〈095〉防塁線を駆け抜けろ! 観光コンテンツとしての元寇
―元寇防塁今昔①―
百道を語る上で、元寇防塁は忘れてはならない大事な要素の一つです。
13世紀、日本は元軍(モンゴル帝国)による二度の襲来を受けました。いわゆる「元寇(蒙古襲来)」です。
元寇防塁とは、文永11(1274)年の蒙古襲来を受けて幕府が博多湾の海岸線に築いた「石築地(いしついじ)」のことで、「元寇防塁」という名前は明治後期から昭和前期にかけての病理学者で考古学者でもあった中山平次郎が名付けたものです。
また、この様子を描いた竹﨑季長の絵巻「蒙古襲来絵詞」は、一部でも教科書などで見たことがある方も多いのではないでしょうか。
元寇防塁は、今津から香椎浜の辺りまで、当時の海岸線に沿って約20kmにわたり築かれたとされていますが、西新・百道地区はそのほぼ中間に当たります。
こちらは、現在分かっている元寇防塁の位置を表したものです。
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(地理院地図Vector.を基に作成 ※推定線を含む
/参考『新修 福岡市史 資料編 考古1』「中世9 元寇防塁」)
現在は、今津・今宿(2か所)・生の松原・姪浜(2か所)
・西新(2か所)・地行・箱崎の7地点10か所が
国史跡に指定されています
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姪浜辺りまでは現在の海岸線に沿っていますが、とくに西新より東側は博多湾岸が相当埋め立てられているので、今の地図に落とすと場所によってはかなり内陸側にあるように見えます。
ですが、この元寇防塁のラインがだいたい当時の海岸線と考えられますので、そういう意味でも元寇防塁は福岡市にとって貴重な史跡の一つです。
元寇についてはご存知のとおり、一度目の襲来では上陸を許した日本ですが、この防塁の効果もあってか二度目の弘安の役(弘安4〈1281〉年)では元軍の上陸を許さず、そうこうしているうちに台風の暴風雨が吹き荒れて元軍が「覆滅」、やった! 神風だ!!
…というお話としても有名です。
このように、「元寇」自体は歴史としても物語としてもかなり古くから一般にも知られていましたが、実際の「防塁(石築地)」は、大正時代になってから各地で発見されていきました。
元寇防塁の発見とその後の展開
西新を含む西部地区の元寇防塁発見から国史跡指定までの経緯を簡単に整理してみます。
最初に大正2(1913)年に今津村(現 西区今津)で元寇防塁が発見されました。
これを契機に「元寇」への関心が高まり、新聞社などが主催して一般向けの各種講演会や元寇防塁の見学会などが頻繁に開催されるようになります。
そして大正8年(1919)、ついに西新地区でも元寇防塁が発見されます。
西南学院の敷地内で、元寇防塁と思われる石塁が見つかったのです。
ちなみに現在も西南学院には元寇防塁の一部が構内に展示されており、誰でも見学することができますが、こちらは平成に入ってから校舎建築工事前の調査によって発見されたものの復元展示です。
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(福岡市史編さん室撮影)
西南学院大学1号館建設にあたり実施された調査で発見された防塁は
その後場所を移し復元されて展示されています。
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さらにその翌年の大正9(1920)年10月には、「教育勅語御下賜30年記念事業」の一環として郷土史家・木下讃太郎指揮の下で西新小学校児童らが百道松原の一角を掘ったところ、見事な石積みが発見されました。
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(『西新
福岡市立西新小学校創立百周年記念誌』〈1973年〉より)
西新地区元寇防塁発見時の様子。
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余談ですが、こちらの写真は大正9(1920)年の元寇防塁発見に際してよく紹介される写真なのですが、実はこの写真、初出は新聞記事だったようなのです。
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(大正9年10月31日『九州日報』5面)
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こちらが元寇防塁の発見を報じた『九州日報』の紙面です。
見出しは「元寇防塁を掘り出した 昨日の記念式挙式の記念に昨日見事なものを発掘」となっており、よく見ると紙面には先ほど紹介したものとまったく同じ写真が載っています。
こちらが拡大したものです。比較してみます。
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(大正9年10月31日『九州日報』5面を拡大)
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(『西新
福岡市立西新小学校創立百周年記念誌』〈1973年〉より)
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ちょっと画質が悪いですが、同じ写真ということが分かります。
閑話休題。
話を元寇防塁発見史に戻します。
大正15(1926)年、西新小学校が現在地に移転する際に現在のサザエさん通りが整備された時、工事の過程で遺構の断面が露出しました。
その様子は、工事を観察した島田寅次郎による観察記録が残されています。
この辺りのお話は、以前ブログでもご紹介しました。
そして昭和6(1931)年、ついに元寇防塁は国史跡に指定され、さらに注目を集める存在となったのでした(メデタシメデタシ)。
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(「福岡市外紅葉松原(古の百道原)
発掘元寇防塁(大正九年十月発掘)」
『筑紫史談』第25集〈1922年4月〉より)
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観光コンテンツとしての元寇
国の史跡となった元寇防塁は、一気に福岡市を代表する名所の一つとして扱われるようになります。
とくに百道松原で元寇防塁が見つかった西新町では、当時は一帯がまだ開発途上だったため、これを機に百道松原を開発しよう!
