2024年12月27日金曜日

【別冊シーサイドももち】〈099〉今年で元寇750年を迎える運びとなりました ―元寇防塁今昔②―

     

埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りした『シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―』(発行:福岡市/販売:梓書院)。


この本は、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。


本についてはコチラ


この連載では【別冊 シーサイドももち】と題して、本には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを紹介しています。ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。







〈099〉今年で元寇750年を迎える運びとなりました ―元寇防塁今昔②―


何かしらの出来事を振り返り顕彰する手段の一つとして、「周年事業」というものがあります。

創業100周年!」や「生誕100年!」などの文言が頭にくっついているイベントなどを目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。



ちなみに今年2024年の主な周年(30年以上)を見てみると…

【200年以上】

・金印発見から240年/1784年2月23日

・交響曲第9番世界初演200年/1824年5月7日(オーストリア ウィーン)

【150年】

・佐賀の乱150年/1874年2~3月

【140年】

・山本五十六生誕140年/1884年4月4日

・三ツ矢サイダー発売140年/1884年(当時の名称は「平野水」)

【120年】

・日露戦争勃発120年/1904年2月10日

・サルバドール・ダリ生誕120年/1904年5月11日

【110年】

・桜島大正大噴火から110年/1914年1月12日

・第一次世界大戦勃発110年/1914年7月28日

・東京駅開業110年/1914年12月20日

【100年】

・第1回冬季オリンピック開幕100年/1924年1月25日(開幕日/フランス シャモニー・モンブラン)

・安部公房生誕100年/1924年3月7日

・メートル法施行100年/1924年7月1日(「改正度量衡法」公布は1921年)

・黒田清輝没後100年/1924年7月15日

・阪神甲子園球場開場100年/1924年8月1日

・九州帝国大学法文学部設置100年/1924年9月25日

・山崎豊子生誕100年/1924年11月3日

【70年】

・マリリン・モンロー来日70年/1954年2月1日(福岡訪問は2月8日~10日)

・第五福竜丸事件から70年/1954年3月1日

【60年】

・東京モノレール開通60年/1964年9月17日

・東海道新幹線開業60年/1964年10月1日

・日本武道館開館60年/1964年10月3日

・東京オリンピック開催60年/1964年10月10日(開幕日)

【50年】

・ルマンド発売50年/1974年2月

・残留日本兵小野田少尉帰還から50年/1974年3月12日

・THE ALFEE デビュー50周年/1974年8月25日

・長嶋茂雄引退から50年/1974年10月14日

・ハローキティ誕生50周年/1974年11月1日

【40年】

・初代Macintosh発表40年/1984年1月24日

・グリコ・森永事件から40年/1984年3月18日(発生日)

【30年】

・カート・コバーン没後30年/1994年4月5日

・アイルトン・セナ没後30年/1994年5月1日

・関西国際空港開港30年/1994年9月4日


などなど(めちゃくちゃ偏っててスミマセン…)。

もう数日で2024年も終わりなわけですが、改めて今年はこんな周年があったんですね~。



このように、当然の事ながら毎年何かしらの周年になるわけですが、上記に加えて今年は何と言っても文永の役(元寇)から750年という年でしたね(強引に時代が古くなって恐縮です…)。



文永の役とは、日本が元軍(モンゴル帝国)の襲来を受けたいわゆる「元寇(蒙古襲来)」の1回目を指します(1274年11月〈文永11年10月〉)。


これを受けて幕府が博多湾の海岸線に築いたのが「石築地(いしついじ)」で、現在では「元寇防塁」の名で知られています(「元寇防塁」という名前は明治後期から昭和前期にかけての病理学者で考古学者でもあった中山平次郎が名付けたもの)。



以前も少しご紹介しましたが、今年は元寇750年に合わせた記念行事が各地で行われました。




西新での元寇750年記念事業① 元寇記念祭

大正9(1920)年に見つかった西新地区の元寇防塁史跡(国指定史跡)がある場所の一角に鎮座している「元寇神社」では毎年「元寇祭」が行われているのですが、今年は元寇750年として、例祭日の10月20日にあわせ大規模な催しが行われました。



ここは元寇防塁史跡。
中央にある松の木の向こう側に元寇神社があります。




祭典は朝10時から元寇神社前(そして元寇防塁跡の横…)で執り行われました。



こちらが開始前の様子。

なんとカラフルな来賓席!


