埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
過去の記事はコチラからご覧ください。
第2回(「ダンスフロアでボンダンス」)
第3回(「よかトピアの「パオパオ・ロック」とは。」)
第4回(「開局! よかトピアFM(その1)KBC岸川均さんが育てた音のパビリオン」)
第5回(「思い出のマッスル夏の陣 in 百道」)
第6回(「最も危険な〝遊具〟」)
第7回(「開局! よかトピアFM(その2)1週間の全番組とパーソナリティー」)
第8回(「ビルの谷間のアート空間へようこそ」)
第9回(「グルメワールド よかトピア」)
第10回(「元寇防塁と幻の護国神社」)
第11回(「よかトピアのストリートパフォーマーたち」)
第12回(「百道地蔵に込められた祈り」)
第13回(「よかトピアのパンドールはアジアへの入り口」)
第14回(「あゝ、あこがれの旧制高校」)
第15回(「よかトピアが終わると、キングギドラに襲われた」)
第16回(「百道にできた「村」(大阪むだせぬ編)」)
第17回(「百道にできた「村」(村の生活編)」)
第18回(「天神に引っ越したよかトピア 天神中央公園の「飛翔」」)
第19回(「西新と愛宕の競馬場の話。」)
第20回(「よかトピア爆破事件 「警視庁捜査第8班(ゴリラ)」現る」)
第21回(「博多湾もよかトピア オーシャンライナーでようこそ」)
第22回(「福岡市のリゾート開発はじまりの地?」)
第23回(「ヤップカヌーの大冒険 よかトピアへ向けて太平洋5000キロの旅」)
第24回(「戦後の水事情と海水浴場の浅からぬ関係」)
第25回(「よかトピアへセーリング! オークランド~福岡・ヤマハカップヨットレース1989」)
第26回(「本づくりの裏側 ~『シーサイドももち』大解剖~」)
第27回(「開局!よかトピアFM(その3)今日のゲスト 3~4月」)
第28回(「まだまだあった! 幻の百道開発史」)
第29回(「開局!よかトピアFM(その4)今日のゲスト 5~6月」)
〈071〉百道松原を買った藤金作(その1)─西新爆上がりの回─
シーサイドももちはかつての百道海水浴場の景色を読み込んでつくられたまちです。
2つの景色を重ね合わせるためのキービジュアルの1つが海辺の松原。
(市史編さん室撮影) |
百道海水浴場の松原は江戸時代には海辺だけではなくて、南側の西新・百道にも広がっていました(このあたりの話はぜひ『シーサイドももち』の本をご覧ください)。
この松原が明治時代になってしだいにまちに変わっていくのですが、その具体的な過程を知りたいと思っても情報は断片的なものばかり…。
困ったなぁと思いながら『シーサイドももち』をつくっているとき、手がかりになった人物が明治時代の代議士、藤金作でした。
本のなかでも紹介したのですが、限られたページからこぼれた話もありました。
今回はその「お蔵だし VOL.1」です。
『シーサイドももち』をつくっているとき、藤の生涯を語った清原陀仏郎編著『藤金作翁』(非売品、1935年)という伝記に百道が載っていることを教えてもらいました。
500ページ近くある本なのですが、目次を見ると、「百道の松原」という項目がすぐに見つかりました。
その内容をざっくりまとめると、こんな感じです。
話は明治42(1909)年4月のこと。
早良郡西新町(現在の福岡市早良区西新)の海浜にある政府の土地「百道松原」の一部を、ある人物が政府から払い下げてもらう契約を結んでいました。
面積が10町3反歩もある松林です。
ところがこの人物、政府に払うお金を用意できずに困っていました。
松林の入手はあきらめるにしても、このままでは契約のためにあらかじめ納付していた証拠金(担保)までが没収されてしまいます。
誰か自分の代わりに払い下げを引き受けてくれる人がいないか(そうすれば証拠金は回収できますから)、あちこちと探したのですが見つからず…。
最後の最後に泣きついた先が藤金作でした。
この松原の払い下げ話、藤自身はまったく乗り気ではなかったとのこと。
ただ何度も頼みに来るものですから、一時的に助けてあげるつもりで仕方なく引き受けたのだそうです。
代わりに買った松原の値段は、1坪あたり25銭(0.25円)。
