2024年5月31日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈081〉ルッパン船長とヤップのダンスチーム、よかトピアを飛び出してダイエーに行く ―ヤップカヌー外伝(その2)―



埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。









〈081〉ルッパン船長とヤップのダンスチーム、よかトピアを飛び出してダイエーに行く ―ヤップカヌー外伝(その2)―


1989年3月17日から9月3日にかけて開かれたアジア太平洋博覧会(よかトピア)。


海外から参加した国・地域は、会期中に1度、親善をはかるための特別な日「ナショナルデー」「スペシャルデー」をもうけていました。

国・地域名を冠して「○○の日」と呼ばれたイベントです。


171日間で全部で23の国・地域がこの「○○の日」を開いています。


「○○の日」には、メインステージの「リゾートシアター」でその国・地域の代表者らが式典と公演をおこなったり、会場内の各ステージや広場でショーを披露したりして、よかトピアを国際色豊かに盛り上げるのが恒例でした。




なかでも会場内にとどまらないにぎわいとなったのが、ミクロネシア連邦ヤップ州の「ヤップの日」

7月22日(土)に開催されました。



ヤップ州は、このブログでも調べてきました通り、よかトピアの1年前にはプレイベントとして人力のヤップカヌーで太平洋5000キロの旅を成功させ、その縁で会場内にヤップ島で使われている3メートル近い巨大な石貨を展示するなど、すでに博覧会では人気者になっていました。


詳しくはこちらをご覧ください。



実は石貨のことを調べていたときに、その「ヤップの日」前後の旅程やイベントスケジュールがわかる資料が福岡市博物館に残っていることを知りました。


このスケジュールはあくまで予定ですので、記された通りにいったかどうかは分からないのですが、飛行機の便や式次第まで細かく記されていますし、手書きのメモで変更点が追加されてもいますので、よほど予期できないことが起こらない限りはこのまま進められたものと思います。


せっかくですので、今回はヤップから来福したみなさんになった気分で、この旅程を順にたどってみたいと思います(当日の実際のお天気もそえておきます)。





「ヤップの日」のためにヤップ州から招かれたのは計20人でした。

この方々です。


ペトラス・トゥンさん(ヤップ州知事)

アイラ・アカピトさん(代理大使)

ルイス・ピットマグさん(ガチャパル村酋長)

オーガスティン・セガモーさん(酋長)

アントニオ・ラマンさん(酋長)

ルイス・ルッパンさん(ヤップカヌー船長)

ヤップカヌークルー(7人)
※資料にはお名前がありませんが、〈023〉でご紹介した7人の方々だと思われます。

ダンスチーム(12人)
※こちらも資料にはお名前がありませんでした。


22日(土)の「ヤップの日」のために、一行が飛行機でヤップ島を発つのは7月19日(水)

そろそろよかトピアが夏休みのこどもたちでにぎわいはじめたころです。


22:35に島を出発した飛行機は、23:55にグアムに到着します。



今でもヤップ島から福岡に向かうにはグアム経由みたいですね。

現在だとヤップ島~グアムは1時間35分かかるようです(ミクロネシア連邦大使館の公式サイトでダウンロードできるガイドブックより)。


ヤップ島・グアム・日本の位置関係はこんな感じです。

(GoogleMapより作成)


一行はそのままグアムで1泊

翌日20日(木)はグアムで日本のビザを取得する手続きをおこないます。




7月21日(金)、いよいよ福岡へ向けて出発です。


7:40にグアムを発った飛行機が福岡空港に着くのは10:30。


時差は1時間です。



ちなみにこの日の福岡の天気は晴れでした。


一行はそのまま送迎バスに乗り込んで、これから帰国まで宿泊する博多のホテルへ向かいます。



ホテルで昼食をとって一息ついたのもつかの間、14:00にユニード本社を表敬訪問するためにタクシーに乗り込みます。

訪問するのは、州知事・代理大使・ガチャパル村酋長・カヌー船長・ダンスチームリーダーとほか3人、それに通訳1人を加えた計9人


なお、一行が訪れたユニード本社の所在地は博多区祇園町だったと思われます(そうすると、ホテルからは2キロないくらいの距離)。




1年前の「ヤップカヌー5000キロの旅」は、このユニードが協賛した企画でした。

そのため航海が成功した際には、いくつかの店舗でこの旅を記録した写真展も開催しています(写真展を開いた店舗名は過去のブログ〈023〉をご覧ください)。


今回も「ヤップの日」のための来福にあわせて、その翌日から民族ダンスショーをダイエーの店舗で開くことになっていました(1981年にユニードは九州ダイエーと合併していました)。