あるいは観光客を呼ぼう! といった機運が高まりました。
以前ご紹介したコチラのお話も、その例の一つです。
何よりも元寇防塁が国史跡に指定された昭和6(1931)年は、2度目の蒙古襲来である「弘安の役」から650年とあって、全国各地で記念祭が行われて元寇への関心が高まっていた、まさにその年。
そして同年の9月には満州事変が勃発し、日本は戦争への道を進み始める時期でもあります。
国威掲揚と相性が良い元寇防塁の国史跡指定も、こうした国策の流れの一部と捉えることもできるタイミングでした。
さらに、ちょうど同時期には日本新八景や国立公園の誕生など、全国的にもいわゆる「観光ブーム」が起こっていたころ。
福岡市にも福岡市観光協会が設立(昭和7〈1932〉年)し、福岡市のことを紹介する観光案内などが盛んに作られていた時代です。
加えて昭和10(1935)年を過ぎると享楽的な観光よりも国策旅行として遺跡見学や聖地巡礼(今でいう聖地巡礼ではないですよ)などが推奨されるようになります。
そんな時代に、元寇防塁は福岡市にとって願ってもない絶好の観光コンテンツとして、各所で紹介されていきました。
その中でもちょっと珍しい例がこちらです。
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(福岡市博物館所蔵)
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こちらは昭和15(1940)年につくられた、観光案内のための鳥観図の原画です。
この時期、観光案内のためにこうした鳥観図は多く作られており、絵師としては吉田初三郎などが有名ですが、こちらはそのお弟子さんである前田虹映という人が描いたものです。
各所に名所などが描き込んであるのですが、ちょっと西新の部分を拡大してみます。
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(福岡市博物館所蔵)
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上半分は博多湾、下部に走る赤い線は路面電車です。
その沿道には「中学修猷館」があって、海側には「西南中学」が見えます。
海には当然、百道海水浴と思われる絵もありますね。
そして注目すべきはその隣…。
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(福岡市博物館所蔵)
あっ……!
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海水浴場の隣にはなんと元軍の船と戦う武士が描かれているではないですか…!
現代でいうアイコンのようなもの、あるいは観光地によくある「AR」のようなイメージかもしれません。
元寇記念防塁線走破マラソン大会
昭和16(1941)年、「元寇660周年」と銘打った、ちょっと変わったイベントが開催されました。
それはなんと元寇マラソン大会です。
福岡日日新聞社(以下、福日社)が主催したこのイベントは、昭和16(1941)年9月1日に開催されました。
これはその名の通り、元寇の往時を偲んで由緒ある元寇防塁線を走ろう!
というもの。
レースは最初に元寇防塁が発見された今津からスタートし、最後は箱崎を目指します。
主催した福日社の運動部長であった納戸徳重氏は当日のあいさつで「文永、弘安の両役に吾等の先祖が元軍の中に斬り込んだ意気と同じ箱崎の決勝点目指して走り込め!!」と檄を飛ばしたとか…。
総距離は約25.5㎞。ルートはこのような感じでした。
【スタート】今津小学校(当時は今津国民小学校)校庭
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今津村警防団火見櫓下より右折
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弁天橋を渡り右に元岡国民学校を眺め元岡村太郎丸川昭代橋を通過
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周船寺村の国道に出て左折
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国道を東へ東へと邁進
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今宿村を経て左に博多湾、右に青木公園を見ながら筑肥線と併走
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生の松原を通過し姪浜より電車道へ
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愛宕神社、室見橋、修猷館前、今川橋を通過
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天神町東邦電力会社横の丸善理容院角より左折
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右折して松屋デパート前に出て再び電車通りへ
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須崎裏、築港口、国鉄新博多駅前を通過
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大学通りより左折し旧街道をまっしぐら
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医学部前、馬出踏切りを一気に通過し筥崎宮前より左折
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【ゴール】汐井浜式場前の決勝点へ
…以上が当時の新聞記事に書かれたルートです。
こちらを現在の地図で見ると、こんな感じになりました。
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(地理院地図Vectorをベースに作成)
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