これを知った周囲の人びとは、「あんなつまらない松原を1坪25銭も出して払い下げてもらうなんて、藤さんともあろうお方が…」と笑ったそうです。
ところがところが、話はそれから12年後。
藤はこのときに払い下げてもらった松原のうち6000坪を売ることになりました。
売った相手は、すでに西新町にキャンパスをかまえていた西南学院。
その売値は総額5万5000円でした(1坪あたり9.16円になる計算です)。
「百道松原」はこの12年でとんでもない値段の上がり方をしていたのです…。
しぶしぶ買った松原のうち、今回その5分の1を売っただけで、元をとるどころか大もうけになりました。
しかも藤が買ったのち、この松原からは元寇防塁が見つかって史跡になりました。
それによって、この松原には高貴な人びとがよく訪れるようになったり、そこに護国神社を建てようとする話までもちあがっていました。
さすがの藤もこの予想しなかった展開に、のちに「あれは天が与えてくれたしあわせだった」と語ったのだとか。
(市史編さん室撮影) 西南学院大学の東キャンパス。 かつての学院の正門はこの位置(ただし写真に写る門は 1982年に復元されたもの)。 |
西南学院の場所やキャンパスマップはこちらをご覧ください。
この『藤金作翁』が語るエピソード、ちょっと整理してみます。
誰かの代わりに藤に払い下げられた松原の面積は、10町3反歩と書いてあります。
これを坪数に換算すると、約3万900坪に相当します(ちなみに平方メートルだと10万3000㎡くらいで、福岡PayPayドームの敷地8万4603㎡よりも広いです)。
藤はこれを1坪25銭で払い下げてもらっていますから、かかった総額は25銭×3万900坪の計算。
つまり藤はこの松林に77万2500銭を払ったことになります。
円になおすと7725円です。
それが12年後に西南学院に売却したときには、1坪あたり9.16円相当になっています。
1坪25銭(0.25円)→ 9.16円
なんと、約36.6倍の爆上がりです(ため息…)。
このときに藤が手にしたお金は5万5000円。
しかもまだ手元には2万4900坪もの松原が残っていたはずです。
1坪9.16円で計算すれば、22万8084円もの価値になります。
それどころか、松原のなかで元寇防塁が見つかったことで(←この話は後日あらためて)、まだまだ値上がりしそうな気配なのです…。
もともと、この松原は払い下げを誰も引き受けたがらなかったような場所。
それを引き受けた藤のことを、人びとは「あんなつまらない松原」と笑ったような場所なのです。
藤が「天」からの恵みと思ったのは無理もないことですよねー。
ちなみに『藤金作翁』では、1909年に持ちかけられた払い下げから「12年後」に西南学院に売ったとあります。
普通に数えると、1909年の12年後は1921年ですが、『西南学院七十年史』の年表によれば、西南学院は大正9(1920)年に学院隣接地1万9800㎡(約6000坪)を買っています。
1909年を1年目と数えれば、12年目は1920年になりますので、両方を整合的に考えると、藤が西南学院に売却した年は大正9(1920)年なのでしょうね。
(市史編さん室撮影) 西南学院大学の中央キャンパス。 東キャンパスとは道1本を隔てて西側に位置する。 この中央キャンパスに藤金作が売った土地が含まれる。 |
江戸時代から明治時代になると、かつて藩が管理していた山林はいったん国有になりました。
そのうえで、これまでの利用の仕方によって利用者に戻されたり、のちには民間に払い下げられたりしていきました。
百道松原の藤金作への払い下げはその1例。
そしてその1部がのちに西南学院に売却されていますから、松原がまちに展開していく貴重な具体例にもなります。
ただ、担保まで入れていたのに資金を工面できなかったのは誰なのでしょうね…。
残念ながら今のところは分からずじまいなのですが(知りたい…。引き続き調査して参ります)、みんなに笑われるような価値がない土地をいったい何に使うつもりだったのか、気になります。
もしかしたら、この人物こそが先見の明があったのかもしれません(もしくは一攫千金狙い?どちらにせよ、いざというときのお金は大事ですね…)。
さて、この爆上がりすることになった松原を手にした藤金作とはどういう人なのでしょう?