この、どことなく漂う異国感…。



そう、今年は元寇750年を記念して、なんと在福岡モンゴル国名誉領事館をはじめとしたモンゴルの皆さんが来賓として参列されての開催だったのです。



式を執り行うのは元寇神社を管理する紅葉八幡宮の神職の皆さんですが、モンゴルからもガンダン寺ハムレヒ寺ダハン寺という3つのお寺から僧侶(いずれも高僧の方々だそうです)が来日し、式典に参列されました。


こちらもまた青空と松の緑に映える鮮やかな法衣です。




元寇神社の由緒には「元寇の役功労者及び戦没者、受難者の御霊を祀ると共に、遠く異境の地に戦死した元軍兵士の御霊をも恩讐をこえて合祀」とあり、受難者を祀っている神社だからこその祭式ということを再認識しました。


紅葉八幡宮宮司による祝詞奏上。

モンゴルの僧侶による玉串奉奠(情報量)。




そして式の後には、モンゴルの皆さんが元寇防塁を熱心に見学されていたのがとても印象的でした。

在福岡モンゴル国名誉領事が史跡の説明されています。

皆さん熱心に聞き入っておられます。



モンゴル側の来賓として参列されていたお一人、蘇慶さん(福岡在住)にお話を伺ったところ、「国や信仰を超えた形での慰霊が行える事は世界でも珍しいのでは」として、「モンゴルの人は元寇の事をよく知っているけれど、この様に実際に両国の犠牲者を祀った神社があったり史跡が遺っている事で、現場を訪れて思いを馳せることができる場所がある事が大変嬉しい」と話してくださいました。






また、今回は通常の祭典に加えて元寇神社横に建てられた慰霊碑の除幕も同時に行われたのですが、モンゴル語が彫られた碑というのも、なかなか珍しいのではないでしょうか。


元寇神社の横に建てられた「元寇七百五十年慰霊之碑」。

多分「元寇七百五十年慰霊之碑」と書かれている…?





と、午前の部はここまで。

午後からは会場を紅葉八幡宮に移しての慰霊祭と神社境内での文化交流会が「平和への祈り」と題して行われました。


紅葉八幡宮の社殿横駐車場に設けられた会場。
かなり大がかりです(そして最終的にはほぼ満席になりました)。

モンゴルのダンザンラヴジャ博物館の所蔵品のパネル展示も。




慰霊祭は本殿で行われたのですが、紅葉八幡宮神職による祝詞奏上に続いて、なんと南蔵院(糟屋郡篠栗町)と雷山千如寺大悲王院(糸島市)の両寺院による真言宗の読経が始まったではないですか…!

ご神体に向かって読経される僧侶の皆さんの姿は初めて見ました。



さらには元寇神社での式にも参列されたモンゴルの3寺院の皆さんによる読経が続きます…。

こちらはモンゴルの僧侶による読経。
このあとお香をもって回り、参列者の皆さんを清める儀式も。




まさか神社の祭礼で真言宗やモンゴルの読経を聞くことができるとは思いもせず、驚きの光景でした(紅葉八幡宮でも初の出来事だったそうです)。




祭典が終わると文化交流会がスタート。

日本側からは筑紫舞柳生新影流兵法和太鼓が、そしてモンゴル側から馬頭琴長唄が披露され、会場を訪れた皆さんも大盛り上がりとなりました。


挨拶は紅葉八幡宮の平山宮司から(中央)。
左が南蔵院の林住職、右は雷山千如寺大悲王院の喜多村住職。
この並びもなかなかレアでは…?