ユニードは福岡市の渕上呉服店から出発したスーパー。

博多で長くお暮らしの方には、スーパーを展開する前から渕上百貨店として親しまれてきたお店です。


丸栄という名でスーパー事業をはじめたのち、1978年に商号をユニードに改めました。

ちなみに丸栄の1号店は早良区西新(のちにその店舗はダイエーのディスカウントストア「トポス」になりましたので、そちらでご記憶の方も多いかもしれませんね)。


そうすると、西新の隣に生まれたシーサイドももちで開かれるよかトピアは、ユニードのなじみの場所でのイベントだったのですね。



なお、ユニードを後継する会社「彩苑」のサイトにはユニードの歴史も紹介されています。






実は草場隆さん(アジア太平洋博覧会協会事務局長)の著書によれば、地元企業であるこのユニードなどの紹介で、当時九州へ積極的に店舗展開していたダイエーによかトピアへのパビリオン参加を打診したそうなのです。

ところが、1986年末に早々に断られたのだとか…。


ダイエーといえば、その後の1988年にはプロ野球球団「南海ホークス」を買収したうえで、その本拠地を福岡に移すことを明らかにし、さらにはシーサイドももちでのドーム球場建設を発表することになります。

それなら、1989年のよかトピアにもダイエーのパビリオンがあって良さそうなのですが、なるほどそうした事情があったのですね…。

(ちなみに草場さんによれば、この球団移転の発表のあと「アジア太平洋歌謡祭」というよかトピアのイベント協賛を引き受けてもらったとのこと)


その一方で、太平洋学会が企画していたヤップカヌーの協賛に早くから前向きだったのが、地元のユニードだったのだそうです。




さて、いったんホテルに戻った一行は、今度は全員で送迎バスに乗って中央区天神へ。

15:30に福岡市役所を表敬訪問するためです。


その後の行程は記録がないのですが、ダンスチームは21:30からよかトピア会場で翌日のリハーサルが入っていました(1時間)。


朝早くにグアムを出発してきっとお疲れだったろうと思うのですが、夜までリハーサルがあったとは、ご苦労をお察しするばかりです…。




7月22日(土)晴れ

「ヤップの日」当日です。



まずは「ヤップの日」に招待された人びとが9:00に会場に集合です(報道関係者や事前に招待ハガキを受け取った関係者の方々のようです)。

招待客には記念品としてオリジナルのサンバイザーとウエストポーチ(各500組)を配り、9:30にリゾートシアターに入場してもらいます。



9:40

ヤップのみなさんがシーサイドももちの会場に到着

アジア太平洋博覧会協会会長らと会見し、記念記帳をおこないました。


そのあとは、南ゲートを入ってすぐの噴水「ウォーターランドの前で記念撮影です。

これは「○○の日」の恒例行事でした。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
夜の噴水もきれいだったウォーターランド。


(福岡市史編さん室撮影)
ウォーターランドは今も同じ位置にあります。
(さすがにもう噴水は動いていませんが…)


記念撮影後は、そのまま福岡タワーの北側にある「リゾートシアター」へ徒歩で向かいます。

「ウォーターランド」から福岡タワーに向かってまっすぐのびる会場のメーンストリートをみなさんで歩いていくのですが、儀礼隊やコンパニオンも同行しましたので、この移動さえもイベントのひとつとして入場者の目に華やかに写ったのではないでしょうか。


この博覧会のメーンストリート、現在は西新からシーサイドももちに繋がる「サザエさん通り」として親しまれています。


(福岡市史編さん室作成)


(福岡市史編さん室撮影)
かつてよかトピアのメーンストリートだった道は
現在の「サザエさん通り」。




なお、よかトピアを主催するアジア太平洋博覧会協会側のこのときのメンバーはこうした方々。

会長 桑原敬一さん(福岡市長)

副会長 友池一寛さん(福岡市助役)

事務局長 草場隆さん

渉外部長 桜井憲幸さん

国際部長 吉次晃二さん



そのころ、リゾートシアターでは「ヤップの日」が10時開始であることを伝えるアナウンスとBGMが流れはじめます。

ステージ正面に据えられたソニーの巨大モニター「ジャンボトロン」に客席の様子を映し出して、徐々に観客の期待を高めていく演出です。



リゾートシアターやジャンボトロンの話はこちらが詳しいです。



10:00

「ヤップの日」の開幕です。


リゾートシアターのアナウンスは、日本語と英語の2か国語で進められていきました。


まずペトラス・トゥンさん(ヤップ州知事)と桑原敬一さん(博覧会協会会長・市長)がそれぞれ紹介され、お二人の登壇を観客が起立して迎えると、州知事はステージ上手(客席から見て右)のイスに、協会会長(市長)は下手(客席から見て左)のイスにつきます。

ここで両国歌が演奏され、観客のみなさんも国旗に注目します。


これが終わると、博覧会協会会長(市長)が歓迎の言葉を述べ、それに対して州知事の挨拶があります。

博覧会協会のコンパニオンから州知事に花束が贈られたのち、お二人は観覧席へ戻ります。


いつもの「○○の日」なら、ここでその国・地域を代表する華やかな公演がはじまるのですが、「ヤップの日」は特別でした。



10:20

まず1年前の「ヤップカヌー5000キロの旅を振り返り、「ジャンボトロン」には冒険を成功させたカヌー「ティーピー号の様子が映し出されます


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
ようやく博多湾にたどり着いたティーピー号。


ここでルッパン船長が紹介され、登壇した船長に花束の贈呈です。



花束を手渡すのは幼稚園児


なぜ園児かというと…、話は1年前のヤップカヌーにさかのぼります。

〈023〉でも少しふれたのですが、今回はもう少し詳しく)