『藤金作翁』によって、その生涯を簡単に振り返ってみます(年表がついていて便利!)。
生まれは江戸時代の弘化1(1844)年です。
家は糟屋郡の篠栗宿問屋(宿場の責任者)で、そこの長男として生まれました(幼名は菊太郎。のちにその名を金兵衛を経て、金作に改めました)。
父は亦太郎(明治10〈1877〉年没)、母はタネ(実家は糟屋郡箱崎町の矢野家。明治20〈1887〉年没)。
兄弟姉妹には姉のヤナと弟の藤吉(糟屋郡上須恵村の安河内家へ養子)・金重・卯兵衛(箱崎町の矢野家へ養子)がいました。
子どものころから漢籍や算術などを学んで、成長すると各地で庄屋を、明治になると戸長などをつとめています。
戸長時代には、地元の5つ山林(蛇谷・萱ヵ倉・冷水・米山・谷口)の国有化に反対して、民有を勝ち取ってますので、山林には早くから関心を寄せていたようです。
その後、明治13(1880)年に福岡県会議員になりました。
37歳のときです。
衆議院議員(自由党)になったのは明治27(1894)年。
明治37(1904)年の総選挙で当選(立憲政友会)したのを最後に、次の選挙では立候補を辞退して(明治41〈1908〉年)、議員生活を終えました。
これが65歳のとき。
県会議員時代には九州鉄道の設立を請願し、その九州鉄道が篠栗線を開通するにあたっては篠栗駅・原町駅の構内に桜を植え、維持費を寄付したそうです。
国会では、たびたび国有山林を処分して民間で活用すべきと建議し、林野行政にも引き続き関心を持ち続けていました。
なお、晩年の1921年には元寇記念会顧問も引き受けています。
米寿を迎えた記念に、篠栗駅前の所有地2230坪が親族によって町に寄付されましたが、その翌年の昭和7(1932)年に亡くなりました(篠栗小学校講堂にて町葬で送られたとのこと)。
生涯、妻を2度亡くし、3回の結婚を経験しました。
長男の一雄はのちに渡辺鉄工所取締役や筑前銀行監査役などをつとめた人物です。
振り返れば、そんな藤のもとに百道松原の払い下げ話が持ち込まれたのは、1909年のことでした。
ちょうど藤が議員生活を引退したころになりますね。
藤の略歴をふまえると、最後の頼みの綱として、当選を重ねてきた福岡県選出の元代議士で、山林行政に関心が高く、資産家でもあった藤のもとにこの話が持ち込まれたのは納得できます。
藤は九州電灯鉄道(九電鉄)の株主でもありました。
九電鉄は福岡市内で路面電車(福博電車)を運営していた会社で、現在の西鉄の前身会社の1つです。
九電鉄が九州水力電気と合併しようとした際には、戸川直(筑陽社副社長、福岡県会議員)らと株主総会で反対の声をあげるなどしています。
その様子が『福岡日日新聞』(大正2〈1913〉年12月19日)に載っていました。
見出しは「九鉄株主総会 合併問題の紛議」。
要約すると、こんな感じです。
九州電灯鉄道株式会社の定時総会が昨日の午後2時半から開会した(場所は博多商業会議所)。
当期の利益金処分案のほかに、懸案の九州水力電気株式会社との合併の件もあるので、委任状をあわせれば321名(株数8万8821株)が集まり、出席者で会場はいっぱいになった。(中略)
つづいて議題は合併に関する申合書のことになった。最初に議長が合併について説明するやいなや、戸川直・牟田万次郎・許斐儀七・藤金作・西島達・立石善平諸氏がさまざまな理由があげて、絶対反対、議案撤回、流会を希望した。
議長は一つ一つ熱心に説明したうえで、重要な問題なので協議会に持ち込もうと動議を提出したが賛成者がなく、質問が続出した。
新聞の入稿締め切りまで押し問答が続くのみで何も決まらなかったので、詳細は次号に報道する。
議場の混乱が目に浮かびますよね…。
最後の一文からは、この混乱ぶりにこれでは記事が間に合わないと新聞記者が気をもんだことが伝わってきます。
この中心にいた1人が藤だったわけです。
結局、この合併は実現することはありませんでした。
大正11(1922)年になると、九電鉄は関西電気と合併して東邦電力になっています。
(『東邦電力史』『西日本鉄道百年史』を基に市史編さん室作成) |
福岡市史編さん室が調査した史料によると、大正12(1923)年ごろ、藤と戸川は一緒にこの東邦電力に対して要望を出しています。
それは同社が九州に持つ土地を、九州の株主があらたに設立する会社に時価以下で譲渡してほしいというものでした。
ただこれは、同社の社長・副社長(伊丹弥太郎・松永安左エ門)の名を記した書簡(大正12年7月7日付)で、株主平等の原理に背くとして拒否されています(以上、九州歴史資料館所蔵「戸川(博)文書」)。