挨拶されたガンダン寺のドラムラグチャー・ジャブザンドルジ大住職(中央)。



筑紫舞の披露。

柳生新影流兵法の披露。

紅葉八幡宮を拠点に活動する和太鼓グループ「紅太鼓」さんのパフォーマンス。

馬頭琴演奏(立命館大学に在学されているそうです)。

馬頭琴と歌の披露。
2曲目には馬頭琴の演奏による「川の流れのように」でした。

馬頭琴の演奏。右の方の馬頭琴は大きくて低い音が出ます。



国や宗派の違いを超えて「平和への祈り」という趣旨に賛同された皆さんによる貴重な機会となり、また新しい対外交流の形を見た思いでした。







西新の元寇750年記念事業② 蒙古襲来絵詞展

こちらはまたちょっと違った、地元発信の記念事業です。

西新校区自治協議会と高取校区自治協議会が主催の「蒙古襲来絵詞展~750年前西新は主戦場だった~」が11月に開催されました。

場所は敷地内に元寇防塁史跡を遺す西南学院の西南コミュニティーセンター多目的室です。





この催しは、元寇の様子を描いた「蒙古襲来絵詞」の複製展示(福岡市総合図書館所蔵)を中心に、文永の役の紹介と西新・百道・高取校区にある元寇史跡や元寇ゆかりの地を写真で紹介したイベントです。


「蒙古襲来絵詞」の複製を特別に展示。解説もされています。



また、会場には蒙古襲来をテーマに描かれたマンガ「アンゴルモア 元寇合戦記 博多編」(たかぎ七彦、KADOKAWA)のデジタル原画展示もあり、賑やかで内容満載な内容となっていました。



各地の元寇関連遺跡の写真と解説。勉強になる!


KADOKAWAさん協力により実現したマンガ「アンゴルモア」のデジタル原画展示。


元寇関連書籍の紹介コーナーではわれらが『シーサイドももち』の姿も…!
(どうもありがとうございました)



西新・高取・百道とその近郊の史跡を中心としているものの、那珂川市や長崎県の壱岐・対馬や松浦市、あるいは神奈川県藤沢市にある関連史跡・神社などまで紹介されていて、蒙古襲来についてしっかり学びながら、西新の歴史を知る事ができました。



また、会場の一角には動画「750年の時を超えて~元寇史跡をめぐる~」の上映コーナーもありました。


動画コーナーにはお客さんが入れ替わり立ち替わり動画を鑑賞されていました。



これは早良区地域支援課の協力で制作された動画で、西新公民館をスタートして元寇にまつわる西新・高取周辺の元寇史跡をめぐるという内容。

この動画がまたよくできていて、全部で約13分ほどなのですが一緒に史跡めぐりをしているような構成なので、これを見て実際にその通りのルートを歩いてみるのも楽しいかもしれませんよ。






会場の最後には蒙古軍・日本軍のダブルピースに囲まれて記念写真が撮れるというパネルも設置!

こんな笑顔で和やかな蒙古軍・日本軍のインスタ枠は初めて見ました。
(そもそも蒙古軍・日本軍のインスタ枠なんてない)



そして最後にアンケートに回答した来場者には特典として図録のプレゼントが。

わたしもアンケートに答えて1部いただいたのですが、展示がギュッと詰まっていて、こちらも大変勉強になる一冊でした。


図録は西新公民館および高取公民館に見本があるそうです。




そもそもなんで750年?

なんとなく周年といえば100年や200年といった、数字のキリがいい方が馴染みやすいような気がしますが、なんで元寇の記念事業は「750年」なのでしょう?


それは恐らく、「前回の大規模な記念事業が650年だったから」ではないかと考えられます。



文字だけ見ると「何のこっちゃ??」という感じですが、前回「文永の役650年」だった大正13(1924)年は、西新で元寇防塁が発見されて間もなくのこと(発見は大正9〈1920〉年)。

それこそ最初の「元寇ブーム」の時代です。


この時は「元寇文永殉難者六百五十年祭記念事業」として大正12(1923)年冬~13(1924)年冬までの1年間、全国各地で元寇記念関連事業が行われたようです。


この記念事業、本来はどうやら大正12(1923)年の春から事業が計画されていたようなのですが実際には壱岐の新城神社の祭典のみが実施され、それ以外は大正13(1924)年に行われています。

これはこの年の9月1日に起こった関東大震災の影響もあったようです。



東京での記念事業は大正13(1924)年の「元寇文永殉難者六百五十年祭」で、これは12月7日に靖国神社能楽堂で行われました。

この時は福岡から県教育長の武谷水城が祝辞をおくっています。



また、「弘安の役650年」だった昭和6(1931)年は、まさに満州事変の年。時節柄、「神風」の伝承は国威高揚にも利用されていました。


何よりもこの年は元寇防塁史跡が国史跡に指定された年でもあり、最初の元寇ブームの熱がさめやらぬ中でさらに元寇への注目度が高まっていた時代です。元寇の周年事業を行うにはまさにうってつけのタイミングだったといえます。



