2024年8月30日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈091〉昭和20年代の博多湾ヨットクルーズ ―百道とヨット②―

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。








〈091〉昭和20年代の博多湾クルージング─百道とヨット②─


7月28日(日)に福岡市ヨットハーバー(西区小戸)で開催されたヨットレース「林杯(はやしはい)」を観戦しに行き、こちらの記事でご紹介しました。



このレースは、昭和30(1955)年修猷館高校ヨット部の練習中に起こった遭難事故により亡くなられた林英男さん(当時高校2年生)を追悼するために始まったもので、今年でなんと70回目を迎えた、歴史ある博多湾ヨットレースです。


(福岡市史編さん室撮影)
令和6年7月28日に開催された第70回林杯ヨットレースの様子。


レース当日は観戦だけでなく、修猷館高校ヨット部OBの皆さんにもお目にかかり、少しお話を伺うことができました。


お話をお聞かせくださったのは結城 威さん(昭和28年主将)と秋山雄治さん(昭和30年主将)です。

ご両人はそれぞれ卒業後もヨットを続け、福岡県セーリング連盟の会長なども歴任されるなど、戦後の福岡のヨット界を牽引されてきたレジェンドです。


(福岡市史編さん室撮影)
第70回林杯開会式の時の写真。
中央が結城さん、一番右が秋山さん。


そこではお話を伺うとともに、大変貴重な資料を見せていただきました。


それがこちら。


(個人蔵)


なんと、昭和26~28年の修猷館高校ヨット部の活動日誌です!

こちらは結城さんが長年大切に保管されていたのだそうで、日誌には毎日の練習内容やレース結果などが細かく記録されていました。


(個人蔵)
修猷館高等学校ヨット部日誌より。
時折、ヨットの絵なども描かれている(上手い)。


(個人蔵)
こちらは博多湾でのクルージングを図解付きで記録。
(このあとくわしく紹介します)



今回はこの中から、当時の修猷館高校ヨット部が練習の一環として行った昭和20年代の「博多湾クルージング」の記録をいくつかご紹介したいと思います。


なお、当時の様子をそのままお伝えするためできるだけ日誌そのままの文章でお送りしますので、どうぞご了承ください。


※ 文章は日誌より抜粋して一部を編集、図面は日誌に描かれた図の情報を、地理院地図Vector(1961~1969年空中写真)を基に作成した地図に加えて作成しました(地図はすべて上が北になっています)図中の説明文は極力原文のままとしていますが、読みづらいものは一部省略しています。また、文中の(※)・赤字は編集の際につけた注釈です。


* * * * * * *


① 津屋崎へのクルージング(昭和26年)

8月28日

本年初の試みとして部員のみによるクルージングを津屋崎にて行う。

9名でスナイプ1艇、デンギー2艇で28日百道を出発。


8月29日

29日は終日津屋崎滞在、一日中遊び、初夜間帆走を行う。

スナイプに砕ける夜光虫の波!! 月の出ぬ闇に走る面白さは初めて体験する愉快さであった。


8月30日

30日帰艇の予定が雨や風にたたられ帰られず、新宮海水浴場へ西瓜持参で行く


8月31日

明けて31日朝8時15分海岸にヨットを見に集まった人28人に見送られて帰路につく

風速6mの強風に一同冷や汗だくだく。

無事、相之島を通過する頃には玄海特有のうねりが3艇のヨットを木の葉の如くもてあそび、志賀島付近にてジャイブ(※風下に回転しながら船の側面を反対に展開させること)する事が出来ず、やむなく一時玄界島へ寄港し晴れ間(この時は雨が降っていた)を見て出港。

途中、一人は酔って吐き、一人は恐ろしさのあまり鳴きさけび、やっとの思いで9mの風の中を志賀島へ着き、ここで昼食を食べる。

一同、食べ終わってやっと一息つき果物や菓子に舌つづみを打ち全部で写真を写して百道を指して出港。

2時ジャストに虎島(※端島)を通過し、西公園を見ながらやっとの思いで懐かしの百道海岸に着く

時まさに2時15分、実に時速4㎞のスピードで6時間で到着したわけだ……。


【ヨット】スナイプ1艇、ディンギー2艇

【人数】9名(うち2名は津屋崎まで)

【ルート】
・百道―津屋崎(2日滞在)
・津屋崎―(相之島)―志賀島―百道

【出発・帰着】
・午前8時15分発(津屋崎)―(午前11時玄界島着)―午後1時前後?着(志賀島)/約5時間
・午後1時30分ごろ発(志賀島)―午後2時15分着(百道)/45分





② 今津への先輩招待クルージング(昭和26年)

9月2日

ひとかたならぬお世話になった大先輩諸氏を招待して、百道よりスナイプ1艇、ディンギー6艇で今津クルージングを催す。

10時に出発す。


微風のため、グラリする程走らず一同能古島で待ち合わせ、再び整然と今津に着き昼食。西瓜を食べ、海岸づたいに生の松原に泳ぐヤンキーの中を威張って帰る

百道帰着5時10分!! 愉しい一日らしきものであった。


【ヨット】スナイプ1艇、ディンギー6艇

【人数】8名

【ルート】百道―能古島―今津~小戸は海岸沿い―百道

【出発・帰着】
・午前10時発(百道)―(午前11時着/能古島)―午後12時着(今津)/2時間
・午後2時発(今津)―午後5時10分着(百道)/3時間10分





③ 能古島クルージング(昭和27年)

11月3日(月) 晴れ

案じていた天気も絶好のクルージング日和となり、朝8時までに部室に集合。総勢9人。

(※能古島では)飯を飯ごうで炊き、芋を一貫目買い砂にうずめて焼く。魚も釣る。

3時半ごろ帰途に就く。帰りは風が百道方面より吹き真風(※南または南西の風)であるので、数回タック(※左から風を受ける状態)して室見についたのは7時頃、真っ暗である


【ヨット】不明

【人数】9名

【ルート】百道―能古島―百道

【出発・帰着】
・午前9時半発(百道)―午後12時着(能古島)/2時間半
・午後3時発(能古島)―午後7時以降着(百道、7時に室見着)/4時間超





④ 執行部員同乗クルージング(昭和28年)

4月26日(日) 晴曇雨

朝、太陽は照り南風が心地よく吹く絶好のヨット日和である。

8時半まで部員6名が部室に集合し準備。9時半ごろには執行局の者(※執行部)も集まり、執行局員女6名、男11名の計17名を5艇に分乗して10時半出発。


南風がゆるやかに吹き、姪浜沖へつっこむ。タックして志賀島へ向いたころ風が凪ぎ、スナイプが2㎞位遅れる。別の1艇は漕いでも呼んでも聞こえぬくらいはなれてしまい、さらに別の艇は能古へつっこみ完全に連絡ができぬ様になる。行きがけ500mしかはなれぬ様注意していたのに、言う事を聞かぬので困る

完全な無風で博多湾の真ん中を横ぎり、志賀島の家の屋根が見えるころ急に7mくらいの風が吹き出す。

先の3艇はもう着き、のこり2艇が一緒に全帆走で着く。

時まさに3時。実に5時間の海上漂流であった。


(※志賀島では)部員だけ浜に残り、局員は志賀神社(※志賀海神社)へ行く。

4時半までぶらぶらして神社へ行ったりしながら遊んでいると空がくもり、風が吹き、雨が降り出す

これでは帰りが思いやられると困っていたが4時半出発の時には雨がやみ順風が吹き出す


追手で出港、能古の近くまで来たころ、また風がやみ、みんな漕ぐ

ヨット部のクルージングなら漕いだりしないが、女などをのせているので遅くなると心配である


その中、1艇がずんずん先へ行き、呼んでも待たず、退部させたいほど悔しい。夜間帆走になると一緒にかたまって行かねばならぬのに、ヨットマンの心得を知らずワガママな行為であるどれだけ責任が重いか分からぬのだ。風があまりなかったからまあよかったものの、もし真っ暗の中で沈をしたら(※ヨットが転覆すること)どんなことになるか、考えればすぐわかることだ


姪浜の灯がぼんやりみえるころ南風へ変わり、一息ついて帆走していると雨がものすごく降ってきて、幸いレインコートを持って来ていた女もあったが、部員は服や帽子を脱ぎ、びしょぬれになりながら皆を濡らすまいと努力しながら真詰の困難な夜間帆走をやる。


百道に着いてもどこが艇庫(※ヨットを格納する倉庫)か分からず、先に着いた部員に焚火をさせそこにつける

雨はやみ、月が出る。みんな着きそうになると炭坑節や流行歌、校歌など合唱して気焔をあげる


すぐ部品を部室に運び、またアンカーで沖にうち、女を帰し、男の執行局員たちと部室で焚火をして落ち着きうどんを食べに行く


帰りは4時40分出発、百道着8時。家に帰ったのは10時であり、部員はことにつかれたが、面白い一日であった。


※執行局……修猷館高校生徒会組織の一つ「執行部」のこと。執行部は生徒会行事のうち運動会・文化祭以外の行事の企画・運営を行っている。


【ヨット】5艇

【人数】部員6名、執行局員17名(女性6名、男性11名)

【ルート】百道―志賀島―百道

【出発・帰着】
・往路:午前10時半発(百道)―午後3時着(志賀島)/4時間半
・復路:午後4時40分発(志賀島)―午後8時着(百道)/3時間20分





⑤ 志賀島―名島クルージング(昭和28年)

4月29日(水) 晴

8時部室集合。出席15名。

26日(※執行部員同乗クルージング)にこりて南風のうちに出艇せねばと思い、9時出艇。


幸い南よりの順風が続き、追手で一同かたまりながら楽しく一年に講義をしたりしながら過ごす。

26日にこんな良い風が吹いていたらとつくづく残念であった。

志賀島まで直線コースを1時間半で着く。この前の5時間にくらべれば1/3である。


10時40分ごろ防波堤内(※志賀島南側)に入り、橋のところでぶらぶらしながら弁当をたべ、名島へ行くのに風がおさまればひまがかかるので早めにと思い、12時5分出発。

風が南東に変わったため、数回のタックで西戸崎に行き、それからノータックで名島まで行く。

飛行艇が離着練習をしていたが、そのプロペラの風をうけてすごく早かった(うそ)


名島では西南がレースをしていたが、修猷が着くとやめて一緒に(※艇を)あげる。

着時間2時半、約束通り西南に3時前に(※艇を)渡す。みな服を着替えるのに九大の艇庫が使えぬので、共同水道のところで道の真ん中や畑の中で着替える。

4時5分の電車で帰途につく。


【ヨット】不明

【人数】15名

【ルート】百道―名島(帰路は電車)

【出発・帰着】
・午前9時発(百道)―午前10時半着(志賀島)/1時間半
・午後12時5分発(志賀島)―午後2時着(名島)/1時間55分




* * * * * * *


いかがだったでしょう?

まるで実況中継のような、臨場感のある記録ですよね。読んでいると自分も一緒に博多湾の上にいるかのようでした。


こちらの記録は修猷館高校ヨット部の活動記録としてはもちろんですが(日常の練習内容だけでなく、レースの成績表や学内外の会議記録なども記載されていました)、さらには当時の博多湾の情景や景観を復元する際にも役立つ資料にもなりそうです。


(個人蔵)
④の昭和27年11月に行った能古島クルージングの際の写真。



結城さんに当時のお話を伺ったところ、レースはレースでやりがいはあるものの、こうした博多湾のクルージングはやはり楽しいものだったとのこと。

その様子も、記録や写真から伝わってきますね。




(個人蔵)
能古島クルージングの様子(昭和28年7月)



※ 図版はすべて福岡市史編さん室作成。


【参考資料】

・修猷館高等学校ヨット部部誌(昭和26~28年度)


【協力】

・結城威 様
・秋山雄治 様



シーサイドももち #百道海水浴場 #ヨット #修猷館高校ヨット部 #ヨットクルージング



Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル 

2024年8月28日水曜日

特別展「大灯籠絵」を楽しむために その16 源頼光(みなもとのよりみつ)

THE ASTONISHING WORLD OF GIANT LANTERN PAINTINGS
会期:2024年9月13日(金)~11月4日(月・振休)  会場:福岡市博物館

この秋、福岡市博物館では、特別展「(おお)(とう)(ろう)()」を開催します。

展覧会の開催に向けて、「大灯籠絵」にまつわる話題をお届けします。


「大灯籠絵」にはヒーローが活躍する物語の一場面が多くあります。

酒呑童子(しゅてんどうじ)退治や土蜘蛛(つちぐも)退治の伝説で有名な源頼光は、

複数の「大灯籠絵」に登場しています。

酒呑童子退治/大浜流灌頂継承保存会
大江山(京都府)に住み、都の姫君をさらっていた鬼=酒呑童子を
源頼光とその配下の四天王が退治し、酒呑童子の首をはねた場面

大江山土蜘蛛退治図/福岡市漁業協同組合箱崎支所
病床にありながら、配下の四天王とともに
巨大なクモの妖怪=土蜘蛛を退治する場面

大江山鬼神退治之図/福岡市漁業協同組合箱崎支所
酒呑童子退治の様子

「伝説」で有名ではありますが、源頼光(948~1021)は実在した人物です。

今年2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」の主要登場人物である

藤原道長(966~1027)密接なかかわりがあります。

988年に藤原道長の父で関白の藤原兼家(929~990)が

新邸を造った際の祝宴で、馬30頭を贈ったといいます。

また、1016年に藤原道長の土御門殿(つちみかどどの)が焼失し、

1018年に新造されたとき、

源頼光は家具・調度いっさいを献上したのだそうです。


8月25日放送の第32話は、1005年という設定でしたから、

この先、源頼光が「光る君へ」に登場することもあるかもしれませんね。

(by おーた)

2024年8月23日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈090〉スーパーシップ9の「9」は九州のキュー(たぶん)―よかトピアの九州電力パビリオン(その3)―

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。








〈090〉スーパーシップ9の「9」は九州のキュー(たぶん)─よかトピアの九州電力パビリオン(その3)─


アジア太平洋博覧会(よかトピア)に、パビリオン「夢飛行 スーパーシップ9 電力館」を出展した九州電力。


ただ、九州電力とよかトピアの関わりはそれだけではなく、もっと深いもののようです。




話はさかのぼって、よかトピアの計画がはじまったころ



1984年、4選を果たした進藤一馬福岡市長の公約には、市制施行100周年を記念して、1989年に福岡市で国際的博覧会をおこなうことが盛り込まれていました。


1984年末に市議会が全会一致で「博覧会を促進する決議」をおこなうと、市役所内に「博覧会準備室」がつくられ、いよいよ博覧会(のちのよかトピア)の準備がはじまりました。



年が明けて1985年3月5日、役所・財界・マスコミ・学識経験者などによる「福岡国際博覧会開催実行委員会」が発足します。

会長は進藤一馬市長会長代行は永倉三郎さんがつとめました。


永倉さんは九州電力の会長、このすぐあとの5月には「九州経済連合会」の会長にも就任され、九州の経済界をとりまとめていかれた方です。



「九州経済連合会」の会長は、長く九州電力出身者がつとめました(会が発足した1961年から2013年まで/初代~第7代)。

九州電力が福岡だけでなく、九州全体の経済を牽引する会社であることをよく表しています。



8月になると、さっそく博覧会のパンフレットがつくられました。


ただ、博覧会はまだ開催に向かって走りはじめたばかり。

あとからふれますように、博覧会の名称(アジア太平洋博覧会)やテーマは決まっていたのですが、中身はこれからという段階でした。


具体的な内容が少ないこのパンフレットの役割は、観客を呼び込むためのものというより、企業・団体などへ協力を仰いでいくための説明資料といったものかと思われます。

これを手にして、博覧会を具体化するためにスタッフのみなさんが各所に奔走されたのでしょうね。



そうした段階でのこのパンフレットには、「未来への飛躍台となるこの博覧会へのご参加、ご協力を心からお願いいたします」という文言と一緒に、進藤会長・永倉会長代行のお写真が並んでいます。


準備がスタートしたばかりのころ、各方面にお名前が通っているお二方が実行委員会の代表であることこそが、博覧会のアピールポイントになっていたと思われます。


(上下とも福岡市博物館所蔵)
1985年8月につくられたパンフレットの一部。



その後、11月25日に博覧会を主催する「財団法人アジア太平洋博覧会協会」が設立されました(先ほどの「博覧会準備室」はこちらの事務局へ移行しました)。


この協会の会長には進藤一馬市長、特別顧問には永倉さん、副会長として福岡県知事・福岡市助役・福岡商工会議所会頭・西日本新聞社長・博多港開発社長のお名前が並びました。


こうして、福岡で開かれるアジア太平洋博覧会は、九州電力と二人三脚でスタートしたのでした。 


2度目の年が明け、1986年3月には、博覧会の愛称「よかトピア」とシンボルマークが公募によって決定します。


愛称「よかトピア」は、グラフィックデザイナーの竹中俊裕さんによるものです(応募総数2082点から選ばれました)。

博覧会の公式記録によると、「“よか”は、九州全域で使われている方言の“良い”という意味と、レジャーの“余暇”の二つの意味を持っており、この博覧会の理念にピッタリ。“よか”という言葉によってこの博覧会が九州全域の祭りであることをアピール」する意味が込められていました。


一方のシンボルマークは、グラフィックデザイナーの花田寛治さんの作品(応募総数2112点から選出)。

こちらも公式記録によれば、「大きな楕円は地球を表すと同時に、人と人とのふれあい、であいなど、人間の根源的なつながりを示し、楕円の中の曲線と点は、環太平洋を描くとともに、アジア太平洋の波濤の力強さや、会場となる博多湾の地形など、さまざまなイメージを内包していて、アジア太平洋をはじめとする、世界に開かれた未来への大きな可能性を強調」してデザインされたものでした。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)




ちなみに、愛称とシンボルマークを選考した審査員はこのような方々です。


魚住勉さん(コピーライター)

岡田晋さん(テーマ委員会委員、基本構想委員会専門委員、九州芸術工科大学教授)

田中一光さん(アートディレクター)

永倉三郎さん(財団法人アジア太平洋博覧会協会特別顧問)

西島伊三雄さん(テーマ委員会委員、グラフィックデザイナー)



魚住勉さんは『男と女のラブゲーム』(作曲は馬飼野康二さん、ポリドールから1987年に発売)の作詞も手がけられた作詞家でもいらっしゃいます。

岡田晋さんは研究では映像がご専門ですが、これまでも1970年の万博をはじめとしていくつもの博覧会に関わってこられ、よかトピアでは全体の展示プロデュースを担当されました。

田中一光さんは無印良品のアートディレクションでも有名ですね。

西島伊三雄さんは博多では知らない人はいないデザイナーで、福岡市史編さん室ではその功績をたどる講演会を開いたこともあります。





さて、いよいよパビリオンの出展要請が本格化していくわけですが、「財団法人アジア太平洋博覧会協会」の事務局長をつとめられた草場隆さんの回顧録『よかトピアから始まったFUKUOKA』にはその過程が綴られています。


草場さんによると、やはり九州電力の仲介が力となったそうなのです。



博覧会が開催された当時はバブル景気の印象が強いのですが、実際は1985年のプラザ合意による円高不況のために特に輸出産業は不振のさなかでした。

そのため、国内の主要企業への出展要請には困難が予想されました。


そうでなくても、よかトピアが開催される1989年には横浜・名古屋なども博覧会を予定していました(1990年には大阪でも「国際花と緑の博覧会」が予定されていました。ライバル多し…)。

大きな企業グループには各都市からパビリオンの出展要請が集中することが予想されます。


そうした厳しい環境のなかで、開催規模が横浜・名古屋に比べて小さい福岡はより不利な立場でふるいにかけられるはずです。



この懸念に対して、永倉さんは当時九州電力副社長だった渡辺哲也さんの協力を博覧会協会に申し出られたとのこと(翌1987年には渡辺さんは九州電力の社長、永倉さんは九州電力の相談役にそれぞれなられています)。

これにより、渡辺さんは博覧会協会の常任顧問に就任されて、博覧会の開催に尽力されていくことになりました。


東京・大阪での大手企業グループへの出展要請は、九州電力の次期社長である渡辺さんが同行されたり、永倉さんが仲介されりしたことでおおいに進んでいったそうです。


なるほど、すでに1986年6月17日には、九州電力・西部ガスグループ・NTT九州支社の3社が一番乗りでパビリオンの出展を表明していましたから、渡辺さんが東京・大阪の出展要請先で「わが社はパビリオンを出展します」と直接仰った際の大きな影響力は容易に想像できます。

(このあたりの具体的な話は草場さんのご著書が大変詳しいので、ぜひそちらをご覧ください)



困難な状況のなか、九州電力の協力を得ながらよかトピアは具体化していくことになりました。 



こうした九州電力のよかトピアへの協力の背景には、博覧会の趣旨と企業方針との一致がありました。


『九州電力40年史』にはその経緯が語られています。


九州電力は、プラザ合意による円高不況以降、地域を活性化する努力が必要と考えていました。

そのために1988年から「新しい九州電力づくり」を推し進め、総合地域企業としての発展を目指していきます。


企業イメージ委員会を新設して、1988年10月には企業理念を「ヒューマンな九州を創る企業体」と定め、新しいシンボルマークもつくりました。

このシンボルマークは九州の7県が連帯して未来へ躍進する力を表したものだそうです(田中一光さんのデザインで、現在も使われています)。


(福岡市博物館所蔵)
九州電力が出展したパビリオン「夢飛行 スーパーシップ9 電力館」のパンフレットにも
決まって間もないシンボルマークが印刷されています。



あわせて国際化にも取り組み、技術者の海外派遣や海外からの研修生の受け入れをおこなったり、国際会議への出席や福岡開催に向けて尽力したりもしています。



これらには九州をアジア・太平洋地域の交流拠点にしていきたいという九州電力の思いがありました。

そのためには、まず「九州はひとつ」という広域的観点を持って、協調して「九州づくり」を目指すことが必要と考えていました。


企業理念を「ヒューマンな九州を創る企業体」と定めたゆえんです。




実は、こうした「九州はひとつ」やアジア太平洋の拠点としての九州という捉え方は、永倉さんが会長をつとめた九州経済連合会の方針でもありました。



『九州経済連合会60年史』によれば、1985年に永倉さんが九州経済連合会の会長に就任すると(5月)、九州全体の発言力を強化するために、九州経済連合会と九州地方知事会の意見交換会が開かれています(10月)。


この第1回意見交換会では、「九州はひとつ」という理念のもとでの結束が宣言されました。

意見交換会は、これ以後定例化したそうです。


12月には九州選出の国会議員を含めて、「九州はひとつ」開発推進大会も開催しました。


こうした政・官・財の関係強化のなかで、永倉さんが九州経済連合会の会長をつとめた時期には九州新幹線鹿児島ルートが着工しています(1991年)。



さらには当時ちょうど、国の地域政策を決める「全国総合開発計画」の第四次計画が策定されました。

※「全国総合開発計画」の第四次計画(略して「四全総」)は、1987年に中曽根内閣によって閣議決定(計画の目標年次はおおむね2000年) 。


このとき九州経済連合会は、九州・山口地域をアジアとの交流窓口とする事業推進を国に要望しました。


その結果、「全国総合開発計画」第四次計画の「九州地方整備の基本的方向」の欄には次のように書かれていて、九州経済連合会の要望が盛り込まれたことが分かります。


(九州地方整備の基本的方向)

各地域間の競争条件を均等化するとともに、各地域が適正な役割分担のもとで相互に連携するための基盤整備を図る。先端技術産業の集積とその連携によるテクノアイランドや、アジア太平洋地域との地理的近接性と交流の実績を生かした南の国際交流拠点、多彩な自然や豊富な歴史的文化遺産を活用した観光・保養地域、食材及び木材の総合的な供給基地として、独自の産業、文化の集積を更に高めるとともに、国際性豊かな地域社会の形成を図る。


(『第四次全国総合開発計画』国土庁、昭和62年6月より)



よかトピアが動きはじめた1980年代中頃は、九州電力が牽引する九州経済界と国の政策が「九州」を一体と捉え、「アジア太平洋」地域の国際拠点にしようと考えた時期でした。 




さて一方で、よかトピアのコンセプトや方針がどうやって生まれてきたかというと、少し話は戻ります。



1985年6月10日、博覧会の基本理念・テーマ・名称を考える「テーマ委員会」がスタートしました。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
第1回のテーマ委員会(1985年6月10日)


この日から7月5日まで全部で4回の会議が開かれ(下部会議は除いています)、「九州全域をエリアとしたテーマを」「歴史的な文化交流をテーマに」「アジア・太平洋を中心とした国際化をめざすもの」「市民参加できるもの」などの意見が出されました。


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
開場予定地をビルの上から見学するテーマ委員会のメンバー。
場所は現在のよかトピア通りそばで、「百道通り」交差点の近く。
写真右に見えている埋め立て地は現在の「世界の建築家通り」付近
にあたります。


(地理院地図Vectorを基に作成)
写真の撮影場所は赤丸の位置。



「テーマ委員会」で取りまとめられた案は、7月8日に開かれた「福岡国際博覧会実行委員会」で決定に至ります。



ここで博覧会の名称は「アジア太平洋博覧会―福岡'89」、テーマは「新しい世界のであいを求めて」となりました。


テーマをより具体的に説明するサブテーマも次のように決まりました。


・海と陸とのであいをさぐる ─自然とまじわる人間的な国際海浜都市を─

・歴史と未来のであいを考える ─歴史と伝統の原点から、より豊かな文化の未来を─

・人と物とのであいを見なおす ─人と物の生きた関係から、新しい経済的活力を─

・技術と心のであいを発見する ─科学技術の進歩と明日をつくる心の調和を─

・九州/福岡と世界のであいをめざす ─人と人のふれあいから国際的なネットワークを─


基本理念はけっこうな長さの文章になっていてテーマのバックボーンをかみ砕いて説明しているのですが、その最後は「ここにアジアの、世界のであいをつくり出す都市づくりの構想を、博覧会から提言する。未来に開かれた都市モデル。私たちはこの博覧会を「アジア太平洋博覧会―福岡'89」と名づけたい。 歴史と伝統を生かしながら未来に飛躍しよう─新しい世界のであいを求めて、九州・福岡から明日の夢を創り出そう。」という言葉で締めくくられています。



これらを見ると、よかトピアは福岡市で開かれた博覧会ですが、コンセプトは一貫して「九州」を掲げながら組み立てられています。 


そしてサブテーマに盛り込まれたように、その「九州」が国際拠点として位置づけられました。 

しかも 歴史を振りかえった際の過去の姿としてだけではなく、これからの未来でもそうなるように、博覧会をきっかけにめざすべき姿としてうたっていることが注目されます。




よかトピアが示す「九州」のアジア太平洋における国際拠点化は、 先ほどの九州電力や九州経済連合会がめざした姿とそのまま同じと言えるでしょう。




ちなみに、草場さんの著書によれば、よかトピアの「アジア太平洋」というコンセプトは、「テーマ委員会」でまずシルクロードなどを念頭に「アジア」というエリアが示されたのち、アジア以外の福岡市の姉妹都市の参加を想定した博覧会協会側からの相談に応えて、委員の岡田晋さんから出されたアイデアだったそうです(「シルクロードは陸だけではありません。海のシルクロードもあるんですよ」と語られたとのこと)。


よかトピア開催時の福岡市の姉妹都市はこのようになっています。


オークランド市(アメリカ)

広州市(中国)

ボルドー市(フランス)

オークランド市(ニュージーランド)

イポー市(マレーシア)

※閉会後、釜山広域市(韓国)、アトランタ市(アメリカ)、ヤンゴン市(ミャンマー)


確かにヨーロッパのフランスはさておき、アメリカやニュージーランドは博覧会のコンセプトにあらかじめ取り込んでおきたいところですよね。

うまく諸般の事情ものみ込み、より経済界の方針とも合うものができたことになります。 



参考のために現在の福岡市の姉妹都市の一覧はこちら。


姉妹都市との交流についてはこちらのサイトが詳しいです。




このよかトピアのコンセプトを打ち出した「テーマ委員会」のメンバーのお一人には、石崎貞正さん(西日本プラント工業株式会社相談役)がいらっしゃいます。

石崎さんは九州電力のご出身で、九州経済連合会では永倉さんが会長の際に理事長をつとめられた方でした。

永倉さんの信頼が大変厚かったそうです。

この後、「テーマ委員会」が検討した基本理念に基づいて博覧会の基本構想を検討する基本構想委員会」が7月15日からはじまったのですが、石崎さんはその委員長もつとめられました。


さらには草場さんの回顧によれば、「テーマ委員会」の委員長田中健蔵さん(九州大学長)は「テーマ委員会」での検討内容を、大筋がまとまった時点であらかじめ永倉さんのお耳にも入れられていたのだとか。

よかトピアのコンセプトづくりは、永倉さんともコンセンサスがとられたものだったことになるでしょう。 


(西日本新聞社編『アジア太平洋博覧会―福岡’89公式記録』
〈アジア太平洋博覧会協会、1990年〉より)
基本構想委員会の会議


実はすでに福岡市は、1981年に作成した市政の指針「福岡市総合計画―基本計画―」の総論のなかで、計画の前提として「国際的機能の強化」をとなえ、以下のように述べていました(ちょっと長いのですが引用します)。


1つは、アジアにおける本市の位置と任務の自覚である。福岡市はかつては、その背後に筑豊産炭地をもつことによって栄えた。第2次大戦後は、中枢管理機能を持つことによって、大きく都市成長をした。80年代に向けては、それだけではなく、大きく海外に門戸を開き、国際交流機能を持たなければ、都市発展はない。幸いにして、中国、東南アジアの諸国には、わが国のなかでも立地的優位性をもつ。これを生かしつつ、交流の拠点となる機能、施設等をさらに強化していかねばならない。2つは、発展途上国への技術移転の拠点づくりである。(中略)3つは、国際社会にたいする地方自治体としての姿勢の確立である。これまでは、国際交流はナショナルベースのものとされてきた。最近、わが国の各都市の他の国の諸都市との姉妹、友好関係の締結もブームになっている。けれども、それは儀礼的な交流をそれほど出てはいない。今後はそれを踏みこえつつ、1つの都市として、1つの地方自治体として経済、社会、文化的な結びつきを強めていくべきであろう。

(「福岡市総合計画―基本計画―」〈福岡市、1981年〉より)


そうすると1980年代は、福岡市が国際交流拠点という市の目指すべき姿を示し、九州経済界の動きがそこに重ね合わされていった(そして国政の方向とも一致させていった)時期と言えるのでしょう。


80年代をしめくくる1989年開催のよかトピアは、福岡市役所周り・九州経済界隈が一致してこうしたことを人びとに広く体感・共有してもらい、さらに加速させていく絶好の機会と捉えていたものと思われます。 


そしてこの理念の一致による九州経済界との協調が、東京・大阪の主要企業への出展要請をはじめとして、よかトピアを成功へと大きく導いていくことになりました。

そのキーパーソンこそが九州電力だったことになるでしょう。




そうか! こうやって書きながら気づきました…。 

このブログの〈086〉で調べた九州電力のパビリオンでは、観客を乗せた宇宙船「スーパーシップ9」が宇宙を出発したのち、九州のすべての県をめぐって、最後は未来都市に到着していましたが、これはそのまま九州電力の企業理念と方針に沿ったストーリーだったのですね。

九州の良さをよく知って、最後は未来に到達することが大事だったわけです(ただの九州観光じゃなかったのか…)。



パビリオンのなかで「スーパーシップ9」が到着したのは未来都市「トゥモローランド」でしたが、「スーパーシップ9」が真にめざした目的地は、現実世界での国際拠点「九州」という未来だったことになるのでしょう(うーん、よかトピアのコンセプトにまで及んでいたとは…、 思った以上に深い意味が込められた パビリオンでした)。






    


【参考文献】

・『アジア太平洋博覧会―福岡'89 公式記録』((株)西日本新聞社編集製作、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1990年)

・『アジア太平洋博ニュース 夢かわら版'89保存版』((株)西日本新聞社・秀巧社印刷(株)・(株)プランニング秀巧社企画編集、(財)アジア太平洋博覧会協会発行、1989年)

・草場隆『よかトピアから始まったFUKUOKA』(海鳥社、2010年)

・『九州電力40年史』(九州電力社史編集部会編集、九州電力株式会社発行、1991年)

・『九経連(1961~2021) 60年のあゆみ』(一般社団法人九州経済連合会、2021年) https://www.kyukeiren.or.jp/other_activity/128

・『第四次全国総合開発計画』(国土庁、1987年)

・ウェブサイト


シーサイドももち #アジア太平洋博覧会 #よかトピア #九州電力 #スーパーシップ9 #九州経済連合会



Written by はらださとしillustration by ピー・アンド・エル 


※ 内容を一部加筆・修正しました(2024.8.27)

※ 誤表記を一部修正しました(2024.8.30