実は東邦電力(前身の九電鉄)も不動産事業をおこなっていました。
『早良郡志』によると、江戸時代の寛文6(1666)年から百道松原に鎮座してきた紅葉八幡宮が(それ以前は現福岡市西区に含まれる橋本にあったそうです)、大正2(1913)年に移転することになり、社地は九電鉄に譲り渡したとあります。
紅葉八幡宮はその後、西新の南の高台、現在の早良区高取に遷座しました。
現在の紅葉八幡宮はこちらをご覧ください(御朱印ARのアプリがすごい!)。
『早良郡志』によれば、その社領は田地100石と山林3万2000余坪あったといいます。
移転にともなって、そのすべてか1部が九電鉄の所有になったのでしょう。
『九電鉄二十六年史』には当時九電鉄が持っていた土地の坪数や地価が載っています。
紅葉八幡宮から社地を譲り受けた大正2年についてはなぜか記載がないのですが、翌年の大正3年の数字が分かりました。
坪数はこんな感じです。
家屋建坪(44軒) 1529.990坪
土地(198筆) 4万866.880坪
家屋建坪(49軒) 1522.190坪
土地(235筆) 4万6684.880坪
上半期・下半期でかなり数字が動いていますので、売り買いがけっこうあったことがうかがえます。
このうち百道松原を含む西新町に所在したのは次の通り。
宅地 415坪
宅地以外 2万3575.17坪(このうち松原を含む山林は8120坪)
(全部で2万3990.17坪)
そのお隣の地行西町だとこのような面積です。
宅地 3988.63坪
宅地以外 1万2649.45坪(山林は136坪)
(全部で1万6638.08坪)
西新町・地行西町を足してみると、宅地が4403.63坪、宅地以外が3万6224.62坪(全部で4万628.25坪)になります。
大正3年と2年で年が違いますし、上半期・下半期の違いだけでも数字が動くとなると、比べてみても参考程度にしかなりませんが、それでもこの数字からは大正2~3年ごろの九電鉄の所有地の大部分は西新町・地行西町にあって、なかでも宅地になっていない西新町が面積の多くを占めていたことは見えてきます。
そしてこの西新町の所有地に、紅葉八幡宮から譲り受けた土地がかなり含まれていたはずです。
実はこの九電鉄の土地、やっぱり10年で爆上がりしました。
『九電鉄二十六年史』には坪単価でこのように記されています(宅地・宅地以外の平均の数字です)。
西新町の場合
(大正2)3.53円 → (大正12)24.68円
ちなみに地行西町の場合
(大正2)5.73円 → (大正12)25.15円
西新町だと7倍くらいになっていますね。
ところが松原は山林扱いなのですが、西新町の山林だけの推移をみると、こう書いてあります。
西新町の山林だけの場合
(大正2)2.37円 → (大正12)26.00円
11倍!!
松原の価値が平均を超えて上がっていることが分かります。
さすがに明治42(1909)年に買った藤のように36倍とまではいきませんが、それでも『藤金作翁』がいう通り、松原の価値は順調に上がっていったようなのです。
そして大正9(1920)年に西南学院に松原を売却した藤はこのことを当然知っています。
知ったうえで大正12(1923)年に、西新町に松原を含む多くの土地を持っている東邦電力(九電鉄の後身)から土地を時価以下で譲り受けようとしていたわけですね(やるね!)。
そしてまた、不動産業もやっていた東邦電力がきっぱりと断ったのも当然のことでした。
ところで、藤金作が買った松原はまた別のエピソードを生んで、西新・百道、そしてのちの埋め立て地、シーサイドももちにまで影響を与えていきました。
ずいぶん長くなりましたので、この続きは次回に…。
・清原陀仏郎『藤金作翁』(非売品、1935年)
・『早良郡志』(名著出版、1923年)
・西南学院学院史企画委員会編『西南学院七十年史』(西南学院、1986年)
・西南学院百年史編纂委員会編『西南学院百年史』(西南学院、2019年)
・『九電鉄二十六年史』(東邦電力株式会社、1923年)
・九州電力株式会社編・財団法人日本経営史研究所『九州地方電気事業史』(九州電力株式会社、2007年)
・西日本鉄道株式会社100年史編纂委員会『西日本鉄道百年史』(西日本鉄道株式会社、2008年)
・東邦電力史編纂委員会編『東邦電力史』(東邦電力史刊行会、1962年)
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[Written by はらださとし/illustration by ピー・アンド・エル]
※ 誤字を修正しました(2024.2.25)