ちなみに福岡での元寇650年事業は、文永の役650年に合わせたもの。大正12(1923)年の記念祭の際に行われています。

この時はやはり百道の元寇防塁史跡前で祭礼が行われました。

式を執り行ったのは住吉神社の宮司(副斎主に鳥飼八幡宮宮司)、記念祭会長には福岡市の石橋助役が就き、在郷軍人会や師団の関係者のほか、修猷館や福岡師範、西南学院などの各中等学校生徒や、市内の各小学校児童が多数参列。

当時の様子を報じた新聞記事によれば、同時開催として「運動のプログラム」や参列者みんなで「元寇」の歌の合唱(明治時代に作られた軍歌「元寇」でしょうか…?)などもあり、大盛況の催しだったようです。



* * * * * * *



元寇750年となる2024年の締めくくりは、元寇にまつわる記念行事についてご紹介しました。


今回は周年行事としての元寇記念祭をご紹介しましたが、福岡での元寇記念祭は周年だけの単発の事業ではなく、大正時代から恒例行事としてずっと行われています

さらにさかのぼると、こうした元寇の記念祭は初めて元寇防塁が発見された今津から始まっているのですが、ここにはまたさまざまな事件(?)があって…。


その辺りのお話は、いずれまた「元寇防塁今昔③」としてご紹介したいと思います。








※ 写真はすべて福岡市史編さん室撮影。

【参考資料】

・『福岡市立西新小学校創立百周年記念誌「西新」』(福岡市立西新小学校創立百周年記念会、1973年)
・賀茂百樹・榊原昇造編『元寇文永役殉難者六百五十年祭記事』(元寇文永役殉難者六百五十年祭事務所、1926年)
・新聞
 ・『福岡日日新聞』1923(大正12)年10月21日夕刊1面「荘厳なる元寇記念祭」
 ・『九州日報』1923(大正12)年10月21日夕刊2面「雨の元寇記念祭 西新で行はる」
・ウェブサイト
 ・元寇750年 日本・モンゴル合同慰霊祭「平和の祈り」(紅葉八幡宮)/https://momijihachimangu.or.jp/202410212099/
 ・在福岡モンゴル国名誉領事館/https://mongolia-fukuoka.org/




シーサイドももち #元寇防塁 #元寇750年 #紅葉八幡宮 #モンゴル #南蔵院 #雷山千如寺大悲王院 #西新校区自治協議会 #高取校区自治協議会 #西南学院 #アンゴルモア



Written by かみねillustration by ピー・アンド・エル 

2024年12月13日金曜日

【別冊シーサイドももち/増刊号】まちの移り変わりをシーサイドももちから考える~福岡教育大学附属福岡小学校の授業から~

 

11月19日、福岡教育大学附属福岡小学校3年生の皆さんが社会科学習のために来館されました。

今回は、【増刊号】としてその時の様子をご紹介したいと思います。


* * * * * * *


この日は3年生17名の皆さんと先生方2名が来館されました。

授業のテーマは「ともに描こう! 未来の福岡市~福岡市の移り変わり~」。

まちの移り変わりについて、現在まさに開発真っ只中の「天神地区」と、約35年前に埋立地として新しくつくられた「シーサイドももち」を比較し、交通・公共機関・土地利用の時期による違いを捉え、福岡市や人々の生活の変化について考えるという授業です。


まずは今日の授業の説明から。


今回は「シーサイドももち」が題材ということで事前に先生から相談があり、書籍『シーサイドももちー海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来ー』を下敷きに、まちの開発やその後の人々の暮らしに焦点を当てた構成で、座学と見学を行うことになりました。