カヌーの出発前日、出発地であるヤップ州サタワル島のこどもたちがミニカヌーをこいで沖に出て、たくさんのカプセルを海に流しました(1988年4月3日)。

このカプセルのなかには、福岡市を中心とする九州・山口の小学生以下のこどもたちが書いたメッセージが入っていて、拾った人に名前・拾った場所・拾った日を記入して返信してもらうという企画でした(返送先はカヌーの旅に協賛したユニード本社)。


名付けて「黒潮メッセージ」。


今なら海洋汚染や個人情報などの問題で躊躇されるのでしょうが、当時はとても夢のある企画として注目をあびました。


結果、4つが太平洋の島々で拾われて、ユニードに航空便で送られてきました

このうち2つは福岡市の淡水幼稚園(博多区諸岡)で書かれたものでしたので、博覧会協会がメッセージを書いた本人に直接届けに行ったという経緯があったのでした(1988年5月18日)。


それなら「ヤップの日」には、この「黒潮メッセージで返信を受け取った園児からルッパン船長へ花束を手渡してもらおうということだったわけです。



ついで、ルッパン船長には船の模型も贈られました(模型は1.5メートルの北前船よかトピア丸」)。

これはヤップカヌーの航海に感動した北九州市在住の方が手作りされたものなのだとか。


制作者ご本人も登壇され、先ほどの「黒潮メッセージ」の園児とあわせて、よかトピアから広がる人びとの「であい」(博覧会のテーマのひとつ)を感じさせるプログラムになっていました。



このあと、今度は州知事に「ヤップの会」からお礼の挨拶が述べられ、記念品が贈呈されました。


「ヤップの会」は第二次世界大戦の際に日本軍の在ヤップ島部隊だった方々の集まりとのこと。

昭和19(1944)年4月にヤップ島に行き、そこで1年11か月を過ごされたみなさんなのだそうです。


挨拶では、当時戦闘が続くなかヤップ島のみなさんから食料をわけてもらったこと、ヤシ油の作り方や魚の捕り方を教えてもらったこと、帰国の際に泣きながらお別れの会を開いてもらったことなどが懐かしく振り返られ、お詫びやあのとき助けてもらったことへのお礼が述べられたようです。


「ヤップの会」では1年前にヤップカヌーの無事到着を知り、この日のために会員内外に寄付を募って記念品を用意されたのだとか(250人近くの寄付があったようです)。

このとき、記念品として2メートルの掛け時計30個におよぶ大小の博多人形が贈られました。



10:30

ここからは「○○の日」恒例のステージ


ミクロネシアのスティックダンスが披露されました。

前日にダンスチームがリハーサルをおこなった演目です。


資料によってはバンブーダンスと記録されていることもあるのですが、竹の棒を持って勇壮に舞い歌うものです(写真にも横2列に向かい合って、お互いスティックを振り上げる姿が写っています)。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
「ヤップの日」のリゾートシアター公演。


公演後には、博覧会協会副会長から花束が贈られました(この日、会長は所用により10:30までの出席だったようです)。



10:50

リゾートシアターでの式典はこれで閉会。


一行と招待客は「とうきゅう トロピカルビレッジ」に移動して、ビレッジ内に展示されているヤップカヌー(「ティーピー号」の実物)やミクロネシア館を見学しながらフリータイムです。


この日にあわせて修復したヤップの石貨はティーピー号のすぐ横に展示されていましたので、きっとこちらも一行の目に入り、話題になったことが想像できます。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
ミクロネシア館の展示。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
赤丸が石貨の展示位置。その横の水辺にヤップカヌーが置かれていました。



その後、11:30に昼食会(マリゾン)。


参加するのは、州知事・代理大使・村の酋長ら博覧会協会副会長(会長不在のため)、それにユニード社長とうきゅうトロピカルビレッジ代表太平洋学会専務理事ほか、全部で10名でした。


昼食会に参加しなかったほかのカヌークルーやダンスチームも、この時間に会場内で昼食をとったようです。


当時のマリゾンのレストランは過去のこのブログが詳しいのですが、このときの昼食会の会場はわかりませんでした…(残念)。




昼食後は会場視察へ。

おそらくフリータイム的に博覧会を楽しまれたのでしょうが、ヤップのみなさんはまだ気を抜けなかったはずです。


それはまだステージが残っていたからでした。



15:00

とうきゅう トロピカルビレッジ」の野外ステージでダンスショーの開催です。

演目はきっと午前中に披露したスティックダンスだと思うのですが、こちらは野外ステージで観覧フリーですから、リゾートシアターの照明・音響・客席の雰囲気とはまったく違った公演になったものと思います。



これでようやくこの日のスケジュールが終了。


17:00に送迎バスに乗って会場をあとにし、17:30にホテルに戻るという行程でした。

「ヤップの日」を終えて、まずはみなさんほっとされたことでしょう。





日付が変わって翌日、7月23日(日)です。

この日も晴れの天気でした。


9:00にダンスチームがホテルを出発します(州知事らはフリータイム)。


というのも、午前中は「とうきゅう トロピカルビレッジ」の野外ステージで、昨日と同じダンスショーがあるためです。

公演時間は10:00と11:00の2回でした。



12:00に会場内で昼食をとると、13:00には送迎バスに乗り込んで会場の外へ。


この日まず向かうのは、福岡市中央区天神のショッパーズダイエー福岡


(福岡市史編さん室撮影)
かつてはショッパーズダイエー福岡、現在は改装してイオンショッパーズ福岡店。


イベントは14:00から、場所は店内1階のキッズステーションでした。

(当時の連絡記録によると、ダンスチームが全部で12人でしたので、事前に各店舗にはそれに合う場所の確保が指示されていました。)


ちなみにステージに必要なものはユニード本社が準備したようです。

当時の連絡記録には、司会や音響担当・ディレクターといったスタッフはもちろん、Tシャツ・テーブル・案内看板、なかにはヤシの木のディスプレイ2本とも書かれています。

ヤシの木はステージに置いて南国気分を出したのでしょうか??



イベントの内容はというと、このようなスケジュール。


最初に司会者からルッパン船長とカヌーのクルー、ダンスチームが紹介されます。

これがだいたい15分くらい。


その後がダンスショーです。

ダンスはおそらく「とうきゅう トロピカルビレッジ」で披露しているものと同じでしょうけど、持ち時間が10分でしたので、もしかしたら演目は短縮バージョンかもしれません。


ダンスのあとは観客との交流会

さらに何かしらの試飲会もおこなわれたようで、これは南国にかけた商品のユニード側の販促でしょうか。



イベントは全部で40分

その後、10分で後片づけをして退店するスケジュールになっていました(かなり詰め込んだスケジュールですよね…)。


この後もこういうスケジュールで各店舗をまわっていきます。



福岡市博物館にはこの店舗イベントのポスター案が残っているのですが(レイアウト校正のメモのようなもの)、こんな文字が躍っていて、ユニード側の力の入れようが伝わっていきます。


ヤップカヌーのヒーロー ルッパン船長来店!

ヤップカヌー5000キロの旅 あの感動を再び

夢とロマンの大航海物語を直接聞ける、またとないチャンスです

サタワル島民族ダンスチームも来店!




さて、ショッパーズを退店した一行は今度は福岡市早良区原に移動。

場所はダイエー原店の1階中央モールで、16:00がイベントのスタートでした。


15:00ころに天神を発って、原までは車で20~30分程度の距離ではあるのですが、けっこう慌ただしい移動です…。



ちなみにこのダイエー原店、博多華丸さんが地元の人は「原ダイエー」と呼んでいたとテレビで仰ってました。

わたしは地元ではないのですけど、確かにそちらの方が聞きなじみがあるように思うのですが、地元の方いかがでしょうか…。


なお、このときのダイエー原店(原ダイエー)はのちに建て替えられ、今はイオン原店エディオンになっています。


(福岡市史編さん室撮影)


イベントの終了は17:00、博多のホテルへの到着は17:30です。





こうした、午前は「とうきゅう トロピカルビレッジ」での2回公演(10:00と11:00)、会場での昼食後に、午後は送迎バスに乗って店舗イベントを2か所をまわるというスケジュールが3日間続いていきます。


なかなか詰め込んだスケジュールで、カヌーチームもそうでしょうけど、何よりダンスチームが大変そうですよね…。





翌日24日(月)の店舗イベントは、14:00が福岡市東区のダイエー香椎店(1F中央モール)、16:00が春日市のアピロス春日店(1F中央モール)。


ダイエー香椎店は国道3号線から香椎宮に向かう「香椎参道口」交差点そばで、ロイヤルホストの隣にありました。

ちょうど近年の福岡国際マラソンの折り返し点あたりですね。

(ちなみにすぐ近くにアピロス香椎店もありました。アピロスはユニードのショッピングセンターブランドです。)



今回ブログを書くためにあらためてネットを検索してみると、当時のダイエーやアピロスはこうした各種のイベントスペースの役割を持っていて、ここで有名人の新曲発売キャンペーンを見たという話をいろいろ読むことができました。

(今のキャナルシティ博多のサンプラザステージ〈噴水広場〉みたいなものなのでしょうね。)


香椎ではヨシダ楽器が楽器販売のほかにレコード店もやっていましたので(セピア通りにありましたよね)、キャンペーンをよく開いていたのでしょう。


少年隊・中森明菜さん・西野妙子さんらのほかに高橋名人も来られていたようで(知らなかった…)、きっとほかにもたくさんのゲストが訪れたのでしょうね。

当時こどもたちのあこがれだった高橋名人の「ゲームは1日1時間」という言葉は、このダイエー香椎店で生まれたとのことで驚きです…。



そういえば、沢田幸二さんがKBCラジオ『PAO~N』のなかで、昔ダイエー香椎店で少年隊のデビューイベントの司会をしていたら、ファンの方に「司会の人、邪魔!」と言われたと話されていたことも思い出しました(当時、沢田さんも全国的に知られた人気DJだったと思うのですけど…さすが少年隊の人気はすごいですね)。




気になってダイエー香椎店に行ってみました。


(福岡市史編さん室撮影)

跡形もありませんでした…。


ロイヤルホストの隣にあった建物は高層マンションに建て替えられています。

近年の香椎・千早の再開発のスピードにはびっくりするばかりです…。





ここまでが市内。

これからは市外の店舗です。


(地理院地図より作成)
ヤップのイベントがおこなわれた福岡市内の3店舗。


この日の2店舗目はアピロス春日店で16:00から。


こちらは春日市下白水にあったお店です。

今は建て替えられて、ハローデイ春日店とヤマダ電機になっていますね。


福岡都市高速道路の1号香椎線は当時まだ全通していませんので、ダイエー香椎店から春日市への移動は早くても40~50分かかると思うのですが、またもや詰め詰めのスケジュールになっています…。





翌日の25日(火)の店は、15:00がダイエー城野店(1F特設コーナー)、16:30にアピロス徳力店(1F中央広場)。


なんとこの日は北九州市にまで遠征です。

(さすがに福岡からの移動時間を考えて、1店舗目の開始時間を1時間遅らせています。)



ダイエー城野店は北九州市小倉南区富士見にあった店舗。

JR城野駅のすぐそばでした。

最近建て替えられたばかりで、今はマックスバリュになっています。


もう1つのアピロス徳力店は、同じ小倉南区の守恒にあった店です。

競馬場の端っこあたり、モノレール守恒駅の近くですね。

今はサンリブに建て替えられています。


この両店は車だと10分くらいですので確かに近いとは思うのですが、移動時間を30分しかとってないです…(無事に間に合ったのでしょうか…)。




これで3日間にわたる店舗イベントはすべておしまい(ダンスチーム・カヌークルーのみなさん、ほんとお疲れさまです…)。

翌日はお休みで観光日になっています。





7月26日(水)

ここまでずっと晴れだったのですが、ちょっとお天気が下り坂で曇りのお天気です。


この日は9:00にバスでホテルを出発して、太宰府インターから高速道路経由で長崎観光に向かう旅程になっています。



実はこの目的地、当初は阿蘇山を予定していました。

それをヤップ側が長崎か広島を希望したことで変更になったのだとか。



ただ、このとき長崎自動車は全通していないころです。

武雄北方~大村、長崎多良見~長崎の計50キロくらいは下道を走らなければならず、福岡からの往復にはけっこう時間がかかったものと思います。


そういった交通事情も考えると、おそらくは十分な見学時間はとれなかったものと思うのですが、それでもこれまでイベントの連続で大変でしたから、お休みできたのは何よりでした。





7月27日(木)

天気は曇りから雨が降りはじめました。


長かった福岡滞在もこの日が最終日。

福岡最後の日は終日ショッピングと自由行動です。


ショッピングといえば、1年前にヤップカヌーで来福した際、ルッパン船長はトローリング用の釣り道具を買うつもりだったのに見つからず、残念そうにされていたことが思い出されます(→〈023〉)。

このとき買えていると良いのですが…。




翌日28日(金)は雨。

ヤップのみなさんは11:30の飛行機で福岡空港を発ち、帰国です。

17:15にグアム、飛行機を乗り換えて19:15にヤップ島に到着の便でした。






よかトピアはイベント博と呼ばれるくらい、会場のあちらこちらで同時多発的に催事を組んでいました。

会場にいれば、パビリオンに入らずとも、自分の近くで何かしらの催しをあまり待たずに見られるような感じです。


これだけでも異例の博覧会だったのですが、ヤップ州の場合はもはや博覧会の時間と場所にとどまっておらず、1年前から太平洋をわたり、会期中は福岡市内はもちろん市外にまで飛び出して「であい」の機会をもたらしていました。


こうして見ると、新人アーティストの新曲キャンペーンのように直接あちらこちらに出向いていく、よかトピアのキャンペーン隊の役割をつとめられていたようにも思えます。


そして博覧会が終わってからも、今度は〈080〉で紹介したヤップの石貨がシーサイドももちの歴史を見つめ続けています。


(福岡市史編さん室撮影)
シーサイドももちのヤップ石貨。


今回当時の資料を調べたり、あらためて石貨を見たりしてみて、ヤップのみなさんにとても親近感がわきました。

これってヤップカヌーから派生する「であい」が今でも続いているということでしょうか。


福岡を訪れてくださったヤップのみなさん、あらためてありがとうございました。







【参考文献】

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・草場隆『よかトピアから始まったFUKUOKA』(海鳥社、2010年)

・印東道子編『ミクロネシアを知るための60章』(明石書店、2015年)

・『フクニチ』1988年5月17日「南の島から返事届いた! ひと月ぶり、4通」

・『毎日新聞』1988年5月17日「「黒潮メッセージ」を回収 ファラウラップ島から手紙届く」

・『読売新聞』1988年5月17日「ヤップ発の黒潮メッセージ 4通が小島に漂着」

・『読売新聞』1988年5月19日「黒潮メッセージ 2通が園児の元へ」

・ウェブサイト
 ・ミクロネシア連邦大使館の公式サイト https://fsmemb.or.jp/
 ・福岡空港の公式サイト https://www.fukuoka-airport.jp/
 ・彩苑の公式サイト https://www.saien-ffines.jp/
 ・高橋名人のブログ https://ameblo.jp/meijin16shot/
 ・KBCラジオ『PAO~N』の公式サイト https://kbc.co.jp/pao-n/


 


シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #東急 #トロピカルビレッジ #ミクロネシア #ヤップ #カヌー #石貨 #ユニード #ダイエー #アピロス #渕上百貨店




Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル 

2024年5月29日水曜日

特別展「大灯籠絵」を楽しむために その3 灯籠をつくってみた

 この秋、福岡市博物館では、特別展「おおとうろう」を開催します。

展覧会の開催に向けて、「大灯籠絵」にまつわる話題をお届けします。


「福岡ミュージアムウィーク2024」期間中の5月25日(土)、

福岡市博物館では特別展「大灯籠絵」のプレイベントとして、

ワークショップ「灯籠をつくろう」を開催しました。

定員の約3倍という応募のなかから抽選を勝ち抜いた皆さんにご参加いただきました。


今回つくったのは、町の通りに大灯籠が掲げられる夜、通り沿いの家々に飾られる小型の灯籠です。


昭和初めの大浜流灌頂の写真 大灯籠のほかに家々に笠と造花をつけた小型の灯籠が飾られている
昭和初め頃の大浜流灌頂


前回のブログにも掲載した大浜流灌頂の写真をよく見ると、

通りに掲げられた大灯籠のほかに、

家々の前に笠と造花をつけた小型の灯籠が飾られているのが分かります。

小型の灯籠

現在、大浜流灌頂で使っている小型の灯籠用と同じ仕様の木枠を用意し、

参加者の皆さんには、そこに貼る灯籠絵を和紙に描いてもらうことにしました。


大灯籠を飾る夏祭りについてのレクチャー、

灯籠絵を描くときのコツなどの説明の後は、いよいよ灯籠づくりの時間です。

描こうとするものの写真などを持参された方も多く、

鉛筆で下書きをし、筆ペンや油性マジックで縁取りをしたあと、

水性クレパスや水をふくませた絵筆をつかって色を塗り、皆さん、制作に集中されていました。

おばあさんと手分けして制作をする小学生

水性クレパスできれいな水色のアジサイの花を描く女性

描き終えたら、木枠に丁寧に貼って完成です。
両親と協力して木枠に絵を貼る小学生

完成した灯籠にランプを入れて出来栄えをみる

約2時間のワークショップで皆さんがつくった灯籠はいずれも力作ぞろい。

特別展「大灯籠絵」では、今回制作された灯籠をすべて展示する予定です。

地域で長い間守り伝えられてきた大灯籠絵とともに、

2024年制作のこれらの新作灯籠も、ご鑑賞ください。

(by おーた)

2024年5月24日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈080〉シーサイドももちにはお金が置いてある ―ヤップカヌー外伝(その1)―



埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。









〈080〉シーサイドももちにはお金が置いてある ―ヤップカヌー外伝(その1)―


シーサイドももちのメーンストリートはサザエさん通りと呼ばれています。

広い歩道があって、福岡タワーまでまっすぐのびている道です。


(福岡市史編さん室撮影)



このサザエさん通りをタワーに向かって歩くとすぐに出会うのがこれ、「ウォーターゲート」。


(福岡市史編さん室撮影)


情報彫刻家の菊竹清文さんの作品です。

菊竹さんは長野オリンピックの聖火台をつくられたことでも有名ですよね。


1989年のアジア太平洋博覧会(よかトピア)のときにつくられて、当時と同じこの場所で通る人を迎えています(博覧会のときは太陽・風・温度・人の動きを感知して表情を変える噴水でした。今はもう動かなくなっているのですが…)。




「ウォーターゲート」はよかトピアをしのぶモニュメントの代表的存在なのですが、実はそのすぐ近くにもう1つよかトピア遺産があります。



これ。


(福岡市史編さん室撮影)


ミクロネシア連邦ヤップ州のヤップ島ガチャパル村から運ばれてきた石貨です。

よかトピアのとき、会場に展示されていました。


今はサザエさん通りの横にある百道中央公園の歩道に野外展示されています。



今置かれている場所は、地図でいうとこのあたり。


(地理院地図より作成)
福岡市博物館からも西口からだと歩いて30秒くらい。



よかトピアの1年前、同じヤップ州のサタワル島から福岡市まで太平洋5000キロをカヌーで縦断する航海がおこなわれました。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
博多湾に到着して歓迎されるヤップカヌー。


ヤップ島やサタワル島と日本はこれくらい離れています。


(GoogleMapより作成)



しかも、空と風と波を頼りにしたヤップの伝統的な航海術による人力でのチャレンジ。

8名の船員を乗せたカヌーは、途中で危ない目にあったり、予定を変更しなければならないこともありましたが、約1か月かけて無事に博多湾に到着しました。


船員たちは福岡の人びとに歓迎されて、どんたくに参加するなど翌年に迫った博覧会の開催を大いにアピールして盛り上げました。



そのときのことはこちらが詳しいです。




カヌーが出発したヤップ州は石貨の使用で世界的に有名な場所。


この5000キロの航海をご縁に、博覧会に石貨を展示させてほしいとお願いしたところ快諾してもらい、福岡に運んでくることになったのだそうです。



ヤップの石貨は、現地ではライと呼ばれていて、500年くらい前から使い始めたと伝えられているのだとか(今はすでにつくられていないそうです。ちなみに日常の買い物はアメリカドルが使われています)。



石貨の石は結晶質石灰岩で、パラオ産。

古くはパラオまで行き、人力で切り出してカヌーで運んだそうですが、なかには近代になって西洋人が機械で切り出して島まで運んだものもあるらしいです。



パラオはヤップ島の西南方向にあるのですが、けっこう離れています(切り出すのはもちろんですが、運ぶだけでも大変そう…)。


(GoogleMapより作成)


ヤップの石貨は円くかたちづくり、真ん中に穴をあけているのが共通した特徴ですが、その大きさはさまざま。

直径30センチのものから、3メートル(重さ5トン)におよぶものまで大小いろいろあるのだそうです。



昔は島のなかに1万3000個あまりもあったといわれる石貨ですが、今はそのうち6000個くらいが残っていると推定されています。


小さなものは個人の敷地などに置かれるのですが、大きいものはマラルというムラの目立つ場所に立てて並べられているのがおもしろいです(通称「石貨銀行」)。

人に見せることが前提になっているのですよね。


大きいものは動かせないので、そこに置いたまま所有権だけが移ってゆき、その石貨が今誰のものかはみんな知っているという仕組みだそうです。



ミクロネシア連邦大使館の公式サイトのトップ画面には、立てかけた石貨が写っているヤップ島の写真があります。

またこのサイトのミクロネシア連邦情報コーナーでダウンロードできるガイドブックには、石貨の説明やヤップの見どころも載っていて楽しいです。





ただ、石貨は石の貨幣という意味なのですが、通常のお金とは違うようです。

商品と交換するためのものではなく、祝い事、家屋建築、名誉を傷つけられたときの慰謝料など、人と人との結びつきの場面でやり取りされるとのこと。


石貨の価値も私たちがなれているお金のそれとは違っています。


額面が記されていませんし、それなら大きさや重さで決まるのかなと思っていたら、それもまったく関係ないのだとか。

価値はその石貨の来歴が決めるのだそうです。


なので、その石を切り出して運んできた人びとの苦労や、過去どういう場面でそれをやり取りしてきたかといった履歴が、その石貨の今の価値になります(そのほか見た目の美しさも考慮されるそうではあるのですが)。

そのため、機械でしか切り出せないような大きなものはむしろ価値が低いのだとか。


ヤップの石貨は、物を動かさずに所有権を移していったり、それをみんなが認めていることなどから、近頃の仮想通貨や電子マネーの先駆けのように考えることもあるのですが、自由に商品と交換できないとしたら、やっぱり貨幣が果たしている役割とは大事な部分で重ならないように思えますよね。

ヤップの石貨は単にお金に置き換えられないおもしろさがあります。



そんなヤップの石貨なのですが、よかトピアで展示されたものは1989年2月4日に船便で日本に到着し、6日には会場に届きました(全部で1か月かかったそうです。もとはガチャパル村の集会所にあったものとのこと)。

それから2週間がかりで会場に立てかけられたのですが(ちなみに博覧会の開幕が3月17日ですので、展示されたのはようやくその1か月前ということになります)、その場所は現在地ではなくて、会場内のアジア太平洋ゾーンにあった「とうきゅう トロピカルビレッジ」。


(福岡市史編さん室作成)



「とうきゅう トロピカルビレッジ」は東急グループが出展した太平洋の島々をテーマにしたパビリオンです。

でもパビリオンというよりは、その自然とくらしを再現して、まるでそこに行ったかのような景色を見られるムラのようになっていました。


このムラのなかには、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの3つの展示館がそれぞれの伝統家屋を模して建てられていて、大きな川に沿ってシアターやステージも備えていました。

(「とうきゅう トロピカルビレッジ」自体はいろいろご紹介したいものが多いので、またの機会に)


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
「とうきゅう トロピカル・ビレッジ」のミクロネシア館。


ヤップのくらしもミクロネシア館で展示されたのですが、石貨はその展示館を飛び出して、屋外のムラの中心部に置かれ、来場者の注目を集めました。

まるでヤップの「石貨銀行」のような置かれ方ですよね。



その場所は『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』227ページのモニュメントの配置図によると、ビレッジ内のこのあたりになるようです(赤丸部分)。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)


そうすると、「とうきゅう トロピカルビレッジ」を俯瞰した写真だとこのあたりのはずなのですが…。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)


どの写真も石貨の背面方向から写したものばかりで、全然姿が見えませんでした…(残念、引き続き別角度の写真を探索します)。



ちなみに、この場所は今だとシーサイドももちのAIビル(百道浜2丁目)の西側にある駐車場あたりになりそうです。


(地理院地図より作成)


場所が分かったので、さっそく行ってみました。


(福岡市史編さん室撮影)
かつて「とうきゅう トロピカル・ビレッジ」があったあたり。
白い格子状のデザインの建物がAIビル。


今はまったくその面影はありません…(当然そうですよね…)。




このよかトピアに展示された石貨は100年くらい前のものだそうで、最大直径2.8メートル(きれいな丸じゃないため)、厚さ60センチ、重さ約4.5トン、真ん中に直径50センチの穴が空いています(ただ各数値は資料によって一定してないです)。


確かに今の姿をざっと計ってみても2.5メートル以上はありますし、その大きさだと4.5トンの重さもうなずけます。

今は土に埋まっているので厚みは直接見られないのですが、近づいて穴を覗けば、それなりの厚みも感じることができます。


(福岡市史編さん室撮影)


(福岡市史編さん室撮影)



実はこの石貨、よかトピアの展示中に一度修理されています。


当時の新聞によると、一部が欠けたようで、そのほかにもひび割れが見られたとのこと。


仮の修理をおこなったうえで展示していたのですが、ヤップ州と協議した結果、よかトピアの会場で7月22日に「ヤップの日」というイベントをおこなうので、それにあわせて本格的に修復することになりました。

(よかトピアに参加した国や地域はこうした「○○の日」という特別な日をもうけて、親善をはかるイベントを開いていました。)


修復には1週間かかり(7月3日~10日)、修理費用もけっこうな額になったようです(保険に入っていたそうです)。

(確かに今も見ても、表面のひび割れをつないでいるように見える部分があります。)


でも、この修復のおかげで「ヤップの日」を無事に終えることができました。




本来、石貨はヤップ州から借りたものでしたので、よかトピアの閉会後は返却する予定だったのですが、ヤップ州のご厚意で福岡市に寄贈されることになりました。


こうして閉会後、百道中央公園に移設されて今に至っています。


(福岡市史編さん室撮影)
実はここがよかトピア遺産4兄弟(勝手に今名付けました)、福岡タワー・
福岡市博物館(よかトピアのテーマ館)・ウォーターランド・ヤップの石貨が
一緒に画面におさまる隠れスポット。




ところで、シーサイドももちの石貨はいくらなのでしょうね。


もともと価値が低めといわれている大きなサイズですし、すでにヤップの地から離れてしまいましたので、もう価値はないのかもしれませんね。



でも石貨の価値は、その来歴や人との関わり方で決まるといわれています。


5000キロにおよぶヤップカヌーで遠く離れた人びとが結ばれ、その縁で福岡まで運ばれてきて、よかトピアで多くの人に出会い大事にされ、博覧会が終わった後もシーサイドももちの移り変わりを長年見続けてきたこの石貨ですから、数あるヤップの石貨のなかでも特別な経験(苦労も)を積んできていますし、ヤップと福岡のたくさんの人びとを結び付けてもきました。


実はこの石貨こそ価値が高いのでは??と感じてしまうのは、ひいき目でしょうか…。


少なくとも福岡市民にとっては、ヤップとの思い出がつまった品。

これからも大切に受け継いでいって、福岡とヤップとの関わりをこの石貨に語り続けてもらうことで、その価値をもっと上げられるといいですよね。




さて、石貨の修復のタイミングでおこなわれた「ヤップの日」。


これはこれでよかトピアの会場を飛び出して、福岡のまちを盛り上げた特別なイベントになりました。



今度はぜひこの話をさせてください。





【参考文献】

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・草場隆『よかトピアから始まったFUKUOKA』(海鳥社、2010年)

・印東道子編『ミクロネシアを知るための60章』(明石書店、2015年)

・石村智「ミクロネシア連邦ヤップ州 ヤップの石貨」『考古学研究』69-2(通巻274)、2022年

・『西日本新聞』1989年2月7日「ヤップのジャンボ石貨届く」

・『フクニチ』1989年2月7日「現在も通用、石の貨幣 ヤップからア博会場に届く」

・『毎日新聞』1989年2月7日「マイホーム1軒分のヤップ石貨」

・『西日本新聞』1989年7月11日「ヤップの石貨欠ける」

・ウェブサイト
 ・ミクロネシア連邦大使館の公式サイト https://fsmemb.or.jp/


 


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Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル