映像の面白さとともに、ダンスに焦点をあてたつくりになっていますね。



もう1つは少し遅れて公開されたサマーバージョン


こちらはシーサイドももち海浜公園(百道浜地区)のマリゾンやビーチで撮影されていて、浜辺でひたすら夏を楽しむメンバーを映したものです。


マリゾンのリゾート感や青空と海が「ビーサン」をモチーフにした明るい曲調によく合っていて、これぞマリゾンという感じですね。




韓国のグループにもシーサイドももちで撮影したMVがあります。


最後はCherry Bullet(チェリーバレット、체리블렛)。


韓国・日本両国のメンバーからなるグループで、2019年にデビューしました(韓国FNCエンターテインメント所属)。



2019年5月に発売した2枚目のシングルアルバム『Love Adventure』に収録された『Really Really』(네가 참 좋아)のMVは九州で撮影されました。


長崎のハウステンボスとマリゾンで撮られたシーンをいったりきたりしながら、楽曲のカラフルな世界観が表現されています(冒頭には長崎の西海橋も映っています)。



そのままでもけっこうポップな姿をしているマリゾンなのですが、MVではCGが描き込まれて、より非日常な雰囲気を強めています。


素のマリゾンはこんな感じです。

(福岡市史編さん室撮影)


このMVをよく見ると、ゲームのステージを次々とクリアしていくストーリーになっています。


先ほどのHKT48の『ビーサンはなぜなくなるのか?』(先行版)と同じく、仮想現実での冒険を表したもののようなのです。



VFXではなく、こちらはもともとリゾート感のあるハウステンボスやマリゾンを仮想現実のセットに見立てて表現したということなのでしょうね。


確かにゲームをクリアして、マリゾンに浮かぶハートをメンバーがチェリーに変えるラストシーンは違和感なく見られます。




昨年、韓国のサバイバルオーディション『PRODUCE 101』の日本版となる『PRODUCE 101 JAPAN THE GIRLS』が開催されて注目を集めました。

結果、11名のデビューが決まり、グループ名がME:I(ミーアイ)になることが発表されています。


4月のファーストシングル発売を心待ちにされている方も多いのですが、メンバーのお一人、加藤心さんは2019年までこのCherry Bulletに在籍されていました。


12月のファイナルでは11番目に加藤さんの合格が発表されましたので、最後まで落ち着かなかったファンもいらっしゃったのではないでしょうか。



ちなみに同じくME:Iとしてデビューが決まった笠原桃奈さんは、以前はハロープロジェクトのアンジュルムに在籍されていました。


笠原さんが加入される前のリリースですが、アンジュルムには『糸島ディスタンス』という曲があります(『次々続々』のカップリング、2016年)。


恋の終わりを歌ったものですが、歌詞には博多弁とともに福岡市内から糸島にかけての景色が読み込まれていて、警固公園のイルミネーション、能古島のコスモス、天神、ごぼ天うどんも出てきます。


それならと、MVにシーサイドももちが映っていないか見てみましたが、残念…、こちらにはありませんでした(ほぼダンスシーンでした)。





こうやってあたりをつけて、地味にひとつひとつ確認し、市史編さん室では前回と今回のようなリストをつくっていったのですが、これで足りているとはまったく思えず、かなり見落としがあるものと思います…。(これからも調査を続けて参ります…)




こうして見ると、福岡を拠点とするアイドルが福岡色を外に向けて分かりやすくアピールしながら、かつアイドルのキラキラした非日常感をも演出する場所として、マリゾンをはじめとするシーサイドももちはとても使いやすい場所だったことが分かります。



1989年のよかトピアにあわせて完成したマリゾンと海浜公園。


マリゾンの当初のキャッチフレーズは「ウォーターフロント・プロムナード(水際の散歩道)」でした。

その後、ウェディングという人生を新たに一歩踏み出す姿を披露する場所が加わり、そのキラキラした空間によって2010年代にはアイドルグループのロケ地に、さらに今では誰もがSNSで発信するための撮影スポットになっています。


プロムナードに加えて、福岡から自分を発信する、まるでステージのような場所とも言えそうですね。



流行語大賞を「インスタ映え」が受賞したのが2017年でしたが、そうした写真に適した景観をマリゾンとシーサイドもももちは福岡のなかで建設当初から先取りしていました。


その可能性をあらためて引き出して広げ、今の撮影スポットに繋げていったのがアイドルのMVだったように思います。



実は同じMVでもバンドとなると、この景色の使い方が全然違うようなのです。


調査が進みましたら、またいつかバンド編も紹介してみたいと思います。






【参考文献】
・ウェブサイト
 ・HRの公式サイト https://www.hakata-r.com/
 ・HKT48の公式サイト http://www.hkt48.jp/
 ・Cherry Bulletの公式サイト https://fncent.com/CherryBullet/b/introduce/35895
 ・BOSS E・ZO FUKUOKAの公式サイト https://e-zofukuoka.com/ 
 ・マリゾンの公式サイト https://marizon.co.jp/
 ・福岡市海浜公園 海っぴビーチの公式サイト https://www.marizon-kankyo.jp/


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(2024.2.10)リンク先の不具合を修正しました。


Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル