埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。
この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。
本についてはコチラ。
この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。
〈091〉昭和20年代の博多湾クルージング─百道とヨット②─
7月28日(日)に福岡市ヨットハーバー(西区小戸)で開催されたヨットレース「林杯(はやしはい)」を観戦しに行き、こちらの記事でご紹介しました。
このレースは、昭和30(1955)年に修猷館高校ヨット部の練習中に起こった遭難事故により亡くなられた林英男さん(当時高校2年生)を追悼するために始まったもので、今年でなんと70回目を迎えた、歴史ある博多湾ヨットレースです。
(福岡市史編さん室撮影) 令和6年7月28日に開催された第70回林杯ヨットレースの様子。 |
レース当日は観戦だけでなく、修猷館高校ヨット部OBの皆さんにもお目にかかり、少しお話を伺うことができました。
お話をお聞かせくださったのは結城 威さん(昭和28年主将)と秋山雄治さん(昭和30年主将)です。
ご両人はそれぞれ卒業後もヨットを続け、福岡県セーリング連盟の会長なども歴任されるなど、戦後の福岡のヨット界を牽引されてきたレジェンドです。
(福岡市史編さん室撮影) 第70回林杯開会式の時の写真。 中央が結城さん、一番右が秋山さん。 |
そこではお話を伺うとともに、大変貴重な資料を見せていただきました。
それがこちら。
(個人蔵) |
なんと、昭和26~28年の修猷館高校ヨット部の活動日誌です!
こちらは結城さんが長年大切に保管されていたのだそうで、日誌には毎日の練習内容やレース結果などが細かく記録されていました。
(個人蔵) 修猷館高等学校ヨット部日誌より。 時折、ヨットの絵なども描かれている(上手い)。 |
(個人蔵) こちらは博多湾でのクルージングを図解付きで記録。 (このあとくわしく紹介します) |
今回はこの中から、当時の修猷館高校ヨット部が練習の一環として行った昭和20年代の「博多湾クルージング」の記録をいくつかご紹介したいと思います。
なお、当時の様子をそのままお伝えするためできるだけ日誌そのままの文章でお送りしますので、どうぞご了承ください。
※ 文章は日誌より抜粋して一部を編集、図面は日誌に描かれた図の情報を、地理院地図Vector(1961~1969年空中写真)を基に作成した地図に加えて作成しました(地図はすべて上が北になっています)。図中の説明文は極力原文のままとしていますが、読みづらいものは一部省略しています。また、文中の(※)・赤字は編集の際につけた注釈です。
* * * * * * *
① 津屋崎へのクルージング(昭和26年)
8月28日
本年初の試みとして部員のみによるクルージングを津屋崎にて行う。
9名でスナイプ1艇、デンギー2艇で28日百道を出発。
8月29日
29日は終日津屋崎滞在、一日中遊び、初夜間帆走を行う。
スナイプに砕ける夜光虫の波!! 月の出ぬ闇に走る面白さは初めて体験する愉快さであった。
8月30日
30日帰艇の予定が雨や風にたたられ帰られず、新宮海水浴場へ西瓜持参で行く。
8月31日
明けて31日朝8時15分海岸にヨットを見に集まった人28人に見送られて帰路につく。
風速6mの強風に一同冷や汗だくだく。
無事、相之島を通過する頃には玄海特有のうねりが3艇のヨットを木の葉の如くもてあそび、志賀島付近にてジャイブ(※風下に回転しながら船の側面を反対に展開させること)する事が出来ず、やむなく一時玄界島へ寄港し晴れ間(この時は雨が降っていた)を見て出港。
途中、一人は酔って吐き、一人は恐ろしさのあまり鳴きさけび、やっとの思いで9mの風の中を志賀島へ着き、ここで昼食を食べる。
一同、食べ終わってやっと一息つき果物や菓子に舌つづみを打ち全部で写真を写して百道を指して出港。
2時ジャストに虎島(※端島)を通過し、西公園を見ながらやっとの思いで懐かしの百道海岸に着く。
時まさに2時15分、実に時速4㎞のスピードで6時間で到着したわけだ……。
【ヨット】スナイプ1艇、ディンギー2艇
【人数】9名(うち2名は津屋崎まで)【ルート】・午前8時15分発(津屋崎)―(午前11時玄界島着)―午後1時前後?着(志賀島)/約5時間
・午後1時30分ごろ発(志賀島)―午後2時15分着(百道)/45分
② 今津への先輩招待クルージング(昭和26年)
9月2日
ひとかたならぬお世話になった大先輩諸氏を招待して、百道よりスナイプ1艇、ディンギー6艇で今津クルージングを催す。
10時に出発す。
微風のため、グラリする程走らず一同能古島で待ち合わせ、再び整然と今津に着き昼食。西瓜を食べ、海岸づたいに生の松原に泳ぐヤンキーの中を威張って帰る。
百道帰着5時10分!! 愉しい一日らしきものであった。
【ヨット】スナイプ1艇、ディンギー6艇
【人数】8名
【ルート】百道―能古島―今津~小戸は海岸沿い―百道
③ 能古島クルージング(昭和27年)
11月3日(月) 晴れ
案じていた天気も絶好のクルージング日和となり、朝8時までに部室に集合。総勢9人。
(※能古島では)飯を飯ごうで炊き、芋を一貫目買い砂にうずめて焼く。魚も釣る。
3時半ごろ帰途に就く。帰りは風が百道方面より吹き真風(※南または南西の風)であるので、数回タック(※左から風を受ける状態)して室見についたのは7時頃、真っ暗である。
【ヨット】不明
【人数】9名
【ルート】百道―能古島―百道
・午前9時半発(百道)―午後12時着(能古島)/2時間半
・午後3時発(能古島)―午後7時以降着(百道、7時に室見着)/4時間超
④ 執行部員同乗クルージング(昭和28年)
4月26日(日) 晴曇雨
朝、太陽は照り南風が心地よく吹く絶好のヨット日和である。
8時半まで部員6名が部室に集合し準備。9時半ごろには執行局の者(※執行部)も集まり、執行局員女6名、男11名の計17名を5艇に分乗して10時半出発。
南風がゆるやかに吹き、姪浜沖へつっこむ。タックして志賀島へ向いたころ風が凪ぎ、スナイプが2㎞位遅れる。別の1艇は漕いでも呼んでも聞こえぬくらいはなれてしまい、さらに別の艇は能古へつっこみ完全に連絡ができぬ様になる。行きがけ500mしかはなれぬ様注意していたのに、言う事を聞かぬので困る。
完全な無風で博多湾の真ん中を横ぎり、志賀島の家の屋根が見えるころ急に7mくらいの風が吹き出す。
先の3艇はもう着き、のこり2艇が一緒に全帆走で着く。
時まさに3時。実に5時間の海上漂流であった。
(※志賀島では)部員だけ浜に残り、局員は志賀神社(※志賀海神社)へ行く。
4時半までぶらぶらして神社へ行ったりしながら遊んでいると空がくもり、風が吹き、雨が降り出す。
これでは帰りが思いやられると困っていたが4時半出発の時には雨がやみ順風が吹き出す。
追手で出港、能古の近くまで来たころ、また風がやみ、みんな漕ぐ。
ヨット部のクルージングなら漕いだりしないが、女などをのせているので遅くなると心配である。
その中、1艇がずんずん先へ行き、呼んでも待たず、退部させたいほど悔しい。夜間帆走になると一緒にかたまって行かねばならぬのに、ヨットマンの心得を知らずワガママな行為である。どれだけ責任が重いか分からぬのだ。風があまりなかったからまあよかったものの、もし真っ暗の中で沈をしたら(※ヨットが転覆すること)どんなことになるか、考えればすぐわかることだ。
姪浜の灯がぼんやりみえるころ南風へ変わり、一息ついて帆走していると雨がものすごく降ってきて、幸いレインコートを持って来ていた女もあったが、部員は服や帽子を脱ぎ、びしょぬれになりながら皆を濡らすまいと努力しながら真詰の困難な夜間帆走をやる。
百道に着いてもどこが艇庫(※ヨットを格納する倉庫)か分からず、先に着いた部員に焚火をさせそこにつける。
雨はやみ、月が出る。みんな着きそうになると炭坑節や流行歌、校歌など合唱して気焔をあげる。
すぐ部品を部室に運び、またアンカーで沖にうち、女を帰し、男の執行局員たちと部室で焚火をして落ち着きうどんを食べに行く。
帰りは4時40分出発、百道着8時。家に帰ったのは10時であり、部員はことにつかれたが、面白い一日であった。
※執行局……修猷館高校生徒会組織の一つ「執行部」のこと。執行部は生徒会行事のうち運動会・文化祭以外の行事の企画・運営を行っている。
【ヨット】5艇
【人数】部員6名、執行局員17名(女性6名、男性11名)
【ルート】百道―志賀島―百道
・往路:午前10時半発(百道)―午後3時着(志賀島)/4時間半
・復路:午後4時40分発(志賀島)―午後8時着(百道)/3時間20分
⑤ 志賀島―名島クルージング(昭和28年)
4月29日(水) 晴
8時部室集合。出席15名。
26日(※執行部員同乗クルージング)にこりて南風のうちに出艇せねばと思い、9時出艇。
幸い南よりの順風が続き、追手で一同かたまりながら楽しく一年に講義をしたりしながら過ごす。
26日にこんな良い風が吹いていたらとつくづく残念であった。
志賀島まで直線コースを1時間半で着く。この前の5時間にくらべれば1/3である。
10時40分ごろ防波堤内(※志賀島南側)に入り、橋のところでぶらぶらしながら弁当をたべ、名島へ行くのに風がおさまればひまがかかるので早めにと思い、12時5分出発。
風が南東に変わったため、数回のタックで西戸崎に行き、それからノータックで名島まで行く。
飛行艇が離着練習をしていたが、そのプロペラの風をうけてすごく早かった(うそ)。
名島では西南がレースをしていたが、修猷が着くとやめて一緒に(※艇を)あげる。
着時間2時半、約束通り西南に3時前に(※艇を)渡す。みな服を着替えるのに九大の艇庫が使えぬので、共同水道のところで道の真ん中や畑の中で着替える。
4時5分の電車で帰途につく。
【ヨット】不明
【人数】15名
【ルート】百道―名島(帰路は電車)
・午前9時発(百道)―午前10時半着(志賀島)/1時間半
・午後12時5分発(志賀島)―午後2時着(名島)/1時間55分
* * * * * * *
いかがだったでしょう?
まるで実況中継のような、臨場感のある記録ですよね。読んでいると自分も一緒に博多湾の上にいるかのようでした。
こちらの記録は修猷館高校ヨット部の活動記録としてはもちろんですが(日常の練習内容だけでなく、レースの成績表や学内外の会議記録なども記載されていました)、さらには当時の博多湾の情景や景観を復元する際にも役立つ資料にもなりそうです。
(個人蔵) ④の昭和27年11月に行った能古島クルージングの際の写真。 |
結城さんに当時のお話を伺ったところ、レースはレースでやりがいはあるものの、こうした博多湾のクルージングはやはり楽しいものだったとのこと。
その様子も、記録や写真から伝わってきますね。
(個人蔵) 能古島クルージングの様子(昭和28年7月) |
※ 図版はすべて福岡市史編さん室作成。
【参考資料】
・修猷館高等学校ヨット部部誌(昭和26~28年度)
【協力】
・秋山雄治 様
#シーサイドももち #百道海水浴場 #ヨット #修猷館高校ヨット部 #ヨットクルージング
[Written by かみね/illustration by ピー・アンド・エル]