まずは30分ほどの座学からスタートです。

シーサイドももち地区は埋立地としてつくられたまちですが、時代をさかのぼるとそこには白砂青松の海岸があり、海水浴場として人々が賑わっていた時代がありました。


よかトピア通りには「百道海水浴場の碑」があります。


ですが、1970年代になると水質の悪化が進み、ついに海では遊ぶことができなくなってしまいます。

当時は海に直接下水などを流していたこともあった」というお話をした際には「信じられない!」といった悲鳴にも似たリアクションが。

現在の常識からはとても考えられないことですよね。



さらにはこの時期、博多湾内では少しずつ埋め立てが進んでおり、その影響で潮の流れが変わったことで百道の海岸は浸食で削られ、逆にガレキや岩が流れ着く有様。

かつての美しい砂浜は面影もなくなってしまいます。


また、そこには海岸線で生計を立てていた人々も存在していました。

海浜にあった旅館や休憩所で組織された海水浴場組合や、百道の沖合で養殖を行うノリ漁師の方々です。


問題が山積み…どうしよう??



そこで福岡市は1976年の「福岡市総合計画」の中で、次のことを決めました。


・新しい住宅地をつくる

・場所は百道・地行など

・海を埋めて場所をつくる

・緑をたくさん植える

・元の海辺のようにする

※百道を埋め立てて住宅地にすることは1960年の「福岡市総合計画」でも触れられています。






こうして計画された埋め立て工事が進む中、1984年には当時の進藤一馬市長が市制100年を記念した事業として、この埋立地を会場として博覧会を開催することを明言しました。


当時はまだ名称がなく「福岡国際博覧会」と仮称が付けられていましたが、これがのちの「よかトピア」です(正式名称は「アジア太平洋博覧会―福岡’89」)。

また博覧会開催にあわせて都市高速道路などの整備も進みました。


(福岡市博物館所蔵)
お祭りが集まったような賑やかさ!


一方で、総合計画にもあった「元の海辺のようにする」という目標については、単なる埋め立てではなく、そこに人工海浜をつくり美しい砂浜を再現することに。

さらには百道の代名詞でもあった美しい緑の松原を再現するため、有志の方々によって海浜沿いに松原が植えられました(はかた夢松原の会)。

これを記念した碑がシーサイドももち海浜公園の一番西側の一角に建てられており、松原は現在でも青々とした美しさを保っています。


海岸沿いに建つ「夢松原」の碑。
近くには協賛された方々のお名前を記した陶板も。



こうして新しいまち「シーサイドももち」が誕生しました。

当初は住宅地として計画されていましたが、最終的にはそれだけでなく、人々が働く場所や学ぶ場所、文化施設や病院、救急センターなどが集まる場所となっています。





…といったところで座学は終了。

質問や意見も飛び出し、皆さんメモを取りながら真剣に聴いてくれました。



次は常設展示室に移動です。





常設展示室では、先ほど学んだ「よかトピア」について、その会場の模型を見ながら内容をおさらい。

現在の姿を思い浮かべながら、博覧会会場の様子をみんなで想像します。


みんな真剣です。



博物館内での学習はここまで。


最後に実際にシーサイドももちのまちの中にある「よかトピア遺産」を探しに、福岡タワー周辺に向かいました(余談ですがこの「よかトピア遺産」というワードは、以前発行した広報誌『市史だよりFukuoka』22号〈2016年〉でシーサイドももちを特集した際に市史編さん室が提唱したと言っても過言ではない!…と思っています ^^; )。


お話と模型の内容を頭に入れて、実際にまちへ。

途中、ついでに博物館敷地の工事も少し見学。

タワーが見えてきましたよ。




まず見つけたのは巨大な「よかトピアマーク」。

これには皆さんも興味津々です。


足下にあるよかトピアマークを確認。


経年でちょっと一部欠けていますが、こんな感じです。



そしてその周りに立つ「インドの神像」。

こちらは元々あった場所から移動しているものの、よかトピアの際に実際にインドからやってきた神様たちです。


周囲に居並ぶ神様を見学。
ちなみにみんなが見ているのは「ガネーシャ」ですよ。



最後はちょっとニッチなよかトピア遺産として、福岡タワー前にある時計もご紹介。

これはちょっと言われないと気付かないかもしれませんね。


実はこれも立派な「よかトピア遺産」です。



以上、約1時間半ほどの授業を終え、最後はタワー前で質問タイム


次々と質問の手が挙がります。


皆さんからは続々と質問が飛び出し、中には「なぜ新しいまちを作ったからといって博覧会をやる必要があるの?」といった質問も。



考えてみると、これまで福岡市は明治時代からまちの開発と博覧会は切っても切れない関係でした。

明治になり、まず東中洲(岡新地)の開発後に開催された「第5回九州沖縄八県連合共進会」(1887/明治20年)と、その後に福岡城の外堀の一部を埋め立てた広大な土地(天神周辺)を使って行われた「第13回九州沖縄八県連合共進会」(1910/明治43年)で天神・東中洲という、福岡の中心地の開発が進みました。

第13回共進会を契機に市内路面電車が整備された明治通りは、現在でも福岡市の大動脈となっていますよね。


その後も須崎裏(現在の須崎公園付近)と西公園下の整備とともに行われた「福岡工業博覧会」(1920/大正9年)、大濠公園の整備後に開催された「東亜勧業博覧会」(1927/昭和2年)、博多港の築港工事完成を記念して沿岸の埋立地(現在の中央区長浜・舞鶴周辺)で開催された「博多築港記念大博覧会」(1936/昭和11年)など、枚挙に暇がありません。


余談ですが、西新でもかつて「大東亜建設大博覧会」(1942/昭和17年)が開催され、西新町の発展に勢いを付けました。




シーサイドももちでの博覧会開催もそのような流れの一つだったとも言えそうですが、現代を生きる子供たちには「わざわざ? なぜ??」という感想をもった子たちも多かったようです。



博覧会「よかトピア」が開催されてもう35年が経ちました。

今回学んだ3年生の皆さんのお父さん・お母さん世代でも、その記憶はあまり…というか全然知らない…という方が多いかもしれません(ということはおじいちゃん・おばあちゃん世代の思い出なんですね…)。

そんな皆さんからすると、この場所がかつては海だったというだけでも驚きの事実でしょう。


この学習から皆さんが何を感じてもらえたか、われわれとしても気になるところですが、皆さんの新鮮な反応を見ながら何も数百年、数千年とさかのぼるだけがまちの歴史ではないということを改めて実感した機会となりました。






※ クレジットのない写真はすべて福岡市史編さん室撮影。



新修福岡市史ブックレット・シリーズ』のご紹介

福岡市史編さん室では福岡市域の歴史をより身近に感じてもらうために、『新修福岡市史ブックレット・シリーズ』を刊行しています。

第1弾は「わたしたちの福岡市」。
これは小学校3年生~6年生で学習する内容(市の様子の移り変わり・身近な地域や市区町村の様子・地域に見られる生産や販売の仕事・人々の健康や生活環境を支える事業・県内の伝統や文化、先人の動き・県内の特色ある地域の様子・我が国の歴史上の主な事象)をベースにしながら、福岡市域のさまざまな事象をまとめた一冊です。
小学生の皆さんだけでなく、子供たちを教える先生方や地域の方々にぜひご覧いただきたい内容になっています。
また、市外・県外から福岡市に引っ越して来られた皆さん、あるいはずっと福岡市にお住まいの皆さんにも、きっと新しい発見があると思いますよ。




そして第2弾が「シーサイドももち―海水浴と博覧会が開いた福岡市の未来―」。
埋め立て地にできたニュータウン「シーサイドももち」の、前史から現代までをマニアックに深掘りし、博多・天神とは違う歴史をたどってきた「シーサイドももち」を見ることで福岡が見えてくるという、これまでにない一冊です。



また、こちらのブログでも書籍『シーサイドももち』には載らなかった蔵出し記事やこぼれ話などを【別冊シーサイドももち】として紹介していますので、ぜひ本とあわせてお楽しみいただければ、うれしいです。

【別冊シーサイドももち】を読むにはコチラをクリックすると、これまでの記事がまとめてご覧いただけます。



どちらの本も各書店のほか、Amazonや楽天ブックスなどのECサイトからもご購入いただけますので、ぜひお手にとってご覧ください!

※「わたしたちの福岡市」についてはコチラをクリックすると目次などの紹介ページがご覧いただけます。

※「シーサイドももち」についてはコチラをクリックすると目次などの紹介ページがご覧いただけます。



[Written by かみね]